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* 初出場:1998年10月1日、対[[広島東洋カープ]]25回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、6回裏に[[柳沢裕一]]に代わり[[捕手]]で出場
* 初出場:1998年10月1日、対[[広島東洋カープ]]25回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、6回裏に[[柳沢裕一]]に代わり[[捕手]]で出場
* 初打席:同上、7回表に[[佐々岡真司]]から三邪飛
* 初打席:同上、7回表に[[佐々岡真司]]から三邪飛
* 初先発出場:1998年10月3日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、8番・捕手で先発出場
* 初先発出場:1998年10月2日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、8番・捕手で先発出場
* 初安打:1999年4月9日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]1回戦([[横浜スタジアム]])、5回表に[[福盛和男]]から中前安打
* 初安打:1999年4月9日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]1回戦([[横浜スタジアム]])、5回表に[[福盛和男]]から中前安打
* 初打点:1999年10月10日、対横浜ベイスターズ27回戦(横浜スタジアム)、5回表に[[戸叶尚]]から中前同点2点適時打
* 初打点:1999年10月10日、対横浜ベイスターズ27回戦(横浜スタジアム)、5回表に[[戸叶尚]]から中前同点2点適時打

2013年10月24日 (木) 00:26時点における版

小田 幸平
中日ドラゴンズ #52
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県高砂市
生年月日 (1977-03-15) 1977年3月15日(47歳)
身長
体重
180 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1997年 ドラフト4位
初出場 1998年10月1日
年俸 3,600万円(2013年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

小田 幸平(おだ こうへい、1977年3月15日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手捕手)。

愛称はODA(オーディーエー)[1]など。

来歴

プロ入り前

兵庫・市川高校では甲子園に出場することはなく、卒業後は社会人野球三菱重工神戸でプレーする。

1997年のドラフト読売ジャイアンツから4位指名を受けて、入団。

巨人時代

守備は即戦力級であり、ルーキーイヤーの1998年から毎年一軍での出場機会を得る。しかし打撃に難があり、3番手以降の捕手という評価に止まり、一軍で定着出来ないシーズンがしばらく続く。

1999年は、開幕一軍だったが、開幕直後の横浜戦で村田真一の負傷退場に伴い守備に就いたものの、先発ガルベスが最大9点あった点差をひっくり返されて逆転負けした責任を取らされ即二軍落ちとなり、10月まで昇格できなかった。

2004年、プロ7年目で初本塁打を放った。課題であった打撃に成長が見られたこの年以降、出場機会が増えていく。

2005年には、正捕手の阿部慎之助、2番手であった村田善則に次ぐ巨人の3番手捕手として出場することが多かった。結果、巨人在籍時で最多となる31試合に出場した。

12月13日FAで巨人に移籍した野口茂樹の人的補償として、中日ドラゴンズに移籍。

中日時代

2006年、移籍して間もなく正捕手である谷繁元信WBCへの出場で戦列を離れたため、オープン戦ではほぼスタメンで出場。打撃はともかく、守備とリードがとても良いと評価された。シーズンが開幕すると谷繁の体力の衰えや打撃面での極度の不調などもあり、主に移動後での1戦目や交流戦などで先発起用された。また、山本昌との相性の良さから、同投手の先発時はスタメンで起用されることが多かった。結果、2番手捕手として一軍に定着し、谷繁の後継者として期待される存在となる。

11月の契約更改では1300万円増の3600万円でサインした。本人は満足できる数字を残したシーズンではなかったが、谷繁の控え捕手として働いたことやムードメーカーとしてベンチからチームを盛り上げたことが高く評価された。

2007年、背番号が40から26へと変更される。これについて落合監督は「26を小田、28を(ドラフト希望枠で入団した)田中大輔に付けさせ、26、27(谷繁)、28で正捕手を争えばいい」と話していた。シーズンでの起用形態は前年とほぼ同じだが、山本昌の不調もあり、出場機会は若干減少した。

同年オフに視力矯正のためにレーシック手術を受け、視力が回復したことにより以後は眼鏡なしでのプレーとなる。

2008年、付けていた背番号26を大学・社会人ドラフト1巡目で名城大学から入団した山内壮馬が付けることになり、背番号が28に変更された。

シーズン当初は控えだったが、5月に谷繁が故障で離脱すると先発マスクを被ることが増えた。しかし、谷繁以上の信頼を得ることはできず、山本昌とのバッテリーも谷繁に奪われてしまい、チャンスを活かせず、課題が残る結果に終わった。それでも、移籍後最多となる41試合に出場し、オフの契約更改では増額を得た。

