ポルシェ・962

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Prism11 VYB05736 (会話 | 投稿記録) による 2015年12月21日 (月) 22:02個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ポルシェ・962
ポルシェ・962
ポルシェ・962
カテゴリー IMSA-GTP
コンストラクター ポルシェ
主要諸元
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン
サスペンション(後) アッパー:ロッカーアーム / ロワー:ウィッシュボーン
全長 4,770 mm
全幅 2,000 mm
全高 1,013 mm
トレッド 前:1,634 mm/ 後:1,548 mm
ホイールベース 2,770 mm
エンジン 962/70 2,869 cc F6 ターボ ミッドシップ
トランスミッション 956/62 5速+リバース MT
主要成績
出走時期 1984 -
初戦 1984年デイトナ24時間
初勝利 1984年ミド・オハイオ500km
テンプレートを表示

ポルシェ・962Porsche 962 )は、1984年ポルシェIMSA-GTPクラス用に開発・製作したプロトタイプレーシングカーグループCレギュレーションで行われていたWEC用に開発・製作された962Cとともに1980年代のスポーツカー・レースにおいてポルシェに多くのタイトルとビッグイベントでの優勝をもたらした。

962

ポルシェ・956のIMSA-GTP仕様車。

FIA-グループCとIMSA-GTPの車両規定は似ていたが、安全性に関する考え方が異なっており、グループC用の956はIMSA-GTPのフットボックス・レギュレーション(ドライバーのつま先がフロント車軸より後ろになくてはならない)を満たしていなかった。このためIMSA-GTPの規定に合わせて956の軸距を120mm長い2,770mmに伸長し、そのスペースをキャビンに当て、フロント・バルクヘッドやサスペンション取付位置を再設計した。

エンジンは、IMSA-GTPのレギュレーションに合わせてSOHC2バルブ、シングルターボエンジンで、デビュー当初は排気量2.87リットルの962/70型を搭載していたが、1985年からは3.16リットルに排気路用を拡大した962/71型が、1987年には排気量3.0リットルの962/72型をそれぞれ供給した。製作台数はワークススペックが1台、カスタマースペックがモノコック製作数ベースで17台である。

戦績

962は、ワークスにより1984年IMSAシリーズ開幕戦デイトナ24時間でデビューした。予選でポールポジションを獲得したが、レースはギヤボックストラブルでリタイアした。ワークスによるIMSAでの活動はこのデイトナ24時間のみで以降の活動はカスタマー・チームに委ねられた。

IMSAシリーズ第5戦リバーサイドからカスタマー・チームによる活動が始まり、第6戦ミドオハイオで初優勝を記録。1984年、962は14戦に出走し5勝を挙げ、マニュファクチャラ―・タイトルで2位に入った。

962は翌年からIMSA-GTPで圧倒的な強さを発揮し、1985年は17戦12勝、1986年は17戦13勝、1987年は16戦13勝を記録しマニュファクチャラー・ドライバーの両タイトルを3年連続で獲得した。

1988年、日産・GTP ZX-Tが8連勝を含む9勝を挙げIMSAシリーズを支配するようになった。962の戦闘力に陰りが見え始め、優勝回数は3回にまで減った。マニュファクチャラー・タイトルこそ防衛したものの、ドライバー・タイトルは日産ジェフ・ブラバムが獲得した。IMSAはシーズン中盤になってポルシェ・ユーザー救済のためツインターボ・エンジンの使用を許可し、962CがIMSA GTPにエントリーできるようになった。

1989年になると、競争力の落ちた962/962Cのエントリーは減少したが、バスビー・レーシングが日産、ジャガートヨタ相手に孤軍奮闘、開幕戦のデイトナ24時間優勝を含む2勝を挙げた。

1990年、前年最も強力なポルシェ・ユーザーだったバスビー・レーシングが日産・GTP ZX-Tにマシンを変更し、その他のポルシェ・ユーザーも962Cで活動するようになり962のエントリーは減少していった。

962C

ポルシェ・962C
ポルシェ962C(ワークス仕様/1985年)
ポルシェ962C(ワークス仕様/1985年)
カテゴリー グループC
コンストラクター ポルシェ
先代 ポルシェ・956
主要諸元
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン
サスペンション(後) アッパー:ロッカーアーム / ロワー:ウィッシュボーン
全長 4,770 mm
全幅 1,990 mm
全高 1,080 mm
トレッド 前:1,648 mm / 後:1,549 mm
ホイールベース 2,770 mm
エンジン F6 ミッドシップ
トランスミッション  ポルシェ  5速
主要成績
テンプレートを表示

