吉田松陰

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吉田松陰
吉田松陰像(山口県文書館蔵)
通称 吉田寅次郎
生年 文政13年8月4日1830年9月20日
生地 日本の旗 長門国
没年 安政6年10月27日1859年11月21日
没地 日本の旗 江戸
思想 尊王攘夷
活動 倒幕
長州藩
投獄 野山獄、伝馬町牢屋敷
裁判 斬罪(罪状:老中暗殺を計画)
刑場 伝馬町牢屋敷
受賞 正四位
桜山神社松陰神社靖国神社
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吉田松陰山河襟帯詩碑、京都府立図書館前、京都市左京区

吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者理論者・倒幕論者として知られる。私営の塾「松下村塾」を開き、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想教育を施した。

名前

幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。矩方(のりかた)。は義卿、は松陰の他、二十一回猛士。「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。

生涯

文政13年(1830年)8月4日、長州(現.山口県)萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[注 1]「神国由来」[注 2]、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませた[1]

しかしアヘン戦争が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩宮部鼎蔵山鹿素水にも学んでいる[2]

嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸会沢正志斎と面会、会津日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、ペリー浦賀に来航すると、、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。この時、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた(川口雅昭『吉田松陰』)。その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航していた為に果たせなかった。

嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった。長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 3]。 なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)、梅田雲浜との関係の嫌疑で安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で取り調べの結果、同年10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。

ゆかりの地

豊国山回向院にある吉田松陰の墓
  • 故郷である山口県萩市には、誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾があり、死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚である松陰墓地(市指定史跡)、明治23年(1890年)に建てられた松陰神社(県社)がある。他にも、山口県下関市桜山神社には、高杉晋作発案で、招魂墓がある。
  • 静岡県下田市には、ペリー艦隊へ乗艦し密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在している。
  • 処刑直後に葬られた豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。
  • 文久3年(1863年)に改葬された、東京都世田谷区若林の現在の墓所には明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。
  • 松陰が収容されていた伝馬町牢屋敷跡の「十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)」には「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。
  • 松陰が弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したという銅像が、山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地にある。題字は、佐藤栄作が書いた。

思想

一君万民論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。但し、天皇のために万民が死にもの狂いで尽くす事が必要である。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。但し、天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。

飛耳長目

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。

草莽崛起

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意。

安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

対外思想

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲台湾フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

吉田松陰に影響を与えた中国の思想家 

清代の思想家。アヘン戦争で清と対峙した林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報を元に東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏源は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べて、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、吉田松陰の思想に多大な影響を与えた。

陽明学の創始者。実践的な儒教である陽明学に感化され、吉田松陰は自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。

発言

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうか徒に時を過ごすことなかれ)

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
志を立てて以って万事の源となす
志士は溝壑に在るを忘れず

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず

凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

一族

  • 父:杉常道(1804-1865)
  • 母:滝(1807-1890)
  • 兄:梅太郎(民治)(1828-1910)
  • 妹:芳子(千代)(1832-1924) - 児玉祐之の妻
  • 妹:寿(1839-1881) - 小田村伊之助(楫取素彦)の妻
  • 妹:艶(1841-1843) - 早世
  • 妹:美和子(文)(1843-1921) - 久坂玄瑞の妻、後に楫取素彦後妻。
  • 弟:敏三郎(1845-1876)

系譜

 
 
文左衛門政常
 
七郎兵衛政之
 
文左衛門徳卿
 
七兵衛常徳
 
百合之助常道
 
梅太郎修道(民治)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大助賢良
(吉田家7代)
 
 
大次郎矩方(松陰)
(吉田家8代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文之進
(玉木家7代)
 
 
千代
 
庫三
(吉田家11代)
 
 
 


 
 
梅太郎修道
(民治)
 
小太郎
(吉田家9代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
滝子
 
道助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
丙三
 
 
 
 
 
 
 
 
道子
(吉田家10代)
 
 
 
 
 
 
 
