さいとう・たかを

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さいとう・たかを
本名 齊藤 隆夫
生誕 (1936-11-03) 1936年11月3日(87歳)
日本の旗 日本 和歌山県
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
称号 紫綬褒章
旭日小綬章
活動期間 1955年 -
ジャンル 劇画
代表作ゴルゴ13
受賞 第21回小学館漫画賞青年一般部門
第50回小学館漫画賞審査員特別賞(いずれも『ゴルゴ13』による)
和歌山県文化表彰文化賞
第23回手塚治虫文化賞特別賞
公式サイト さいとう・プロダクション 東京都中野区
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さいとう・たかを(本名:齊藤 隆夫、1936年11月3日 - )は、日本漫画家和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身[1]東京都中野区岩手県花巻市在住。

貸本漫画時代に劇画の分野を確立した人物の一人であり、一般漫画の世界に転向後も『ゴルゴ13』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、劇画界の代表的人物である。また「さいとう・プロダクション」を設立し、各スタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立した。

来歴

少年時代

1936年昭和11年)、5人兄弟の末子として和歌山市に生まれるが、生後まもなく転居し、のちに大阪府堺市に移り住む。さいとう自身は43歳になるまで和歌山で生まれたことを知らなかった[2]。父親はさいとうが幼い時に家を出たため、母親が理髪店を営みながら女手一つで子供5人を育てた[3]。小さい頃は図画工作(美術)科目とケンカが得意の、いわゆる不良少年であり、将来の夢はボクサー画家になることであった。中学時代には府の絵画展で金賞を獲得している。

1950年に堺市立福泉中学校を卒業し、実家の理髪店で働き始める。当時は漫画に興味がなく将来の夢は挿絵画家だったが、挿絵業界は今後狭まっていく、あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感[4]から、当時はまっていた映画進駐軍が持ち込んだ「10セント・コミックス」に影響を受け[1]ストーリー漫画を志す。同時期に手塚治虫の『新寶島』を見て衝撃を受け、「紙で映画が作れる!」と興奮したという[3]。当時のさいとうは手塚の影響を受け、柔らかなタッチの絵を描いていた。

貸本漫画家デビュー

1952年には家業である理髪店を姉と継ぐが、1955年に仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『空気男爵』を大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込む。等倍の紙に漫画を描いたため、社長の山田秀三にダメ出しされるが、一年かけて書き直し、デビューが決まる。それ以降、日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表する。1956年には漫画に専念するために家業の理髪店を辞めるが、母親は激怒して漫画を親の仇であるかのごとく嫌うようになった。さいとうによれば、自身が漫画家として大成した後も「母親は漫画家という職業を死ぬまで嫌い、病床に置かれた僕の本に一度たりとも触れなかった」と述べている[5]。同年には辰巳ヨシヒロ松本正彦らと同じアパートで共同生活を送りながら漫画を描き始めた。当時、さいとうは高校生だった川崎のぼるをアシスタントとして働かせていたが、さいとうの人使いが荒かったことから、川崎は早々に逃げ出している。

上京・劇画工房誕生

1958年(昭和33年)先輩漫画家の久呂田まさみに連れられて上京、東京都国分寺市のアパートに居を構える。1959年、国分寺に居住していた日の丸文庫系劇画家のさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、石川フミヤスK・元美津桜井昌一山森ススム佐藤まさあき松本正彦ら8人で劇画制作集団「劇画工房」が結成される。人気劇画家の制作集団とあって貸本出版社からの執筆依頼が殺到して多数の貸本劇画短編集を出版するが、組織論や仕事配分、ギャラの分配などで揉め、翌年1960年春に劇画工房は短期で分裂した。

さいとう・プロダクション設立

「劇画工房」の分裂後、佐藤まさあきや川崎のぼる、南波健二ありかわ栄一ら、ガンアクション系の劇画家5人で新・劇画工房の設立を計画するが、頓挫。その計画を元に1960年(昭和35年)、東京都国分寺市に自らの漫画制作会社「さいとう・プロダクション」を設立した。さいとうの組織論に共鳴していた石川フミヤスらがスタッフに加わり、さいとうの兄の斉藤發司がマネージャーを務めることになる。以後、多数の貸本劇画を出版する。中でも『台風五郎』はシリーズ化され人気を博した。

1962年(昭和37年)、貸本劇画家有志と「劇画集団」を設立。メンバーはさいとう・たかを、横山まさみち永島慎二、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、旭丘光志都島京弥いばら美喜山田節子武本サブロー影丸譲也、他。もっとも、この団体は漫画制作を目的とした新・旧劇画工房とは違い劇画家の親睦のための団体であり、一般読者会員にも会報などを発行していた。

