フレッド・ストール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
フレッド・ストール
Fred Stolle
Tennis pictogram.svg
基本情報
フルネーム Frederick Sydney Stolle
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 同・ホーンスビー
生年月日 (1938-10-08) 1938年10月8日(79歳)
身長 190cm
体重 93kg
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1985年
4大大会最高成績・シングルス
全豪 準優勝(1964・65)
全仏 優勝(1965)
全英 準優勝(1963-65)
全米 優勝(1966)
優勝回数 2(仏1・米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1963・64・66)
全仏 優勝(1965・68)
全英 優勝(1962・64)
全米 優勝(1965・66・69)
優勝回数 10(豪3・仏2・英2・米3)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 優勝(1962・69)
全仏 準優勝(1962-64)
全英 優勝(1961・64・69)
全米 優勝(1962・65)
優勝回数 7(豪2・英3・米2)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 優勝(1964-66)

フレッド・ストールFred Stolle, 1938年10月8日 - )は、オーストラリアニューサウスウェールズ州ホーンスビー出身の男子テニス選手。フルネームは Frederick Sydney Stolle (フレデリック・シドニー・ストール)という。主に1960年代に活躍し、オーストラリア・テニス界の最盛期を彩った名選手の1人として、4大大会で男子シングルス2勝、男子ダブルス10勝、混合ダブルス7勝を挙げた。彼の全盛時代は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」(プロ選手解禁)と重なり、ストールは「アマチュア選手」と「プロ選手」の両方の立場で活動した。並外れた気性の激しさから、同僚選手たちには“Fiery Fred”(炎のフレッド)と呼ばれた。

来歴[編集]

ストールはシドニー市で銀行員の仕事をしていたが、1958年全豪選手権から本格的な競技経歴を始めた。1961年全豪選手権でベスト8に入り、この年のウィンブルドン混合ダブルス部門でレスリー・ターナーとペアを組んで優勝した。1962年には全豪選手権の混合ダブルス部門と、ウィンブルドンの男子ダブルス部門で優勝する。1963年から1965年まで、ストールはウィンブルドンの男子シングルスで「3年連続準優勝」の苦杯をなめた。1963年の決勝ではアメリカチャック・マッキンリーに 7-9, 1-6, 4-6 で敗れ、1964年1965年は同じオーストラリアロイ・エマーソンに連敗してしまう。1964年、ストールは全仏選手権を除く4大大会3大会で決勝に進み、1964年ウィンブルドンから1965年ウィンブルドンまで「5大会連続」決勝進出を果たすが、1964年全豪選手権ウィンブルドン選手権全米選手権1965年全豪選手権決勝までエマーソンに「決勝4連敗」を喫した。1964年ウィンブルドンでは男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3部門で決勝に進出し、男子ダブルスと混合ダブルスでは優勝するが、男子シングルスのみ準優勝になったこともある。ようやく1965年全仏選手権で、ストールは男子シングルス決勝で同じオーストラリアの左利き選手トニー・ローチを 3-6, 6-0, 6-2, 6-3 で破り、宿願の4大大会シングルス優勝を達成した。ウィンブルドン決勝で再びエマーソンに敗れた後、1965年全米選手権では不本意な2回戦敗退に終わり、ここでストールの4大大会連続決勝進出記録が止まってしまう。

1966年全米選手権に出場した時、フレッド・ストールは自分がノーシード選手にされたことで憤慨し、「(アメリカの連中は)私を“古臭い失敗者”(Old Hacker)だと思っているのか」と言い放った。(当時の全米選手権では、男子シングルスのシード選手は8名のみだった。)この大会でストールはノーシードから勝ち上がり、決勝でジョン・ニューカムを 4-6, 12-10, 6-3, 6-4 で破って優勝した。この発言は当時のテニス界で大きな話題を呼び、「炎のフレッド」と呼ばれてきたストールのニックネームに“Old Hacker”(オールド・ハッカー)が加わった。ストールは全盛期にあった1964年から1966年まで3年間、男子テニス国別対抗戦・デビスカップオーストラリア代表選手を務め、オーストラリアのデ杯3連覇に大きく貢献した。

アマチュア選手として「31」のシングルス・タイトルを獲得した後、ストールは1967年に「プロテニス選手」に転向したが、すぐ翌年の1968年にプロテニス選手の4大大会出場を解禁する「オープン化措置」が実施された。オープン化措置が実施された後、ストールは直ちに1968年全仏オープン男子ダブルスでケン・ローズウォールと組んで優勝を果たし、1969年にもウィンブルドン混合ダブルスと全米オープン男子ダブルスで優勝した。こうしてストールは、4大大会の出場資格がアマチュア選手に限定されていた「アマチュア時代」(Amateur Era)と、オープン化措置実施後の「オープン化時代」(Open Era)という2つの時代をまたいで活躍した。

オーストラリア・テニス界の全盛期を彩った「炎のフレッド」ことフレッド・ストールは、その後優れたテレビ解説者としても活躍し、1985年国際テニス殿堂入りを果たす。1970年に生まれた息子のサンドン・ストールもプロテニス選手になり、ダブルスのスペシャリストとして活躍した。

4大大会優勝[編集]

  • 全豪選手権 男子ダブルス:3勝(1963年、1964年、1966年)/混合ダブルス:2勝(1962年、1969年) [男子シングルス準優勝2度:1964年&1965年]
  • 全仏選手権 男子シングルス:1勝(1965年)/男子ダブルス2勝(1965年、1968年)
  • ウィンブルドン選手権 男子ダブルス:2勝(1962年、1964年)/混合ダブルス:3勝(1961年、1964年、1969年) [男子シングルス準優勝3度:1963年-1965年]
  • 全米選手権 男子シングルス:1勝(1966年)/男子ダブルス:3勝(1965年、1966年、1969年)/混合ダブルス:2勝(1962年、1965年) [男子シングルス準優勝1度:1964年]

外部リンク[編集]