「インディアン」の版間の差分

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先住民の食文化のうち、[[ペミカン]]、[[サコタッシュ]]([[:en:Succotash|Succotash]])、「揚げパン([[フライブレッド]])」([[:en:Frybread|Frybread]])などは今日でもよく知られており、米国の食文化に取り込まれたものもある。
先住民の食文化のうち、[[ペミカン]]、[[サコタッシュ]]([[:en:Succotash|Succotash]])、「揚げパン([[フライブレッド]])」([[:en:Frybread|Frybread]])などは今日でもよく知られており、米国の食文化に取り込まれたものもある。


全部族によく見受けられるが、毛髪を神聖なものとして非常に大事にすることで知られ写真に納まっているインディアンの毛髪は非常に美しい。これに習い、インディアンを登場させる映画は老人も毛髪豊かな人物として描かれている。近年都市に住むシティ・インディアンはそういった習俗が廃れてきて薄毛が増加しているものの、近年は復活してきている。
先住民文化によく見られることだが、インディアンも全部族が毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にすることで知られる。写真に納まっているインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、白人がインディアンを登場させる映画などは老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、後述の三つ編み方式を知らずに、ヘアバンドで鷲の羽根を立てて描いたものが非常に多い。近年都市に住むシティ・インディアンはそういった習俗が廃れてきて薄毛が増加しているものの、近年は長髪が復活してきている。[[AIM]]が創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーとして髪の毛を伸ばし始めたのである。これは[[ヒッピー]]文化にも影響を与えた


平原部では戦士が髪を三つ編みにするのは母親か妻の役目であり、彼女らはひと編みごとに祝詞をあげる。三つ編みは顔の両脇に二本、そして後頭部にもう一本編まれ、この後頭部の三つ編みに鷲の精神を憑依させるべくその羽根が編み込まれ、頭に鷲の羽根を立てた、有名な平原のスタイルが完成する。
米国の重要な作物である[[トウモロコシ]]、[[カボチャ]]や[[ウリ]]、[[インゲンマメ]]、[[タバコ]]は先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着[[アノラック]]やパーカは[[北極圏]]のイヌイットや[[エスキモー]]の防寒着を元にしており、[[カヤック]]や[[カヌー]]は現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食料ペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。[[ラクロス]]は北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。

19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照)

いわゆる「モヒカン刈り」スタイルは、17世紀に北東部の[[アルゴンキン語族]]の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように、頭の側面を剃っていたものである。

米国の重要な作物である[[トウモロコシ]]、[[カボチャ]]や[[ウリ]]、[[インゲンマメ]]、[[タバコ]]、[[トウガラシ]]は先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着[[アノラック]]やパーカは[[北極圏]]のイヌイットや[[エスキモー]]の防寒着を元にしており、[[カヤック]]や[[カヌー]]は現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食料ペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。[[ラクロス]]は北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。


メキシコと、国境付近の一部の部族を除けば、インディアンには酒造の文化が無く、飲酒をコントロールすることが出来ない。このため、彼らには飲酒のペースといったものが無く、一壜あれば、一壜を一気に飲み干して泥酔してしまう。かつて白人が、彼らと不平等な条約を結ぶ際、多量の[[ウィスキー]]を持ち込んだことはよく知られた事実である。こうした人々が[[保留地]]で自活の道を絶たれ、[[アルコール依存症]]となるのは、[[エスキモー]]や[[アボリジニ]]など他国の先住民にも見られる問題である。完全禁酒を掲げる部族自治区も多い。
メキシコと、国境付近の一部の部族を除けば、インディアンには酒造の文化が無く、飲酒をコントロールすることが出来ない。このため、彼らには飲酒のペースといったものが無く、一壜あれば、一壜を一気に飲み干して泥酔してしまう。かつて白人が、彼らと不平等な条約を結ぶ際、多量の[[ウィスキー]]を持ち込んだことはよく知られた事実である。こうした人々が[[保留地]]で自活の道を絶たれ、[[アルコール依存症]]となるのは、[[エスキモー]]や[[アボリジニ]]など他国の先住民にも見られる問題である。完全禁酒を掲げる部族自治区も多い。
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先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。しかし自然崇拝を行う・独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな[[自然]]との調和を重視する精神性に対する評価は、近年の[[アウトドア]]や[[エコロジー]]のブームにのって見直される例も多く、様々な文化媒体に登場する事もあり、これに注目する人も少なからず存在する。
先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。しかし自然崇拝を行う・独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな[[自然]]との調和を重視する精神性に対する評価は、近年の[[アウトドア]]や[[エコロジー]]のブームにのって見直される例も多く、様々な文化媒体に登場する事もあり、これに注目する人も少なからず存在する。


アメリカ社会において「'''勝者による個人占有'''」は、「[[アメリカン・ドリーム]]」などと呼ばれ美徳とされるが、インディアン社会においては、この100年余り、同化政策で白人的思想が押し付けられたにも関わらず、「'''部族による共有'''」を美徳とする「共同体思想」はなおも根強い。「個人所有」という概念は希薄であり、インディアンで大企業家や資本家となった例は極めて少ない
アメリカ社会において「'''勝者による個人占有'''」は、「[[アメリカン・ドリーム]]」などと呼ばれ美徳とされるが、インディアン社会においては、この100年余り、同化政策で白人的思想が押し付けられたにも関わらず、「'''部族による共有'''」を美徳とする「共同体思想」はなおも根強い。「個人所有」という概念は希薄であり、インディアンで大企業家や資本家となった例は極めて稀である


インディアン社会のほとんどは[[母系社会]]であり、[[氏族]]社会である。白人と混血があったとして、母方の血統がインディアンであれば、その子はインディアンとなる。「'''クラン・マザー'''」と呼ばれる女性首長を頂く部族は多い。また、「'''養子制度'''」も根強い。アメリカでは、その子の人種にこだわらず、孤児を引き取るインディアン家庭の例は非常に多い。問題になるのは、その子供が部族内でのどの氏族に属するか、ということである。[[クリーク族|ムスコギー族]]などはかつて、部族に縁組した白人のために、「白いジャガイモ」という氏族を新設したほどである。
インディアン社会のほとんどは[[母系社会]]であり、[[氏族]]社会である。白人と混血があったとして、母方の血統がインディアンであれば、その子はインディアンとなる。「'''クラン・マザー'''」と呼ばれる女性首長を頂く部族は多い。また、「'''養子制度'''」も根強い。アメリカでは、その子の人種にこだわらず、孤児を引き取るインディアン家庭の例は非常に多い。問題になるのは、その子供が部族内でのどの氏族に属するか、ということである。[[クリーク族|ムスコギー族]]などはかつて、部族に縁組した白人のために、「白いジャガイモ」という氏族を新設したほどである。
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[[アパッチ族]]は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、[[ナバホ族]]は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。[[ホピ族]]と[[ズニ]]族は[[カチーナ]]という精霊群を信仰する。クラン([[氏族]])を中心とし、いずれも仮面行事である。
[[アパッチ族]]は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、[[ナバホ族]]は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。[[ホピ族]]と[[ズニ]]族は[[カチーナ]]という精霊群を信仰する。クラン([[氏族]])を中心とし、いずれも仮面行事である。

プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。ナバホ族(南西部では歴史的には新参者である)の神話は、プエブロ族のものの「借り物」であるとされる。


生まれたときに祖父から与えられる守護動物のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。
生まれたときに祖父から与えられる守護動物のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。
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[[ニューメキシコ州]]では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされた[[カトリック教会|カトリック]]と先住民の宗教の習合がよく見られる。
[[ニューメキシコ州]]では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされた[[カトリック教会|カトリック]]と先住民の宗教の習合がよく見られる。
この背景には、かつてキリスト教のみを強制して[[プエブロの反乱]]となったことを踏まえ、宣教師達が部族民の古来の信仰に対して妥協したことがある。文化学者[[マチルダ・スチーブンソン]]はこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」
この背景には、かつてキリスト教のみを強制して[[プエブロの反乱]]となったことを踏まえ、宣教師達が部族民の古来の信仰に対して妥協したことがある。文化学者[[マチルダ・スチーブンソン]]はこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」

特定の[[守護聖人]]を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族の[[ドラム]]演奏、詠唱、および舞踊は、[[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]の[[聖フランシス大聖堂]]での定期的な[[ミサ]]の一部ともなっている<ref>[http://www.csp.org/communities/docs/fikes-nac_history.html A Brief History of the Native American Church] by Jay Fikes. URL accessed on February 22, 2006.</ref>。
特定の[[守護聖人]]を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族の[[ドラム]]演奏、詠唱、および舞踊は、[[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]の[[聖フランシス大聖堂]]での定期的な[[ミサ]]の一部ともなっている<ref>[http://www.csp.org/communities/docs/fikes-nac_history.html A Brief History of the Native American Church] by Jay Fikes. URL accessed on February 22, 2006.</ref>。


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クラン([[氏族]])を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。[[人身御供]]の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、パワーを得るものとして宗教的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。
クラン([[氏族]])を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。[[人身御供]]の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、パワーを得るものとして宗教的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。


フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えば[[ニューヨーク州]]にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深い[[フォンダ]]([[:en:Fonda, New York|Fonda]])の[[カテリ・テカクウィサ]]([[:en:Kateri Tekakwitha|Kateri Tekakwitha]])教会や[[オーリーズヴィル]]([[:en:Auriesville, New York|Auriesville]])の北米殉職者教会(National Shrine of the North American Martyrs)がある。
彼らの神話・英雄譚には、[[ヴィンランド]]に入植した[[ヴァイキング]]の、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えば[[ニューヨーク州]]にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深い[[フォンダ]]([[:en:Fonda, New York|Fonda]])の[[カテリ・テカクウィサ]]([[:en:Kateri Tekakwitha|Kateri Tekakwitha]])教会や[[オーリーズヴィル]]([[:en:Auriesville, New York|Auriesville]])の北米殉職者教会(National Shrine of the North American Martyrs)がある。


