原田貞介
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原田 貞介(はらだ ていすけ、慶応元年3月7日(1865年4月2日)[1][2] - 1937年(昭和12年)9月30日[2])は、明治から大正時代の土木技術者、内務技監。工学博士。
経歴・人物
[編集]原田精一の長男として周防国(現・山口県)に生まれ、1900年(明治33年)11月に家督を相続する[1]。1883年(明治16年)旧東京大学理学部に入学するが、寄宿生一同のストライキに参加して1886年(明治19年)退学し、ドイツに自費留学する[3]。シャロッテンブルク高等工芸学校(王立シャルロッテンブルク工科大学、現在のベルリン工科大学)に入学し、河海工学を修めて1891年(明治24年)卒業する[3]。
翌年の1892年(明治25年)5月、内務省に入省し、土木監督署技師、1898年(明治31年)第4区(名古屋)土木監督署長、1905年(明治38年)名古屋土木出張所長、1911年(明治44年)下関土木出張所長を経て、1918年(大正7年)内務技監となり、1924年(大正13年)退官した[1][2]。ほか、朝鮮総督府土木顧問[3]、港湾調査会委員、臨時治水調査会委員、帝都復興院参与、土木学会第8代会長など要職を歴任した[2]。1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。
任官中、中国へ渡り漢口の護岸工事などを指導[2]。また、沖野忠雄と共に明治改修に尽力した[5]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 人事興信所 1915, は36頁.
- ^ a b c d e 公益社団法人 土木学会 歴代会長紹介、2019年6月5日閲覧。
- ^ a b c 高橋、藤井 2013, 72頁.
- ^ 『官報』第1725号、昭和7年9月28日。
- ^ 歴史が語る、治水の変遷│32号 治水家の統(すべ):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター、2019年6月5日閲覧。
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
参考文献
[編集]- 人事興信所『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 高橋裕、藤井肇男 共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294。