山鹿流

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山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派

山鹿流の概要[編集]

林羅山に入門して漢学教育を受けた山鹿素行は、仏教、道教の思想にも通じ、神道和学の故実を踏まえて甲州流軍学小幡景憲北条流の祖・北条氏長の門下として軍学の修得をした。山鹿流は、単に戦法学というより、太平の時代に士道学としての広い構想の下に講受された。事理一体を基盤とし、道源・学問・力行の三要を力説し、「修教要録」「治教要録」に則って、修身、治国の大道を強調、武経兵法、兵法戦法論を研究しながら、実学・教学に重点を置いた士道教育がなされた[1]

山鹿流の伝系[編集]

素行の兵学直門は140名くらい。直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。素行の兵学を講受した諸大名には、津軽信政津軽信寿戸田忠真松浦鎮信松浦長祐松浦織部昌大村守純稲垣重昭小笠原長祐小笠原長重本多忠真らがいる[2]

筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成され[3]筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成された。前田藩では、甲州流兵学者・関屋政春有沢永貞の伯父)が素行に山鹿流を学んだことで広がった[4]

弘前藩(嫡流)[編集]

津軽山鹿流伝系

 山鹿素行山鹿政実→山鹿高豊→山鹿高直→山鹿高美[5]山鹿素水[6]吉田松陰木戸孝允

山鹿政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[7]。 政実の影響で津軽藩中の多くが赤穂浪士には批判的であり、津軽信政(実際は実権を得た津軽信寿および大道寺直聴の判断)により、赤穂浪士に同情した滝川主水を宝永5年(1708年)に閉門、知行没収の厳罰に処し、墓や供養塔の破却を命じている[8]。また、重臣の乳井貢が素行に倣い朱子学を批判するのみならず、元禄赤穂事件をも激しく非難する著作を発表している[9]

この系統から幕末に兵法学者として活躍した山鹿素水が出た。素水は、大垣藩士・小原鉄心豊後岡藩士・鵜飼枝美など各藩の有力者に山鹿流を伝授した。また諸国放浪の際に九鬼隆都(丹波綾部藩主)に見いだされ、異例の知遇を得ている。

他に素行の2人の娘は三次浅野家の臣から津軽信政に仕した山鹿高恒と、のちに津軽藩家老になる門人、津軽政広に嫁した。

維新回天[編集]

幕末に長州藩では、吉田松陰が相続した吉田家が代々、藩学である山鹿流師範家となっており、吉田松陰は藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。松陰は叔父にあたる玉木文之進から山鹿流を授している。江戸に出た松陰は肥後の山鹿流兵学者・宮部鼎蔵と交流を深めた。吉田松陰と宮部鼎蔵は1851年(嘉永4年)、山鹿素水に学んでいる。[10] 明治維新で活躍した高杉晋作久坂玄瑞木戸孝允山田顕義ら長州藩の松陰門下生は、藩校・明倫館松下村塾で山鹿流を習得している。[11][12]

玉木文之進から山鹿流を講授された長州藩出身の 乃木希典は、明治天皇に殉死する前の大正元年(1912年)9月10日、学習院長として養育にあたっていた裕仁親王時代の昭和天皇、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)、光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行が記した山鹿流の神髄である尊王思想の歴史書である「中朝事実」を自ら筆写して献呈した。[13]

平戸藩[編集]

肥前国平戸藩では山鹿素行の一族の山鹿平馬が家老に、素行の次男である藤助が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来、平戸松浦藩学として栄える[14]

赤穂藩[編集]

承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて山鹿素行が助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[15]

また、浅野長直は赤穂に流刑時代の素行お預かりを担当している。 石岡久夫は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが[16]赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている[17]。同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない[18](wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。

山鹿流陣太鼓[編集]

赤穂浪士といえば「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である[19]

中興の祖・窪田清音[編集]

窪田派山鹿流

山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、山鹿素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。[20][21][22]

山鹿流を軸に甲州流軍学越後流長沼流を兼修した窪田清音の兵学門人は三千人。近代兵器が出現後も、清音は山鹿流の伝統的な武士道徳重視の講義をしたが、石岡久夫の研究によると、清音が著した五十部の兵書のうち晩年の「練兵新書」、「練兵布策」、「教戦略記」などは練兵主義を加え、山鹿流を幕末の情勢に対応させようとした大きな傾向があるという。この窪田兵学門人の英才である若山勿堂の山鹿流門下から、勝海舟板垣退助土方久元佐々木高行谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出された。[23][24]

日米修好通商条約遣米使節団として訪米後、横須賀製鉄所の建設を推進した小栗上野介 も窪田清音から山鹿流を学んでいた。小栗の「幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。」との発言は、皇統を尊重する思想と武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのもので小栗に与えた影響は大きいと分析している。[25][26]

参考文献[編集]

  • 石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版
  • 石岡久夫「山鹿素行兵法学の史的研究」(玉川大学
  • 斎藤弔花『山鹿素行』(博文堂、1925年(大正14年))
  • 田制佐重『山鹿素行』(春秋社、1936年(昭和11年))

脚注[編集]

  1. ^ 石岡久夫『兵法者の生活』第3章 兵法教育家 山鹿素行の生涯(P151~165)
  2. ^ 石岡久夫『兵法者の生活』(P173)
  3. ^ 石岡久夫『兵法者の生活』第3章 兵法教育家 山鹿素行の生涯 素行後裔の兵法学統(P162~165)
  4. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P175)
  5. ^ 『山鹿流兵法』だけでなく津軽藩に一刀流の地盤を固めている。
  6. ^ 素水は高美の孫(女系)。
  7. ^ 松浦清「心得ぬ事なり。人を出して即往きたるに、果たして大石の輩」「弘前候ばかり之を知れり」(松浦清山『甲子夜話』)。
  8. ^ 津軽家文書『弘前藩庁日記』(国文学研究資料館ほか)
  9. ^ 『乳井貢全集』(「志学幼弁」、「五虫論」、「王制利権方睦」など)
  10. ^ 「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 二.山鹿素水の業績(P217-220)
  11. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P184、P260-272)
  12. ^ 『史伝 吉田松陰: 「やむにやまれぬ大和魂」を貫いた29年の生涯(P28)
  13. ^ 「昭和天皇:第一部 日露戦争と乃木希典の死」福田和也文藝春秋)(P27~28)
  14. ^ 石岡久夫『兵法者の生活』第3章 兵法教育家 山鹿素行の生涯 素行後裔の兵法学統(P162~165)
  15. ^ 「Web版(兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-)」赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料”. 赤穂市教育委員会. 2020年1月23日閲覧。
  16. ^ 「山鹿素行→大石良重→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方窪田清音若山勿堂勝海舟」『山鹿素行兵法学の史的研究』(P173)
  17. ^ 赤穂市史編纂室主幹・三好一行「赤穂四十七士列伝」(P112)
  18. ^ 同市編纂室「赤穂四十七士列伝」大石内蔵助良雄
  19. ^ 歌舞伎人形浄瑠璃仮名手本忠臣蔵』大星由良助(大石内蔵助)。
  20. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』P219
  21. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P171-174、P260-272)
  22. ^ 『「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 三.窪田清音の業績』(P221-229)
  23. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』(P171-174、P260-272)
  24. ^ 『「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 三.窪田清音の業績』(P221-229)
  25. ^ 上毛新聞2017年(平成29年)12月13日社会面「幕臣小栗上野介に新説 山鹿流兵学から影響」
  26. ^ 小栗上野介顕彰会機関誌たつなみ第42号(平成29年・2017)窪田清音の学問と門弟小栗上野介の行動

関連項目[編集]