槇 (松型駆逐艦)
槇 | |
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基本情報 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 松型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 1944年(昭和19年)度計画 |
起工 | 1944年2月19日[1] |
進水 | 1944年6月10日[2] |
竣工 | 1944年8月10日[3] |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1947年8月14日、イギリスに引渡し、解体。 |
要目 | |
基準排水量 | 1,262t |
公試排水量 | 1,530t |
全長 | 100.00m |
最大幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
ボイラー | ロ号艦本式缶 2基 |
主機 | 艦本式タービン 2基2軸 |
出力 | 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
燃料 | 重油370t |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
乗員 | 211名 / 259名[4] |
兵装 |
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槇(まき)は日本海軍の駆逐艦[5]。艦名は楢型駆逐艦の4番艦「槇」[6]に続いて2代目[7]。
概要
[編集]一等駆逐艦「槇」は[8]、松型駆逐艦の8番艦[9][10]。1944年(昭和19年)8月10日に竣工[8]。訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属したのち[11]、第三十一戦隊隷下の第43駆逐隊に編入された[12][13]。 捷号作戦にともなう10月下旬のレイテ沖海戦では、小沢機動部隊所属艦として参加する[14][15]。10月25日の空襲では、沈没した駆逐艦「秋月」の乗組員を救助する[16]。つづいて軽巡「五十鈴」と共に空母「千代田」の救援を試みたが成功せず[17]、「槇」も空襲で損傷した[18][19]。
修理後、第41駆逐隊(涼月、冬月)と共に空母「隼鷹」を護衛してマニラ輸送作戦を実施した[8]。帰路では41駆と共に戦艦「榛名」と「隼鷹」を護衛中、長崎沖で米潜水艦の雷撃により損傷した[20]。修理後は、内海西部で待機する[21]。1945年(昭和20年)4月6日夕刻の大和特攻部隊出撃では、駆逐艦3隻(花月、槇、榧)として豊後水道の対潜掃蕩をおこなった[22]。終戦後は復員輸送に従事した。のちにイギリスに引き渡され、解体された[7]。
艦歴
[編集]建造
[編集]1944年(昭和19年)2月19日[23]、本艦は仮称第5488号艦として[24]、舞鶴海軍工廠で起工[25][注 1]。 6月5日、建造中の駆逐艦や海防艦と共に命名される[5]。同5日付で駆逐艦3隻(杉、槇、樅)は松型駆逐艦に類別される[27]。 6月10日、「槇」は進水した[28][注 2]。
7月1日、日本海軍は、駆逐艦「村雨」水雷長[31]、軽巡洋艦「北上」水雷長[31] 等を歴任した石塚栄少佐(当時、阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」水雷長[32]。海軍兵学校63期[33] )を槇艤装員長に任命する[34]。同日附で、舞鶴海軍工廠の槇艤装員事務所は事務を開始した[35]。 8月10日、就役[36][37]。艤装員事務所を撤去した[38]。石塚少佐も制式に槇駆逐艦長(初代)となる[39]。主な初代幹部は、航海長大山雅清中尉、砲術長宇田広美大尉、水雷長芦田森一大尉[39]。
竣工後
