メルビン・ローズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
メルビン・ローズ
Mervyn Rose
Tennis pictogram.svg
Mervyn Rose.png
メルビン・ローズ
基本情報
フルネーム Mervyn Gordon Rose
愛称 Rosie(ロージー)
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 同・ニューサウスウェールズ州コフスハーバー
生年月日 (1930-01-23) 1930年1月23日
没年月日 (2017-07-23) 2017年7月23日(87歳没)
死没地 同・ニューサウスウェールズ州コフスハーバー
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 2001年
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1954)
全仏 優勝(1958)
全英 ベスト4(1952・53・58)
全米 ベスト4(1952)
優勝回数 2(豪1・仏1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1954)
全仏 準優勝(1953・57)
全英 優勝(1954)
全米 準優勝(1952・53)
優勝回数 4(豪1・英1・米2)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全仏 準優勝(1951・53)
全英 優勝(1957)
全米 準優勝(1951)
優勝回数 1(英1)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 優勝(1951・57)

メルビン・ローズMervyn Rose, 1930年1月23日 - 2017年7月23日[1])は、オーストラリアニューサウスウェールズ州コフスハーバー出身の男子テニス選手。1950年代に活躍し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。彼は4大大会男子シングルスで1954年全豪選手権1958年全仏選手権の2勝を挙げ、男子ダブルス4勝・混合ダブルス2勝と合わせて7つのグランドスラム・タイトルを獲得した。彼のテニスは、基本的にはサーブ・アンド・ボレーのスタイルで、ボールのタッチを駆使する戦術家として知られた。左利きの選手。フルネームは Mervyn Gordon Rose (メルビン・ゴードン・ローズ)というが、“Rosie”(ロージー)という愛称で呼ばれた。

来歴[編集]

ローズは少年時代、故郷のコフスハーバーで近所の子供たちがテニスで遊んでいる光景に見とれて、ラケットとシューズを借りて自分もテニスを始めたという。1949年から全豪選手権に出場し始め、1951年に混合ダブルスで躍進を見せる。この年は全仏選手権ウィンブルドン選手権全米選手権の3大会連続で混合ダブルス準優勝を記録した。パートナーはそれぞれ異なり、全仏はテルマ・コイン・ロング、ウィンブルドンはナンシー・ウィン・ボルトン、全米はシャーリー・フライと組んだ。同年の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、ローズは年末の12月26日-28日に行われた「ワールドグループ」決勝の対アメリカ戦に起用された。オーストラリアは「3勝2敗」で優勝を決めたが、ローズがシングルス戦2試合でビック・セイシャステッド・シュローダーの両選手に敗れたことから、彼はその後しばらくデ杯オーストラリア代表選手としての起用がなくなる。1952年にローズは全仏選手権を除く3つのグランドスラム大会でシングルス準決勝に進出し、全米選手権の男子ダブルスでセイシャスと組んで初優勝を決めた。ローズとセイシャスは、1951年全豪選手権から4大大会男子ダブルス7連勝中だったフランク・セッジマンケン・マグレガー組を 3-6, 10-8, 10-8, 6-8, 8-6 で下し、このペアの2年連続年間グランドスラムを阻止した。

1953年、ローズは全豪選手権で初めてのシングルス決勝進出を果たすが、当時18歳のケン・ローズウォールに 0-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗した。ローズウォールはこの優勝により、全豪選手権の男子シングルス最年少優勝記録を樹立したが、これは現在も全豪オープンの記録として残っている。この年は全米選手権男子ダブルスで、同じオーストラリアのレックス・ハートウィグと組んで2連覇を達成した。続く1954年全豪選手権にて、メルビン・ローズは男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得する。2年連続のシングルス決勝では、ダブルス・パートナーのハートウィグを 6-2, 0-6, 6-4, 6-2 で破って初優勝を決め、彼と組んだダブルスではニール・フレーザークライブ・ウィルダースピン組を 6-3, 6-4, 6-2 のストレートで圧倒した。ローズとハートウィグは、ウィンブルドン選手権でも男子ダブルス優勝を飾り、決勝でアメリカペアのビック・セイシャストニー・トラバート組に 6-4, 6-4, 3-6, 6-4 で勝ち、4大大会ダブルス年間2冠を獲得した。ローズの4大大会男子ダブルス優勝は「4勝」になったが、うち3勝がハートウィグとのコンビである。

1955年から1956年にかけては好成績が少なかったが、1957年からローズは2度目の全盛期を迎える。それまで好成績が少なかった全仏選手権で、彼は初めてシングルス準決勝進出を決めた。この時は第8シードのハーバート・フラムアメリカ)に 6-4, 4-6, 6-4, 2-6, 5-7 で競り負け、決勝進出を逃している。続くウィンブルドン選手権で、ローズは6年ぶり2度目の混合ダブルス決勝に進み、ダーリーン・ハードと組んで初優勝を決めた。2人はニール・フレーザーアリシア・ギブソン組を 6-4, 7-5 で破り、ローズは1954年の男子ダブルスに続く2つ目のウィンブルドン・タイトルを獲得した。そして、彼のハイライトとなった1958年全仏選手権を迎える。第3シードのローズは、決勝でチリルイス・アヤラを 6-3, 6-4, 6-4 のストレートで破り、1954年全豪選手権以来となる4大大会男子シングルス2勝目を達成した。この2年間、彼は世界各地のトーナメントで多数のシングルス・タイトルを獲得し、1957年に12勝、1958年に8勝を挙げた。1958年全仏選手権直前の「イタリアン・オープン」決勝で、ローズが地元イタリアの英雄ニコラ・ピエトランジェリを 5-7, 8-6, 6-4, 1-6, 6-2 で破った試合は、同大会史上最も壮絶な試合のひとつとして語り草になった。

1959年から「プロテニス選手」に転向した後は、テニスコーチとしても活動した。1960年代にはビリー・ジーン・キング夫人のフォアハンド・ストローク改造に携わり、彼女の成功に大きく貢献した。アランチャ・サンチェス・ビカリオナディア・ペトロワを指導したこともある。2001年国際テニス殿堂入りを果たした。

テニスの歴史において、オーストラリアの選手たちが大半のビッグ・タイトルを獲得した黄金時代は、1950年代の初頭に幕を開けた。その先陣を切った選手が、4大大会総計22個(男子シングルス5勝+男子ダブルス9勝+混合ダブルス8勝)のタイトルを獲得したフランク・セッジマンであり、その後にケン・ローズウォールルー・ホードが続いた。メルビン・ローズの全盛期は、この2人とほぼ同じ時期にあたる。彼らの後に続いて登場した選手が、アシュレー・クーパーロイ・エマーソンロッド・レーバーなどである。彼らはみな、当時デビスカップオーストラリア代表監督を務めていたハリー・ホップマンに鍛えられた世代の選手だった。

4大大会優勝[編集]

参考文献[編集]

  • Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
  1. ^ 四大大会2勝のローズ氏死去=男子テニス”. 時事通信 (2017年7月25日). 2017年7月25日閲覧。

外部リンク[編集]