しかし、秋季キャンプでは両足痛で途中離脱。更に、背番号28をドラフト5巡目で明治大学から入団した岩田慎司が付けることになり、52に変更され、中日に移籍してから4年連続で背番号を変更することとなった。

2009年は、シーズン開始直後に谷繁が怪我で離脱し、先発マスクの機会を得るが、4月18日の試合で逆転負けを喫した際に、落合監督からリードの悪さを指摘され[2]、その翌日以降、前年に日本ハムから自由契約で移籍してきた小山桂司に先発マスクを譲ることとなる。谷繁が復帰するまでは主に岩瀬仁紀が登板する際に出場するなど終盤の守備固めでの出場が多かったが、谷繁の一軍復帰と同時に二軍落ちすることとなった。すぐに復帰したが、程なくして再び二軍落ちした(その後、7月31日に一軍復帰)。勝負どころでの度重なるバントの失敗、また打率が.050を切るなど、打撃面での弱さも仇となって、終盤の守備交代時の起用が多くなった。

2010年は、中日移籍後初めて同じ背番号を2年連続で付けることになった。新人の松井雅人が第3捕手として開幕一軍を果たしたため、開幕を二軍で迎えることとなった。しかし、6月18日に谷繁の怪我もあってようやく一軍昇格。以降は先発レギュラーとなり、谷繁の復帰後は併用されるようになった。7月16日から20日にかけてのチームの5試合連続完封に貢献。5試合のうち2試合で先発出場し、16日は2年ぶりのマルチヒット、19日は決勝の3点適時二塁打を放つなど、少ない打席ではあるが、打率.274の成績を残し、チームの優勝に貢献した。10月23日のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第4戦の4回にも、試合の均衡を破る先制2点適時二塁打を放っている[3]。内角を果敢に突く一方で死球も多く、8月20日ナゴヤドームのヤクルト戦ではリーグ最多タイの5死球を与えている。試合は相手投手館山の無四死球完封により、本拠地13連勝を逃す結果となった。

2011年は、キャンプで足首を痛めたため(後に一時実戦復帰するも体調不良で再び離脱)、開幕を二軍で迎えることとなった。しかし、6月29日に一軍昇格。その後は小山桂司と併用されている。7月5日の対阪神戦ではプロ入り初となるサヨナラヒットを放った。この年に加入した投手であるエンジェルベルト・ソトが先発する際には、小田がスタメンマスクを被る。オフに国内移籍が可能なFA権を初めて取得したが、残留を決めた。会見では「(球団に)残って欲しいと言われたのと、まだひつまぶしと味噌煮込みうどんを食べたい。あとブランコから焼き肉を食べようと言われたので」とジョークで笑わせたが、実際には悩みに悩み抜いての残留だった。

2012年福田永将田中大輔等の若手捕手の台頭もあって出場機会を減らしたが、引き続き第2捕手としての存在感は示した。しかし、前年とは打って変わって球団と揉め、「別に(来年)おらんでもええんじゃないかという話し方だった。来年残ってほしいなら、そういう言葉や評価があるはず」と怒り、FA移籍を示唆する発言をしたが、球団が態度を改め残留。 2013年8月28日神宮でクラーク、高橋周平に続いてホームランを打ち、2004年以来9年ぶりの一発となった

プレースタイル

内角を大胆に突くリードやブロックの良さに定評がある捕手。

最近は、打撃も向上しており2010年は打率・打点共に自己記録を更新した。

人物

サインを書くときは自身のトレードマークである眼鏡のマークを左側に必ず入れている。また、眼鏡を掛けたトボけた風貌と鉄砲肩が売り物だったことから、巨人入団時は「古田二世」の異名をとり、即戦力として期待された。

