ビールズ・ライト

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Beals Coleman Wright.jpg
ビールズ・ライト
基本情報
ラテン文字名 Beals Wright
フルネーム Beals Coleman Wright
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・マサチューセッツ州ボストン
生年月日 (1879-12-19) 1879年12月19日
没年月日 (1961-08-23) 1961年8月23日(満81歳没)
死没地 同・イリノイ州アルトン
利き手
バックハンド 片手打ち
4大大会最高成績・シングルス
全米 優勝(1905)
優勝回数 1(米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全英 準優勝(1907)
全米 優勝(1904-06)
優勝回数 3(米3)
獲得メダル
男子 テニス
オリンピック
1904 セントルイス シングルス
1904 セントルイス ダブルス

ビールズ・コールマン・ライトBeals Coleman Wright, 1879年12月19日 - 1961年8月23日)は、アメリカマサチューセッツ州ボストン出身の男子テニス選手。20世紀初頭にアメリカを代表する選手として活躍し、全米選手権で男子シングルス1勝・男子ダブルス3連覇を挙げ、1904年セントルイス五輪で単複の金メダルを獲得した人である。彼は1900年から始まった男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」でも、黎明期のアメリカ・チームを代表する選手として活躍した。左利きの選手。

来歴[ソースを編集]

ライトは1897年から全米選手権に出場し始め、1901年に初めて男子シングルス・男子ダブルスの決勝に進出したが、この時は2部門とも準優勝に終わっている。1904年から1906年まで、ライトはホルコム・ウォード1878年 - 1967年)とペアを組み、全米選手権で男子ダブルス3連覇を達成した。全米ダブルス初優勝を果たした1904年に、ライトはセントルイス五輪で単複の金メダルを獲得した。この大会では、テニス競技は男子シングルス・ダブルスのみが実施され、女子部門の競技は行われなかった。出場選手も、男子シングルスにエントリーした37名のうち、2名のドイツ人選手以外はすべてアメリカ人選手であり、男子ダブルスは16組のアメリカ人選手のペアで優勝を争った。ライトは男子シングルス決勝でロバート・ルロイ1885年 - 1946年)を 6-4, 6-4 で破り、男子ダブルスではエドガー・レナード1881年 - 1948年)とのペアで、ルロイとアルフォンゾ・ベル(1875年 - 1947年)の組を 6-4, 6-4, 6-2 で破って優勝した。第3回の近代オリンピックは、オリンピック史上初めて北米大陸で開催されたが、ヨーロッパからの参加国が非常に少なかったことで知られている。

ライトはオリンピックの翌年、1905年全米選手権で男子シングルス初優勝を達成した。1901年以来4年ぶりの「チャレンジ・ラウンド」決勝戦を制した後、「オールカマーズ・ファイナル」で待っていた大会前年優勝者は、ダブルス・パートナーのホルコム・ウォードであった。ライトはウォードを 6-2, 6-1, 11-9 で破り、全米選手権の男子シングルスで史上2人目の「左利きの男子シングルス優勝者」になった。1906年の大会では、ライトはウォードとのペアで男子ダブルス3連覇を達成したが、大会前年優勝者の資格で出場した男子シングルスの「オールカマーズ・ファイナル」でウィリアム・クローシャー1881年 - 1962年)に敗れ、シングルス2連覇を逃した。2年後の1908年、ライトは4年ぶり3度目のチャレンジ・ラウンドを制したが、オールカマーズ・ファイナルでウィリアム・ラーンドに敗退する。その後、1910年1911年の2度チャレンジ・ラウンド決勝敗退があった。

ライトは全米選手権とオリンピック以外にも、1910年ウィンブルドン選手権でアメリカ人男子選手初の「チャレンジ・ラウンド」決勝進出を果たしている。このチャレンジ・ラウンド決勝ではアンソニー・ワイルディングに 6-4, 6-4, 3-6, 2-6, 3-6 の逆転負けを喫し、アーサー・ゴアとの「オールカマーズ・ファイナル」決勝を逃した。黎明期のデビスカップでも、1905年1907年1908年1912年の4度アメリカ代表選手として出場している。

彼は1912年全米選手権とデビスカップを最後に、いったんテニス界の第一線から退いたが、6年後の1918年全米選手権で最後の試合出場をした。39歳に近づいていた彼は、1908年以来10年ぶりとなった男子ダブルス決勝で、フレッド・アレクサンダーと組んで準優勝する。現役最後のシングルス戦の相手は、4回戦で顔を合わせた日本熊谷一弥であった。ライトは熊谷に 6-8, 6-3, 1-6, 2-6 で敗れ、20年ほどに及んだテニス経歴に終止符を打った。

選手引退後のライトはマサチューセッツ州ブルックラインに在住し、1956年国際テニス殿堂入りを果たす。1961年8月23日、ビールズ・ライトはイリノイ州オールトンにて81歳で逝去した。

主な成績[ソースを編集]

参考文献[ソースを編集]

  • 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(178ページより、熊谷一弥の4大大会成績表を参照)

外部リンク[ソースを編集]