[編集]1944年(昭和19年)8月10日の竣工と共に、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入される[40][注 3]。 8月中旬、「槇」は舞鶴から瀬戸内海に移動した[46][47]。 第二遊撃部隊[注 4]や協力艦艇・部隊と共に[49]、内海西部で訓練をおこなう[47][50]。 後日「槇」と行動を共にする「涼月」も、8月上旬から内海西部で十一水戦と訓練をおこなっている[47][51]。
9月30日付で第三十一戦隊[52](司令官江戸兵太郎少将、海兵40期)[53]麾下の第43駆逐隊[13](駆逐隊司令菅間良吉大佐[54]、海兵50期)に編入された[55][56]。 ネームシップの「松」は既に沈没しており[57]、第43駆逐隊は本艦の編入で4隻編制(竹、梅、桃、槇)となった[55][58]。 当時の航海長が病気で退艦し、後藤英一郎中尉(槇乗組)が10月7日付で槇航海長に任命されるまで本艦は航海長欠員だったが[59]、任務は続行された[60]。 10月10日、第43駆逐隊から「松」が除籍され、松型6番艦「桐」が編入される[61]。
レイテ沖海戦
[編集]10月17日朝、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のスルアン島に上陸した[62]。翌18日夕刻、日本軍は捷一号作戦を発動した[63]。本作戦は、第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊(第三艦隊)が囮となって第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をひきつけ[64]、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)率いる第一遊撃部隊がレイテ湾に突入し、アメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった[65][66]。
第三艦隊の本来の護衛部隊は第二遊撃部隊[注 5]だったが[67]、台湾沖航空戦の「残敵掃討」に駆り出されてしまった[68][69]。さらに秋月型駆逐艦「冬月」[70][71]と「涼月」[72][73]が日本近海で相次いで潜水艦に撃破され、修理を余儀なくされた。 機動部隊の水上兵力不足という事態に対し、練習部隊の第十一水雷戦隊から軽巡洋艦「多摩」と駆逐艦「杉」を[74][注 6]、対潜部隊の第三十一戦隊を[76][注 7]、内地所在の軽巡「大淀」を、それぞれ機動部隊の護衛部隊に編入した[78]。 当時、第三十一戦隊司令官は旗艦を「五十鈴」から「槇」に移し、「五十鈴」は呉で整備を実施、「槇」と「桑」は大分県佐伯において訓練中だった[77]。このあと第三十一戦隊旗艦は「大淀」に変更された[79][80]。また四航戦のうち空母「隼鷹」と「龍鳳」は搭載する航空隊がなく、出撃しなかった[81]。出撃各艦は内地残留の「隼鷹」から燃料を補給した[82]。
10月20日夕刻、小沢機動部隊(第三航空戦隊の空母4隻〈瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳〉、第四航空戦隊の航空戦艦2隻〈日向、伊勢〉[81]、巡洋艦3隻〈大淀、五十鈴、多摩〉、秋月型駆逐艦4隻〈初月、秋月、若月、霜月〉、松型駆逐艦4隻〈桑、槇、杉、桐〉)は豊後水道を出撃した[83][注 8]。 10月22日[84]、「槇」は空母「千代田」から重油の洋上補給を行う[85]。 10月23日午前より、小沢機動部隊は対潜警戒を主とした第一警戒航行序列から、対空警戒を主とした二つの輪形陣に切り替えた[86][87][注 9]。 10月24日、燃料不足の松型2隻(桐、杉)は小沢機動部隊から分離[89]、沖縄方面に退避した[90]。
10月25日のエンガノ岬沖海戦における「槇」は、軽空母2隻(千代田、千歳)および航空戦艦「日向」[91]を中心とする第二群(千歳、千代田、日向、五十鈴、霜月、槇)を構成していた[92][93]。 朝8時からの空襲第一波で、8時56分に駆逐艦「秋月」が轟沈した[94]。「槇」は『我レ、秋月ノ救助ニ向フ』を打電して救助活動を行う[95]。第二群の指揮を執る第四航空戦隊司令官松田千秋少将(海兵44期、日向座乗)は9時00分に「槇」に対し「沈没駆逐艦ノ救助ニ行ケ」と命じた[96]。「槇」は秋月乗組員の救助を実施、秋月駆逐艦長も収容した[97]。
