足利義輝

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足利義輝
足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)
時代 室町時代後期(戦国時代
生誕 天文5年3月10日1536年3月31日
死没 永禄8年5月19日1565年6月17日
享年30(満29歳没)
改名 菊幢丸(幼名)→義藤(初名)→義輝
戒名 光源院融山道圓
官位 従五位下正五位下左馬頭従四位下征夷大将軍参議左近衛中将従三位
従一位左大臣
幕府 室町幕府 第13代征夷大将軍
氏族 足利将軍家
父母 父:足利義晴、母:慶寿院近衛尚通の娘)
猶父:近衛尚通
兄弟 義輝義昭周暠
正室近衛稙家の娘
側室:小侍従(進士晴舎の娘)[注釈 2]
輝若丸、女子(耀山、宝鏡寺住持)、女子(伝山性賢、宝鏡寺住持)、天誉(足利義高)?、尾池義辰?
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足利 義輝(あしかが よしてる、1536年3月31日天文5年3月10日〉- 1565年6月17日永禄8年5月19日〉)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年〈天文15年〉- 1565年〈永禄8年〉)。足利宗家第20代当主。

生涯

少年期

天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。幼名は菊幢丸(きくどうまる)[2]。誕生直後に外祖父・近衛尚通猶子となる[注釈 3][3]。将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子も菊幢丸が初めてであった[4]

この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江国坂本に逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返した。また、これまでの将軍家の嫡男は政所頭人である伊勢氏の邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸は両親の手元で育てられた[5]

天文15年(1546年)7月27日、菊幢丸は朝廷より、義藤(よしふじ)の名を与えられた[6]。また、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭に任じられた[6]。これらは全て、父・義晴が朝廷に依頼し、実現したものであった[6]

同年12月19日、義藤の元服が執り行われた[6]。元服式は近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角定頼烏帽子親となった[6]。将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて元服を行った[7]。これは晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかった説もある)。なお、遊佐長教細川氏綱を烏帽子親にするように求めて六角定頼に阻止されたりするなど、当時の流動的な政治背景を元に晴元の舅である定頼を烏帽子親にしたとする見方もある[8]

翌20日、将軍宣下の儀式が行われ、義藤はわずか11歳にして父から将軍職を譲られ、正式に第13代将軍となった[9][10][11]。このとき、京より赴いた朝廷からの勅使が坂本に到着し、将軍宣下を行った[9]

一連の行動は、父・義晴がかつての先例に倣ったものであったとする意見がある[11]。義晴は11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる[11]。また、朝廷は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義輝の将軍宣下の翌日に義晴を右近衛大将に急遽任じている[12]

同月の末、義藤は父・義晴とともに坂本を離れ、京の慈照寺に戻り、翌天文16年正月26日には父とともに内裏に参内して、後奈良天皇に拝謁した[13][12][14]

天文16年(1548年)7月19日、義藤は義晴とともに晴元によって京を追われたが、29日に晴元と坂本で和睦し、京に戻った[15]。このとき、晴元も義藤の将軍就任を承諾している。

三好長慶との戦い

ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って、細川氏綱陣営に転属。天文18年(1549年)6月、江口の戦いで長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。この時期には義藤自らが御内書を発給し始めているが、まだ若年と言うこともあり大御所である義晴の存命中は義晴名義の、その没後は生母である慶寿院が御内書を発給している例がある[16]

天文19年(1550年)5月、父・義晴が穴太にて死去した(『万松院殿穴太記』)。義藤は父が建設を進めていた中尾城で、三好軍と対峙した(中尾城の戦い)。だが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ、翌天文20年(1551年)1月には政所頭人である伊勢貞孝が義輝を強引に京都に連れ戻して三好方との和睦を図ろうとするが失敗、これを知った六角定頼の勧めにより2月に朽木へ移ったが、これに反発した貞孝は奉公衆進士賢光らを連れて京都に戻って三好方に離反した[17]

