東山霊山城

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東山霊山城
京都府
別名 霊山城、東山御城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 足利義輝
築城年 天文21年(1552年
主な改修者 不明
主な城主 天文22年(1553年
廃城年 不明
遺構 曲輪堀切
指定文化財 なし
再建造物 なし

東山霊山城(ひがしやまりょうぜんじょう)あるいは霊山城(りょうぜんじょう)とは、現在の京都市東山区清閑寺霊山町(当時は山城国愛宕郡)にある霊山(標高176m)に築かれた戦国時代日本の城山城)跡である。

室町幕府13代将軍足利義輝によって天文21年(1552年)に築城が開始され、翌22年(1553年)には陥落し、廃城となったと考えられる。16世紀には東山に将軍などの公権力が中尾城将軍山城のように山城[1]を築くことが多くなり、霊山城もその系譜に属している[2]。霊山城の縄張図は「洛中洛外の城館と集落―城郭研究と首都論―」に掲載されている。

霊山[編集]

東山霊山城の存在する霊山は、東山三十六峰の一つであり、周辺には京都霊山護国神社高台寺清水寺等が位置している。霊山の中腹には正法寺が存在している。

背景[編集]

天文17年(1548年)に細川晴元に叛いた三好長慶は、翌天文18年(1549年)に江口の戦いの勝利によって入京を果たし、晴元、将軍義輝とその父で大御所足利義晴らは近江坂本へ退却した。そこで、義晴・義輝父子は京都奪回を期し、天文19年(1550年)に中尾城、将軍山城を築城・増築した(義晴は5月に死去)。しかし同年11月、京都に入った三好長慶以下4万の軍勢を前に、義輝方は一戦も交えずに坂本へ撤退し、これらの城は自焼没落あるいは三好方の城割りによって破却された。その後義輝方と三好氏の争いが続いたが、天文21年1月に義輝と長慶の間で和睦が成立、10月27日に霊山城の築城が開始されることとなる。これは、義輝と長慶は手を結んでいたものの、京都奪還を狙う細川晴元らの脅威が存在していたためである。

清水坂の戦い[編集]

まさに築城開始から1ヶ月後の11月27日に晴元が西岡に現れ周辺を放火し、嵯峨に着陣した。その際に、三好方の小泉秀清及び中路修理らは不安を感じたのか西院城を自焼して霊山城に合流した。翌28日に霊山城に向けて晴元は進撃した。『言継卿記』天文二十一年十一月廿八日条[3]

牢人衆西邉方々放火、辰刻計靈山へ取懸、五篠坂悉放火、建仁寺之大龍十如二塔頭悉炎上了、乗拂無之、清水之坂にて軍有之、但討死無之、手負左右方六七人宛有之、云々、午時引之

とあるように、晴元は五条坂を焼き払い、建仁寺も炎上したが、清水坂における合戦に勝利できず、晴元方は東山霊山城を攻撃することは出来ずに撤退した。

東山霊山城の戦い[編集]

東山霊山城の戦い
戦争攻城戦
年月日天文22年(1553年8月1日
場所:霊山周辺
結果三好氏勢力Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svgの勝利
交戦勢力
三好長慶Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg 足利義輝Kamon ashikagafutatuhiki.png
細川晴元松笠菱(細川向かい松).jpg
指導者・指揮官
今村慶満 松田監物
磯貝久次?
三宝院
内藤彦七?
戦力
不明 不明
損害
数名討死、十数人負傷 壊滅

その後も築城は継続されたが、天文22年(1553年)3月8日、義輝と長慶は再び敵対することとなり、義輝は霊山城に入った。前年の12月の段階で既に一部の幕臣が晴元に内通して長慶を排除しようと画策していたが、2月になると彼らの手引きで晴元が京都西北に出没、長慶は問題解決のため義輝に内通者の奉公衆から人質を要求したことが義輝の怒りに触れたのである。

