山名藤幸
| 時代 | 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 永禄7年(1564年) |
| 別名 | 通称:五郎[1] |
| 戒名 | 大宝院高誉寿性信士[1] |
| 官位 | 摂津守 |
| 主君 | 尼子晴久→毛利隆元→輝元→尼子義久 |
| 氏族 | 山名氏(日野山名氏(山名義幸流)) |
| 父母 | 父:山名豊幸[注釈 1]? |
| 子 |
千才童子?[2] 養子:日野景幸 (宮景盛の次男) |
山名 藤幸(やまな ふじゆき)は、戦国時代の武将。伯耆国日野郡を拠点とする日野山名氏の当主。
出自
[編集]日野山名氏は本来は山名氏の嫡流であった。初代・山名義幸以降、山名氏惣領の座は退いたものの、伯耆国日野郡一帯には勢力を保持し続け、幕府からも「日野屋形」の公称を許されていた。但馬山名家中心の『山名系図』に記載がないため確証はないが、藤幸は5代当主・山名豊幸の子もしくは孫に当るものと思われる。
生涯
[編集]天文16年(1547年)8月、幸綱(名字不明)という人物が「五郎殿」の意向を受けて伯耆国日野郡上榎村の神主である雅楽二郎左衛門尉に対して社頭を安堵する書状を発給しているが、「五郎」は日野山名氏の当主が名乗る通称であることから、この書状における「五郎殿」が若い頃の藤幸を指すと考えられている[3]。なお、天文6年(1537年)から天文11年(1542年)にかけて見られる日野山名氏当主・山名摂津守とは異なり官途名を名乗っていないことから、天文16年(1547年)からさほど離れていない時期に「五郎殿」(藤幸)が日野山名氏の当主に就任し、その継目安堵として雅楽二郎左衛門尉宛ての安堵状が発給されたとされる[4]。
天文15年(1546年)7月から天文23年(1554年)2月までの間[注釈 2]に室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を与えられ、「藤幸」を名乗った[5]。16世紀以降は在国している山名惣領家を含めて、山名一族が足利将軍家から偏諱を受ける例はほとんど確認できないため、藤幸への偏諱授与は異例な動きであるが、これは日野山名氏が足利義晴・義輝政権に繋がる確かなパイプを有していたことを示すと考えられている[5]。
一族である伯耆守護家が衰退した後、日野郡にまで進出してきた隣国の尼子氏の下に属したが、尼子氏の退潮を見越してか永禄年間の初期に毛利氏の下へ離反した[5]。毛利元就は伯耆国と備後国の国境を境目の重要地域と認識し、「日野之儀も境目にて大事候」と述べており、境目地域を押さえる重要性から日野山名氏に対して厚遇と関与を行っている[6]。
永禄2年(1559年)[要出典]11月、毛利元就は粟屋就方を藤幸のもとに派遣し、藤幸の家臣から人質を取る際には藤幸と相談して判断することを求めている[6][7]。その理由として、元就は人質を媒介として藤幸の家臣団の結束を高めたいことを挙げているが、日野山名氏の家中が情勢次第で動揺する危険を内包していたことも窺える[6][7]。
尼子氏からの離反後は備後国国人・宮氏に身を寄せており、本拠地であった生山城(日野本城)は当初、尼子氏に掌握されていたが、永禄5年(1562年)6月に備後国久代から出陣して攻略し、城番であった中井久家や米原綱寛を退却させた[4][8]。奪回後は、生山城を拠点に毛利氏による尼子勢力の討伐に協力した。
永禄6年(1563年)7月には西伯耆北部の尼子勢力を退けるため、杉原盛重ら備後国人衆と共に河岡城・尾高城方面[注釈 3]に派遣された。毛利氏が西伯耆で軍事活動を展開する際には宮景盛、杉原盛重、山名藤幸の3人が中核となっている[6]。
永禄7年(1564年)8月、「日野衆逆心」や「日野郡敵心」と呼ばれる争乱が発生し、日野郡江尾の蜂塚城で激しい合戦が繰り広げられた[6]。この合戦は蜂塚城を拠点として毛利氏から離反した蜂塚右衛門尉と毛利氏の合戦と理解されているが、同時期に藤幸が毛利氏を離反して蜂塚氏に加担したことで事態が深刻かつ大規模になった[6]。なお、同年7月までには既に藤幸が離反行為を働いていたためか、7月の西伯耆における毛利氏の軍事活動では藤幸が外されて宮景盛と杉原盛重の2人に日野郡溝口へ進出する指示が与えられ、伯耆国人の南条宗勝や備中国人の三村家親にも合力を要請することが計画されている[6]。