1985年からグループCの安全規定はIMSA-GTPに準じたものに改定された。これにあわせてポルシェは962にツインターボエンジンを搭載した962Cを開発・製作した。

962Cの製作台数はワークススペックが14台、カスタマースペックがモノコック製作数ベースで60台である。カスタマースペックがモノコック製作数ベースなのは、ポルシェ956からポルシェ962Cへのアップデートサービス用として交換用に製作されたモノコックが6台、ワークスポルシェ962Cのスペア用に製作されたモノコックが10台、カスタマー向けスペア用として製作されたモノコックが4台、テスト用モノコックが2台が含まれているためである。

エンジン

ポルシェ・935/82型エンジン
ポルシェ・935/83型エンジン(写真は吸気管の延長と燃料クーラーが装備されたモトロニックMP1.7仕様)

962Cに搭載されたDOHC4バルブ・水平対向6気筒ツインターボエンジンは、空冷エンジンをベースにヘッドのみ水冷とした空水冷の935/82型と全水冷の935/83型の2種類がある。エレクトリック・コントロールユニットは935/82型、935/83型ともボッシュ製のモトロニックを使用している。

  • 935/82型 
  • 2.65リットル・モトロニックMP1.2仕様
956時代から使用されていたエンジン。962Cデビュー当初はワークス、カスタマー共このエンジンを使用。
  • 2.8リットル・モトロニックMP1.2仕様
2.65リットル仕様を2.8リットルに排気量を拡大したもの。1986年からカスタマーチームに供給された。
  • 935/83型
  • 3.0リットル・モトロニックMP1.2仕様
1986年からワークスが使用し始めたエンジン。1987年のル・マン24時間レース後に有力カスタマーチームに供給されるようになり、1988年からその他のカスタマーチームにも供給されるようになった。
エンジン出力は935/82型と比べて50PS増の750PSにスープアップし燃費も改善された。[1]また、空水冷エンジンではエンジンの冷却を軸流ファンで行い、アンダーフロア部に排熱していたためリヤディフューザーへの気流を阻害していたが、水冷エンジンになったことでリヤディフューザーへの空気の流れがスムーズになりダウンフォースが増加した[2]。反面、エンジンライフは短くなりノバ・エンジニアリングでは空水冷エンジン時代は走行距離4,000~5,000kmでオーバーホールに出していたが、935/83型になってからは2,000kmでオーバーホールに出すようにしていたという[3]
  • 3.0リットル・モトロニックMP1.7仕様
1988年のル・マン24時間レースでワークスが初めて使用したエンジン。同じ935/83型ながらモトロニックMP1.2仕様とは多くの相違点がある。
モトロニックはデジタル化されたMP1.7を使用。トルクを増やすために吸気管を延長(カウル内に収めるため吸気管を内側に傾斜させている)。ラジエーター、オイルクーラーは大型化。インタークーラーは空水冷から全空冷に変更し、冷却系はレイアウトも変更された。ターボチャージャーの位置もMP1.2仕様より高くなっている。トランスミッションの段数はエンジン特性の変化に合わせて5段から6段に変更された[4]。またル・マン後に燃料クーラーが追加されている。ノバの森脇基恭によるとエンジンのライフはモトロニックMP1.2仕様よりもさらに短くなり1,200km程しかなかったという[5]
ル・マン後に有力カスタマーチームに供給されるようになり、1989年からその他のカスタマーチームにも供給されるようになった。
  • 3.2リットル・モトロニックMP1.7仕様
3.0リットル・モトロニックMP1.7仕様を3.2リットルに排気量を拡大したもの。1990年からワークス格のヨースト・レーシングが使用し始め、ル・マン後にカスタマーチームにも供給されるようになった。

足回り

フロント17in/リヤ19in径のタイヤ・ホイールに対応し、それに伴う新しいリヤサスペンション、新しいボディカウルを組み合わせた。

PDK

ポルシェは956時代からデュアルクラッチトランスミッションPDKを搭載したマシンを実験的に投入しており、1984年のイモラ1000kmで初めて実戦投入し、962にマシンを切り替えた後も実戦でテストが続けられた。