友之允重矩
 
十郎左衛門矩行
 
半平
 
二十郎矩之
 
市佐矩直
 
又五郎矩定
 
他三郎矩建
 
大助賢良
 
大次郎矩方(松陰)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
七郎兵衛政之
(杉家2代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
大次郎矩方
松陰
 
小太郎
 
道子
 
庫三
 
 
 
 
 

肖像

松陰の「写真」なるものが存在するが[4]、松下村塾生のなかでも昭和時代まで生きた渡辺蒿蔵が、松陰のものではないと否定している[注 4]。但し、この「写真」は「絵画を撮影したもの」[6] の一つである。

影響

日本では幕末から近代にかけて陽明学が重要な思想とされ、松陰を含めて熱心に読まれたのに対して、清朝では陽明学は忘れられていた。清朝末期の動乱、とりわけ日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、新しい中国の国づくりを考える若い思想家・運動家のなかでも陽明学が逆輸入され、読まれるようになった。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃で、こうしたなか、松陰の著作も中国で読まれるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為は吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したといわれる。また、康有為の弟子の梁啓超1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。

一方、吉田松陰の行動や思想に批判的な作家も存在し[7]テロリストと評されることもある。

吉田松陰を題材とする作品

小説
漫画
映画
テレビドラマ
歌謡曲
浪曲
  • 『嗚呼吉田松陰』浪曲師:真山隼人(山下辰三=作・鈴木英明=音楽)

登場作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ 11代将軍・徳川家斉を太政大臣に任じた詔書で、家斉が京都へ参内せず江戸城で詔を受けた無礼を悲憤慷慨した文
  2. ^ 賀茂神社の神官・玉田永教(たまだ ながのり)が論じた国体論
  3. ^ 高杉と久坂を村塾の双璧、これに吉田、入江を加えて松門四天王などと称される。
  4. ^ 「松陰の写真と称するものの鑑定を乞ふ。曰く、全然異人なり」[5]

出典

  1. ^ 海原徹 2003, pp. 25–26.
  2. ^ 「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 二.山鹿素水の業績(P217-220)
  3. ^ 杉氏系譜
  4. ^ 国立国会図書館 吉田松陰 | 近代日本人の肖像
  5. ^ 広瀬豊「渡辺嵩蔵談話第二」1931年4月、大和書房版『吉田松陰全集』10巻、365頁
  6. ^ ご利用について|近代日本人の肖像
  7. ^ 原田伊織『明治維新という過ち ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~ 』2015年毎日ワンズ発行

資料・文献

  • 徳富蘇峰『吉田松陰』民友社、1893年。
  • 山口県教育会編『吉田松陰全集』
  • 奈良本辰也『吉田松陰』岩波新書、1951年(1981年改版)。ISBN 978-4004131144
  • 河上徹太郎『吉田松陰』
  • よしだみどり『日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝 烈々たる日本人』祥伝社、2000年。ISBN 978-4396104146
  • 田中彰『吉田松陰 変転する人物像』中公新書、2001年。ISBN 978-4121016218
  • 海原徹『吉田松陰 身はたとひ武蔵の野辺に』ミネルヴァ書房、2003年。ISBN 978-4623039036 
  • 海原徹『江戸の旅人吉田松陰』ミネルヴァ書房、2003年。ISBN 978-4623037049
  • 加藤周一『吉田松陰と現代』かもがわ出版・かもがわブックレット、2005年ISBN 978-4876998906
  • 木村幸比古『吉田松陰 世界を見据えた大和魂』PHP新書、2005年。ISBN 978-4569639918
  • 関厚夫『ひとすじの蛍火 吉田松陰人とことば』文春新書、2007年。ISBN 978-4166605859
  • 広瀬豊『吉田松陰の士規七則』国書刊行会、2013年。ISBN 978-4336056801
  • 川口雅昭『吉田松陰』致知出版社、2010年08月。ISBN 978-4-88474-890-6
  • 近藤啓吾『吉田松陰と靖獻遺言』錦正社、2008年4月。ISBN 978-4-7646-0280-9
  • 仲田昭一『吉田松陰と水戸』錦正社、2015年7月。ISBN 978-4-7646-0123-9

関連項目

縁者

その他

外部リンク