一般漫画誌進出

貸本業界が傾き始めた1963年ボーイズライフ連載の『007』のコミカライズを機に一般漫画誌に本格進出。1967年には時代劇アクション劇画『無用ノ介』(『週刊少年マガジン』)を連載。劇画路線の『マガジン』を代表するヒット作となった。その後、1968年(昭和43年)10月より連載開始の『ゴルゴ13』(『ビッグコミック』)は、さいとうにとっての代表作であり、日本の「劇画」の代名詞となる。『ゴルゴ13』は現在も連載中の長寿漫画であり、1976年(昭和51年)1月には1975年度小学館漫画賞の青年一般部門を受賞し、2005年平成17年)1月には2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞した。

近年

近年は『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の3作の長期連載を軸に活動、大ベテランとなっても月産150ページ以上の旺盛な執筆活動を展開していた。しかし、2008年に武本サブロー、2014年に石川フミヤスと、長年にわたって仕事を支えてきたチーフアシスタントが相次いで死去したこともあって、さいとうの作業量が増加。2015年2月、体力的な負担を理由に『仕掛人・藤枝梅安』の休載を決定。残り2作品の連載執筆に専念しつつ、『梅安』再開も模索したが、結局体力の限界を理由に2016年3月『仕掛人・藤枝梅安』連載終了を告知。現在は『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』2作品に活躍の場を絞り、新作を送り出している。

人物

  • 中学生のころ、「こんなもんただのクイズだ、試験でもなんでもない。個人の能力がわかるはずがない」と考え、一度もまともに試験を受けなかった。しかし、ある教師が担当になったとき、いつものように答案用紙を白紙で返すと、その教師はさいとうの答案用紙を持って来て机の上に置き、「これを白紙で出すのは君の意思だから構わない、しかしこの答案用紙を提出するのは君の義務なんだから、自分の責任の証明として名前だけは書け」と諭されて感銘を受け、それを期に人間の約束と責任について深く考えるようになったという。この教師の姓が「東郷」であり、『ゴルゴ13』が名乗る名(デューク東郷)の一部となった。
  • さいとうの少年時代のやんちゃぶりは自伝的漫画『いてまえ武尊』に詳しい。さいとう曰く「飼い猫を焼いて食ったこと以外はほぼ実話」としている。
  • 漫画家になってからも、友人の永島慎二を殴ろうとしたヤクザをメンチを切って追い払う、泥酔して絡んできた久呂田まさみを投げ飛ばす、などの数々の武勇伝がある。
  • さいとうの父親が、営んでいた理髪店を放り出し、写真家・画家・彫刻家などを目指すが挫折し、出奔して家を出ていったことから、母親は芸術関係の仕事を人一倍嫌悪した。父親の絵をさいとうの目の前で何の躊躇もなくかまどにくべて焼き「男が芸術で食べていけるわけが無い」と吐き捨てたという。小学生時代のさいとうが金賞を取った絵も即座にかまどに放り捨てられ、燃やされたとのこと。
  • 漫画家となるために実家の理髪店を辞めた際には大激怒され、以来母親は漫画と漫画家を親の仇のごとく憎悪するようになったという。さいとうが漫画家として大成した後も送ったゴルゴ13の単行本を見もせずに即刻焼却し、その挙句、死の床にあっても単行本に指一つ触れようとしないどころか視界から背け、和解を拒むなど、さいとうのことを最期まで認めず、同時に許さなかった。このことはさいとうも気にしているようで、執筆室には仕事をしているさいとうに向かい合うように亡母の写真が飾られている。
  • さいとうの兄の斎藤發司も同様で、發司がさいとう・プロダクションおよびリイド社の代表取締役社長になった後にも、子供に「漫画など読むな」と説教していたという。
  • 漫画少年』ファンの友達に勧められ、一度だけ『漫画少年』に投稿した経験があり、それが審査員の手塚治虫に悪い見本として取り上げられ酷評されたという[6](しかし実際には投稿欄の手塚によると思われていた文章は編集者が書いたものであり、手塚は忙しくて名前だけ貸していた状態であったことが後に分かる)。
  • デビュー当初はSF志向があったが、若い労働者が主体だった貸本漫画の客層がそれを受け入れなかったため、アクション漫画がメインになっていった。
  • さいとう・プロダクションのある中野区に在住しているが、妻の出身である岩手県にも居を構えている。なお、『ゴルゴ13』で岩手県出身の商社マン(後に商社を辞めて帰郷)をたびたび登場させたり、東條英機戦犯として逮捕された自分の奪還を企てた者に達観の心境を示す場面があったりするなど、漫画の中に岩手県への思いが示されている。
  • 1980年代にはゴルフに熱中しており、山梨の富士野屋別館には交流の深い漫画家仲間である石ノ森章太郎北見けんいちちばてつやつのだじろう藤子不二雄A古谷三敏らと書いた寄せ書きが額縁入りで飾られている(松本零士も来る予定だったが、原稿が間に合わず参加できなかったという)。
  • 趣味はテレビや映画鑑賞、若い頃からの大相撲ファンでもある。元大相撲力士三濱洋俊明は母方の親戚。
  • 能見正比古の提唱した血液型性格診断の熱烈な信奉者であり、血液型の著書を複数出している。
  • 元妻のセツコ・山田との間に娘が2人いるが、この姉妹はじゃんぐる堂の共同ペンネームで同人誌・商業誌に漫画を執筆している。
  • かつては作画をGペンで行っていたが、現在は太さの違うサインペンでペン入れを行っている。また、ネーム後には基本的に下書きをせず、いきなりペン入れから始める。キャラクターは眉毛やモミアゲといった特徴的な部分から書き始める。
  • 作中の台詞の数字は固有名詞を除いて全て漢数字を使う。
  • 大阪府堺市の名誉大使として、2014年9月26日に委嘱を受けた[7]
  • 愛煙家であり、「煙草と名のつく物は何でも吸ってきた」と話し、過去には葉巻(細巻きのメキシコ産の銘柄を愛煙していた)やパイプも喫煙したことがあると語っている。執筆も喫煙しながら行う。現在は紙巻きたばこを愛煙しており、これまで嗜好していた銘柄は、プレミア・ワンやメビウス・ディースペックなどとのこと。元々は、吸い終えた煙草の火で次の煙草に着火するという、チェーンスモーカーであったらしく、一日の喫煙量は相当なものになっていたようであるが、現在の喫煙量は1日40本ほどになったと話す[8]
  • ゴルゴ13は理髪店などに置かれることが多いが、これは一話完結で待ち時間でも読みやすいからであると同時に作者が理髪店出身という経緯から親しみをこめているという店も存在する。[9]