当初はMT仕様より40kgも重く、ギヤシフト時のタイムロス減少等PDK使用のメリットを相殺していたが、1987年にはケーシングをアルミニウムからマグネシウムに変更し15kg重量軽減され、油圧システムによるパワーロスが減少された[6]ものが使われるようになった。

1986年のル・マン24時間レースにも出場し、モンツァで行われたレースでは優勝も記録している。その後もドイツ国内のスプリントレースに出場するも1987年のワークス撤退、CARTプロジェクトの始動にともない開発を中断せざるを得なくなった。

しかしPDKの技術は十数年後、フォルクスワーゲン/アウディDSGなどに転用され、さらに2008年発表のポルシェ・997後期モデル等のモデルからその名もPDKとなるデュアルクラッチトランスミッションが搭載されている。

開発年譜

1984年
  • IMSA-GTPクラスのカスタマー・チームのために956のGTPクラス仕様として962を開発。ワークスの手により第1戦デイトナ24時間レースでデビュー。シャシはアルミニウムツインチューブ・モノコック、エンジンはSOHC全空冷2.87リットルシングルターボの962/70型。(962)
  • 962のカスタマー仕様、IMSA-GTP第6戦ラグナ・セカに初登場。(962)
  • WEC第3戦ル・マン24時間レースで、ジョン・フィッツパトリック・レーシングが962にグループC仕様のエンジンを搭載したマシンを走らせた。(962、962C)
  • アメリカのポルシェ・チューナー、アンディアルがIMSA-GTP第10戦ワトキンズ・グレンからホルバート・レーシング(以下ホルバート)に3.16リットルに排気量を拡大した962/71型エンジンを供給[7]。(962)
1985年
  • ポルシェ、962のグループC仕様として962Cを開発。ワークス、WECの使用車両を956から962Cに移行。(962C)
  • IMSA-GTPのカスタマー・チーム、962/71型エンジンに移行。(962)
  • IMSA-GTPのホルバート、オリジナル・モノコックを製作。(962)
  • ブルン・モータースポーツ(以下ブルン)とクレマー・レーシング(以下クレマー)、WEC第1戦ムジェロからカスタマー向け962Cを初使用。
  • ワークス、WEC第4戦ル・マン24時間レースの予選でDOHC全水冷3.0リットルツインターボの935/83型エンジンを使用。(962C)
  • ワークス、WECのシーズン後半からPDKを再試用。(962C)
1986年
  • 世界選手権、WECからスプリント・イベントを含むWSPCに移行。
  • ワークス、WSPC、ADACスーパーカップ(以下スーパーカップ)でPDKを引き続き試用。(962C)
  • ワークス、WSPCで使用エンジンを全水冷化した935/83型に移行。(962C)
  • ワークスのWSPCへの参戦目的がタイトルの獲得から、カスタマー・チーム向けの先行開発へ移行[8]。(962C)
  • ポルシェ、カスタマー・チームに排気量を2.8リットルに拡大した935/82型エンジンを供給。(962C)
  • TCプロトタイプ製アルミニウムハニカム・モノコック登場。(962C)
  • ファブカー製モノコック登場。(962)
  • IMSA-GTPカスタマー、SOHC全空冷3.0リットルシングル・ターボ962/72型エンジンに移行。(962)
  • ブルン、WSPCの予選で空水冷3.2リットルエンジンを使用。(962C)
  • ワークス、WSPC最終戦富士ABSを試用。(962C)
1987年
  • ワークス、カウルのカーボン化等でマシンを約30kg軽量化。(962C)
  • ワークス、WSPC、スーパーカップで引き続きPDKを試用。(962C)
  • ブリテン・ロイド・レーシング(BLR)、アルミニウムハニカム製モノコック、リヤウィングのトランスミッションマウント化、カウルのカーボン化等を施した962-201をWSPCにデビューさせる。(962C)
  • クレマー、アルミニウムハニカム製モノコックの962CK6を製作。(962C)
  • チャップマン製モノコック登場。(962、962C)
  • ポルシェ、WSPC第6戦ノリスリンクを以てワークスを撤退させ、手持ちのワークス仕様の935/83型エンジン12基のうち4基をヨースト・レーシング(以下ヨースト)、ブルン、クレマー、BLRに放出[9]。(962C)
  • ポルシェ、インディカー用V型8気筒エンジンベースにした962・962Cの後継マシン(エンジン、IMSA-GTP用2.1リットルシングルターボ、WSPC用3.2リットルツインターボ、アルミニウムハニカム或いはカーボン製モノコック)を開発し、1988年シーズン開幕からWSPCに復帰の予定[10]
1988年
  • ワークス、スーパーカップで引き続きPDKを試用。(962C)
  • ポルシェ、カスタマー・チームに935/83型エンジンを供給。(962C)
  • ワークス、WSPC第5戦ル・マン24時間にモトロニックMP1.7の採用、6速トランスミッション、冷却系の改良等を施した1988年仕様ワークスマシンを登場させる。(962C)
  • IMSA-GTP、第10戦ポートランドからツインターボ・エンジンの使用を認め、以後962Cを使用するチームが増加。(962、962C)
  • 9月15日、ポルシェ、各カスタマーに962Cの開発終了を含むグループC活動の終了を通達。1988年仕様のワークス用シャシを有力カスタマー・チームに売却[11]。(962C)
1989年
  • ヨースト、オイルクーラーのフロント移設、リヤ・ウィングのトランスミッションマウント化等を施した962-011を開発・製作しWSPCで使用。(962C)
  • ポルシェ、モトロニックMP1.7をカスタマーに供給。(962C)
  • クレマー、962CK6/02を開発・製作。956/962シリーズ初のカーボン製モノコック[12]。(962C)
  • ヴァーン・シュパン(以下シュパン)、アルミニウムハニカム・モノコック製作。チーム・デイビーに供給。(962C)
  • ブルン、ラジエーターをフロントに移設した962-004BMを製作。後、サイド・ラジエーターに戻される。(962C)
  • ポルシェ、ル・マン24時間用に新スペックエンジンを各チームに供給するも、燃料クーラーのトラブルによりクレマー、シュパン、RLRの3台のマシンがレース中に炎上。[13] (962C)
  • 7月、ポルシェ、ヨーストと3年間のワークス契約を結ぶ[14]。 (962C)
1990年
ポルシェ・962CK6 (1990年)
  • ポルシェ、全水冷3.2リットルの935/86型エンジンをヨーストに供給。ル・マン24時間後にカスタマー・チームにも供給。(962C)
  • クレマー、ポルシェの風洞を使用して開発した1990年仕様の962CK6を製作[15]。(962C)
  • シュパン、カーボン製モノコックを製作。(962C)
  • ポルシェ、SWC C1クラス用マシン(3.5リットル、V型12気筒型エンジン)の開発開始を発表。1992年からワークス参戦の予定[16]
  • ブルン、1990年のル・マン24時間レースの予選でアンディアル・チューンの全水冷3.2リットルエンジンを使用して予選2位に入る。(962C)
  • IMSA-GTP、第10戦シアーズポイントから、ポルシェ・ユーザー救済を目的に1991年レギュレーションを前倒しで施行。(962、962C)
1991年
1992年
1993年
  • ポルシェ、962/962C最終製造車、962-016をヨーストに納車。
1994年
  • ポルシェ、GT1クラス用に962LMを製作。