藤幸離反の理由として、毛利氏に帰属して以降、日野山名氏はじめ在地領主の日野衆と新たに入った備後国人衆との確執があったことが考えられ、この一連の戦いでは、進氏や日野氏などの日野衆の多くが尼子方として参戦している。また、同年8月25日に毛利元就が宮景盛に宛てた書状で毛利軍にも戦死者や月山富田城に囚われた者が多数出たと述べられるなど、激しい合戦であったことが窺える[9]。
最終的に藤幸らは毛利方の宮景盛らに敗北しており、その後の藤幸の消息が確認できないことから、藤幸はこの戦いで戦死したと考えられている[6]。なお、長州藩士となった日野家の家譜には、宮景盛の次男である景幸が藤幸の養子となっていたが、実父の宮景盛へ藤幸の逆意を報告した結果、宮景盛が藤幸と戦って藤幸を討ち果たしたことが記されている[10]。
戦後、日野景幸は日野山名氏の旧領と家督を相続するよう命じられ、養子として在名から日野氏を称した。また、『伯耆民談記』によれば、日野郡の奥地にある俣野の土居城は藤幸の居城であったというが、これを証明する傍証史料は存在しないため、確証はない。
なお、長州藩士(萩藩士)となった尼子氏の子孫に伝わった近世以降に作成されたとみられる「同性連枝同子孫之諸霊写」という過去帳に「藤沢幸 山名五郎 大宝院高誉寿性信士 十月二十一日」という記載が見られ、おそらく藤幸の法名と命日であると考えられている[1]。また、尼子氏関係者の過去帳に記載されていることから、近世以降の尼子氏子孫には藤幸も関係者として認識されていたことが分かり、藤幸と尼子氏が密接な関係にあったことが窺える[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 伊藤大貴 2025.
- ^ 伊藤大貴 2024, p. 69.
- ^ 伊藤大貴 2024, pp. 71–72.
- ^ a b 伊藤大貴 2024, p. 71.
- ^ a b c d 伊藤大貴 2024, p. 72.
- ^ a b c d e f g h 伊藤大貴 2024, p. 70.
- ^ a b 『閥閲録』巻33「粟屋勘兵衛」第16号、年不詳11月2日付け、粟屋木工允(就方)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻55「國司与一右衛門」第7号、永禄5年(1562年)比定6月18日付け、山縣木工助(春直)殿・國司雅楽允(就信)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署状。
- ^ 『閥閲録』巻29「日野要人」第1号、永禄7年(1564年)比定8月25日付け、宮上總介(景盛)殿 御陣所宛て、(毛利)元就書状
- ^ 『閥閲録』巻29「日野要人」家譜。
参考文献
[編集]- 高橋正弘『因伯の戦国城郭 通史編』自費出版、1986年。
- 宮田靖国編『山名家譜』六甲出版、1987年。
- 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』平凡社、1992年。 ISBN 4-582-49032-8
- 鳥取県教育委員会編『鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集(伯耆編)』2004年。
- 鳥取県立公文書館 県史編さん室編『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』鳥取県、2010年。
- 伊藤大貴「中世後期日野山名氏の基礎的考察」『大阪大谷大学歴史文化研究 第24号』大阪大谷大学歴史文化学科、2024年3月、64-78頁。
- 伊藤大貴「山名藤幸の法名・命日から-尼子氏と山名一族-」researchmap研究ブログ、2025年10月。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻29「日野要人」、巻33「粟屋勘兵衛」、巻55「國司与一右衛門」