さいとう・プロダクション

「さいとう・プロダクション」は、初めて漫画制作に分業体制や脚本部門を置いた漫画制作プロダクションである。漫画アシスタントは低賃金長時間労働が一般的であるが、さいとう・プロは雇用条件に気を配っており、スタッフの待遇の良さには定評がある。分業で漫画制作することによって無理なく長期連載を請け負うことが出来ているゆえに可能なビジネスモデルである。

例えば、手塚治虫が手塚プロダクションで漫画作品を描いた場合には、手塚治虫個人の名前だけが作家名として表記されるのが常であったが、さいとうたかをプロダクションの作品の場合は、最後のページでスタッフ一覧のクレジットタイトルが映画作品と同様に示されている。但し、単行本ではこれらのクレジットは削除されており、単なる余白となっている。

リイド社

リイド社はさいとう・プロの出版部門が分社化されたものであり、さいとうの兄の斎藤發司がリイド社およびさいとう・プロダクションの代表取締役社長を務めてきた。2016年に發司が死去したため、現在は發司の長男で専務取締役だった斎藤哲人が社長を引き継いでいる。設立当時、大手出版社では漫画雑誌の出版がメインで、単行本を出版するということをあまりしていなかったため、その当時からの慣例で、さいとうの漫画は他社の雑誌に連載されている作品であっても単行本はリイド社から出版されている(『ゴルゴ13』は、小学館ビッグコミック』連載で、単行本はリイド社、小学館でも一部再刊)。

作風への批評

前述の通り、さいとうの作品はプロダクション形式で、それぞれのエキスパートが集まって漫画制作をしているものであったが、1990年代後半までは一部の漫画家・漫画評論家がそれをきちんと理解しなかったため、「目だけ描いている漫画家」など、いわれのない批判を受けることが多かった。

夏目房之介はさいとうの描く女体を、不特定多数がよってたかって色っぽいだろうと思う線をかき集めたために、個人の思い入れが極めて希薄である、と吾妻ひでおなどと対比して評している(ただし夏目は、さいとうが完全分業制による漫画制作というビジネススタイルを確立したことに対しては一定の評価をしている)。また、いしかわじゅんはさいとうの書き文字擬音)を例にとり、新人であった時代からいっさい変化していないことを挙げ、進歩する意志を失った証拠として批判している。もっとも、さいとう本人は、作品が「色あせてしまう」ため「その時代の観念、その時代の常識では絶対描かない」ことを「作品を描く時に一番気をつけている」と述べており[3]、意図的に作品を描いていることを言明している。

