徳永寿昌
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 慶長17年7月10日(1612年8月6日) |
別名 | 権之進(通称)、昌時、下総守、石見守、式部卿法印 |
戒名 | 広徳院殿桂厳寿昌大居士 |
墓所 | 岐阜県海津市海津町高須の広徳寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 柴田勝豊→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 美濃高須藩主 |
氏族 | 徳永氏 |
父母 | 父:徳永昌利 |
妻 | 正室:三上氏 |
子 | 昌重、昌成、昌純、昌明、娘(松平康重継室) |
徳永 寿昌(とくなが ながまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃高須藩初代藩主。
生涯[編集]
美濃、尾張、近江など出身地は諸説あり、はっきりしない。
はじめ柴田勝家の養子の柴田勝豊に仕えた。柴田氏と羽柴氏が争った天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、直前に勝豊が羽柴秀吉方に下ったため、羽柴方として参戦した。その直後に勝豊が病死したため秀吉の家臣となり、後に豊臣秀次付の家老として美濃国松ノ木城に3万石の所領を与えられた。秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る。秀次の失脚事件には連座せず、むしろ秀次の罪状を並べ立てたと伝わる。秀次の処分の際には秀次の妻子を自らの屋敷に捕縛・軟禁する役割を務めた。
慶長3年(1598年)、秀吉の死後に文禄・慶長の役の幕引きをはかる五大老の徳川家康の命令で、宮城豊盛や徳川家臣の山本重成とともに朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍に属した隣城高須城1万石の城主高木盛兼を謀略を使ってこれを落とし、また本戦終了後に駒野城に篭城した池田秀氏を降伏させた。戦後、徳川家臣の本多正信や大久保忠隣らとともに、関ヶ原の戦いで奮戦した諸大名の戦功を調べる役目を務めた。これらの戦功により高須にて2万石を加増され、高須藩初代藩主となった。
慶長17年(1612年)7月10日、64歳で死去し、跡を長男の昌重が継いだ。
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