レース戦績

962C(ワークス仕様/1988年)
1985年
ル・マン24時間レースは、ポルシェワークスマシンはモトロニックMP1.2のセッティングミスからヨースト・レーシング、GTIレーシングの956に次ぐ最高3位に終わった。
1986年
1986年のル・マン24時間レースには、ポルシェワークスは935/82型エンジンを2.86リットルに拡大して臨み、力をつけて来ていたジャガーXJR-6ザウバー・C8との高速戦に多数のリタイアを出しながらも1位、2位を独占した。この年は初参戦の日産関係者が「24時間のスプリントレースなのか」と呆れるほどの高速ぶりでジャガーもメルセデスも全数リタイア、ポルシェだけで8位以外のベスト10を独占している。
1987年
1987年のル・マン24時間レースにポルシェワークスは予選ブースト850PSの水冷3.0リットルの935/83型エンジンを搭載したが予選時のクラッシュで1台を失い、さらに供給されたガソリンのオクタン価が低くターボエンジンのポルシェは次々リタイア、このときライバルのジャガーXJR-8LMは3台とも健在で絶体絶命に追い込まれた。しかし監督のノルベルト・ジンガーは原因を突き止めてモトロニックMP1.2のプログラムを書き換えて対応、気温が低くターボエンジンに有利な夜間になってペースアップを指示した。これを受けて立ったジャガーは次々にリタイア、結果1位、2位、4位を独占した。
ポルシェはル・マン優勝の2週間後、ノリスリンクでのレースをもって世界選手権へのワークス参戦を停止した。
1988年
1988年にポルシェワークスは世界選手権に出場しなかったがル・マン24時間レースには3.0リットルの935/83型エンジンにデジタル化されたボッシュ・モトロニック1.7を搭載したマシンを持ち込んだ。過給圧を高めた予選用のセッティングでは出力が950PSとも1,000PSとも言われ、ユノディエールで394km/hを記録するなど充分以上の戦闘力があることを見せた。
予選ではワークスの17、18、19号車が1~3位を独占。特に17号車はル・マンでそれぞれ5勝のデレック・ベル、3勝のクラウス・ルドヴィック、2勝のハンス=ヨアヒム・スタックが搭乗するエースマシンであった(勝利数は1988年当時)。
レースはその17号車がリードする展開となるが、6位スタートのジャガーXJR-9LMの2号車がオープニングラップだけで4台を抜き2位に浮上し17号車を追撃、18号車がこれに続いた。しかし17号車は3時間目に燃料ポンプにトラブルを起こし2周遅れの8位まで後退してしまう。
4~9時間目にかけては18号車がレースを支配。その後ジャガー2号車とのトップ争いとなるが、18号車は深夜3時にリタイア。トップに立った2号車を序盤のトラブルで遅れた17号車、ジャガー1号車が追う展開となるが1号車は朝になってリタイア。ジャガー2号車と17号車の一騎打ちとなった。
2号車と17号車の後続を大きく引き離しての戦いは6時間にわたって繰り広げられたが2号車に逃げ切られ、17号車は2号車と同一周回の394周を走って2位。3位には385周を走ったヨースト・レーシングの8号車が入った。
ポルシェワークスは、世界選手権の第10戦富士に日本国内のカスタマーチーム向けのプロモーションのためル・マン24時間レース以来の参戦を果たした[注釈 1]。急遽来日が決まったにもかかわらず優勝したジャガーから1周遅れの2位に入り存在感を示したが、これが956/962Cによる最後のワークス参戦となった。
1989年
世界選手権にポルシェはワークスチームを派遣しなかったが、ヨースト・レーシングと共同でワークスマシン962-011(←962-142)を開発した。標準的な962Cとの違いはオイルクーラーのフロントへの移設、リアウイングの独立化、フロントフェンダーにルーバーを追加、ヘッドライトの円形4灯から角形2灯への変更等。ヨーストは事実上のワークスチームとして参戦しジャガー、ニッサン、トヨタを上回るシリーズランキング2位に食い込み、ブルンもランキング3位に入る活躍を見せた。
962-011は第2戦ディジョンで956/962Cにとって約2年ぶりの世界選手権優勝を果たしたが、結果的にこれが956/962にとって最後の世界選手権優勝となってしまった。
