楫取素彦

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日本の旗 日本の政治家
楫取素彦
かとり もとひこ
Katori Motohiko.jpg
生年月日 1829年4月18日
出生地 長門国萩魚棚沖町(現山口県萩市
没年月日 1912年8月14日(満83歳没)
死没地 日本の旗 日本 山口県三田尻(現防府市
出身校 明倫館
称号 正二位勲一等男爵
配偶者 杉寿(久子) (1853-1881)
杉文(美和子) (1883-1912)

任期 1876年 - 1884年

任期 1884年 - 1890年
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楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日1829年4月18日) - 大正元年(1912年8月14日)は、日本官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎と言い、慶応3年(1867年)9月、楫取素彦と改めた。諱は希哲(ひさよし)、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。

吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻の寿に先立たれた後、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹の美和子(文)と再婚したのである。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)、道明(芝山巌事件で殺害された)の二男がいる。孫に小田村有芳、曾孫に小田村四郎

来歴[編集]

文政12年(1829年)3月15日、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、その家は世々儒官であった。弘化元年(1844年明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎佐藤一斎に教えを受ける。

安政2年(1855年)4月明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業はようやく盛んになり、翌5年(1858年)11月松下村塾閉鎖まで、小田村は直接関係はなかったが、松陰の信頼厚く、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め相敬愛するところは二人の交わりの特色である。松陰投獄後塾生指導の任に当たり、国事に忙しくなり、塾の世話ができなくなったが、明治以後杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。

万延元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後は専ら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸璣(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬長州藩兵上京の命を受け諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、遂に鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。

維新後いったん帰国して藩に出仕、明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定され、高崎から楫取は反発を受けた。また「明治の三老農」の一人船津伝次平駒場農学校へ奉職するよう勧めている。

1884年元老院議官に転任。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年男爵を授けられる。明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる[1]。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[2]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  2. ^ 官報第15号 大正元年8月16日付274頁 「叙任及辞令」 国立国会図書館デジタルコレクション