受賞歴

  • 1976年1月 - 第21回小学館漫画賞青年一般部門(『ゴルゴ13』)
  • 2003年11月 - 紫綬褒章
  • 2003年11月3日 - 第一回理容チョキちゃん大賞(主催・全理連) 受賞[10]
  • 2005年1月 - 第50回小学館漫画賞審査委員特別賞(『ゴルゴ13』)
  • 2010年4月 - 旭日小綬章
  • 2017年11月 - 第2回まんが郷いわて特別賞 受賞
  • 2018年1月 - 和歌山県文化表彰文化賞[11]
  • 2019年9月 - 名誉都民[12]

作品リスト

劇画作品

活字作品

  • 『劇画家生活30周年記念 さいとう・たかを 劇画の世界』(1986年、リイド社)ISBN 4-947538-60-0
  • 『さいとう・たかをのコーヒーブレイク 俺の秘密ファイル』(1992年、フローラル出版)ISBN 4-930831-08-3
  • 『さいとう・たかをの【ゴルゴ流】血液型人物観察術』(2002年、PHP研究所ISBN 4-569-62043-4
  • 『さいとう・たかを 劇・男』(劇・男制作委員会、2003年、リイド社)ISBN 4-8458-2374-8
  • 『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代』(2010年、新潮社ISBN 978-4-10-325731-8
  • 「画業60周年記念出版 さいとう・たかをゴリラコレクション 劇画1964」、リイド社、ISBN 978-4-8458-4420-3(2015年11月12日)。

その他

  • 完全復刻版 影・街(石川フミヤス、草川秀男、久呂田まさみ、さいとう・たかを、桜井昌一、佐藤まさあき、高橋真琴、辰巳ヨシヒロ、松本正彦)

さいとう・プロダクション スタッフ

現スタッフ

以下はさいとう・プロダクション公式サイト内、制作スタッフ(2019-09-02 閲覧)を参照にして記述

  • 赤司教
  • 宇良尚子
  • 徳富祐
  • 上農博昭
  • 木村周司
  • 白川修司
  • 藤原輝美
  • ふじわら・よしひで(藤原芳秀

過去のスタッフ・アシスタント

メディア出演

テレビ

雑誌

  • 2016年5月26日発売の『週刊文春』2016年6月2日号 頁64-67に、樋口武男の「複眼対談」第68回で、対談記事「さいとう・たかを 劇画家」が掲載。

脚注

  1. ^ a b さいとう・たかをプロフィール”. さいとう・プロダクション. 2018年2月28日閲覧。
  2. ^ 「故郷に認められ本当にうれしい」 さいとう・たかをさんに和歌山県文化賞授与(2018年1月20日)”. 産経ニュース. 2018年2月28日閲覧。
  3. ^ a b c 探検バクモン』2013年1月23日付放送分
  4. ^ 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)p.86-87
  5. ^ 荒俣宏『日本まんが 第弐巻: 男が燃えた!泣いた!笑った!』p.34
  6. ^ 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)p.87
  7. ^ 堺の魅力を発信 「堺名誉大使」「堺親善大使」”. 堺市]. 2018年2月28日閲覧。
  8. ^ 「先生とタバコとの出会いをお聞かせください」”. iRONNA. 2018年6月28日閲覧。
  9. ^ 水曜日のダウンタウン
  10. ^ シャンテ・サロンニュース Archived 2013年9月24日, at the Wayback Machine.
  11. ^ 和歌山県文化表彰”. 和歌山県 企画部企画政策局文化学術課. 2018年2月23日閲覧。
  12. ^ 「名誉都民にさいとう・たかをさんら3人」産経ニュース(2019年10月1日)2019年10月7日閲覧。
  13. ^ さいとう・たかを(劇画家)|情熱大陸 - ウェイバックマシン(2007年5月1日アーカイブ分)
  14. ^ NHK総合『探検バクモン』のゴルゴスペシャル「ゴルゴ13の秘密基地に潜入せよ!」が1/16、23放送”. amass (2013年1月15日). 2019年9月2日閲覧。
  15. ^ さいとう・たかを | 浦沢直樹の漫勉 | NHK”. NHK. 2017年12月14日閲覧。
  16. ^ NHK Eテレ 「SWITCH インタビュー 達人達」12月21日放送にさいとうたかをが出演します”. NHK. 2020年1月25日閲覧。
  17. ^ ごごナマ「さいとう・たかを」”. NHK. 2020年1月25日閲覧。

外部リンク