イギリス人が植民を行った地域では、[[ピルグリム・ファーザーズ]]と接触した[[ワンパノアグ]]族のように[[プロテスタント]]に改宗した部族もあった。[[17世紀]]の[[ニューイングランド]]では、改宗した先住民は「プレイング・インディアン」([[:en:Praying Indian|Praying Indian]]、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。[[フィリップ王戦争]]が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後に[[ボストン湾]]に浮かぶ[[ディア島]]に抑留された。[[アイビー・リーグ]]の一つである[[ダートマス大学]]は、インディアンを教化する目的で[[モヒーガン]]族の牧師[[サムソン・オッカム]]らの出資により[[1769年]]に創立された。
イギリス人が植民を行った地域では、[[ピルグリム・ファーザーズ]]と接触した[[ワンパノアグ]]族のように[[プロテスタント]]に改宗した部族もあった。[[17世紀]]の[[ニューイングランド]]では、改宗した先住民は「プレイング・インディアン」([[:en:Praying Indian|Praying Indian]]、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。[[フィリップ王戦争]]が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後に[[ボストン湾]]に浮かぶ[[ディア島]]に抑留された。[[アイビー・リーグ]]の一つである[[ダートマス大学]]は、インディアンを教化する目的で[[モヒーガン]]族の牧師[[サムソン・オッカム]]らの出資により[[1769年]]に創立された。
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女性[[シャーマン]]の習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。
女性[[シャーマン]]の習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。


カナダ側のブリティッシュ・コロンビアは、氏族と守護動物の象徴[[トーテム・ポール]]の風習を持つ。また、仮面行事を行う。
カナダ側のブリティッシュ・コロンビアは、氏族と守護動物の象徴[[トーテム・ポール]]の風習を持つ。また、仮面行事を行う。「贈与の儀式」([[ポトラッチ]])でも知られる


=== 西海岸での宗教 ===
=== 西海岸での宗教 ===
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サンダンスでピアッシングの誓いを立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。スー族の呪い師ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の“祖父”である」と述べている。かつて白人によってピアッシングの苦行は野蛮な行為として弾圧を受けたが、[[レッド・パワー]]とともに[[スー族]]の伝統派によって全米に広められた。
サンダンスでピアッシングの誓いを立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。スー族の呪い師ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の“祖父”である」と述べている。かつて白人によってピアッシングの苦行は野蛮な行為として弾圧を受けたが、[[レッド・パワー]]とともに[[スー族]]の伝統派によって全米に広められた。


物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜独りで「ヴィジョン・クエスト」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う[[スエット・ロッジ]]の儀式と併せてますます盛んである。
物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「幻視を得る儀式([[ヴィジョン・クエスト]])」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋([[スエット・ロッジ]])」の儀式と併せてますます盛んである。


人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあった[[ポーニー族]]や[[オーセージ族]]は、例外的に収穫祈念のため[[人身御供]]を行った。生贄には他部族の男女が使われた。
人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあった[[ポーニー族]]や[[オーセージ族]]は、例外的に収穫祈念のため[[人身御供]]を行った。生贄には他部族の男女が使われた。
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平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。[[マンダン]]族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの風習は、キリスト教の強制もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物に売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。
平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。[[マンダン]]族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの風習は、キリスト教の強制もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物に売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。


男子が装う羽根冠や化粧は、本来儀式での正装であって、天上の大精霊にしっかりと自分を見知ってもらうためのものであり、戦いのためのものではない。羽根冠を白人が「ウォー・ボンネット」と呼ぶのは誤りである。
男子が装う羽根冠や化粧は、本来儀式での正装であって、天上の大精霊にしっかりと自分を見知ってもらうためのものであり、戦いのためのものではない。羽根冠や化粧を白人が「ウォー・ボンネット」とか「ウォー・ペイント」と呼ぶのは誤りである。


=== 南東部での宗教 ===
=== 南東部での宗教 ===
クラン([[氏族]])を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。[[クリーク族|ムスコギー族]]や[[セミノール]]族は、地元で採れる[[ヤポンノキ]](Yaupon、''[[:en:Ilex vomitoria|Ilex vomitoria]]'')の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄[[オセオーラ]]の名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。
クラン([[氏族]])を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。[[クリーク族|ムスコギー族]]や[[セミノール]]族は、地元で採れる[[ヤポンノキ]](Yaupon、''[[:en:Ilex vomitoria|Ilex vomitoria]]'')の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄[[オセオーラ]]の名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。


[[アタカパ]]族や[[カランカワ]]族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、「人食い人種」と誤解された。[[ナチェズ]]族など、一部の部族は[[ピラミッド]]型の神殿を建造していた。
[[アタカパ]]族や[[カランカワ]]族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、「人食い人種」と誤解された。

大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「[[マウント・ビルダー]]」と呼ばれた部族群が、数100㍍もある動物を象った、無数の土塁・塚を建造している。その直系である[[ナチェズ]]族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、[[インカ]]や[[マヤ]]のように太陽神を頂き、都市を築いて[[ピラミッド]]型の神殿をいくつも建造していた。「神官・僧侶」の社会階級を持っていたのは北米でナッチェズ族だけである。


=== ゴースト・ダンス ===
=== ゴースト・ダンス ===
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* [[1985年]]:オーロネ族の「'''部族の共同墓地破壊に対する抗議'''」
* [[1985年]]:オーロネ族の「'''部族の共同墓地破壊に対する抗議'''」
: サンフランシスコのベイエリアにある、「ミッション・インディアン」のムウェクマ・[[オーロネ族]]の先祖代々の墓地が破壊され、ショッピング・センターの建設工事が行われたことに対する抗議。オーロネ族は「'''絶滅部族'''」であるからこれは「遺跡の発掘」なのであり、「墓暴き」には当たらない、というのが白人側の言い分である。女性首長[[ローズマリー・ギャンブラ]]は怒りのあまり、発掘現場で人類学者ウィリアム・ループをシャベルで殴り傷を負わせて逮捕され、看護士資格を剥奪されて職を失った。1万体のオーロネ族の骨は部族の猛抗議を無視して[[カリフォルニア大学バークレー校]]のハースト人類学博物館のインディアン遺骨コレクションに加えられた。遺骨返還を巡っては、現在も係争中である。
: サンフランシスコのベイエリアにある、「ミッション・インディアン」のムウェクマ・[[オーロネ族]]の先祖代々の墓地が破壊され、ショッピング・センターの建設工事が行われたことに対する抗議。オーロネ族は「'''絶滅部族'''」であるからこれは「遺跡の発掘」なのであり、「墓暴き」には当たらない、というのが白人側の言い分である。女性首長[[ローズマリー・ギャンブラ]]は怒りのあまり、TVが生中継するなか発掘現場で人類学者ウィリアム・ループをシャベルで殴り傷を負わせて逮捕され、看護士資格を剥奪されて夫と職を失った。1万体のオーロネ族の骨は部族の猛抗議を無視して[[カリフォルニア大学バークレー校]]のハースト人類学博物館のインディアン遺骨コレクションに加えられた。遺骨返還を巡っては、現在も係争中である。


* [[1990年]]7月11日:モホーク族による「'''オカの衝突'''」([[:en:Oka Crisis]])
* [[1990年]]7月11日:モホーク族による「'''オカの衝突'''」([[:en:Oka Crisis]])

2008年6月9日 (月) 14:47時点における版

アシニボイン族の男性
ズニ族の女性

インディアン (Indian) は、アメリカ先住民の大半を占める主要グループ。アメリカ州先住民は、文化・言語・歴史・身体的特徴などから、インディアンとエスキモー・アレウトエスキモーアレウト人)に大きく分けられる。

スペイン語ポルトガル語ではインディオ (Indio)。多くの国では、インディアンとインディオの違いは翻訳に過ぎないとみなされているが、日本では、北米アメリカ合衆国カナダ)の諸民族をインディアン、中南米の諸民族をインディオと呼び分けることが多い。ここでも主にその範囲で述べる。

呼称

英語のインディアンは元来インド人の意味である。歴史的な文脈では、旧イギリス領インド全域や東南アジアの住民を含むこともある。

クリストファー・コロンブスカリブ諸島に到達した時に、インド周辺の島々であると誤認し、その地の先住民をインディオス(インド人の意)と呼んだことから、アメリカ先住民(の大半)をインディアンと呼ぶようになった(ただしコロンブスの言うインドは、現在および当時のインドと同一ではなく、漠然と中国・日本以外の東アジアの事をインドとみなしていた)。インド人を他者が明確に示す場合はイースト・インディアン (East Indian) などといい、アメリカ先住民を他者が明確に示す場合は、アメリカン・インディアン (American Indian) などという。おもに平原部族が正装の際に、顔や上半身を赤く塗装したことから、レッド・マン(Red Man)という呼称もあり、彼ら自身も使用している。イギリスではレッド・インディアン (Red Indian) と呼ぶことがあるが、この語は差別的とみなされることが多い。また、アメリカにおいては「インジャン」と発音するのは「ニガー」などと同様の蔑称である。

人類学言語学では、アメリンド (Amerind) と呼ぶこともある。ただしこの語は厳密には、アメリカン・インディアンのうち、起源が異なるという説があるナ・デネナヴァホなど)を除いたグループに対する呼称である。

他にFirst NationsFirst PeoplesIndigenous Peoples of AmericaAboriginal PeoplesAboriginal AmericansAmerindiansNative Canadiansなどの呼称があるが、これらの中には定義が不明確なものも多い。近年メディアにおいて最も使用されるのは Native Americans である。

呼び替え

近年、「インディアン」という呼称について差別を助長するという理由から、ネイティブ・アメリカン(Native American)と呼び替える動きが進んでいるが、これら「アメリカ」を含む単語はアメリカ合衆国内の先住民のみを指す場合もある。ネイティブ・アメリカンという呼称はインド人(Indian)を祖先に持つインド系アメリカ人(Indian American)と区別するために、人類学者が作った造語である。アメリカ先住民の活動家、ラッセル・ミーンズ(Russell Means)は、アメリカ先住民への承諾なしに政府がこの用語を使用しているとして批判している。別の視点では、白人が過去の不正行為から目を背けて「インディアン」という言葉を削除しようとしているのではないかという疑問もある。さらには、「ネイティブ」という単語は「?生まれ」を意味するため、アメリカで生まれた人すべてを指すことにもなるという意見も出ている(これを区別するため、一般的にネイティブ・アメリカンの表記では大文字のNを使用している)。