天文20年(1551年)3月、義藤は京都の貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得ると先に貞孝と共に帰京した進士賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだが失敗した。賢光による暗殺劇は長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、賢光はその場で自害した。また、5月5日に親長慶派の河内守護代・遊佐長教が暗殺された事件も義藤の仕業とされ、畿内に不穏な空気が漂った。7月には三好政勝香西元成を主力とした幕府軍が京の奪回を図って侵入したが、松永久秀とその弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代)によって破られた(相国寺の戦い)。

天文21年(1552年)1月、義藤は長慶と和睦し、京都に戻った。これは同月に六角定頼が急逝して和解の空気が生まれたことによる。伊勢貞孝は赦免される一方、細川晴元は京都を脱出した。2月には三好長慶が御供衆として幕臣に列せられ、長慶が推す細川氏綱が京兆家、弟の細川藤賢が典厩家を相続することが認められた[18]。ところが、義藤の側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、これに反発する幕臣との確執が強まった。特にこの年の6月に義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切って山名氏や赤松氏の守護職を奪って尼子晴久を8か国守護に任じたことで幕府内に動揺が生じた[19]

天文22年(1553年)閏1月、上野信孝など側近の奉公衆らは長慶排除のために細川晴元と通じ、2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、これに義晴・義藤に長年従って三好氏と戦ってきた大舘晴光や朽木稙綱も同調した。3月には義藤自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いた霊山城に入城し、晴元と協力して長慶との戦端を開いた。義藤は晴元と長慶が芥川山城を包囲している最中に連合して入京を目論むが、7月に長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると、8月に幕府軍が籠城する霊山城が攻め落とされてしまった(東山霊山城の戦い)。同月、義藤は伯父である前関白近衛稙家らを伴い、朽木元綱(稙綱の孫)を頼って近江朽木谷に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義藤を見捨てて帰京したという。やがて、伊勢貞助結城忠正のように奉公衆でありながら、三好氏の家臣に準じた立場で活動する者も現れるようになった[20]

天文23年(1554年)2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、従三位に昇叙するとともに、名を義輝に改めている[21][22]。改名することにより、心機一転を図ったと考えられている[21]

弘治4年(1558年)2月、朝廷は正親町天皇の即位のため、年号を永禄に改元した。だが、京から離れた朽木谷にいた義輝は改元を知らされておらず、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなったため、朝廷に抗議している。改元は戦国時代であれど、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、朝廷は義輝に相談せず、長慶に相談して改元を実施していた[23]

永禄元年3月、義輝は改元の一件もあって、三好政権打倒のため、朽木谷で挙兵した[23]。5月なると、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、幕府軍が如意ヶ嶽に布陣して、三好長逸らの軍と北白川で交戦した(北白川の戦い)。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった。

11月、義輝は六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開した。この年の12月28日には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えている。

長慶はなおも権勢を高め、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに修理大夫への任官を推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。ただし、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や長年対立してきた自身と義輝の和解が難しいことは理解しており、永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から偏諱を拝領して義長(後に義興)と名乗り、翌3年(1560年)1月に義長が三好氏代々の官途であった筑前守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国芥川山城を義長に譲って、河内国飯盛山城に移っている。長慶は自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義長(義興)と義輝の間で新たな関係を構築することで関係の安定化を図ったとみられている[24]。なお、長慶が御相伴衆になると同時に嫡男の義興と重臣の松永久秀が御供衆に任ぜられている[25]

将軍親政

足利義輝木像(等持院霊光殿所蔵)

義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。伊達晴宗稙宗(天文17年(1548年))、里見義堯北条氏康[26](天文19年(1550年))、武田晴信長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久大友義鎮毛利元就尼子晴久[27][28][29](永禄3年(1560年))、松平元康今川氏真[30][31](永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟[32] (永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。

また、義輝は諸大名への懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏藤政などに、「輝」の字を毛利輝元伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また、朝倉義景島津義久武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。

永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任した。だが、信玄はさらに景虎の信濃撤退を求めたため、義輝は景虎の信濃出兵を認めた。永禄2年(1559年)には、美濃斎藤義龍尾張織田信長越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛し、義輝に謁見した。永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。また、長尾景虎の関東管領就任の許可、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。