戦闘はなおも続き、9時37分に「千歳」が沈没[98]、「霜月」が乗組員を救助した[99]。10時ごろからの空襲第二波で「千代田」が航行不能となり[100]、4隻(日向、五十鈴、槇、霜月〈千歳救助完了後に合流〉)が掩護をおこなう[101]。「五十鈴」は「千代田」の曳航を試みていたが燃料不足や空襲により成功しなかった[102][103]。敵機動部隊接近の気配もあった[104]。四航戦司令官は2隻(五十鈴、槇)に「千代田ヲ処分シ北方ニ避退」と命じ[104]、午後1時30分以降、「霜月」を率いて北方にむかった[105]。
「五十鈴」と「槇」はひきつづき「千代田」救援に従事した[17][106]。「五十鈴」は幾度も曳航を試みていたが、14時14分に被弾して舵故障状態となり、遂に曳航を断念するに至った[107]。「五十鈴」は千代田艦長城英一郎大佐に「敵ノ空襲下ニ於テハ曳航ハ困難ト認ム 人員ヲ救助シタル後処分スルコトニシテハ如何」と進言し、「槇」に対しては「(14440)我舵故障 槇ハ千代田ニ横付シ人員ヲ救助シタル後 艦ヲ処分セヨ」と指示した[108]。「槇」は総員退艦準備中の「千代田」に接近する[109]。だが15時頃より空襲がはじまり、「五十鈴」は千代田側に「日没頃迄避退シ再ビ此ノ附近ニ引返ス」と伝え、「槇」に「近寄レ」と命じた[注 10]。15時25分、「槇」は「五十鈴」を追及して「我針路0度ニテ避退ス」と信号してきたので、「五十鈴」は「我人力操舵中近寄ルナ」と返信した[108]。そうこうしているうち「槇」は15時30分頃に被弾した[108]。発揮可能速力20ノットに低下[注 11]、戦死者31名と負傷者35名を出した[110]。「槇」に救助されていた秋月乗組員からも[111]、戦死者や負傷者が出た[112][注 12]。 15時40分、「五十鈴」は「槇」に「今ヨリ千代田ノ処分ニ行ク」と信号をおくったが[108]、敵機の襲来により損傷中の2隻(五十鈴、槇)は退避を続けた[112]。槇側は、この間の戦闘で敵機5機を撃墜したと主張している[113]。 なお「槇」被弾後、姉妹艦「桑」が接近してきて同艦駆逐艦長山下正倫中佐(海兵53期)から「大丈夫か?」(いかがなりや)と声をかけられる一幕もあった[113][114]。また単艦で引き返す秋月型4番艦「初月」[115](第61駆逐隊司令天野重隆大佐座乗)と遭遇、信号を交わしてすれ違うが[116][注 13]、このあと「千代田」[118]と「初月」[119]は、米軍水上艦部隊に撃沈された[120]。付近にいた各艦(槇[121]、若月、五十鈴)[122]は「初月」の奮戦により助かったと言える[123][124]。
海戦後、10月26日16時沖縄本島中城湾に帰投した[121][125]。ここで2隻(五十鈴、槇)は「桑」から瑞鳳生存者を受け入れ[126]、「桑」と「槇」は山下少佐(桑駆逐艦長)の指揮下で奄美大島に向かう[127]。補給部隊のタンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)から240トンの重油を補給してもらった[128]。奄美大島で、「槇」に収容されていた秋月生存者の一部は航空戦艦「伊勢」に移された[129][130]。フィリピンへむかった2隻(大淀、若月)[131]を除く機動部隊残存艦(日向、伊勢、五十鈴、霜月、桑、槇)は、10月29日呉へ帰投した[132]。 「槇」は約20日間、呉海軍工廠で修理を実施した[133][注 14]。「槇」の修理完成直前、第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[135][注 15]。
隼鷹護衛