また、「インディアン」と呼ばれることに誇りをもつ先住民はこれを自称し、またその名称を替えること自体が差別的であるとする見解もある。これはそもそもアメリカという地名そのものが後付であるという見解からである。また、インディアンは差別語ではないという人は少なくない。1996年の先住民に対する調査では、ネイティブ・アメリカンよりもアメリカン・インディアンという呼称のほうが好まれるという結果も出ている。

とはいえ、ほとんどのアメリカン・インディアンは、インディアン、アメリカン・インディアン、ネイティブ・アメリカンという用語に不快感はなく、いずれも同じ意味合いで使用されている。2004年にワシントンD.C.で開館した博物館の名前は、国立アメリカ・インディアン博物館となった。

カナダでは、イヌイットメティMetis、先住民とヨーロッパ人両方の血を引く人々とその子孫)を除く先住民の総称としてファースト・ネーションズという呼称が一般的であり、ハイダクリー等個々の部族を指すときは部族名の後に「ファースト・ネーション」をつける(例:ハイダ・ファースト・ネーション)。メティの人々の総称はメティ・ネーションである。また、会話中ではネイティブ・カナディアン(Native Canadian)という呼称が使われることもある。


概要

一括りに呼ばれる事も多いこれらの人々ではあるが、実際には多くの部族が存在し、また部族に固有の文化形態や社会様式を持つ事から、様々な時期に様々な経路を通って段階的に渡来した人々の末裔であると考えられている。 ただ、このことを強調し、「インディアンも白人と同じように、北米大陸の外から来たんじゃないか」として、白人に土地収奪正当化の言質を取られることが多く、「先住民」としての伝承文化、独自性を台無しにされるとして一般的にこの話題はインディアンには嫌われている。上記の「ファースト・ネイション」の「ファースト」には、これを踏まえた「最初からいた人たち」という強い意味を含んでいる。

人種的にはモンゴロイドの系列にあるとされるが、アラスカ州、北カナダ、北アメリカ合衆国では東北アジア人の顔つきに近い。中南米やそれに近い地域においては東南アジア人に似た部族も存在する等、一様ではない。純粋インディアン部族は東アジア人と変わらない。また、ヨーロッパ人(コーカソイド)との混血、アフリカ黒人ネグロイド)との混血が進んだ部族も存在している。

なお、頭にワシの羽をつけ顔に化粧をするといったステレオタイプは、主に西部劇に登場する大平原のインディアンが戦いに臨んで威容を表わす為の(撮影所の美術係がデザインした)スタイルが元になっている。この映画に登場するステレオタイプは非インディアンの間で余りにももてはやされたがために、本来羽根冠の習俗のない部族にまで、このスタイルが採り入れられるようになっていった。初期のハリウッド映画では専ら白人開拓者の敵役とされたが、後年は逆に英雄視する作品が増えた。

また、『アメリカインディアンの教え』など、その家庭教育を道徳教材に用いた書籍もある。

人口

2000年の国勢調査で「自分はアメリカインディアン又はアラスカの先住民」と申告したアメリカ人は247万人で10年前よりも26%増加していた。さらに一部先住民の血を引くとした者は160万人だった。居留地で暮らすインディアンはほんの一握りで、残りは都市部など別の場所で暮らし、アメリカ社会に何とか溶け込んでいる。こういった保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。 特にニューヨークは全米の都市の中で最も多くの先住民が住み、約8万7000人ものインディアン(モホーク族モヒカン族など)がニューヨークで暮らしていると言われている。

2003年のアメリカ国勢調査局によると、アメリカ合衆国全体のネイティブアメリカンの人口、2.786.652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。2000年の時点での調査では、部族ごとに見ると、最大の人口を持つ部族はナバホチェロキーチョクトースーチペワアパッチラムビーブラックフィートBlackfeet)、イロコイ、そしてプエブロである。ネイティブアメリカンを先祖に持つアメリカ人はおよそ80%が混血である。2100年までには、10人のうち9人が混血になると見込まれている。

数ある混血の問題では、黒人との混血ブラック・インディアンが、根強い摩擦の種になっている。彼らはインディアンたちの中でも差別され、踊りのリズム感の違いから、儀式から締め出されるなど排除されることが多い。近年、チェロキー族カイオワ族などはこれを部族員として認める裁定をしている。

20世紀初頭から、連邦政府は「血が薄まった」ことを理由に、多数の部族を絶滅認定し、条約交渉を打ち切る「絶滅政策」を採ってきた。こうして1954年から1966年までの間に、全米で100以上の部族が「絶滅」部族として解散させられた。これに対し、1960年代からレッド・パワーとともに「何分の一までの混血なら部族員とみなす」と、部族独自の混血度の規定を設け、散り散りになった部族員を再結集して、連邦に部族の再認定を迫る動きが盛んになった。ニクソン政権下でひとまずこの部族解消方針は打ち切られ、メノミニー族、ピクォート族が復活した。が、ニクソン失脚後の議会は再び「絶滅政策」を打ち出し、これ以外の部族は現在も、アメリカ内務省を相手に頻繁な訴訟を伴う再認定交渉を強いられている。

この再認定要求の流れとして、混血度の高い部族ほど、規定を緩めて再結集しようとする傾向があり、ふた桁以上の混血度でも正部族員と認める部族もある。(この規定でいけば、ビル・クリントンも正式なインディアンということになる)年々この要求は広がりつつあり、連邦側も対応に苦慮している。とはいえ、混血と同化を押し付けてきたのは連邦政府のほうである。

インディアンに対する年金支給などを目当てに、非インディアンがインディアンの身分を偽造し、成りすます例も多い。また、著名なインディアン俳優アイアンアイズ・コディ酋長(実際はイタリア移民だった)など、単純に憧れからの成りすましも多い。こういったニセモノの発言が、インディアン文化の理解を混乱させる例も多い。

文化・思想

一様の民族では無いため、一概にその文化を語る事は適切ではない。

多くの部族がトウモロコシを主食とし、インゲンマメカボチャウリなどを栽培していた。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多く、プエブロを除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜はシチメンチョウだった。犬は現在も、部族によって儀式などで食材とされている。

大平原では、メキシコ経由でスペイン人によってが持ち込まれるまでは、ティーピーなど家財道具を乗せるトラボイを運搬するのは犬の仕事だった。馬の登場によって、大平原部族は乗馬を生活に取り込み、「ホース・インディアン」と呼ばれるようになった。馬による運搬・移動力の劇的向上はティピーの大型化も可能にし、さらにバッファロー(アメリカバイソン)の狩りを盛んにしたうえ、各部族の勢力図をも塗り替えていった。

平原とその周辺の部族にとって、バッファローは衣食住の柱であり、宗教儀式に欠かせない霊的な存在だったが、19世紀末に白人はインディアン制圧のため、これを意図的に野生界から絶滅させた。現在、国立公園のバッファローは、定数を超えると植生を保護するために射殺処理されているが、これをインディアン部族が引き取り、彼らの保留地内で「バッファロー牧場」として繁殖を図る動きがあちこちの部族で試みられており、「ITBC(インタートライバル・バイソン・コーポレーション」)として組織化され運営されている。

南西部のプエブロ諸族やナバホ族は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだヒツジの放牧を行うようになった。

カリフォルニアの捕鯨民族マカ族は、1999年5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきたコククジラ漁を、これに伴うポトラッチの祝祭と併せて復活させた。反捕鯨団体の脅迫や嫌がらせ、連邦による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、2007年9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地から訴追を受け、袋叩きにあっている。

ロッキー山脈周辺の部族は、松の実を貴重な蛋白源として主食にするものも多い。伝統食文化が破壊された今も、松の実はその味の良さから変わらず人気がある。

先住民の食文化のうち、ペミカンサコタッシュSuccotash)、「揚げパン(フライブレッド)」(Frybread)などは今日でもよく知られており、米国の食文化に取り込まれたものもある。

先住民文化によく見られることだが、インディアンも全部族が毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にすることで知られる。写真に納まっているインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、白人がインディアンを登場させる映画などは老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、後述の三つ編み方式を知らずに、ヘアバンドで鷲の羽根を立てて描いたものが非常に多い。近年都市に住むシティ・インディアンはそういった習俗が廃れてきて薄毛が増加しているものの、近年は長髪が復活してきている。AIMが創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーとして髪の毛を伸ばし始めたのである。これはヒッピー文化にも影響を与えた。

平原部では戦士が髪を三つ編みにするのは母親か妻の役目であり、彼女らはひと編みごとに祝詞をあげる。三つ編みは顔の両脇に二本、そして後頭部にもう一本編まれ、この後頭部の三つ編みに鷲の精神を憑依させるべくその羽根が編み込まれ、頭に鷲の羽根を立てた、有名な平原のスタイルが完成する。

19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照)

いわゆる「モヒカン刈り」スタイルは、17世紀に北東部のアルゴンキン語族の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように、頭の側面を剃っていたものである。

米国の重要な作物であるトウモロコシカボチャウリインゲンマメタバコトウガラシは先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着アノラックやパーカは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックカヌーは現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食料ペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。ラクロスは北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。

メキシコと、国境付近の一部の部族を除けば、インディアンには酒造の文化が無く、飲酒をコントロールすることが出来ない。このため、彼らには飲酒のペースといったものが無く、一壜あれば、一壜を一気に飲み干して泥酔してしまう。かつて白人が、彼らと不平等な条約を結ぶ際、多量のウィスキーを持ち込んだことはよく知られた事実である。こうした人々が保留地で自活の道を絶たれ、アルコール依存症となるのは、エスキモーアボリジニなど他国の先住民にも見られる問題である。完全禁酒を掲げる部族自治区も多い。

先住民はしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。米国とカナダの感謝祭は17世紀にワンパノアグ族とピルグリム・ファーザーズが秋の収穫を共に祝った出来事を記念している。ポカホンタススクァントSquanto)、マサソイト酋長、サカガウィアらは米国の建国神話に欠かせない存在である。初期の開拓者の男性たちは未知の土地で生存するためにしばしば先住民のサバイバルの知恵を身につけた。彼らの中には先住民の女性を妻とした者が少なくなく、結果として多くのアメリカ人が先住民の血を引いている。

ニューヨーク州立大学バッファロー校のドナルド・A・グリンド博士(Donald A. Grinde Jr.)をはじめとする歴史学者らは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。ちなみに、インディアンの支持政党は、伝統的に民主党である。

『ベルダーシュに捧げる踊り』(部分、ジョージ・キャトリン画)

ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドのヒジュラーのような聖職に従事する社会的半陰陽は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「ウィンクテ」(右図)と呼ばれる存在は、女装こそしなくなったが、現在でも健在である。人類学者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「ベルダーシュ」(berdache)と呼んできたが、本来の語義が「男娼」を指すエクソニムであるため、差別的で不適切と考えられている。1990年ウィニペグで開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称としてオジブウェー語で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク」(niizh manidoowag、「二つの魂」の意)から翻訳借用した「トゥー・スピリット」 (Two-Spirit)を使用することが議決された。

インディアンには本来名字はなく、男子の名前は客観的な事象や身体的な特徴、自然現象に基づいて付けられ、女子の場合は「~の女」とつけられた。女子の名は変化しなかったが、男子の場合は生涯で何度か変わることがあり、幼名のまま一生を送る場合もあった。またもうひとつ、他人には絶対明かさない名前を出生時に授けられる。スー族の場合は、上記のウィンクテがこれを行う。白人には部族それぞれの言葉による名前の識別は煩わしいだけだったから、ほとんどの場合、「クレイジー・ホース」だとか「シッティング・ベア」といった適当な英語に訳して(誤訳が非常に多い)見分けていた。20世紀に入って戸籍が作られた際、こういった名が名字にされたのである。現代でも、少年少女は物心がつく年齢になると、白人式の名とは別に、古来に倣った「インディアン・ネーム」を呪い師につけてもらう。平原部族では男子は「ヴィジョン・クエスト」と呼ばれる儀式を経てこれを得る。

ある部族が他の部族を呼ぶ場合、「犬食い」とか「腹ぼて」とか「蛇」といった(多分に親しみのからかいを込めた)蔑称が使われることが多い。「エスキモー」が「生肉を食う人たち」という意味だからといって、特別な例でもない。 同じ部族内の支族同士でも蔑称で呼び合う例は非常に多く、また、「人殺し」とか「蛇」といった名称はむしろ誇らしげなものだった。

部族間で言語の違うインディアン社会で、平原のインディアン達は、指を使って会話する「指話法」(手話の一種)を発達させていた。例えば、両手の人差し指を立てて頭に掲げれば「バッファロー」、人差し指と人差し指の先を突き合わせれば「反対の~」といった具合に、これを用いて、何時間でも会話できた。19世紀スー族のアイアン・ホーク酋長は、「大精霊は、白人達には読み書きする力を与え、インディアン達には手と腕で話す力を与えた」と述べている。

インディアンのほとんどは、文字を持たなかった。北東部部族は、ワムパム(色とりどりの貝のビーズ)を、ワムパム・ベルトという模様を暗号化した巻物にして、重大な決め事の記録(有名なものではイロコイ憲章)に使い、大切に保管している。時代が下ると、白人がこれを単に装飾品と捉えてメチャクチャな模様に織り込んで模造したものが出回った。結果、この偽物のワムパム・ベルトを正規物と勘違いした部族間で、ついには戦争にまで発展してしまった。

平原の部族は、一年を「冬」で数え、バッファローのなめし皮に、中心から渦を巻くように外側へ向かって、一冬ごとにその年起こった重大な事件を絵にして残す「冬数え」という記録物を代々伝える。

オジブワ族ミクマク族はカバの木の皮にヤマアラシのとげで象形文字を書く記憶術を持っていた。これに気づいたフランス人の宣教師クレティエン・ル・クレルクはこの象形文字を応用して構文を作成できるようにし、教育や宣教に役立てた。

先住民族は高貴な野蛮人などと呼ばれ、しばしば米国のロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、米国の地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークタマニー・ホールTammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。

2005年8月、全米大学体育協会 (NCAA)は、「敵意を持ち虐待的」に表現されたインディアンのマスコットの使用を、ポストシーズンのトーナメント以降禁止した。プロスポーツ界でのインディアンをテーマにしたチーム名の使用は広く知られており、時々議論の対象になる。例えばクリーブランド・インディアンズのワフー酋長(Chief Wahoo)や、ワシントン・レッドスキンズがある。

先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。しかし自然崇拝を行う・独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな自然との調和を重視する精神性に対する評価は、近年のアウトドアエコロジーのブームにのって見直される例も多く、様々な文化媒体に登場する事もあり、これに注目する人も少なからず存在する。

アメリカ社会において「勝者による個人占有」は、「アメリカン・ドリーム」などと呼ばれ美徳とされるが、インディアン社会においては、この100年余り、同化政策で白人的思想が押し付けられたにも関わらず、「部族による共有」を美徳とする「共同体思想」はなおも根強い。「個人所有」という概念は希薄であり、インディアンで大企業家や資本家となった例は極めて稀である。

インディアン社会のほとんどは母系社会であり、氏族社会である。白人と混血があったとして、母方の血統がインディアンであれば、その子はインディアンとなる。「クラン・マザー」と呼ばれる女性首長を頂く部族は多い。また、「養子制度」も根強い。アメリカでは、その子の人種にこだわらず、孤児を引き取るインディアン家庭の例は非常に多い。問題になるのは、その子供が部族内でのどの氏族に属するか、ということである。ムスコギー族などはかつて、部族に縁組した白人のために、「白いジャガイモ」という氏族を新設したほどである。

俗にインディアンの固有風習のように喧伝されてきた「頭皮剥ぎ」は、一部の部族の間で戦果と栄誉を示すものとして古くから重要なものではあったが、そもそもは18世紀前後にメキシコやイギリス、アメリカ合衆国の政府機関が、女・子供を問わず敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人の頭の皮に懸賞金をかけて奨励した歴史がある。頭皮剥ぎ自体は北米先住民から始まった固有の習慣ではない。

各々の部族に固有の文化は、関連項目の各部族の項を参照。

宗教

ネイティブアメリカン教会

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ネイティブアメリカン教会のシンボル

現在インディアンの間にもっとも普及している宗教はコマンチェ族最後の酋長クァナー・パーカーQuanah Parker)を開祖とする『ネイティブアメリカン教会』(Native American Church)である。キリスト教のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで1890年代に興った習合的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。

もともとは、メキシコのウィチョール族などが行う「ペヨーテ狩り」の儀式が元になっていて、ペヨーテのもたらす霊的な幻視と、その薬効の会得手順を儀式的に整えたものである。

保留地で暮らし始めた頃、重篤な病に倒れたクアナは、呪い師による治療を望んだ。メキシコ人とタラウマラ族の混血女性によるメキシコ原産のペヨーテを使った治療によって全快したクアナは、人類学者のジェームズ・ムーニイの後ろ盾で、このペヨーテを用いた儀式を『ネイティブアメリカン教会』として組織化した。(米国内では、ペヨーテはコマンチの居住する南西部にしか自生しない。)宣教師達によってペヨーテは「悪魔の果実」とされ、弾圧されてきたが、近年、インディアンに対しては使用が合法化された。

儀式はティピー内で夜間から朝にかけて行われ、ペヨーテを複数摂取することで進められる。治療や祈祷が主な目的であり、「教会」という言葉から連想するような、キリスト教的な教義や説教といったものは無い。

南西部での宗教

バンデリア国定公園の復元されたキヴァ

南西部のプエブロ諸族の集落の中心にはアドベの古い伝道所があることが多い。元々はスペイン人の宣教師が先住民の改宗のために強制的に建てさせたものだが、現在では農耕と関係した精霊群への神聖な儀式の執り行われる祈祷所となっており、部外者による写真撮影などは禁止されている。

また、プエブロ諸族の村々の中心部には古代からキヴァという地下祈祷所があり、トウモロコシの作付け・収穫などを中心とした祈祷が、年中行事として行われている。平原部族が命の糧であるバッファロ-の精霊を信仰するのに対し、プエブロ族は彼らの命の糧であるトウモロコシを神格化した「トウモロコシの乙女たち」(Corn Maiden)や「トウモロコシの母」(Corn Mother)を信仰するのである。 17世紀にはスペイン人宣教師たちによってキヴァは「悪魔の巣窟」として破壊された。同時に神聖な仮面が焼き払われ、呪い師や司祭も殺戮されて、ついにはプエブロの反乱を引き起こした。20世紀に入ってもキヴァを用いた行事は弾圧され続けた。現在もキヴァでの祈祷行事は、部族民以外非公開である。

カチーナを模した人形

アパッチ族は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、ナバホ族は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。ホピ族ズニ族はカチーナという精霊群を信仰する。クラン(氏族)を中心とし、いずれも仮面行事である。

プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。ナバホ族(南西部では歴史的には新参者である)の神話は、プエブロ族のものの「借り物」であるとされる。

生まれたときに祖父から与えられる守護動物のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。

ニューメキシコ州では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされたカトリックと先住民の宗教の習合がよく見られる。 この背景には、かつてキリスト教のみを強制してプエブロの反乱となったことを踏まえ、宣教師達が部族民の古来の信仰に対して妥協したことがある。文化学者マチルダ・スチーブンソンはこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」

特定の守護聖人を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族のドラム演奏、詠唱、および舞踊は、サンタフェ聖フランシス大聖堂での定期的なミサの一部ともなっている[1]

北東部での宗教

クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。人身御供の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、パワーを得るものとして宗教的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。

彼らの神話・英雄譚には、ヴィンランドに入植したヴァイキングの、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えばニューヨーク州にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深いフォンダFonda)のカテリ・テカクウィサKateri Tekakwitha)教会やオーリーズヴィルAuriesville)の北米殉職者教会(National Shrine of the North American Martyrs)がある。

イギリス人が植民を行った地域では、ピルグリム・ファーザーズと接触したワンパノアグ族のようにプロテスタントに改宗した部族もあった。17世紀ニューイングランドでは、改宗した先住民は「プレイング・インディアン」(Praying Indian、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。フィリップ王戦争が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後にボストン湾に浮かぶディア島に抑留された。アイビー・リーグの一つであるダートマス大学は、インディアンを教化する目的でモヒーガン族の牧師サムソン・オッカムらの出資により1769年に創立された。

北西部での宗教

狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。部族繁栄を祈る大規模な儀式では、春に行われるユト族の「熊の踊り(ベアー・ダンス)」が有名。

モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会の総本山のあるユタ州近辺では、19世紀から周辺部族への同教会への教化が熱心に行われている。当時のモルモンの一夫多妻制は、インディアンにも受け入れやすいものだった。かつてはモルモン教徒は彼らと結託し、西進してくる幌馬車隊をユタに侵入させないよう共謀して襲撃していた。イスラエル人の数派が古代にアメリカ大陸に到達していたとするモルモン書によれば、インディアンは教典に登場する約束の民であるという。

北西海岸部での宗教

女性シャーマンの習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。

カナダ側のブリティッシュ・コロンビアは、氏族と守護動物の象徴トーテム・ポールの風習を持つ。また、仮面行事を行う。「贈与の儀式」(ポトラッチ)でも知られる。

西海岸での宗教

西海岸では、19世紀初頭頃から、入植してきた白人宣教師によって地元のインディアンのキリスト教徒化が進められて、『ミッション・インディアン』と名づけられて支配され、白人の農場や牧場の下働きや、他のインディアン部族の監督に登用された。

漁猟民が多く、鮭や鯨の豊漁を祈っての儀式が多い。踊りは屋内(伝統住居の「ラウンド・ハウス」内)で行われるものが多い。

平原部での宗教

『スー族のサン・ダンス』(スケッチ、ジョージ・キャトリン画)

ラコタスー族の『ワカン・タンカ』(Wakan Tanka)のような『偉大なる精霊』を信仰する精霊崇拝が基本である。バッファロー・ダンスやベアー・ダンスで毛皮を被るが、踊りには仮面は使わない。「白いバッファロー」は大精霊の使いであると考える。

死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、大自然の力は放置すると衰退するとして、スー族シャイアン族カイオワ族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるサン・ダンスの儀式を行う。

「サン・ダンス」とは、スー族の言葉「ウィンワンヤンク・ワチピ(太陽を見つめる踊り)」の訳で、とくにスー族は、ピアッシング(胸または背の皮膚に穴を開けて鷲の羽根を突き通したり、骨製の棒を通して広場の中央に立てられたハコヤナギのサン・ポール(太陽の柱)と皮のロープで身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行)を行う(上図)。このピアッシングの苦行はマンダン族が始祖とされる。

サンダンスでピアッシングの誓いを立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。スー族の呪い師ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の“祖父”である」と述べている。かつて白人によってピアッシングの苦行は野蛮な行為として弾圧を受けたが、レッド・パワーとともにスー族の伝統派によって全米に広められた。

物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「幻視を得る儀式(ヴィジョン・クエスト)」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の儀式と併せてますます盛んである。

人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあったポーニー族オーセージ族は、例外的に収穫祈念のため人身御供を行った。生贄には他部族の男女が使われた。

平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。マンダン族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの風習は、キリスト教の強制もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物に売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。

男子が装う羽根冠や化粧は、本来儀式での正装であって、天上の大精霊にしっかりと自分を見知ってもらうためのものであり、戦いのためのものではない。羽根冠や化粧を白人が「ウォー・ボンネット」とか「ウォー・ペイント」と呼ぶのは誤りである。

南東部での宗教

クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。ムスコギー族セミノール族は、地元で採れるヤポンノキ(Yaupon、Ilex vomitoria)の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄オセオーラの名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。

アタカパ族やカランカワ族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、「人食い人種」と誤解された。

大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「マウント・ビルダー」と呼ばれた部族群が、数100㍍もある動物を象った、無数の土塁・塚を建造している。その直系であるナチェズ族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、インカマヤのように太陽神を頂き、都市を築いてピラミッド型の神殿をいくつも建造していた。「神官・僧侶」の社会階級を持っていたのは北米でナッチェズ族だけである。

ゴースト・ダンス

サウスダコタ州パイン・リッジにおけるオガララ・ラコタ族によるゴーストダンス、フレデリック・レミントン

19世紀末に、パイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰である。ゴースト・シャツと呼ばれる聖なる衣服を身にまとい、死者の霊の歌を歌いながら男女が手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらにはバッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、保留地への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。

弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師キッキング・ベアだった。このため、白人政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、ウーンデッド・ニーの虐殺が起こった。この大虐殺で、信者が弾丸によって全滅してしまったことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても白人が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、スー族の伝統派やAIMが1973年のウンデッド・ニーの占拠の際や1975年に、ウンデット・ニーでゴースト・ダンスを復活させた際、FBI捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。

テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。

鷲の羽根法

インディアンは自らの宗教を実践するのに連邦の許可証を必要とする、アメリカ合衆国唯一の民族集団である。「鷲の羽法(Eagle feather law)」は、連邦が承認する部族を祖先に持つことが証明可能な個人だけが、ハクトウワシイヌワシの羽を宗教的または霊的に使用する権限を与えられることを規定している。インディアンと非インディアンの両者とも、法が人種差別的で部族の主権を侵害しているとして、たびたびこの「鷲の羽法」の価値と妥当性を争ってきた。インディアンが非インディアンに鷲の羽を与えることは昔から行われてきた慣習であり、同法はこれを禁じているが、形骸化している。

備考

ラコタ族の聖なるパイプ(柄のみ)
  • インディアンにとって聖なる数は「4」である。この数は、全ての真理の基本とされる。
  • インディアンの宗教的指導者は、英語では一般に『メディスンマン』と呼ばれており、人類学ではシャーマンの一種に分類される。
  • 多くのインディアンが、部族の宗教儀礼に参加することを、宗教というよりはむしろスピリチュアリティの一つの形ととらえているが、実際には宗教(religion)とスピリチュアリティ(spirituality)はしばしば同義に用いられる。
  • どんな部族でも儀式の際には、「ピースパイプ」または「メディスンパイプ」と呼ばれる聖なるパイプを用いた喫煙が行われる。パイプは天上の精霊との通信役を担い、タバコの煙はその媒体の役目をする。20世紀のスー族のメディスンマン、ヘンリー・クロウドッグは、土産物屋でインディアンのパイプが売られていることの是非について問われた際に、これを肯定し、「インディアンにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じだ」と述べている。また、パイプはパスポートの役目も持っていた。
  • 1960年代頃からの白人のニュー・エイジ世代によって、インディアンの宗教儀式を商売として利用するものが現れ、それに乗って、儀式行為と引き換えに金を要求する「エセ呪術師」が横行している。伝統派の指導者たちは、こういったエセ宗教者を『プラスチック・メディスンマン』と呼んで警告している。「我々は白人のように勧誘などしない。また、すべての儀式は無償のものである。」というのが、伝統派宗教指導者の姿勢である。
  • インディアンの宗教儀式や行事は、かつては数日間かけて延々と行われるのが普通だった。しかし、保留地時代に入ると、これを長すぎると考えた白人の保留地監督官たちの強制によって、多くの儀式・行事が「独立記念日」だとか「クリスマス」、「退役軍人の日」といった白人の記念日にまとめて行うようになった。また、儀式によっては白人に禁止され、半世紀以上行われていないものも少なくない。
  • インディアンにとって「踊り」とは、祈りの表現である。部族独自の伝統的な踊りといったものは、1970年代頃から全米に拡大した「パウワウ」(部族間交流の盛大な踊りの祭典)によって、再興しつつある。パウワウ自体は祭典であり、儀式ではないので自由公開されている。

近代の歴史

移民との衝突

インディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。先住民の人口は激減し、先住民社会は深刻な打撃を被った。また、始めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという自体も招いた。こうした闘争によって土地を奪われていった。17世紀の前半から18世紀末までの長い闘争の歴史を一括りにして、インディアン戦争と呼ぶ。

レナペ族とフィラデルフィアワンパノアグ族とプリマス植民地コンコードのように、入植者とインディアンが和平を結んで短期間共存した例もあるが、入植者の人数が増え、新たな入植地の需要が増すと共に破綻している。

入植初期には、拉致したインディアンや裁判で有罪とされたインディアン、戦争で捕虜となったインディアンを奴隷として売買することは合法とされた。

フレンチ・インディアン戦争アメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い(インディアン戦争)。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。

白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、アメリカバイソン(バッファロー)などの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした記録もブラックフット族などの歴史に残っている。

同化政策

豪州のアボリジニや日本のアイヌ、極北のエスキモー等と同じく、支配民族による同化政策は、北米においても19世紀末から組織的に行われた。代表的なものは、ペンシルバニア州カーライルCarlisle)の『カーライルインディアン工業学校』(Carlisle Indian Industrial School)の校長を務めたリチャード・ヘンリー・プラットRichard Henry Pratt)による、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」("Kill the Indian to save the Man")という言葉に代表される、先住民の子女を親元から引き離し、インディアン寄宿学校に送って先住民文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ない。

こうした「インディアン寄宿学校」の学科に経営学や経済学といったものは皆無で、教えられるのは靴の修繕や繕い物の手工業の技術のみであった。生徒たちが部族語を奪われ、卒業して保留地に戻っても、そこには靴屋も仕立て屋もなく、その技術は何の役にも立たず、失業者として白人の町へ下働きに出ざるを得なくなった。一世代前までのインディアンたちは、こうした同化政策の強制教育で部族語を禁じられ、学校で部族語を話せば、「汚い言葉を話した」として石鹸で口をゆすがされるなどの罰を白人教師から受けた。こうした経験から、英語しか話せない人が多い。

これに対抗し、現在では各部族ごとにインディアンによる「部族学校」の設立が70年代から見られるようになった。インディアン完全自治の学校としては、カリフォルニアの『ディワゴナデ・ケツアルコアトル短期大学』(略称DQ大学、1971年創設)が知られる。近年、このような動きの中、白人側の譲歩で部族語学習が部族学校などで取り入れられるようになり、現在の学童の世代と、英語のわからない三世代以前との間で言葉のコミュニケーションが実現するようになった例もある。しかし、結局部族語が実用的でないため、これをどう文化的に発展させていくのか、その先行きが注目されている。

また近年ようやく廃止の傾向にあるが、無意味な里親制度というものもあった。これは、インディアンの家庭から、就学前の子供を強制的に取り上げ、白人の家庭で白人として育てるというものである。これも白人側にすれば「インディアンを殺し、人間を救え」との発想で生まれた草の根ボランティアの一貫であったのだが、やがて物心ついた時に、この子供たちはインディアンでも白人でもないという、アイデンティティーの喪失に苦しみ、結果、ほとんどが10代のうちにアルコール依存症になるか自殺してしまうという悲劇を生み続けている。