また、諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、義輝自身は将軍就任翌年に従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから18年間にわたって昇進をせず[注釈 4]、また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回である。後に織田信長は義輝の朝廷軽視が非業の死の原因であると述べた(『信長公記』)とされているが、義輝の朝廷観については今後の研究課題とされている[34]

治世

足利義輝肖像(土佐光吉筆、光源院蔵)

永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する(久米田の戦い)と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。

こうした中、永禄5年(1562年)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした(また、貞孝が幕府法を無視した裁決を行っていたことが発覚したのも更迭の理由とされる[35])。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた(この反乱には三淵藤英ら伊勢氏以外の一部幕臣も加担していた形跡がある[36])。これによって、かつての3代将軍足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。

永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた)。

また、この年に伊達晴宗を奥州探題に任命している。もともと、奥州探題は足利氏一族である斯波氏の庶流である大崎氏が世襲していたが、伊達氏の軍事的圧力によってすでにその支配下に置かれていたため、その現状に対応するための補任であった。ただし、これはあくまでも手続上の話で、実際には弘治元年(1555年)には既に晴宗を探題として遇していたとされている[37]

永禄7年(1564年)7月に長慶が病死。義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。

最期

しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。

久秀の長男・松永久通と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。

永禄8年(1565年)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入した(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された[注釈 5]。最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺されたともいう。事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができる[注釈 6]。後世には、松永貞徳の『戴恩記』などの御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようになる。享年30(満29歳没)。

この時、進士晴舎といった多くの奉公衆や摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討死・自害にした。また、義輝の生母である慶寿院や義輝側室の小侍従殿までもが殺害されている。山田康弘は、義輝一族=義澄系足利氏の族滅を進めることによって、三好氏が擁立することになる義稙系に将軍家を統一し、半世紀以上にもわたる「二つの将軍家問題」に由来する政治的不安定を解消しようとする意図があったとする[38]。これに対して、山田邦明は三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れたものの、取次の際の齟齬から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする[39]柴裕之は三好側の意図は側近たちを排除を目的として政治的要求を行うために御所を包囲するいわゆる「御所巻」と呼ばれるもので、それ自体はかつての観応の擾乱における足利直義失脚、康暦の政変における細川頼之失脚、文正の政変における伊勢貞親失脚と同じ性格であったが、フロイスの記述を信じればその要求は将軍の妻妾や側近の処刑を含むもので義輝にとっては受け入れがたかった内容を含むものであったために、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる[40]。木下昌規は最初から義輝の殺害が目的であれば、政治的要求を申次である進士晴舎に提出するという正規の手続きを取っている理由が不明であるとする反面、その政治的要求で処刑を求められた側近と妻妾の中に進士晴舎とその娘の小侍従が含まれていたとすれば交渉自体が成立する可能性が低く(特に進士は三好氏との取次で、彼が突然自害したことで「手切」とみなされて戦いが始まっている)、殺害の意図の有無を推し量ることは難しいとしている[41]

辞世は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」[要出典]

死後

義輝の死後、三好氏による主君殺害は世間を憤慨させた[42]。特に義輝と親しくしていた大名らは激しく憤り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった[42]。また、河内の畠山高政の重臣・安見宗房も「前代未聞で是非も無いこと。(略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけている[42]。朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしている[43]

朝廷は義輝の死に悼惜し、6月7日に義輝に従一位左大臣追贈したばかりか、正親町天皇も政務を3日間停止して弔意を示した[44]。公家の山科言継は義輝の殺害を、「言葉がない。前代未聞の儀なり」と日記に記している。また、天皇に仕えていた女官も同様に、「言葉もないことだ」と嘆き悲しんでいる[44]。朝廷もまた、三好・松永の義輝殺害に強い怒りを感じていた[44]

義輝殺害に対する怒りは、支配層ばかりではなく、一般庶民にも広まっていた[44]。永禄10年(1567年)2月10日には、上京の真如堂で義輝追善の六斎踊が挙行され、摂津や近江坂本から集った2,800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだ(『言継卿記』2月10日条)[44][45]。また、同年10月にも真如堂で安芸から来た600人が義輝の奉公衆や女房衆に扮し、行列を組んで風流踊を行っている[注釈 7][46]今谷明は、「町の人々が義輝を追悼する踊りによって三好三人衆政権への抵抗を示した」と解釈している[47]山田康弘はこれらの事実から、「三好は世間を敵に回した」と評している[48]