7月、長慶に対して叛いた芥川孫十郎の籠る摂津芥川山城を長慶が攻めていた際、28日に晴元が丹波から軍勢を率いて侵入して三好方の小泉秀清が守る西院城周辺に放火した。29日にも西院付近で小規模な戦闘が行われ、義輝も晴元方と手を組んだ。30日に義輝が北野の右近馬場に布陣し、内藤彦七以下の3000-4000人の軍勢が西院城を包囲したが、軍勢の損耗を恐れて攻撃を行わなかった。西院城は陥落せず、8月1日に東山霊山城は攻撃された。

『言継卿記』天文二十二年八月一日条は以下のように東山霊山城の戦いを伝えている[4]

三好筑前守[長慶]人數、其外河内、和泉、大和、攝津、紀伊等人數二萬五千許上洛云々、武家[将軍足利義輝]辰下刻御出陣、舟岡に御座候、然處東山靈山御城、松田監物、三寶院衆、山中之磯谷等持之、今村紀伊守[慶満]人數取懸責之、今村源七以下五六人討死云々、其外十五六人手負有之、但松田監物生害云々、御城放火了、御無念之至也、其外自下大宮通、其西又二通三手に諸家勢上了、武家山中[舟岡山山中]へ御座被移云々、其外之人數山上へ取引之

まず、1日の早朝より長慶が2万5000ほどともいわれる大軍を率いて上洛した。義輝は船岡山に移動し、東山霊山城は松田監物、醍醐寺三宝院衆、磯谷氏らが守備に当たっていた。松田監物はおそらく室町幕府奉行人を務める家系である松田家の人物であると思われる。三宝院は醍醐寺の子院であり、寺領をめぐって三好氏と対立していたらしい。磯谷氏は山中村(現在の大津市山中町)周辺を基盤とした土豪である。

三好方では、今村慶満の軍勢が霊山城を攻めた。今村慶満は霊山城付近の渋谷越の流通を基盤とした今村氏の人物で、現地の地理を知悉していたと考えられる(阿弥陀ヶ峰城を参照)。戦闘の結果、三好方でも今村氏の一族など数人が戦死し、15、6人ほどの負傷者が出たものの、守備側では松田監物が自殺し、三宝院衆にも負傷者が出て、霊山城には火の手が上がり陥落した。

なお、陥落後義輝は船岡山に籠ったが、翌2日に三好方の軍勢が船岡山に迫ったので義輝一行は長坂越を経由し、5日に丹波山国荘を通過して近江の龍花に到着、その後朽木へ向かった。霊山城陥落によって5年間にもわたって義輝は朽木に幽居した[5]

遺構[編集]

霊山の山頂を中心に東、西、南の三方向に曲輪が展開し、東側に二箇所、南側に一箇所堀切が確認できる。東側の京都一周トレイルから城址に入ることが可能である。正法寺、高台寺、興正寺、清水寺などの周辺寺院の影響によって遺構の少なくない部分が破壊されたと考えられている[6]。なお、西側の曲輪に「春畝伊藤公遺詩碑」(「春畝伊藤公」とは伊藤博文のこと)という石碑がある。

城跡へのアクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「御城」、「御要害」と史料上表記された。
  2. ^ 「洛中洛外の城館と集落―城郭研究と首都論―」。
  3. ^ []内は引用者による注釈。
  4. ^ []内は引用者による注釈。
  5. ^ 以上は「東山霊山城について」による。
  6. ^ 「東山霊山城について」。

参考文献[編集]

  • 今谷明『戦国時代の貴族』講談社、2002年。
  • 京都大学考古学研究会「東山霊山城について」『第53トレンチ』、2012年。
  • 福島克彦「洛中洛外の城館と集落――城郭研究と首都論――」高橋康夫編『中世のなかの「京都」』新人物往来社、2006年。
  • 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典 六 京都・兵庫・岡山』P139 - P140、新人物往来社、1989年。
  • 長江正一人物叢書 三好長慶』P120 - P135、吉川弘文館、1968年(新装版、1989年4月)。ISBN 978-4-642-05154-5
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』P169 - P182、洋泉社、2007年。
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』P105 - P108、吉川弘文館、2009年。

関連項目[編集]