ポール・フレール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| F1での経歴 | |
| 国籍 | |
| 生年月日 | {{{生年月日}}} |
| 没年月日 | {{{没年月日}}} |
| 車番 | {{{車番}}} |
| 所属チーム | HWM、ゴルディーニ、フェラーリ |
| 活動時期 | 1952 - 1956 |
| 過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
| 出走回数 | 11 |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 11 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 1 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| F1デビュー戦 | 1952年ベルギーGP |
| 初勝利 | |
| {{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
| (記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
| 最終勝利 | |
| 最終戦 | 1956年ベルギーGP |
ポール・フレール(Paul Frère, 1917年1月30日 - 2008年2月23日)はフランス、ル・アーヴル生まれのベルギー人の自動車ジャーナリストで、1952年 - 1956年にはF1で活躍していた(1956年のベルギーグランプリでは2位になっている)。また、1960年にはフェラーリ250テスタロッサで、同じベルギー人ドライバー、オリビエ・ジャンドビアンと共にル・マン24時間レースに優勝している。
以後、現在まで欧州を拠点に活動し、アメリカの雑誌、『Road&Track』のヨーロッパのエディターを務め、日本でも頻繁に活動していた。雑誌「カーグラフィック」初代編集長、小林彰太郎とは1960年代以来親交が深く、日本では同誌のコラム「FROM EUROPE」や各種テスト記事等でもおなじみ。また1970年代以降、車両設計コンサルタントとして、ホンダやマツダの技術者とも親交があった。
2007年1月、彼の90回目の誕生日以前、ニュルブルクリンクで事故を引き起こしで重傷を負い、集中治療で14日間を過ごさなければならなかった。 ニュルブルクリンクでの事故の詳細だが、フレール氏自身が運転するホンダシビックTYPE-Rで事故を引き起こして重傷を負う。事故後フランクフルトの病院に搬送され、7本の肋骨損傷に骨盤の粉砕や肺にも破裂を負うなど甚大な損傷を受け手いることが判明。この事故による負傷の影響がその後の彼の死に少なからず影響している。
[編集] 著書
- 「ハイスピード・ドライビング」
- 「新ハイスピード・ドライビング」
- 「いつもクルマがいた—ポール・フレール自叙伝」
(以上、二玄社刊)