天正17年(1589年)5月18日、毛利輝元が非命に斃れた義輝の25周忌に際して、鹿苑院塔主・西笑承兌にその仏事を依頼した[49]。これは、「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山(足利義昭のこと)も喜ばれるだろう」と考えた輝元の配慮でもあった[49]

人物

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址
  • 宣教師ルイス・フロイスは、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している(『フロイス日本史』第65章)。
  • 剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人である[注釈 8]。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。ただし卜伝はこの他に北畠具教や細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できず、免許を皆伝したという記録もない[注釈 9]
  • 永禄の変の際、フロイスの『日本史』では「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」と記されている(『フロイス日本史』第65章)。信長旧臣の太田牛一が著した『信長公記』でも「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記されている。また、『日本外史』には「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った」という記述も存在するが、これは義輝の死からかなりのちの時代(江戸時代後期)に記されたものである上、永禄の変に最も近い時期の史料には「名刀を取り替えて戦った」という記述自体が存在しないことから、創作の要素が極めて強く信憑性に欠けるものとされる。この『日本外史』による誇張が、義輝の評価を実像からかけ離れさせ、一人歩きさせた要因ともいえる。
  • 義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第とよばれる。のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧二条城と呼ばれることもある。
  • 天文23年(1554年)には大友氏から鉄砲火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年(1560年)にはガスパル・ヴィレラキリスト教の布教を許している。
  • 永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した[50][注釈 10]
  • それまで足利氏一門の世襲であった奥州探題・九州探題を非足利氏一門の伊達氏・大友氏に変え、長尾氏や三好氏・毛利氏などの新興大名に様々な栄典を与えるなど血統よりも実力を重視して、室町幕府の儀礼秩序の再構築を行うことで、室町幕府体制の再建を図ろうとしたと考えられる。しかし、その最大の目的であった三好氏への統制確立は三好氏(特に長慶・義興父子没後にその実権を握った三好三人衆)側からは脅威とみられて永禄の変の一因になったと考えられる[33]。また、足利将軍の権威の正体を「血統に基づく貴種性」とみる立場からはこうした"上からの改革"の進展が結果的には足利将軍の権威の否定、ひいては室町幕府の滅亡を早めたとする見解も出されている[51]

系譜

一般には一男三女とされ、長女は弘治2年(1556年)、次女は永禄7年2月24日、三女は義輝が殺害される直前の永禄8年4月17日に誕生した。次女と三女は『言継卿記』の誕生記事から生母が小侍従であることが分かる。息子は輝若丸(永禄5年(1562年)4月生 - 同年7月15日没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。

  • 細川藤孝の孫で熊本藩主となった忠利は、讃岐国高松藩生駒氏の下で閑居していた尾池義辰(玄蕃、義輝の遺児といわれる[注釈 11])を探し出し熊本に迎えて、100石扶持を与えた。忠利は、熊本藩の客分・宮本武蔵とともに義辰を山鹿温泉の新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。その長男の尾池伝右衛門は西山氏を名乗り、知行1,000石、比着座同列定席の家格にて奉行などを務め、子孫は明治に至る。
  • 他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護され丹波国波多野氏の下で養育されたという足利義高(出家して天誉)がいたと伝わる。

墓所・肖像

足利義輝像紙形(土佐光吉筆、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)
墓所
法号は光源院融山道圓。供養塔が山口県山口市俊龍寺にある。
肖像
他に、源弐(土佐光吉)の写したという頭部の下絵(紙形)が京都市立芸術大学所蔵の土佐家資料の中に現存する。国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本は、これを粉本として制作されたと考えられている。