[編集]レイテ沖海戦で第二艦隊は、戦果のほどはさておいて多数の弾薬を消費した[138]。レイテ決戦の夢を捨てきれない連合艦隊では、航空隊を陸揚げして「失業」状態の空母「隼鷹」を活用して[139]、弾薬や軍需品の緊急輸送を行う事となった[138]。空母の格納庫と高速力は、輸送艦としても適していた[140]。 「隼鷹」は10月27日から11月18日までの第一回マニラ緊急輸送を終えていた[注 16]。 11月23日に瀬戸内海を出撃して第二回マニラ向け緊急輸送を行う事となり[143]、この第二回輸送に「槇」は加わる[144][注 17]。 「槇」は第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに「隼鷹」を護衛してフィリピンに向かう[147]。11月30日、隼鷹隊はマニラ到着した[148][注 18]。 同地で軍需品を陸揚げしたあと、12月1日に出発する[150]。12月3日、澎湖列島の馬公に到着した[151]。 馬公にて、隼鷹隊は日本に戻る途中の戦艦「榛名」と合流する[150][152][注 19]。 榛名護衛任務を終えた「霞」と「初霜」はシンガポールに戻った[157]。
12月6日、5隻(榛名、隼鷹、冬月、涼月、槇)は馬公を出港して日本本土に向かう[158]。ひきつづき悪天候下の12月9日未明[159]、佐世保入港を目前にして野母崎沖を航行する日本艦隊は[160]、アメリカ潜水艦のウルフパックに発見される[注 20]。当時「榛名」より『槇は隼鷹の後につけ』の命令があり、本艦は護衛対象2隻(榛名、隼鷹)右側を反航して南下、「隼鷹」の後方につく直前に雷撃を受けた[162]。 午前1時30分、「隼鷹」に米潜水艦レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の発射した魚雷が2本命中する[163]。「隼鷹」は浸水が拡大して傾斜し、便乗中の戦艦武蔵生存者を慌てさせた[164]。だが片舷機械で航行可能であり[165]、他艦と共に佐世保に帰投することが出来た[166][167]。 続いて潜水艦シーデビル (USS Seadevil, SS-400) と潜水艦プライス (USS Plaice, SS-390) が攻撃を行い[168]、シーデビルは0時28分に魚雷を4本発射して、それは戦艦か空母に命中したと判断された[169]。プライスは1時28分と31分に魚雷3本と4本をそれぞれ発射して、3本のうちの2本と4本のうちの2本の計4本が照月型駆逐艦に命中して撃破したと判断された[170]。いずれかの攻撃にせよ「槇」前部に魚雷1本が命中して艦首を喪失した[171]。戦死者4名[168]。午前10時、損傷した「槇」は長崎港に入港した[167]。調査の後、佐世保に帰投した[172]。
渋谷(当時、隼鷹艦長)の証言によれば「隼鷹の護衛は槇1隻だけで、槇艦長が「オレが引き受けてやる」と身を挺して魚雷を受けた」という[165]。 石塚(当時、少佐/槇駆逐艦長、海兵63期)の証言によると、回避運動を取るとその魚雷が「隼鷹」に向かってしまうため、回避運動をとらずにわざと艦首すれすれに魚雷を当てたともいう[173]。石塚は「航海長も『艦長、直進です』と直進を進言してくれた。航海長も私と同じ気持ち(護衛に任ずる者は捨て身の護衛をやる覚悟が大切)だったと思う」と回想している[174]。後藤英一郎(槇航海長)の証言によると、左前方から魚雷が接近したため右旋回をやめて直進したという[175]。「榛名」は『五島沖にて敵潜水艦の攻撃を受け、槇、轟沈』と発信した[176][注 21]。
太平洋戦争末期
[編集]「槇」は三菱長崎造船所で1945年(昭和20年)3月15日まで修理をおこなった[173]。またこの時大型水中聴音機も装備した。修理完了後は呉に回航された[8]。第五艦隊は前月5日に解隊されており[179]、第三十一戦隊は連合艦隊附属を経て、第二艦隊に編入されていた[180]。第二艦隊編入時の第三十一戦隊旗艦は秋月型駆逐艦「花月」であった[181][182]。
3月19日、米軍機動部隊艦上機による呉軍港空襲がおこなわれた[183]。この戦闘で43駆僚艦「竹」が機銃掃射で若干の被害を受けた[184]。 28日17時30分、第三十一戦隊(花月、槇、榧)をふくむ第一遊撃部隊[注 22]は佐世保回航のため呉を出撃したが、直後に回航は中止された[185][186]。翌29日、駆逐艦「響」が機雷で損傷、曳航されて呉に帰投した[187][188]。
