ジーン・マコ

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ジーン・マコGene Mako, 1916年1月24日 - 2013年6月14日)は、アメリカの男子テニス選手。ハンガリーブダペスト生まれ。本名は Constantine Gene Mako (コンスタンティン・ジーン・マコ)という。1930年代後半に活躍し、1歳年上のドン・バッジとペアを組んでウィンブルドン選手権全米選手権の男子ダブルスに2勝ずつを挙げた。4大大会男子シングルスでは、1938年全米選手権決勝でバッジに敗れた準優勝がある。右利きの選手で、体格は身長183cm、体重77kgほどであった。

コンスタンティン・ジーン・マコはハンガリーの首都ブダペストで生まれたが、間もなくアルゼンチンブエノスアイレスに移転し、7歳の時からアメリカロサンゼルスに定住した。1933年から全米選手権に出場し始め、南カリフォルニア大学在学中の1934年に18歳で大学対抗テニス選手権のシングルス・ダブルスを制した。1935年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手になる。10代の頃、彼は当時の若手選手としては最もパワフルなサービスを打っていたが、このプレースタイルにはおのずと限界が訪れた。右肩の酷使による故障が累積し、1936年夏にウィンブルドン選手権の2回戦敗退で選手生命の危機を迎える。この時期の彼を支えた人が、最大の親友ドン・バッジだった。マコの話によれば、バッジはダブルス・パートナーにプレースタイルの変更を勧め、(これまでの豪腕サービスと比べて)「小柄な老婦人のようにサーブを打ち、シャベルですくうようにショットを打てばいい。それで十分だ」と提案したという。これが功を奏し、マコは無理のないスタイルでテニスを続けながら、バッジとのダブルスで世界の頂点を目指し始める。

1936年全米選手権で、ジーン・マコは男子ダブルス・混合ダブルスの2部門制覇を果たす。男子ダブルスではバッジと組み、アメリカの男子テニス界を代表するダブルス・コンビと呼ばれてきたウィルマー・アリソンジョン・バン・リン組を 6-4, 6-2, 6-4 で破って優勝した。混合ダブルスの決勝戦では、マコとバッジはネットをはさんで戦い、マコとアリス・マーブルの組がバッジとサラ・ポールフリーに 6-3, 6-2 で勝った。1937年、マコとバッジはウィンブルドン選手権でダブルス初優勝を果たす。しかし、2連覇を目指した全米選手権の男子ダブルス決勝で、2人はドイツペアのゴットフリート・フォン・クラムヘンナー・ヘンケル組に 4-6, 5-7, 4-6 で敗れてしまう。それから1938年全仏選手権まで、2人はしばらく波に乗れなかった。

1938年は、ドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成した年である。バッジは前年の1937年ウィンブルドン選手権から1938年全米選手権まで、4大大会男子シングルス「6連勝」を成し遂げた。1938年全豪選手権では、マコはシングルス準々決勝でジョン・ブロムウィッチに敗れた。マコとバッジのダブルスも、準決勝でエイドリアン・クイストとブロムウィッチのペアに 6-3, 6-4, 3-6, 4-6, 1-6 の逆転で敗れてしまう。続く全仏選手権でも、マコとバッジは男子ダブルス決勝で地元フランスペアのイボン・ペトラベルナール・デストレモー組に 6-3, 3-6, 7-9, 1-6 で敗れた。同大会の男子シングルスで、第7シードのマコは3回戦で日本中野文照に 1-6, 3-6, 6-4, 0-6 で敗退してしまう。[1] 中野は1930年代後半の日本男子テニス界を代表した選手の1人で、第2次世界大戦をまたいで1952年まで現役を続行した人であるが、生涯最大の勝利をこのマコから得たのである。この後、マコとバッジは1938年ウィンブルドン選手権全米選手権で男子ダブルス2連勝を達成し、ウィンブルドン・ダブルスは2連覇、全米ダブルスは2年ぶり2度目の優勝となった。全米選手権の男子シングルスで、ドン・バッジが「これに勝てば年間グランドスラム」となる歴史的な決勝戦を迎えた時、対戦相手はダブルス・パートナーのジーン・マコに決まった。マコはこの大会の男子シングルスではノーシード選手であったが、3回戦で第6シードのフランク・コバックスを破って波に乗り、初めての決勝進出を決めた。バッジはマコに 6-3, 6-8, 6-2, 6-1 で勝利を収め、この親友の目前で年間グランドスラムを達成した。全米男子ダブルス決勝では、2人は全豪準決勝で敗れたエイドリアン・クイストジョン・ブロムウィッチ組に 6-3, 6-2, 6-1 で雪辱を果たす。こうして、バッジの栄光の年となった1938年のシーズンが終わった。

ジーン・マコは現役時代、日本人男子選手との対戦も何度かあった。彼がウィンブルドン選手権に初出場した1935年、シングルス2回戦で山岸二郎に 2-6, 2-6, 6-2, 6-1, 6-2 の逆転勝ちを収めたことがある(マコは4回戦で敗退した)。1937年デビスカップ「アメリカン・ゾーン」準決勝では、マコとバッジのダブルスが、山岸と中野文照の組に 6-0, 6-1, 6-4 のストレートで勝った。1938年全仏選手権の3回戦でマコが中野に敗れたことは、前述の通りである。

ダブルスで世界の頂点を極めた後、マコはバッジとともに「プロテニス選手」に転向したが、すぐに第2次世界大戦が勃発した。戦時中はアメリカ陸軍に勤務しながら、1943年の「全米プロテニス選手権」(U.S. Pro)でブルース・バーンズと組んだダブルス優勝がある。終戦後はアメリカ西海岸地区で、セミプロのバスケットボール選手として活動した。1973年国際テニス殿堂入り。

4大大会ダブルス優勝[編集]

  • ウィンブルドン選手権 男子ダブルス:2勝(1937年&1938年)
  • 全米選手権 男子ダブルス:2勝(1936年、1938年)/混合ダブルス:1勝(1936年) [男子シングルス準優勝:1938年]

参考文献[編集]

  • Bruce Matthews, “Game, Set and Glory: A History of the Australian Tennis Championships” (ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史) The Five Mile Press, Victoria, Australia (1985) ISBN 0-86788-078-3 本書の28ページより、1938年全豪男子ダブルスの準決勝敗退を確認した。
  • 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版 (180・181ページより、中野文照と山岸二郎の4大大会成績表を参照)

外部リンク[編集]