経歴

  • 天文15年7月27日(1546年8月23日)、朝廷から義藤の名を与えられ、従五位下に叙す[6]
  • 同11月19日(1546年12月12日)、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。
  • 同12月19日(1547年1月10日)、六角定頼を加冠役として元服[6]
  • 同12月20日(1547年1月11日)、従四位下・征夷大将軍宣下[9]
  • 天文16年2月17日(1547年3月19日)、参議に補任し、左近衛中将を兼任。
  • 天文23年2月12日(1554年3月15日)、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。
  • 永禄8年5月19日(1565年6月17日)、薨去。
  • 同6月7日(1565年7月4日)、贈従一位、左大臣。

偏諱を受けた人物

※ 矢印の示す人物は、左の偏諱を受けた者から「義」「輝」の字を与えられた子息・家臣を示す。
公家
武家
「義」の字
「藤」の字
「輝」の字

義輝を題材とした作品

小説

舞台

  • ‐もっと深く歴史を知りたくなるシリーズ
    • 舞台『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』(前編)(2016年12月8日~14日 EXシアター六本木) 原作:宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』徳間文庫 刊 主演:足利義輝 演 染谷俊之
    • 舞台『剣豪将軍義輝~星を継ぎし者たちへ~』(後編)(2017年6月8日~18日 EXシアター六本木)原作:宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』徳間文庫 刊 主演:足利義輝 演 染谷俊之

楽曲

  • 天月-あまつき-『明星の刃』(詞:長谷川澪奈/原田雄一/天月‐あまつき-/、曲:KoTa/原田雄一 2016年)舞台『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』テーマソング
  • 天月‐あまつき‐『未来の星命』(詞:長谷川澪奈/天月‐あまつき‐、曲:KoTa/原田雄一 2017年)舞台『剣豪将軍義輝~星を継ぎし者たちへ~』テーマソング

義輝が登場した関連作品

映画
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ なお同書では、ライーニャおよびプリンセザの訳語に「奥方」を使用している。
  2. ^ 「公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである」
    「コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは~」[1]
  3. ^ 後法成寺関白記』天文5年3月11日・4月6日条。
  4. ^ 経済的な事情やたびたびの近江下向によって歴代将軍の官位昇進の先例に倣えず昇進の機会を逸した可能性も考えられるが、その一方で諸大名の官位授与に関する朝廷への窓口を自身に一本化しようとしている。また、足利義満以降の歴代将軍は花押に武家様と公家様の2種類を使い分けるか公家様のみを用いていたが、短期間で没して花押が知られていない義勝と義栄を別とすれば義輝だけが武家様の花押のみを用いている(先例に基づけば、権大納言以上に昇進してから花押を改める予定だったとも考えられるが、そもそも官位の昇進を志向していない)[33]
  5. ^ ルイス・フロイス『日本史』第65章。
  6. ^ 『言継卿記』5月19日条。
  7. ^ 『言継卿記』10月7日条。
  8. ^ 後に柳生宗矩細川忠利に門弟である雲林院弥四郎を推挙した際の書状において、上方における卜伝の直門として弥四郎の父・雲林院松軒と共に、義輝と北畠具教の名を挙げている。
  9. ^ 新当流の伝承では、卜伝が「唯授一人」の一之太刀を伝授した相手は北畠具教としている。また、卜伝本人からではないが、徳川家康も、その直門である松岡則方から一之太刀を伝授されている。
  10. ^ 『フロイス日本史』第1部66章および67章や、宣教師の書簡集などには、義輝の死後、竹内季治などの法華宗徒が松永久秀などに働きかけて正親町天皇を動かし、イエズス会の宣教師を京都から追放する勅令状を発行させることに成功し、宣教師は都を追われたという記述があるが、同書や彼らの書簡には義輝の生前に天皇より宣教師やイエズス会の会員を京都から追放する命令が出たという記述はない。
  11. ^ 『三百藩家臣人名事典』第七巻(新人物往来社)では義昭の弟としている。