これら強制的な寄宿学校制や里親制度について、デニス・バンクスは「一種の誘拐である」と批判声明を出している。

強制移住と権利を守る戦い

チェロキー族の涙の旅路

長い間各国政府は法律を定め、狭い保留地にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに1838年10月から1839年3月にかけてのチェロキー族の強制移住がある。 これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族とセミノール族、チョクトー族クリーク族インディアン準州(現在のオクラホマ州オザーク高原近く)に移動させたというものである。

厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万2,000人のうち8,000人以上が死亡した。のちにインディアンの間では、この悲惨な事件を「涙の旅路(Trail Of Tears)」と呼ぶようになった。

ナバホ族の涙の旅路

1862年、キット・カーソンによる殲滅戦に降伏したナバホ族も、300マイル(約483km)以上離れたボスケ・レドンド(Bosque Redondo)という灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。 険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するかたちのこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、そこでの農耕は不可能であった。

バルボンシート酋長(Barboncito)の粘り強い異議申し立てで、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、この例外事の理由として、ナバホの土地が、白人にとって(当時は)価値のない沙漠であったことが幸いした。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。

クレイジー・ホースとジェロニモ

インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられ、さらに白人自らがその条約を破るということの繰り返しとなる。インディアンの中には白人の側について、抵抗するインディアンを非難することもあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族クレイジー・ホース(Crazy Horse)、白人を震え上がらせたアパッチ族ジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。後にクレイジー・ホースはその勇猛果敢さを称えられ、サウスダコタ州ブラックヒルズに世界最大級の石像クレイジー・ホース記念碑が建設中である。

ゴーストダンス教と1890年のウンデッド・ニーの虐殺

ウンデット・ニーの虐殺の犠牲者の埋葬

1868年にスー族と米国政府はララミー条約によって、サウスダコタ州にあるスー族の聖地ブラックヒルズは永久にスー族のものであると確約したが、ジョージ・アームストロング・カスターがブラックヒルズに金鉱を見つけると、白人は金を求めてブラック・ヒルズに侵入し、条約は破られた。

絶望的な状況に置かれた西部のインディアンの部族には、ゴーストダンスを踊ることで平和なインディアンの国が還ってくるという新興宗教ゴーストダンス教 (Ghost Dance) が大流行した。信じるものは銃弾も効かないとされるこの宗教を恐れた白人は、ゴーストダンスを禁じ、スー族のゴーストダンス指導者キッキング・ベア(Kicking Bear)を含むビッグ・フット酋長(Big Foot)の一団をサウスダコタ州のウンデット・ニーに連行した。白人の話では一人が銃で抵抗したということになっているが、インディアンの話では、一人がナイフを持って手放さなかっただけで200人以上が虐殺された(ウンデット・ニーの虐殺)。ここに白人とインディアンの戦いは終わる。1890年12月29日のことである。

白人の歴史では1890年はフロンティアが消滅した輝かしい年となっているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカインディアンが完全に征服された年なのである。

レッド・パワーによるインディアン運動

かつて合衆国連邦とインディアンとの間ではインディアンの保留地を始め、371に上る権利を巡る条約が結ばれてきたが、これはまったくないがしろにされ続けてきた。この百年余り、インディアンの差別廃止と自治権及び権利回復を果たすため、様々な個人・団体が政治活動を行い、これを是正させようとしてきた。

最初期の組織だった活動では、1911年オナイダ族の環境保護運動家ローラ・コーネリアスオマハ族ラ・フレスカ姉妹といった、白人の教育を受けたエリートたちが起こした「アメリカ・インディアン協会」がある。彼女らは「国際的インディアンの日(ナショナル・インディアン・デー)」を作り、10月12日の「コロンブス・デー(コロンブスのアメリカ「発見」の記念日)」に対抗して、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」というスローガンを掲げた。

1944年には、第二次大戦におけるインディアンの貢献下の影響力をバックに、ワシントンD.C.に本部を持つ「アメリカ・インディアン国民会議団(NCIA)が結成され、圧力団体として各部族から代表者を送り込み、「大声で吼えまくる赤い番犬」と呼ばれた。

これらの活動は伝統衣装などを用いず、白人の装いで行われ、白人の受けがよかった。が、若い世代のインディアンからは「白人キリスト教化されたハイアワサポカホンタストント」と揶揄され、支持共感を得られなかった。

これを踏まえ、1961年シカゴで、スー族ヴァイン・デロリアパイユート族メル・トムポンカ族のクライド・ウォリアーナバホカイオワ族のジョン・ベリンドといった、大学教育を受けた若い世代を中心に、「全米インディアン若者会議」が結成された。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「インディアン人権宣言」を起草し発表した。これは「AIM」の前身ともいうべき組織であり、指導者達はのちにAIMに合流した。

また1960年代から1970年代に掛けてアフリカ系アメリカ人による公民権運動の盛り上がり(「ブラック・パワー」(Black Power))があり、呼応して同時期に興ったこれらのインディアンの権利回復要求運動は「レッド・パワー運動」(Red Power movement)」と呼ばれ、注目を集めた。黒人とインディアンの運動の方向性の違いを表すものとして、当時の運動の中でこういう発言がある。「黒人達は白人の中に入りたがる。だが我々インディアンは、白人の外へ出たいのだ

全米インディアン若者会議は、のちに下記の北東部漁業権運動を率い、「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」の創設者となるアシニボイン族ハンク・アダムスを輩出。とくに当時適用の決まった、インディアンに対する狩猟・漁業の権利剥奪法に抗議し、ワシントン州のあちこちで魚を獲ってみせる「フィッシュ・イン」抗議行動で注目された。

AIM(アメリカ・インディアン運動)の創設

レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクスDennis Banks)や、クライド・ベルコート(初代AIM代表)ら、大学教育を受けていないスラム育ちの血気盛んな若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動AIM)はことに有名である。

ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリスで結成大会を開き、インディアンの権利回復のための様々な活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「あんたら男達は何でも目標(Aim)、目標って言いたがるんだから、いっそAIMにしたらどうだい?」という発言による。

彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派メディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。

指導者達はまず1970年スー族の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。1971年には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、また「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグたち多数、オジブワ族からはエディー・ベントン、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアーといった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。

彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、様々な組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、イロコイ連邦オノンダーガ族族長のオレン・ライオンズがついた。

1969年11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズRussell Means)や、大学教授リー・ブライトマンスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語・歴史文化・芸術と伝統の教育」を行うべく、1970年に第一号の「生き残りの学校(サバイバル・スクール)」がミネアポリスに開設された。1975年には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動きは他州やカナダにも波及していった。

また、これまで黒人に対してと同様、闇の中に隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアンに対する暴力に対し、AIMは「警察対策委員会」を結成。パトロ-ル自警団を組織して、白人警官による暴力行使の現場写真を撮るという作戦で裁判を起こし、揉み消しを許さず、警官の暴力行為を自粛させていった。またさらにインディアンの警察官採用要求などを実現させた。

AIMはミネアポリスでの結成ののちに、クリーブランドで組織拡大を行い、当初オジブワ族だけだったメンバーも、他部族の若者が次々参加していき、クリーブランド、ミルウォーキー、シカゴ、キャスレイク、ローズバッド保留地、デンバー、オクラホマ市、シアトル、オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど、全米に支局を増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCのBIAビルの占拠やサウスダコタ州のウンデット・ニーブラックヒルズの返還を要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動を次々に実行していった。(→破られた条約の行進

デニス・バンクスは、これらAIMの運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代を集め始めただけのことだ

これら急進的な彼らの言動は白人にとっては過激で、黒人運動団体ブラックパンサー党とも連携したその運動には、つねに銃弾が浴びせられるようになっていった。なかでも国際的反響を呼んだ「ウンデッド・ニー占拠事件」は、占拠解除後にAIMと連邦・FBIとの熾烈な法廷抗争に発展。以後、州・連邦政府はAIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーンを強めていった。

当時、1960年代のインディアンを取り巻く状況は、まさに民族消滅の危機に瀕するものだった。様々なインディアンの権利が剥奪され、数々の部族が絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズはメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「絶滅寸前の種族」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで爆発するべくして爆発した民族運動だった。ことに1977年は、「インディアン根絶政策」の総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程された年であり、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。

