コンテンツにスキップ

「富樫凱一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
テンプレート追加
タグ: 2017年版ソースエディター
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
4行目: 4行目:
[[北海道]][[旭川市]]生まれ。[[北海道帝国大学]]卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入り、関門国道改良事務所長、[[建設省]]道路局長、[[技監]]などを歴任し、[[1960年]]退任。[[1966年]][[日本道路公団]]総裁、[[1967年]][[土木学会]]会長、[[1970年]][[本州四国連絡橋公団]]総裁。[[1978年]]海洋架橋調査会会長。
[[北海道]][[旭川市]]生まれ。[[北海道帝国大学]]卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入り、関門国道改良事務所長、[[建設省]]道路局長、[[技監]]などを歴任し、[[1960年]]退任。[[1966年]][[日本道路公団]]総裁、[[1967年]][[土木学会]]会長、[[1970年]][[本州四国連絡橋公団]]総裁。[[1978年]]海洋架橋調査会会長。


技術者として、[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]の設計・建設や東名高速道路建設に一貫して尽力した他、[[本州四国連絡橋]]の[[児島地域|児島]]・[[坂出港|坂出]]ルート([[瀬戸大橋]])の建設に関しては、開発公団初代総裁として長大[[吊り橋]]を始めとする新技術の導入・開発に当たった。[[1972年]]土木学会功績賞。[[1976年]][[勲一等瑞宝章]]受章。瀬戸大橋が開通した[[1988年]]に、以上の功績により[[文化功労者]]に選ばれた。
技術者として、[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]の設計・建設や東名高速道路建設に一貫して尽力した他、[[本州四国連絡橋]]の[[児島地域 (倉敷市)|児島]]・[[坂出港|坂出]]ルート([[瀬戸大橋]])の建設に関しては、開発公団初代総裁として長大[[吊り橋]]を始めとする新技術の導入・開発に当たった。[[1972年]]土木学会功績賞。[[1976年]][[勲一等瑞宝章]]受章。瀬戸大橋が開通した[[1988年]]に、以上の功績により[[文化功労者]]に選ばれた。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2024年4月5日 (金) 02:03時点における最新版

富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1993年4月21日)は、日本の土木工学者、建設官僚東名高速道路の全線開通、本州四国連絡橋の完成などに尽力。文化功労者

来歴[編集]

北海道旭川市生まれ。北海道帝国大学卒業。内務省に入り、関門国道改良事務所長、建設省道路局長、技監などを歴任し、1960年退任。1966年日本道路公団総裁、1967年土木学会会長、1970年本州四国連絡橋公団総裁。1978年海洋架橋調査会会長。

技術者として、関門トンネルの設計・建設や東名高速道路建設に一貫して尽力した他、本州四国連絡橋児島坂出ルート(瀬戸大橋)の建設に関しては、開発公団初代総裁として長大吊り橋を始めとする新技術の導入・開発に当たった。1972年土木学会功績賞。1976年勲一等瑞宝章受章。瀬戸大橋が開通した1988年に、以上の功績により文化功労者に選ばれた。

外部リンク[編集]