妻はフリーアナウンサー石井江奈。彼女との間に一男をもうけている。現在は家族を東京に残しての単身赴任となっている。

とても陽気な性格ということもあってか、試合前には選手たちを笑わせてリラックスさせることなどに徹している。また監督コーチ・チームメイトからの信頼も厚い。川上憲伸は自身のブログでこのことに触れている。2006年のセ・リーグ優勝のビールかけの時にはセーラー服にヅラを被るという奇抜な格好で登場した。本人曰く、桜塚やっくんの物真似だという[4]。さらに翌2007年の日本シリーズ制覇の際も白いドレスにヅラという女装で現れた。これはIKKOの物真似であったというが、あまりにも似ていなかった。ただ巨人、中日両球団のチームメイトからはいじられキャラと位置付けられており、テレビ番組のインタビューに応じていると「幸平にカメラは勿体ない」などと野次られる。

一般的なタブロイド誌やバラエティを通した野球視聴者には清原和博を中心に元木大介福井敬治などとともに「清原軍団舎弟その3」もしくは「清原一派の”子分”その2」などといった“配役”を当てられている「おとぼけ顔」のキャッチャーである。実像は岡島秀樹とともに、大先輩の桑田真澄の自主トレに毎年必ず同行している選手であり、自身研究熱心な桑田が打者研究の熱心さに舌を巻き、巨人・中日両球団で同僚であった川相昌弘が守備を絶賛した選手である。2012年には阿部ら巨人選手のハワイ自主トレに参加している様子がズームイン!!サタデーで取り上げられた。

中日に移籍する際に、監督である落合博満は「なぜ彼がプロテクトされなかったのか不思議だ。彼ほどの選手をドラフトで取ろうとすれば、1億円の契約金が必要だ」、「人的補償で残っているとは思わなかった。これが最大の補強だ」と獲得を即決したとコメントしている。

基本的には打撃は期待されておらず、試合前に首脳陣から「打撃練習せんでいい」と言われたこともあった。リードではレギュラー捕手の谷繁が相手の弱点をつくリードをするのに対して、小田はピッチャーのいい部分を引き出すリードをする。2010年シーズンは本人曰く「意識の持ち様を変えた」事で打撃での好調ぶりを発揮した。

中日移籍後からは、一時期ナゴヤドームで打席に入った際に長渕剛の『CLOSE YOUR EYES』が流れた。ビジターでは私設応援団がトランペットでこの曲を演奏した。ファンが掛け声を交えながら「O, D, A」の三文字を両手を使って表現する応援スタイルが定着した。長渕剛ファンで、コンサートでは清原和博に連れられて長渕の楽屋を訪れたこともある。『CLOSE~』の使用許可は長渕本人から承諾を得ていた。なお2009年以降はTUBEの「ロケットハナビ」を、2010年途中からは矢沢永吉の「SOMEBODY`S NIGHT]使用している。

2010年7月19日のヒーローインタビューで元々は中部日本放送佐藤幹朗アナウンサー(元槍投げ選手)が、東海地方のローカル番組「サンデードラゴンズ」で使っていたセリフ「やリましたーっ!!」と何度も絶叫。その後もヒーローインタビューを受けるたびにしつこく連発したため監督から「相手チームを刺激する」と苦言を呈され、しばらく封印していたが、その後しばらく他の選手もヒーローインタビューで「やリましたーっ!!」とコメントしたり、優勝祝賀会で選手会長の森野将彦が使う、優勝記念グッズとしてタオルやTシャツなどが発売されるなどした。なお2010年クライマックスシリーズファイナルステージ終了後にも小田が試合終了後に観客とともに「やリましたーっ!!」と叫んだ。なお本人はやれとは全く言ってないようで(サンデードラゴンズより)、後にお立ち台で「今日はやりました!!」と絶叫した浅尾拓也は「和田さんにやれと言われた」と発言している(月刊ドラゴンズより)。また、2010年10月20日に開催された優勝報告会でも、和田一浩の勧めから万歳三唱の前にも叫んでいる。

2011年7月5日のサヨナラ勝ちの際にもヒーローインタビューで2回、1回目は衝動を抑えきれずアナウンサーからマイクを奪い、2回目はアナウンサーからマイクを渡されて「やリましたーっ!!」と叫んでいる。また、リーグ連覇したこの年のビールかけでも森野が前年に引き続き「やりましたーっ!!」の掛け声でスタートさせた。同年12月6日には、サンデードラゴンズの企画の一環として名古屋競馬場で「小田幸平やりましたーっ!!特別」を個人協賛競走として実施し、自らも表彰式に駆けつけた[5]

