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'''高須藩'''(たかすはん)は、[[江戸時代]]に[[美濃国]][[石津郡]]高須([[岐阜県]][[海津市]])付近を領有した[[藩]]。藩庁は[[高須陣屋]](初期は高須城)。一時期、駒野館([[宝暦]]13年([[1763年]])- [[安永]]7年([[1778年]]))。江戸中期以降は[[尾張藩]]の[[支藩]]であった。 |
'''高須藩'''(たかすはん)は、[[江戸時代]]に[[美濃国]][[石津郡]]高須([[岐阜県]][[海津市]])付近を領有した[[藩]]。藩庁は[[高須陣屋]](初期は高須城)。一時期、駒野館([[宝暦]]13年([[1763年]])- [[安永]]7年([[1778年]]))。江戸中期以降は[[尾張藩|名古屋藩]]の[[支藩]]であった。 |
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== 概要 == |
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寛永17年([[1640年]])9月28日、[[下総国|下総]][[関宿藩]]より[[小笠原貞信]]が2万2000石で入封した。貞信は城下の復興に尽力し、「[[高須日記]]」によると[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])には「繁昌の城と相成り、郷中堤樋共丈夫に相成り、万民安堵」とある。しかし水害の多さから藩政は困難となり、[[元禄]]4年([[1691年]])7月26日、[[越前国|越前]][[越前勝山藩|勝山藩]]に転封となり、廃藩となる。その後、高須藩は幕府領を経て、笠松代官領となる。 |
寛永17年([[1640年]])9月28日、[[下総国|下総]][[関宿藩]]より[[小笠原貞信]]が2万2000石で入封した。貞信は城下の復興に尽力し、「[[高須日記]]」によると[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])には「繁昌の城と相成り、郷中堤樋共丈夫に相成り、万民安堵」とある。しかし水害の多さから藩政は困難となり、[[元禄]]4年([[1691年]])7月26日、[[越前国|越前]][[越前勝山藩|勝山藩]]に転封となり、廃藩となる。その後、高須藩は幕府領を経て、笠松代官領となる。 |
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[[信濃国|信濃]][[伊那郡]]・[[高井郡]]・[[水内郡]]内に3万石の所領を得て、[[高井藩]]を立藩していた[[尾張藩]]第2代藩主[[徳川光友]]の次男[[松平義行]]は元禄13年([[1700年]])3月25日、所領の半分である1万5000石を高井郡・水内郡の領地と美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度高須藩が成立し、以後[[尾張徳川家]][[御連枝]]である松平家が領した。 |
[[信濃国|信濃]][[伊那郡]]・[[高井郡]]・[[水内郡]]内に3万石の所領を得て、[[高井藩]]を立藩していた[[尾張藩|名古屋藩]]第2代藩主[[徳川光友]]の次男[[松平義行]]は元禄13年([[1700年]])3月25日、所領の半分である1万5000石を高井郡・水内郡の領地と美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度高須藩が成立し、以後[[尾張徳川家]][[御連枝]]である松平家が領した。 |
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名古屋藩主の子が立藩しており、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、名古屋藩を輔弼する役割を果たすなど[[支藩]]として機能した。しかし、所領は[[徳川幕府|幕府]]より与えられたものであった。第3代藩主の松平義淳は[[徳川宗勝]]として名古屋藩第8代藩主となり、第5代藩主の松平義柄も[[徳川治行]]として第9代藩主[[徳川宗睦]]の養子となった(相続前に早世)。また、第10代藩主[[松平義建]]には子が多く、次男は名古屋藩第14代藩主[[徳川慶勝]]、三男は[[石見国|石見]][[浜田藩]]主[[松平武成]]、五男は高須藩第11代藩主から名古屋藩第15代藩主、さらに後には[[御三卿]][[一橋徳川家|一橋家]]当主となった(名乗りも松平義比→[[徳川茂徳]]→徳川茂栄と変遷)。七男が[[会津藩]]主[[松平容保]]で、九男が[[桑名藩]]主[[松平定敬]]と[[幕末]]に活躍した藩主となった。十男の[[松平義勇|義勇]]は高須藩第13代藩主となっている。 |
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藩政で特筆すべきことは、第4代藩主[[松平義敏]]が水害が起こることを考慮して、幕府に嘆願して駒野へ館を移し、第6代藩主[[松平義裕]]の時代に高須に戻したことくらいである。 |