4月5日夕刻、第一遊撃部隊の沖縄出撃が伝達され[189]、第三十一戦隊は出撃各艦に弾薬を移載した[190]。 6日15時20分の第一遊撃部隊徳山沖出撃では[191](大和特攻/坊ノ岬沖海戦)[192][124]、呉防備戦隊の各部隊や海防艦「志賀」等と協力し[193]、前路掃蕩隊[194](花月[195]、榧、槇)として豊後水道出口まで第一遊撃部隊に随伴した[196][注 23]。16時20分、伊藤中将より帰投命令があり、第三十一戦隊は引き返した[197]。第三十一戦隊は待機部隊に編入され、第十一水雷戦隊司令官の指揮下に入った[22][198]。
4月20日をもって第二艦隊や第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊附属になった[199]。 5月20日、軽巡「北上」(人間魚雷回天母艦)と駆逐艦「波風」および第三十一戦隊を基幹として海上挺進部隊が新編され、第43駆逐隊の「槇」も同挺進部隊所属となる[200]。出撃の機会はなく、瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごした[182]。 以後は瀬戸内海で数回の対空戦闘を行ったが無傷で、終戦時は呉に在泊していたとも[201]、3隻(竹、榧、槇)で山口県屋代島の日見海岸に疎開し[202]、そのまま終戦を迎えたともされる[203]。10月5日に除籍。12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。1947年(昭和22年)8月14日[204]、賠償艦としてシンガポールでイギリスに引渡された。その後、「槇」は解体された。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』364-365頁による。
艤装員長
[編集]駆逐艦長
[編集]- 石塚栄 少佐 1944年8月10日[39] -
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 後日、行動を共にする秋月型駆逐艦8番艦「冬月」も舞鶴で建造中だった[26]。
- ^ 同日(6月10日)[29]、松型4番艦「桃」も舞鶴で竣工した[28][30]。
- ^ 第十一水雷戦隊司令官は高間完少将[41]、海軍兵学校41期。十一水戦配備の軽巡洋艦「長良」が輸送作戦従事中の8月7日に撃沈されたため[42]、高間少将は引き続き駆逐艦「桑」を旗艦としていた[43]。8月30日に軽巡「多摩」が十一水戦に編入され[44]、「多摩」に将旗を掲げた[45]。
- ^ 第二遊撃部隊は8月1日に新編され、機動部隊に編入された[48]。第二遊撃部隊指揮官は第五艦隊司令長官志摩清英中将である[48]。8月1日時点の第二遊撃部隊兵力は、第五艦隊(第二十一戦隊〈那智、足柄、木曾、多摩〉、第一水雷戦隊〈軽巡阿武隈、第7駆逐隊(潮、曙)、第18駆逐隊(不知火、霞)〉、第21駆逐隊(8月5日付編入:若葉、初春、初霜) 〉 )、十一水戦(長良、清霜、松、梅、竹、桃、桑)、第61駆逐隊(初月、秋月、涼月、若月)、第二戦隊(9月10日付新編:扶桑、山城)[44]、第四航空戦隊(伊勢、日向)、第三航空戦隊の一部)[48]。十一水戦は入れ替わりが激しい[48]。
- ^ 第二遊撃部隊指揮官は第五艦隊司令長官志摩清英中将。第五艦隊の重巡洋艦(那智、足柄)や第一水雷戦隊で編成されていた。
- ^ 十一水戦司令官は旗艦を「多摩」から駆逐艦「檜」に移し、十一水戦の大部分と共に内地に残った[75]。
- ^ 第三十一戦隊の一部兵力は10月17日GF電令作第35号をもって機動部隊本隊出撃部隊に編入され、指定された5隻(五十鈴、槇、秋風、桐、桑)が機動部隊に加わった[77]。
- ^ 軍隊区分[15]:第一軍隊区分 主隊(三航戦、四航戦)、巡洋艦戦隊(多摩、五十鈴)、警戒隊/第一駆逐連隊(大淀、桑、槇、杉、桐)/第二駆逐連隊(初月、秋月、若月、霜月)、補給部隊(仁栄丸、たかね丸、秋風、海防艦4隻)|第二軍隊区分 主隊(三航戦、巡洋艦戦隊、第一駆逐連隊)、前衛(四航戦、第二駆逐連隊)。