2011年末から2012年始にかけて、中日スポーツとのタイアップ企画として、よりファンに喜んでもらえるように「やりましたーっ!!」と同時にできる決め台詞を募集した。118通のアイデアの中から小田が選んだのは「でら、うれしいがや!」。まずは掴みとして「でら、うれしいがや!」と叫び、続いて「スリー、ツー、ワン!やりましたーっ!!」という段取りになり[6]、実際に9月6日の対広島戦(ナゴヤドーム)でのヒーローインタビューで披露した。

ベンチに待機している状態でチームがサヨナラ勝ちになった時は、真っ先にサヨナラ打を打った選手に駆け寄ると同時に、事前に用意した水を選手に頭から浴びせる。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1998 巨人 2 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1999 5 12 12 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .167 .167 .167 .333
2000 2 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2001 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2002 7 7 5 1 2 1 1 0 5 3 0 0 1 0 0 0 1 1 0 .400 .500 1.000 1.500
2003 11 14 13 2 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 4 0 .077 .077 .077 .154
2004 24 67 62 6 16 3 0 1 22 6 0 0 2 0 2 1 1 12 2 .258 .292 .355 .647
2005 31 66 62 4 13 2 0 0 15 5 0 1 3 0 0 0 1 17 1 .210 .222 .242 .464
2006 中日 33 42 38 1 6 3 0 0 9 2 0 0 3 0 1 0 0 13 2 .158 .179 .237 .416
2007 27 42 36 1 7 1 0 0 8 1 0 0 3 1 1 1 1 8 0 .194 .231 .222 .453
2008 41 71 64 2 12 1 0 0 13 4 0 0 2 1 4 2 0 12 2 .188 .232 .203 .435
2009 24 27 24 0 1 0 0 0 1 1 0 0 1 1 1 0 0 6 1 .042 .077 .042 .119
2010 37 95 84 5 23 8 0 0 31 11 0 0 2 2 6 4 1 14 1 .274 .323 .369 .692
2011 40 69 61 0 10 0 0 0 10 4 0 0 3 0 5 1 0 15 1 .164 .227 .164 .391
2012 35 54 48 2 13 2 0 0 15 4 0 0 4 0 2 1 0 12 0 .271 .300 .313 .613
通算:15年 323 573 516 24 106 21 1 1 132 43 0 1 25 5 22 10 5 119 10 .205 .243 .256 .499
  • 2012年度シーズン終了時

年度別守備成績


捕手
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1998 2 6 1 1 0 0 .875 1 1 0 .000
1999 5 30 3 0 1 2 1.000 6 5 1 .167
2000 2 11 0 0 0 0 1.000 1 1 0 .000
2001 4 2 1 0 0 0 1.000 2 1 1 .500
2002 6 16 1 1 0 0 .944 2 1 1 .500
2003 11 34 6 0 2 1 1.000 4 2 2 .500
2004 23 146 12 2 1 2 .988 15 10 5 .333
2005 27 116 8 3 1 0 .976 7 4 3 .429
2006 32 94 9 1 2 3 .990 9 6 3 .333
2007 26 107 7 1 0 0 .991 10 6 4 .400
2008 41 179 19 2 3 1 .990 13 6 7 .538
2009 24 70 5 0 0 1 1.000
2010 36 196 12 2 2 1 .990
2011 40 169 17 2 2 0 .989
2012 35 110 13 2 2 3 .984
通算 290 1216 109 17 16 13 .987 70 43 27 .386

記録

背番号

  • 46 (1998年 - 2005年)
  • 40 (2006年)
  • 26 (2007年)
  • 28 (2008年)
  • 52 (2009年 - )

登場曲

脚注

  1. ^ 中日の私設応援団から呼ばれているもので中日スポーツでも紹介されていた。また、ベンチ内のメンバーを記入するホワイトボードにも「ODA」と書かれている
  2. ^ 落合監督はこの敗戦のコメントについて、「明日のスタメンを見れば分かるよ」と言い、その日のオーダーに小田が外されていた。
  3. ^ 「大一番もやりました〜小田 先制打」日刊スポーツ・大阪版 2010年10月24日付 6版 3面
  4. ^ 2006年10月21日ズームイン!!サタデーより
  5. ^ 東京中日スポーツ・2011年12月7日付 2面
  6. ^ 中日スポーツ 2012年2月28日付

関連項目