国重正文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

国重 正文(くにしげ まさぶみ、1840年11月30日(天保11年10月15日)- 1901年明治34年)10月27日[1])は、幕末長州藩士明治期の内務官僚教育者神職。官選富山県知事。通称・徳次郎[2]、篤次郎[3]漢詩に堪能で、半山とした[4]

経歴[編集]

長門国阿武郡土原(現山口県萩市)で、長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学んだ。文久元年(1861年家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した[3][4]

明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた。幕府の追手より逃れる為に月形半平太と変名していた。京都池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である。蛤御門の変戊辰戦争後、吉田県(現在の山口県下関北部)令になった[5]

明治政府に出仕し、明治5年(1872年京都府七等出仕に就任。以後、少参事、権参事、参事、大書記官などを歴任。1883年5月、富山県令に登用され、1886年7月、地方官官制改正に伴い同県知事となる。教育の充実に尽力[4]1888年10月に内務省社寺局長に転じた[6]1893年6月1日に依願免本官となり退官した[7]。 その後、國學院院長[3]帝室博物館理事[要出典](越中人譚)を務め、1899年5月、伏見稲荷大社宮司となり、在任中に死去した[8]法号は、正徳院殿文宗半山大居士であり(西坊家口伝集続々9頁)、大徳寺黄梅院に葬られた。[要出典](越中人譚)

系譜[編集]

清和天皇-貞純親王-源経基-源満仲-源頼信-源頼義-源義光-武田義清-清光-信義-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-直信-信在-信繁-信栄-信賢-信恒-国重信正-就正-元恒-就恒-政恒-信共-信全-恒貞-信守-信敏-恒升-正文・・・・・

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本人名大辞典』679頁。
  2. ^ 『幕末維新大人名事典』上巻、476頁。
  3. ^ a b c 『明治維新人名辞典』359頁。
  4. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』422頁。
  5. ^ 『西坊家口伝集続々』8~9頁
  6. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』92頁。
  7. ^ 『官報』第2977号、明治26年6月3日。
  8. ^ 「稲荷神社宮司従七位勲五等国重正文特旨ヲ以テ位一級被進ノ件」
  9. ^ 『官報』第7号「叙任及辞令」1883年7月9日。
  10. ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」1889年6月20日。
  11. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  12. ^ 『官報』第5497号、明治34年10月28日。

参考文献[編集]