1989年のル・マン24時間レースにポルシェはワークスチームを派遣しなかったが、ヨースト、ブルン・モータースポーツ、チーム・シュパンにマシンを放出(それぞれ9号車、17号車、33号車。他にシュパンの55号車にもワークスからの支援があった)、特にヨーストはノルベルト・ジンガーがチームを指揮していた。他にブルン、シュパン、クレマーにもポルシェからエンジニアが派遣された。
決勝レースでは予選5位スタートのヨーストの9号車(962-145)がトップグループでレースを進め、1日目夜には数時間にわたって首位を快走した。その後、深夜に冷却水漏れがあり後退したが、3位でゴールして表彰台を獲得し、これがポルシェ勢最上位となった。
ブルンは5、6、16、17、27号車の大量5台の962Cをエントリーさせた。
962Cはこの年のル・マンに計17台出走。5台が完走し3台がトップ10入りしたが、ポルシェの供給したニュースペックエンジンにトラブルが相次ぎシュパンの33号車、クレマーの10号車、RLRの14号車が炎上、リタイアした。
1990年
世界選手権にはポルシェからヨースト・レーシングに、3.2リットルエンジンを搭載し空力が改良された962-012、962-014の2台のワークスカーが供給されたが、これはカスタマーチームからの開発継続の要請の声に応えたものであった[20]。3.2リットルエンジンはシーズン後半の第6戦ニュルブルクリンクから、JSPCでは第4戦鈴鹿1000kmから各カスタマーチームに供給された。
1990年のル・マン24時間レースにヨーストは6、7、8、9号車の計4台の962Cをエントリーさせた。この内7、8号車は、ポルシェから供給された3.2リットルエンジンが搭載されたワークスマシンであった(7号車962-015、8号車962-013)。
しかし8号車は予選中にクラッシュ、使用不能になってしまったことから、ヨーストは9号車に8号車の使用可能なパーツを移植し、急遽9号車をワークスマシンに仕立て上げた。
ブルン・モータースポーツは15、16号車の2台の962Cをエントリーしたが、この年からユーノディエールにシケインが設置されたことに対応しコーナリングスピードを重視。ハイダウンフォースのショートテイル仕様に、アンディアルチューンの3.2リットルエンジンを搭載してル・マンに乗り込んできた。
予選ではそのブルン16号車が2位に入り、ニッサン勢の予選上位独占を阻む活躍を見せた。
ブルン16号車は決勝でも終始トップグループを走り、2日目昼には1周前を走るトップのジャガー3号車をラップ、同一周回に戻すなど大健闘を見せるが、レース終了僅か15分前にエンジンブロー、リタイヤした。
ヨーストはワークスマシンである7号車の6位が予選最上位で、決勝でも7号車が4位に入賞するにとどまった。
962最上位は日本からエントリーしたアルファ・レーシング(メンテナンスは東名スポーツ)で、大きなトラブルもなく走りきり3位入賞。ル・マン初出場でいきなり表彰台を獲得、日本のチームで初めて総合成績でル・マンの表彰台に上がることとなった(クラス別ではこれ以前にクラス優勝したことのあるマツダが表彰台に上がっている)。
この年のル・マンには計18台の962Cが出走。14台が完走し、5台がトップ10入りした。
1991年
1991年のル・マン24時間レースには12台の962Cが出走。しかしすでに962Cは旧態化しており、またSWC規定に伴い最低重量が950kgに引き上げられたため競争力が低下、レース序盤にブルン・モータースポーツの17号車(962-177、962の最終製造車)が上位を走ったのが目立つ程度であった。
結局この年の962Cは、コンラッド・モータースポーツ名義でエントリーしたヨースト・レーシングの58号車の7位が最上位で、956/962Cは1982年のルマン参戦開始以来常に獲得してきた表彰台の座をついに逃した。
1994年
ダウアー962LM
1994年のル・マン24時間レースにはポルシェ962Cそのものであるダウアー・962LMが非常に有利なGT1クラスで出場した。GT1は市販されていることが条件だが台数規定がなかったため1台を公道で走行できるように登録することでホモロゲーションを取得したものである。物議は醸したがレギュレーション違反とは言えず、総合優勝した。