レッド・パワーによる主な抗議運動

  • 1964年:「全米インディアン若者会議」による「フィッシュ・イン抗議行動
ワシントン州でのインディアン固有の漁業権の剥奪法に抗議し、同州ヤカマ族の若者シド・ミルズが、州内のあちこちでフィッシュ・イン(一斉に釣る)を指導し、座り込みを行った。運動はアシニボイン族ハンク・アダムスによって他州にも拡大された。アダムスはこの座り込みの際に警官隊に銃撃されて重傷を負ったが、命を取り留めた。
  • 1967年:スー族による「バックスキン・カーテン社への抗議と、キング牧師の平和行進への参加
ローズバッド保留地の、穏健派の部族会議議長ボブ・バーネットと、伝統派メディスンマンのヘンリー・クロウドッグジョン・レイムディアーら21人の男女がニューヨークへ出向き、バックスキン・カーテン社に対し、同社が行っている保留地からの野生動物の毛皮の無断乱獲行為に抗議。同時にキング牧師の平和行進に参加、黒人運動団体と交流を行う。
  • 1968年10月12日:「コロンブス・デー抗議
サンフランシスコの「ベイエリア・アメリカインディアン問題評議会連合」が、イタリア系アメリカ人連盟主宰のコロンブスを祝う祝典での寸劇で、コロンブス役の白人男性と打ち合わせ、そのカツラを剥ぎ取ったもの。イタリア人連盟にはこのブラック・ジョークは通じず、警官隊が呼ばれ、にらみ合いになった。
モホーク族リチャード・オークス、サンテ・スー族の著名な詩人ジョン・トラデルらを中心とする「全部族インディアン」を名乗る69人のインディアン青年達が、本来インディアンの土地であったサンフランシスコ沖のアルカトラズ島に上陸、土地の権利とインディアンに対する連邦政府による条約確認を要求。AIMのメンバーも支援要請を受けて参加した。彼らは1868年にアルカトラズ島の余剰地をインディアンに返還するという条約が合衆国政府との間で結ばれたのにもかかわらず未だに履行されていないと抗議してアルカトラズ島の領有を宣言し、インディアンの文化センターにするとして1年半にわたり島を占拠した。AIMのメンバー以外のインディアンや白人からも反響と共感を受け、一時は600人近くのインディアンが島にティピーを張るなどして移住した。しかし電気・水道を政府に止められ、人数が減っていき、1971年6月11日にFBIと武装警官が一斉上陸。強制退去が行われ、島に残っていた15人が逮捕された。指導者のリチャード・オークスは、のちに白人人種差別主義者に殺害された。
  • 1970年:AIMによる「メイフラワー号抗議
「ピルグリム・ファーザーズ上陸150周年記念の日」に、AIMのラッセル・ミーンズらがメイフラワー2世号に乗り込んで、マストにAIMの旗を掲げ、「プリマス・ロック」をトラック一台分の土砂で埋めて抗議したもの。
サウスダコタ州の同大学が、インディアン学生のための援助金を不正に横領していることにインディアン学生達が抗議。AIMも援助依頼を受けた。
  • 1971年:「サンフランシスコ旧米軍基地占拠
朝鮮戦争の際に、米軍が強制没収しミサイル通信基地としたインディアンの土地が放棄されていたものを、インディアンたちが教育施設建設を目的に返還要求したもの。市教育庁の不当裁定を覆し、初のインディアン完全自治による短期大学「DQ大学」がここに創設された。
  • 1971年:「ミルウォーキー沿岸警備隊基地占拠」、「ミネアポリス沿岸警備隊基地占拠」、「ハリウッド映画の不当なインディアン像に対する抗議運動
  • 1971年6月:スー族による「ラシュモア山占拠
大統領の顔の彫られたラシュモア山を占拠し、ブラックヒルズスー族のものであると宣言。
  • 1971年:AIMによるアリゾナ州での「独立記念日抗議行動」と「5マイル行進
フラッグスタッフ市警察がパウワウの開催にかこつけて、300人ばかりのインディアン達を不当に無差別逮捕し、奉仕義務として独立記念日の祭典の後の清掃をさせていた慣習に対し、ホピ族ナバホ族プエブロ諸族の援護依頼を受けたAIMが抗議を行い、チカーノ運動とも共同してこの制度を廃止させた。さらに同州のアホ市で、白人に銃撃されたインディアン少年の捜査を要求し、5マイルの抗議行進を行った。
  • 1972年3月6日:AIMによる「イエロー・サンダー殺害事件抗議行進
2月にパインリッジ保留地でオグララ族男性イエロー・サンダーを面白半分に殺した白人グループの逮捕と捜査のやり直し、インディアンに対する法的保護を要求し、1万6千人のインディアンが集結。ネブラスカ州ゴードン市市庁舎まで、約1千人が太鼓を叩き、星条旗を逆さに掲げ、伝統衣装で抗議行進を行った。ゴードンの白人達は、「西部劇」のようなインディアン達のいでたちにおびえ、恐慌状態となった。
オジブワ族の許可証なしに白人が保留地内で狩りや釣りをしていることに対する総勢200人による州自然資源局への抗議。
AIMは、10月3日、大統領選挙日に合わせて、ロサンゼルスシアトル、サンフランシスコの三地点からワシントンDCに向け、200部族1500人からなるインディアンによる自動車キャラバン隊による抗議行進を行い、11月2日にワシントンDCに到着。が、アメリカ内務省は彼らの受け入れを拒絶し、宿がなかったため、なりゆきで4000人に上るインディアン男女がBIA(Bureau of Indian Affairsインディアン管理局)本部ビルに泊り込み、11月7日までの一週間にわたりバリケード占拠。警官隊の包囲の中、連邦政府に対し、20項目の要求を行った。
主な項目は、「1869年のララミー条約に対する条約不履行の連邦政府による確認」、「アラスカインディアン部族から取り上げた400万エーカーの土地の返還」、「アラスカ以外のインディアン部族の総計1億エーカーの土地の返還」、「ワシントン議会での発言機会」、「メノミニー族クラマス族の廃絶法案の撤回」、「オクラホマの絶滅認定された部族の再建」、「BIAの廃止」、「インディアンの宗教の保護」、「部族への統治権の返還」、「1950年代から実施されているインディアン根絶政策の撤回」などである。この20項目の要求は、のちにAIMの基本綱領となった。また、AIMはBIA本部から、多数の部族議会とBIAの癒着、汚職の証拠書類を押収し、明るみに出した。
  • 1972年:UAINEによる「メイフラワー号抗議
ユナイテッド・アメリカ・インディアン・オブ・ニューイングランド(UAINE)のメンバーがピルグリムファーザーズ感謝祭に抗議し、メイフラワー2世号Mayflower II)のイギリスの国旗をインディアン部族の旗にすり替えた事件。
内務省BIA(インディアン管理局)の改革や保留地の実態調査などを要求して、AIMのメンバーがウンデッド・ニーを71日間に渡って武装占拠。FBI、州警察、軍、BIAとの戦闘が起き、インディアン側に二人の死者が出た。指導者のひとり、スー族の「OSCRO(オグララ・スー権利組織)」の運動家ペドロ・ビソネットは、12月にBIAによって射殺された。また、AIMのレナード・ペルティエ終身刑となり、無実が証明された今も投獄されている。
カナダ政府に対する、カナダインディアンの権利回復抗議行動。AIMも支援要請を受け、占拠に参加。
  • 1975年1月1日:メノミニー族による「元修道院占拠
メノミニー族戦士団が、部族から没収された土地と医療施設の代償に、ウィスコンシン州グレシャムの廃修道院の明け渡しを政府に要求。砦となった修道院に35日間立てこもり、州は軍を派遣し膠着状態となった。AIMも参加。仲介交渉人役として、俳優のマーロン・ブランドも篭城に加わった。
BIA(インディアン管理局)によるインディアンの土地の開発に抗議して、サンフランシスコのアルカトラズ島からワシントンに向けて、400人以上のインディアン、白人、黒人、アジア人、日本人が4828キロ(3,000マイル)を行進したもの。インディアン達は、ホワイトハウスの門前にティピーを建てた。ロンゲスト・ウォークは、「涙の旅路」などのインディアン強制移住の苦難を再現したものであり、デニス・バンクスが、ジム・ソープを記念し、平和的な抗議行動として発案したもの。ジム・ソープの子供達も参加した。以後、現在まで毎年行われている。

レッド・パワー以後の抗議運動

  • 1985年:オーロネ族の「部族の共同墓地破壊に対する抗議
サンフランシスコのベイエリアにある、「ミッション・インディアン」のムウェクマ・オーロネ族の先祖代々の墓地が破壊され、ショッピング・センターの建設工事が行われたことに対する抗議。オーロネ族は「絶滅部族」であるからこれは「遺跡の発掘」なのであり、「墓暴き」には当たらない、というのが白人側の言い分である。女性首長ローズマリー・ギャンブラは怒りのあまり、TVが生中継するなか発掘現場で人類学者ウィリアム・ループをシャベルで殴り傷を負わせて逮捕され、看護士資格を剥奪されて夫と職を失った。1万体のオーロネ族の骨は部族の猛抗議を無視してカリフォルニア大学バークレー校のハースト人類学博物館のインディアン遺骨コレクションに加えられた。遺骨返還を巡っては、現在も係争中である。
ケベックのモホーク族が、彼らの土地オカの、1960年代からの白人によるゴルフリゾート開発に抗議し、一帯を78日間、バリケード封鎖したもの。州軍との衝突となり、死傷者を出した。
  • 1992年7月16日:セネカ族による「課税反対抗議
ニューヨーク州のセネカ族が、彼らが販売している煙草とガソリンに、州政府が条約を反故にして課税を行うと決定し、それまでの「未払い分」5000万ドルを要求したことに抗議し、カッタランガス保留地を通る国道438号線一帯を数日に渡り封鎖。州警察部隊と乱闘になり、双方に多数の負傷者を出したもの。セネカ族は「どうしても課税するなら、我々から奪った土地を返せ」と主張。州は条約違反の課税要求を取り下げた。
  • 2006年:西ショーショーニー族による、「地下核実験に対する国連提訴
ウィンドリバー・ショーショーニー族と南西部の周辺部族、AIMらは、西ショーショーニー族のネバダの保留地での、国防総省による相次ぐ地下核実験の強行、ユッカ・マウンテンでの高レベル放射性廃棄物貯蔵所の建設、またこれらに伴う放射能被害に対し、ユタ・ネバダ州議会を巻き込んで長年にわたり抗議を行ってきたが、ついにウィンドリバー・ショーショーニー族は特使派遣団をスイスの国連本部に送り、これらの問題をCERD(国連人種差別除去委員会)に提訴した。3月10日、国連はアメリカ政府に対し、西ショーショーニー族に対する逆告訴と圧迫を「ただちに止める」よう通告した。これを受け、米国政府は6月2日に予定していた700トン級の核爆発実験を中止した。
  • 2007年10月7日:AIMによる「コロンブス・デー・パレードに対する抗議
コロラド州デンバーが開催する「コロンブス上陸記念日のパレード」へのAIMデンバー支局の抗議行進。ラッセル・ミーンズら83人が逮捕された。

その他の抗議運動

  • 1972年、「マーロン・ブランドのアカデミー賞辞退事件
AIM設立や、「フィッシュ・イン抗議行動」にも関わった俳優のマーロン・ブランドが、映画『ゴッドファーザー』でのアカデミー主演男優賞の授賞式に、「インディアン女性」を代理出席させ、インディアン問題に絡めた抗議声明をさせた事件。ハリウッドでの、非インディアンが演じるでたらめなインディアンを皮肉った「ニセモノにはニセモノを」とのブランドの思惑で、フィリピン系の女性がこの「インディアン女性」の役を演じた。ハリウッド界は大騒ぎとなり、これ以後、すでに減少していたハリウッド映画での、単純な悪役としてのインディアンは姿を消すことになる。
  • 1970年:「スタンフォード大学でのマスコット抗議
スタンフォード大学のフットボールチーム「インディアンズ」の、でたらめな衣装や踊りで応援するインディアン・マスコットの廃止を、同大学のインディアン学生達が申し入れたもの。リチャード・ライマン総長がこれを受け入れたために、白人の大学関係者側から轟々たる非難が集まり、論争になった。以後、こういった冒涜的なスポーツ・マスコットに対する廃止要求は全米に広がっていく。