- ^ 機動部隊の輪形陣は、第五群(瑞鶴、瑞鳳、伊勢、大淀、多摩、初月、秋月、若月、杉、桐)と、第六群(千代田、千歳、日向、五十鈴、霜月、槇、桑)にわかれていた[88]。
- ^ 五十鈴機密第251510番電(宛四航戦司令官)[108] 一 空襲ノタメ千代田ヲ曳航不能 本艦暫ク避退夜ヲ待チ救難ニ任ズルモ 状況悪ケレバ人員ヲ救助ノ上船体処分ス/二 本艦若干被爆セルモ戦闘航海ニ差支ナシ
- ^ (機動部隊本隊捷一号作戦戦闘詳報、昭和19年11月15日)[18]〔 槇 一罐室命中弾 一号罐及重油「タンク」一部破損 残リ一罐ニテ出シ得ル速力二〇節 重油「タンク」使用不能量約二〇〇トン 蒸気管破損ノ為揚錨機使用不能 発射管破損使用不能 〕
- ^ 秋月乗組員328名、生存145名、戦死183名(槇艦上で戦死した4名、伊勢で戦死した1名を含む)であった[16]。
- ^ 槇航海長の回想によれば、初月「クカヨクカ(駆逐艦長より駆逐艦長)、我レ艦載内火艇収容ノタメ引返ス」の手旗信号に、槇「ゴ武運ヲ祈ル」[117]。
- ^ 一部の二次資料では、11月9日に北九州を出発した南方輸送部隊「H部隊」の編成を、航空戦艦(日向、伊勢)、軽巡「五十鈴」、防空駆逐艦「霜月」、護衛駆逐艦5隻(梅、桃、槙、桑、杉)と記述する[134]。
- ^ 11月25日、第三十一戦隊旗艦の秋月型駆逐艦「霜月」が潜水艦に撃沈され[136]、第三十一戦隊司令部は全滅した[137]。後任の第三十一戦隊司令官は鶴岡信道少将であった[52]。
- ^ 隼鷹隊の第一回往路は4隻(木曾、夕月、卯月、秋風)に護衛されていたが[138]、11月3日に潜水艦ピンタドの雷撃で「秋風」が轟沈v、ボルネオ島で重巡「利根」が加わった[141]。マニラで第一水雷戦隊配備予定の「木曾」がはずされ[142]、帰路は駆逐艦「時雨」が追加された。
- ^ レイテ沖海戦後の再編で[145]、第三十一戦隊は11月20日付で第五艦隊の麾下となった[146]。
- ^ 石塚(槇艦長)によれば、マニラ進出後はレイテ島西岸オルモックへの強行輸送作戦「多号作戦」に投入されると思っていたが、隼鷹艦長が「槇」を贔屓にして護衛続行を要求したという[149]。
- ^ 「榛名」は11月22日に座礁して艦底に損傷をうけ[153]、高速航行と長期航海に不安を抱えていた[154]。シンガポールから馬公までの榛名護衛艦艇は[155]、駆逐艦「初霜」と「霞」であった[156]。
- ^ 護衛の「涼月」は艦隊速力が約18ノットで速すぎると感じ「黎明後に男女群島を通過するよう、速力を落とされてはいかが」と発光信号を「榛名」に送ったが、同艦(榛名艦長重永主計大佐)の反応はなかったという[161]。
- ^ 倉橋(当時の涼月砲術長)は「敵潜攻撃に向かった駆逐艦「松」は帰らなかったと聞く」と回想している[177]。同著1987年版では、この記述は削除されている[178]。
- ^ 指揮官は第二艦隊司令長官伊藤整一中将:戦艦大和(第一航空戦隊)、第二水雷戦隊(軽巡矢矧、第7駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊、第41駆逐隊)、第三十一戦隊(花月、榧、槇)。
- ^ 戦艦「大和」、二水戦旗艦「矢矧」、第17駆逐隊(磯風、雪風、浜風)、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)、第41駆逐隊(冬月、涼月)[197]。
出典
[編集]- ^ #S1902舞鎮日誌 p.49〔 十九(天候略)工廠工事 呂四六潜竣工受領/第五四八八號艦起工(略) 〕
- ^ #S1906舞鎮日誌 p.44〔 十(天候略)(略)其ノ他 五四八八號艦進水式 驅逐艦桃引渡 〕
- ^ #S1908舞鎮日誌 p.8〔 (a)新造艦船 槇 八月十日完成引渡ヲ了ス 〕
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.7