962Cは基本的には956の「エポリューションモデル」とも言うべき存在であったが、ル・マン24時間レースにおいて「同一車種」としては最多優勝記録を誇っており、さらにブルン・モータースポーツやヨースト・レーシングなどのプライベーターも多数使用したこともあり、今でもグループCと言えばこのマシンを思い浮かべるファンがいる等、まさしくグループCのみならず、レーシングカー史においてもその名を長く刻む名車となっている。

JSPCへの参戦

レイトンハウスの962C(1987年)

1985年から、956に引き続きノバ・エンジニアリングレイトンハウストラストなどのプライベーターから全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦した。

各チームともに、オスカー・ララウリ高橋国光フォルカー・ヴァイドラーなどのトップクラスのドライバーのドライブでトヨタ自動車トムスサードなど)や日産自動車ホシノインパルハセミモータースポーツなど)のワークス、セミワークス勢と対峙し、1985年から1989年にかけてチャンピオンを獲得した。

各チームは、バブル景気を受けた豊富な資金力を元に、エアロダイナミクス面を中心に日本独自のモディファイを行い戦闘力を高めたほか、ル・マン24時間レースなどへの遠征も行なったものの、1990年に入ると国産勢の戦闘力が増してきたことから相対的に戦闘力が低下し優勝戦線から遠ざかった上、グループC自体の衰退とJSPCの消滅を受けてその姿を消すこととなった。