出典

  1. ^ 『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』より[注釈 1]
  2. ^ 山田 2019, p. 52.
  3. ^ 山田 2019, p. 53.
  4. ^ 木下 2018, p. 8.
  5. ^ 木下 2018, pp. 8–9.
  6. ^ a b c d e f g 山田 2019, p. 61.
  7. ^ 山田 2019, pp. 61–62.
  8. ^ 木下 2017, pp. 285–287.
  9. ^ a b c 山田 2019, p. 62.
  10. ^ 榎原 & 清水 2017, p. 333.
  11. ^ a b c 榎原 & 清水 2017, p. 343.
  12. ^ a b 木下 2017, p. 287-294.
  13. ^ 山田 2019, p. 64.
  14. ^ 木下 2018, pp. 9–10.
  15. ^ 山田 2019, p. 72.
  16. ^ 木下 2018, p. 11.
  17. ^ 木下 2018, p. 12.
  18. ^ 木下 2018, pp. 12–13.
  19. ^ 木下 2018, p. 14-15.
  20. ^ 木下 2018, p. 24-25.
  21. ^ a b 山田 2019, p. 100.
  22. ^ 榎原 & 清水 2017, p. 337.
  23. ^ a b 天野忠幸『三好一族と織田信長』戎光祥出版、2016年、29-31頁。ISBN 978-4-86403-185-1 
  24. ^ 天野忠幸「三好政権と将軍・天皇」『織豊期研究』8号、2006年。 /所収:天野忠幸『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年。ISBN 978-4-7924-1039-1 
  25. ^ 木下 2018, pp. 21–22.
  26. ^ 矢崎勝巳「『彦部家譜』所収里見氏関係文書」『中世房総』5号、1991年。 
  27. ^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政―」『国学院大学大学院紀要』6輯、1974年。 
  28. ^ 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」『日本歴史』367号、1978年。 
  29. ^ 浅野友輔「戦国期室町将軍足利義輝による和平調停と境目地域―尼子・毛利氏間和平と石見福屋氏の動向―」『十六世紀史論叢』4号、2015年。 
  30. ^ 宮本義己「松平元康<徳川家康>の早道馬献納―学説とその典拠の批判を通して―」『大日光』73号、2003年。 
  31. ^ 柴裕之「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」『地方史研究』315号、2005年。 
  32. ^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」『政治経済史学』102号・103号、1974年。 
  33. ^ a b 水野嶺「義輝の政治活動とその原因」『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02962-9 P106-132.(新稿)
  34. ^ 木下 2018, p. 44-45.
  35. ^ 松村正人「室町幕府政所頭人伊勢貞孝-その経営基盤と行動原理をめぐって-」『白山史学』35号、1997年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第四巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  36. ^ 金子拓「室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英」(初出:『東京大学史料編纂所研究紀要』12(2002年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4 P14-49.)2015年、P25-26.
  37. ^ 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号(2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-315-2) 2019年、P65-73.
  38. ^ 山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年。 
  39. ^ 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年、127頁。 
  40. ^ 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。 
  41. ^ 木下 2018, p. 50-53.
  42. ^ a b c 山田 2019, p. 128.
  43. ^ 山田 2019, pp. 128–129.
  44. ^ a b c d e 山田 2019, p. 129.
  45. ^ 今谷明『戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都-』〈講談社学術文庫〉2002年。 
  46. ^ 山田 2019, pp. 129–130.
  47. ^ 今谷明『戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都-』〈講談社学術文庫〉2002年。 
  48. ^ 山田 2019, p. 130.
  49. ^ a b 奥野高広 1996, p. 295.
  50. ^ ベン・アミー・シロニー 著、大谷堅志郎 訳「第4章「非力で女性的な天皇像」、10「非力な天皇の秘めたる強さ」「ふたりの元首―信長と正親町天皇」」『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』講談社、2003年、146頁。 
  51. ^ 谷口雄太「足利一門再考 -[足利的秩序]とその崩壊-」・「足利時代における血統秩序と貴種権威」(共に『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年) 所収)

参考文献

  • 木下昌規 著「総論 足利義輝政権の研究」、木下昌規 編『足利義輝』思文閣出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  • 木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」『日本歴史』793号、2014年。 /所収:木下昌規 編『足利義晴』思文閣出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第三巻〉、2017年。ISBN 978-4-86403-253-7 
  • 山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年12月。 NCID 4623087913識別子"4623087913"は正しくありません。 
  • 榎原雅治; 清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年。 
  • 奥野高広『足利義昭』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 4-642-05182-1 

関連項目