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デニス・ラルストン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デニス・ラルストン
Dennis Ralston
デニス・ラルストン
基本情報
フルネーム Robert Dennis Ralston
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・カリフォルニア州ベーカーズフィールド
生年月日 (1942-07-27) 1942年7月27日
没年月日 (2020-12-06) 2020年12月6日(78歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テキサス州
身長 183cm
体重 77kg
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1987年
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4(1970)
全仏 4回戦(1966)
全英 準優勝(1966)
全米 ベスト4(1960)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1971)
全仏 優勝(1966)
全英 優勝(1960)
全米 優勝(1961-63)
優勝回数 5(仏1・英1・米3)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全英 準優勝(1962・66)
全米 準優勝(1961・69)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 優勝(1963)

デニス・ラルストンDennis Ralston, 1942年7月27日 - 2020年12月6日[1])は、アメリカカリフォルニア州ベーカーズフィールド出身の男子テニス選手。フルネームは Robert Dennis Ralston (ロバート・デニス・ラルストン)という。1966年ウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、4大大会の男子ダブルスで通算5勝を挙げた。身長183cmほどの長身とほっそりした体格の持ち主で、サービス・グラウンドストローク・ボレーのいずれにも優れたオールラウンド・プレーヤーであった。右利きの選手。

来歴

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デニス・ラルストンは1960年ウィンブルドン選手権で、南カリフォルニア大学のチームメートだったラファエル・オスナと組んで男子ダブルス優勝を果たした。この年から、ラルストンは男子テニス国別対抗戦・デビスカップアメリカ代表選手になる。1961年から1964年まで、ラルストンは同じアメリカのチャック・マッキンリーとペアを組み、全米選手権の男子ダブルスで4年連続決勝進出を果たした。その間、1961年-1963年までメキシコペアのラファエル・オスナアントニオ・パラフォックス組と3年連続の決勝対決をしている。1962年はオスナ&パラフォックス組が勝ったが、1961年1963年1964年はラルストン&マッキンリー組が3勝を挙げた。ラルストンとマッキンリーは、1964年までデビスカップのダブルス戦でもペアを組み、1963年のデ杯アメリカ・チームの優勝に貢献した。

1966年、デニス・ラルストンのテニス経歴は最盛期を迎える。ダブルスでは、同じアメリカのクラーク・グレーブナーとペアを組み、全仏選手権で初優勝を飾った。ラルストンとグレーブナーは、決勝でルーマニアペアのイリ・ナスターゼイオン・ティリアック組を 6-3, 6-3, 6-0 のストレートで圧倒した。続くウィンブルドン選手権で、ラルストンは男子シングルス・混合ダブルスの2部門で決勝に進出する。男子シングルス決勝では、ラルストンはスペインマニュエル・サンタナに 4-6, 9-11, 4-6 のストレートで敗れた。混合ダブルス決勝は1962年以来4年ぶり2度目の進出で、パートナーはビリー・ジーン・キング夫人と組んだが、オーストラリアペアのケン・フレッチャーマーガレット・スミス組に敗れ、ラルストンは2部門とも準優勝に終わった。全米選手権では、男子ダブルスで2年ぶり5度目の決勝に進んだが、ラルストンとグレーブナーはオーストラリアペアのロイ・エマーソンフレッド・ストール組に 4-6, 4-6, 4-6 で完敗してしまう。この年を最後に、ラルストンはデ杯の米国代表選手から退いた。

1968年、テニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施されると、ラルストンもプロテニス選手になった。1970年全豪オープンに初出場した時、ラルストンはアーサー・アッシュとの準決勝を 3-6, 10-8, 3-6, 1-2 で途中棄権した。彼の4大大会シングルス成績は、全米選手権1960年のベスト4進出、全仏選手権1966年1969年の2度しか出場記録がない。同選手権で男子ダブルス優勝を果たした1966年、シングルスは4回戦止まりに終わっている。

ラルストンは1972年から1975年まで、4年間デビスカップのアメリカ・チーム代表監督も務めた。就任1年目の1972年にアメリカはデ杯ワールドグループ決勝でルーマニアを破り、ラルストンは選手として1963年、監督として1972年のデ杯優勝に貢献した。1987年国際テニス殿堂入り。引退後は南メソジスト大学でテニスコーチを務め、教育者としても高い評価を得ている。 2020年12月6日に、癌のため、テキサス州の病院で死去。78歳没。

4大大会成績

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脚注

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  1. ^ 殿堂入りした名選手、デニス・ラルストン氏が78歳で逝去 [テニス(テニスマガジンONLINE)]”. Yahoo!ニュース. 2020年12月10日閲覧。

外部リンク

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