藩政で特筆すべきことは、第4代藩主[[松平義敏]]が水害が起こることを考慮して、幕府に嘆願して駒野へ館を移し、第6代藩主[[松平義裕]]の時代に高須に戻したことくらいである。 |
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明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で、最後の藩主であった松平義勇は高須藩知事に任じられる。[[明治]]3年([[1870年]])、 |
明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で、最後の藩主であった松平義勇は高須藩知事に任じられる。[[明治]]3年([[1870年]])、名古屋藩に併合され廃藩となった。 |
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== 歴代藩主 == |
== 歴代藩主 == |
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=== 松平 |
=== 高須松平家 === |
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[[親藩]]・[[御連枝]] 3万石 1700年 - 1870年 |
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2022年9月23日 (金) 10:35時点における版
高須藩(たかすはん)は、江戸時代に美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は名古屋藩の支藩であった。
概要
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、高須城1万石の高木盛兼は西軍に与したため改易となる。代わって東軍方の美濃松ノ木城主徳永寿昌が高須城を攻め取った軍功により、5万673石で入封し、高須藩が立藩した。寿昌は慶長6年(1601年)から城郭の修築などに尽力し、藩政を確立した。第2代藩主昌重の時代には加増を受けて5万3000石となった。しかし、寛永5年(1628年)2月28日、大坂城石垣普請助役に任ぜられたが、任務遅滞を理由に改易となった。このため、高須藩は廃藩となって笠松代官の岡田善同が支配することとなる。
寛永17年(1640年)9月28日、下総関宿藩より小笠原貞信が2万2000石で入封した。貞信は城下の復興に尽力し、「高須日記」によると天和元年(1681年)には「繁昌の城と相成り、郷中堤樋共丈夫に相成り、万民安堵」とある。しかし水害の多さから藩政は困難となり、元禄4年(1691年)7月26日、越前勝山藩に転封となり、廃藩となる。その後、高須藩は幕府領を経て、笠松代官領となる。
信濃伊那郡・高井郡・水内郡内に3万石の所領を得て、高井藩を立藩していた名古屋藩第2代藩主徳川光友の次男松平義行は元禄13年(1700年)3月25日、所領の半分である1万5000石を高井郡・水内郡の領地と美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度高須藩が成立し、以後尾張徳川家御連枝である松平家が領した。
名古屋藩主の子が立藩しており、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、名古屋藩を輔弼する役割を果たすなど支藩として機能した。しかし、所領は幕府より与えられたものであった。第3代藩主の松平義淳は徳川宗勝として名古屋藩第8代藩主となり、第5代藩主の松平義柄も徳川治行として第9代藩主徳川宗睦の養子となった(相続前に早世)。また、第10代藩主松平義建には子が多く、次男は名古屋藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から名古屋藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩主松平容保で、九男が桑名藩主松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。
藩政で特筆すべきことは、第4代藩主松平義敏が水害が起こることを考慮して、幕府に嘆願して駒野へ館を移し、第6代藩主松平義裕の時代に高須に戻したことくらいである。
明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主であった松平義勇は高須藩知事に任じられる。明治3年(1870年)、名古屋藩に併合され廃藩となった。
歴代藩主
徳永家
外様 5万石 1600年 - 1628年
小笠原家
譜代 2万2千石 1640年 - 1691年
高須松平家
幕末の領地
江戸屋敷
荒木町 (新宿区)にあった。
脚注
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1997年 ISBN 978-4404025241
- 中嶋繁雄著『大名の日本地図』文春新書、2003年 ISBN 978-4166603527
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