全日本GT選手権への参戦

グループC消滅後、全日本GT選手権(JGTC)仕様に仕立て直し、1994年シーズンからチーム・タイサンより出場した。

ドライバーは1992年全日本F3選手権チャンピオンで1990年のル・マン24時間レースで3位の経験もあるアンソニー・レイド茂木和男(途中から近藤真彦に交替)であった。当時のJGTCはスタンディングスタートであったが、本来グループCカーはローリングスタートしか想定しておらず1速ギヤが設定されていないため、決勝ではスタート時に出遅れることがよくあった。その他にも規定を満たすべく300kgのウエイトを積んだり、吸入孔にリストリクターを装着したため、本来のポテンシャルを発揮できなくなっていた。緒戦ではタービンがサージングを起こしてタービンブローし、長時間のピットインを余儀なくされている。しかし第1戦、第3戦の富士スピードウェイにおいて予選でポールポジションを獲得し、第3戦では優勝している。

ライバルである国産ワークスチームのタイムがマシンの改良によって速くなる中で、962Cは上記のようにレギュレーションによる規制による制限事項が多く、それ以上のタイムアップが困難であったので、タイサンは962Cでの参戦を初年度の1994年限りで中止し、翌年からはフェラーリ・F40で参戦している。この962Cは最近までチーム・タイサン監督の千葉泰常の自宅に保存されていた。

公道仕様車への改造

962の最初の公道仕様車はケーニッヒが製作したC62で、1991年にドイツの道路交通法に合致させた[21]。3.4リットルに排気量を拡大し、モトロニックシステムで出力800PSだったという。

1992年にDPモータースポーツがDP62を製作した[21]。これはヘッドライトの仕様変更や3.3リットルツインターボエンジン搭載等の改造を受け3台製作された。

その他ヴァーン・シュパンシュパン・962CRダウアー・シュポルトヴァーゲンダウアー・962LMがある[21]

日本国内のヒストリックカーイベントでたびたび目にできるM'sバンテックポルシェ962Cも、ターボをポルシェ・993GT2用KKK製K26ハイブリッドタービンに置換し、エンジン制御もボッシュ製モトロニックMP1.2からMotecM48に変更して燃料噴射、点火時期、加給圧などを任意に変更できるようにしてあり、タイヤも前後同サイズの18inにしてあり、日本のナンバーがついている[21]

注釈

  1. ^ 『オートスポーツNo.514』、三栄書房、1988年、p.34に総監督バーン・シュパン、監督ピーター・フォークとあることから、シュパンがワークスチームを招聘したものと思われる。

出典

  1. ^ Racing On』 No.025、p.81、武集書房、1988年。
  2. ^ モデルグラフィックス』 No.285、p.23,24、大日本絵画、2008年。
  3. ^ 『Racing On』 No.030、p.112、武集書房、1988年。
  4. ^ 『熊野学の徹底メカニズム・リサーチ at WECジャパン』、「オートスポーツ No.514」、三栄書房、1988年。
  5. ^ 「Racing On」 Vol.093、p.69、武集書房、1991年。
  6. ^ 『ポルシェ962PDKに乗る』
  7. ^ 『オートスポーツ No.574』三栄書房、1991年、p.50。
  8. ^ 『オートスポーツ No.459』、三栄書房、1986年、p.49。
  9. ^ 『オートスポーツ No.481』、三栄書房、1987年、p.38。
  10. ^ 『Racing On No.017』、武集書房、1987年、p.38。
  11. ^ 『Racing On No.038』、武集書房、1988年、p.35。
  12. ^ 『Racing On』 No.050、武集書房、1989年、p.37。
  13. ^ 「オートスポーツ」 No.532、p.29、三栄書房、1989年。
  14. ^ 「Auto Sport」 No.569、p.46、三栄書房、1990年。
  15. ^ 『Racing On No.070』、武集書房、1990年、p.38。
  16. ^ 『Racing On No.076』、武集書房、1990年、p.39。
  17. ^ 「Racing On」 No.095、p.30、武集書房、1991年。
  18. ^ 「オートスポーツ」 No.596、p.46、三栄書房、1991年。
  19. ^ 「Racing On」 No.466、p.48、三栄書房、2013年。
  20. ^ 『オートスポーツ No.555』、三栄書房、1990年、p.40。
  21. ^ a b c d 『Racing On』466号 pp.68-69。

参考文献

関連項目