- ^ a b #達昭和19年6月 pp.3-4〔 達第百八十一號 昭和十八年度及昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦二隻及海防艦九隻ニ左ノ通命名ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 杉(スギ) 第三十六號海防艦 第四十號海防艦|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 槇(マキ) 第六十一號海防艦|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 樅(モミ) 伊號第三百七十二潜水艦|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第四百四潜水艦|日立造船所株式會社ニ於テ建造 海防艦 大東(ダイトウ) 〕
- ^ 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, p. 294日本海軍駆逐艦艦名一覧/Ⅱ二等駆逐艦
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- (123-125頁)『武人の本懐』<戦艦「日向」艦長・野村留吉少将の証言>(レイテ沖海戦時の日向艦長)
- (180-192頁)『暗夜の快挙』<駆逐艦「綾波」艦長・佐間英邇大佐の証言>(隼鷹護衛時の冬月艦長、大和特攻時の第43駆逐隊司令)
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- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9。
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- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』(光人社、1993年)ISBN 4-7698-0611-6
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- 松田源吾ほか『軽巡海戦史 駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後』潮書房光人社、2017年3月。ISBN 978-4-7698-1639-3。
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- (190-198頁)当時「五十鈴」艦長・海軍大佐松田源吾『防空巡「五十鈴」のエンガノ岬沖海戦 小沢オトリ艦隊とともに最後の決戦場に殴り込んだ艦長の回想』
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- (20-31頁)当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡』
- (32-58頁)当時「秋月」罐部四分隊士・海軍中尉山本平弥『防空駆「秋月」の死命を制した最後の一弾 秋月の沈没原因は敵潜の魚雷か直撃弾か。それとも発射管の誘爆か』
- (94-112頁)当時「秋月」乗組軍医長職務執行者・海軍軍医中尉国見寿彦『「秋月」軍医長 炎の海よりわれ帰還せり 初月若月と共にエンガノ沖に戦い沈没後は槇に救われた九死一生の体験』
- (283-297頁)当時艦政本部部員・海軍技術中佐遠山光一『マスプロ防空駆逐艦"松型"の誕生と背景 駆逐艦発達史の中に位置づけた丁型=松型十八隻と橘型十四隻の新機軸』
- (297-307頁)当時「桑」一番高角砲射手・海軍上等兵曹山本貢『小さな勇者「桑」オルモックに死すとも 瑞鳳直衛の比島沖海戦をへて七次多号作戦に果敢な砲戦を演じた勇者の最後』
- (332-338頁)戦史研究家伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ 松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争』
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