現状

現在では一定の保護政策とそれによる社会保障制度が取られているが、一旦破壊された民族アイデンティティの修復は難しく、生きる目的を喪失してアルコール飲料ギャンブルに耽溺するケースが見られるなど、深刻な社会崩壊現象も見られる。中には伝統文化を見世物とし、観光化して生活の糧を得る人も見られ、米国地域社会に溶け込んで生活する人もあるが、その一方でインディアン居留地の中で白人・欧米社会から断絶して暮らす人もある。伝統文化を守る人たちもいるが、その多くは不毛の地、極貧地域で、政府からの補助金が出るため、勤労意欲も削がれるなど、今日的な問題を抱えている。このように、長い差別と民族衝突の歴史が、双方の間に溝を残している部分も根強く、関係修復は簡単ではない。

現代社会では、インディアンの社会的平等の実現が難しいと言われている。政府の政策や少ない開発資金では健康医療や教育などの点で生活の質を十分に向上させにくいのが現状である。特に居留地内では深刻な問題である。例えば、スー族が住むサウスダコタ州のパインリッジ居留地Pine Ridge Indian Reservation)は他の居留地よりも貧しい。この居留地に住むスー族の収入は平均的なアメリカ人の3分の1(1999年の平均年収は3800ドル)、失業率は3倍の85%であり、住民の97%が連邦政府の定める貧困線よりも下の生活水準にある。多くの家族は上下水道、電気、電話のない生活をしており、平均寿命は男性47歳、女性50歳代前半と、西半球で最低の水準にある。2002年度の居留地における農業の総生産高は3300万ドルと推定されているが、実際の部族の収入となったのはその3分の1以下であるという。未成年の自殺者の割合は4倍以上である。麻薬を常用したり、ギャングに憧れる若者も中にはいる。こうした厳しい状況の中でインディアンの人々は自分達で何とかこうした問題に取り組もうとしている。

連邦政府の承認

アメリカ合衆国には563の連邦承認部族政府(インディアン・テリトリー)が存在する。合衆国はこれらの部族の自治政府及び、部族の主権と自決権を条約上で明記し認めている。これは、19世紀に推し進められた条約交渉の中で、強制移住をからめての保留地への定住と引き換えに連邦が出した条件である。各保留地は、アメリカ内務省所轄のBIA(インディアン管理局)の管理下にあり、これらの自治政府は、それぞれの保留地に置かれたBIA直轄の保留地事務所の監督下にある。

部族政府(部族議会)は「部族領地内での立法、課税、住民権や免許の認可など、自治政府の部族の力の制限は州への制限と等しく、例えば、交戦権、外交関係の締結、硬貨や紙幣の製造などを含む」として、しばしば「インディアン保留地は独立国家に等しい力を持つ」などと表現されるが、これには注意が必要である。

なぜなら、部族議会の決定はBIAの承認もしくは影響なしには行えないものであり、ほとんどの部族議会は連邦の傀儡として腐敗している。部族の行事といったものは、強弱の差こそあれ、必ず保留地管理官たちの監視下にある。自治権とは言っても、カナダの先住民のように一定の裁判権を持つわけでもなく、主権のひとつとしてよく例に挙げられる部族警察も、あくまで州警察の補助的権限しか持っていない。保留地で罪を犯した部族員は、州当局によって裁かれるのである。後述の「インディアン・カジノ」でも、カジノを持ちたい部族が連邦の許可をとりつけても州の許可が下りず、実現できないでいる例は多い。インディアンは、連邦と州の双方から縛られている。自主独立の強さで知られるイロコイ連邦の一部は、この部族議会を置いていない。つまり連邦からの金銭的な援助を一切断つことで、連邦が干渉できない自治力を維持しているのである。

また、州政府に承認されているものの連邦政府に承認されていない多くの部族が存在する。インディアナ州マイアミ族などは連邦政府の承認を拒絶し続けている。長年にわたりBIAから承認要求を拒否され続けてきたカリフォルニア州北部のオーロネ族Ohlone)などは、他部族による1969年の「アルカトラズ島占拠事件」に不快感を示し、しかもこのときにニクソン大統領から、アルカトラズ島を部族の保留地として「提供」を持ちかけられて、これを侮辱として断ってさえいる。

現在もアメリカ東部の小さな部族の多くが、公式な承認を得ようとしている。連邦による「インディアン部族」としての承認は、部族に年金が支給されるようになるなど、現実的な利益を生む。しかし部族としての承認を得る過程で満たされなければならない多くの不条理な規則があるため、きわめて困難である。部族集団として承認されるためには、部族の家系の広範囲に及ぶ系譜上の証明を提出しなければならないが、これまで多くのインディアン部族は、多くの権利を剥奪されていたため、遺産の相続を拒絶していたのである。また、メキシコ国境をまたぐパパゴ族(トホノ=オ・オダム族)は、アメリカからもメキシコからも部族認可を拒まれ、現在「インディアン部族界の孤児」と呼ばれる状況に陥っている。

これまで、条約交渉の窓口であるはずのBIA(インディアン管理局)は条約を無視し、ドーズ法を盾に保留地を削減し、インディアンにアメリカ文化を受容させるべく、インディアン寄宿学校などといった施政で強制的に同化政策を押し進めていた。20世紀には「インディアンのバスティーユ監獄」と表現されたBIAであるが、2000年に白人ではないポーニー族のケイン・ガバー局長が就任し、「同化政策」に対する歴史的な謝罪を行い、その施政は軟化しつつある。その一方、2000年7月、ワシントン州共和党は、部族政府を廃止する決議を採択した。2004年現在、未だにインディアンの所有地から石炭ウランが盗まれているという事態が申し立てられている。アメリカ行政管理予算庁による1972年の研究では、連邦政府による1000項目の対インディアン支援プログラムのうち、部族に役立っているものはわずか78項目だけであるとの報告がなされている。

バージニア州では、インディアンは奇妙な問題に直面している。バージニア州には連邦承認部族が存在しないが、それはひとえに州の人口動態統計局の記録係を1912年から1946年まで務めたウォルター・アシュビー・プレッカー(Walter Ashby Plecker)によるところが大きい。プレッカーは優生学を信奉する白人至上主義者であり、州内のインディアンはアフリカ系アメリカ人と混交しつつあると信じていた。「白人」と「有色」のただ二つの人種だけを承認するという法律が州議会で可決され、プレッカーは自治体政府にすべての州のインディアンを「有色」として再分類するよう圧力をかけ、バージニア州に居住するインディアンの記録の大々的な破壊を引き起こした。連邦による部族の承認と、それが生み出す利益を受けるためには、個々の部族は1900年以降の部族の継続的な存在を示す必要があるが、連邦政府は、プレッカーによる記録の破壊を知りながらこのお役所的な要件をこれまで曲げようとはしなかった。現在、この要件を和らげる法案が、バージニア州選出のジム・ウェブJim Webb)およびジョン・ウォーナー上院議員に支持され、上院の主要な委員会に好意的に報告されているが、しかし下院ではバージニア州のヴァージル・グッドVirgil Goode)議員が、連邦の承認はインディアン・カジノ設立につながり、州内のギャンブルを促進することになるとして、この法案に反対している。

2007年12月、ラコタの人々が、“アメリカ合衆国政府は独立地域である事を保障する条約を締結以来150年にわたって遵守していない、もはや限界である”として条約の破棄とアメリカからの独立を宣言。独立国であることの承認を求める書簡をボリビアベネズエラチリ南アフリカ共和国などに送付すると共に国務省にも宣言書を提出した。

インディアン・カジノ

カジノ事業は現在のインディアンの主な経済収入の一つで「現代のバッファロー」とも言われ、インディアンの重要な産業となっている。1988年にアメリカ連邦会議は一定の条件付下で先住民部族のギャンブル事業の運営を認める案を可決した。1992年コネチカット州マシャンタケット・ピクォート族フォックスウッズ・カジノ・リゾートをオープンし、大きな利益を得ている。その事からピクォート族に続けと、他の部族も不安定な経済収入など将来性を考慮してギャンブル事業に乗り出してきている。アメリカに先住民が運営するカジノは377ヶ所あり、アパッチ族チョクトー族オネイダ族Oneida tribe)、チペワ族など連邦政府が承知する562の部族がギャンブル事業を運営して、年間の総収入は約1兆6500億円に達している。なおカジノの収入の多くは新たな土地の購入や道路の舗装、部族の医療や教育、居住などの資金などに使われている。

しかしカジノ経営をする部族の中には十分な収入が得られないのもあり、人口の集積地から近い、他のカジノとの競争が少ないなどの条件がそろわなければカジノの経営による利益は薄く、カジノの設立や運営を仲介する非インディアンの企業に支払う手数料も高額にのぼるなど、ギャンブルの経済効果を疑問視する声もある。ホピ族の様にカジノ事業を敬遠する部族もいる。ナバホ族は2度の住民投票でカジノ建設を否決してきた。

カリフォルニア州ではカジノは承認されていないが、前述の州法と連邦法の矛盾点を突いて、都市部でのカジノ建設を企む白人企業家グループが、この10余年にわたり、ポモ族コイ族などに次々に白羽の矢を立て、カジノ計画を持ちかけている。が、結局承認を得られず、大損を出して部族が振り回される格好になっている。オーロネ族は、部族の連邦承認要求のだしに、インディアン・カジノの建設を持ちかけられている。

カジノ産業のほか、観光や製造業などに進出している部族もあるが、ユタ州ゴシュート族のように、保留地を放射性廃棄物や生物兵器工場などの、産業とは名ばかりの汚染物質最終処分場にされている部族も多い。カリフォルニア州の繁栄は、上流の部族の水源を奪って実現している。セネカ族マンダン族の保留地の大半は、ダム建設で沈められた。ウィンドリバー・ショーショーニー族の保留地は地下核実験場にされ、国連に提訴する事態にもなっている。ほとんどの保留地が産業を持てず、なし崩しにこういった負の遺産を受け入れさせられている。

関連項目

民族

人物

歴史

政治

言語

文化

動植物

スポーツ

映像作品

その他

脚注

  1. ^ A Brief History of the Native American Church by Jay Fikes. URL accessed on February 22, 2006.

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