ボリス・ベッカー

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ボリス・ベッカー Tennis pictogram.svg
Boris Becker 2007 amk.jpg
2007年
基本情報
ラテン文字名 Boris Becker
フルネーム Boris Franz Becker
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身地 同・ライメン
生年月日 1967年11月22日(48歳)
身長 190cm
体重 85kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1984年
引退年 1997年(1999年一時復帰有)
ツアー通算 64勝
シングルス 49勝
ダブルス 15勝
生涯通算成績 967勝350敗
シングルス 713勝214敗
ダブルス 254勝136敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1991・96)
全仏 ベスト4(1987・89・91)
全英 優勝(1985・86・89)
全米 優勝(1989)
優勝回数 6(全豪2・全英3・全米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(1985)
全仏 1回戦(1984)
全英 2回戦(1985)
全米 2回戦(1985)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 1位
ダブルス 6位
獲得メダル
男子 テニス
オリンピック
1992 バルセロナ ダブルス

ボリス・ベッカーBoris Becker, 1967年11月22日 - )は、旧西ドイツライメン出身の元男子プロテニス選手。フルネームは Boris Franz Becker (ボリス・フランツ・ベッカー)。

4大大会通算「6勝」。ATPツアーでは、シングルスで4大大会6勝を含む49勝、ダブルスで15勝。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス6位。

1980年代後半の芝の王者。ビッグサーブを軸としたオールラウンダーであり、1985年1996年の最強プレイヤーの一人として、レンドルエドベリサンプラスと名勝負を繰り広げたテニス史上に残る名選手。 ベッカーの活躍した時代は、2歳年下のシュテフィ・グラフ、1歳年下のミヒャエル・シュティヒとともに、ドイツのテニス界の黄金時代でもあった。

プレースタイル[編集]

サーブ[編集]

オープンスタンスから放たれる強烈なサーブは「ブンブン・サーブ(boom boom serve、「boom boom」は大砲の爆撃音を表す)」という愛称で呼ばれ、ベッカーの最大の武器であった。

1980年代まで公式戦でのサーブ速度は記録されていないが、当時日本で行われていたセイコースーパーテニスの試合で250キロ代を連発している(ただし当時の計測は不安定であり数字の信頼性は議論がある)。 1990年代以降、サーブの速度が公式戦で記録されはじめたが、ベッカーの最速サーブは210~220キロ前後である。

デビュー当初は、セカンドサーブも強烈であり、もう一度ファーストサーブを打つというギャンブルに近い。「二本に一本入ればいいんだろう」等の当時の語録もある。 1986年ウィンブルドン決勝で、当時無敵のレンドルにストレートで完勝した時は、「調子のいいときのベッカーには誰も勝てない」といわれるほどテニス界に衝撃を与えている。

なお1989年以降、スピンをかけたセカンドサーブをマスターするが、首を痛めたことでファーストサーブのスピードが若干低下したことや、冒険的なセカンドファーストも影を潜めたことも加わり、凄みが少なくなった感は否定できず。サンプラスイワニセビッチシュティヒ等新たなビッグサーバーの登場も背景に、1980年代後半の飛び抜けた衝撃は薄れている。

ストローク・ボレー等[編集]

ストロークも強烈であり、しばしばレンドルサンプラスと激しいラリーを行い、打ち勝つことも少なくなかった。 1980年代後半はベッカー=ビッグサーバーのイメージであったが、1990年代前半にはストローク力が向上し、ハードコートではストローカの一面を見せることもあった。 しかし速いコートではラリーでも無類の力を発揮したが、クレーコートでは粘り強さに弱点があり、打ち負けることが多かった。

ライバルのエドベリと比較すると目立たないが、ボレーも上手かった。正面や足元のボレー等穴が見つからない。特にダイビングボレーはベッカーの代名詞であり、ウインブルドンにおいて、ストロークの名手であるレンドルとのパスとボレーの対決は1980年代後半屈指の名場面である。

総合[編集]

ベッカーは、ビッグサーブを主体としたオールラウンドプレイヤーであり、1990年代のテニス界を席巻したプレースタイルの元祖。パワーをもってサーブ、ストローク、ボレーと何でもこなした姿は、1990年代の先駆者であった。

ベッカーは1980年代後半、多くの選手たちの間で才能では1番と言う声は強く。今でも調子のいいときのベッカーは史上最強との声もあるほど、1980年代後半の強さは衝撃的であった。

1990年代になると要所で勝ち切れなかったが、高速ハードコートでのサンプラス戦/クーリエ戦等、時の最強プレイヤーを打ち倒すこともしばしばあり、驚異的存在であったことには変わりはない。

1980年代後半~1990年代前半の記憶に残る最強プレイヤーのひとりである。

選手経歴[編集]

最年少ウインブルドン優勝[編集]

1984年にプロ転向。 1985年ウィンブルドン選手権にて、大会史上最年少の「17歳7ヶ月」で初優勝を飾る。世界ランキング38位のノーシードから勝ち上がり、決勝で南アフリカケビン・カレンを 6-3, 6-7, 7-6, 6-4 で破った。当時カレンは、エドベリコナーズマッケンローらを破って、4大大会初優勝目前に迫ったが、決勝で17歳の新鋭ベッカーの前に屈した。

1986年にもウィンブルドン決勝に進み、悲願の初優勝を目指した当時世界No.1のイワン・レンドルにストレートで快勝し、18歳で大会2連覇を達成した。

ライバルエドベリとの対決、全盛期[編集]

1988年から1991年にかけて4年連続でウインブルドンの決勝に進出し、優勝1回/準優勝3回となる。そのうち 1988年1989年1990年 は3年連続でステファン・エドベリと決勝で対戦して、1勝2敗である。


1989年~1991年はベッカーの全盛期であり、1980年代最強プレイヤーレンドルの衰えが目立ちはじめ、ベッカーが次世代のNo1候補筆頭であったが、今一歩感は否定できない。

1990年の ウィンブルドン決勝エドベリ戦、 全米オープン準決勝アガシ戦、1991年の全仏オープン準決勝アガシ戦、 ウィンブルドン決勝のシュティヒ戦等、時代を代表する最強プレイヤーになるには必ず勝たねばならない試合を勝ちきれず、No1になったものの12週に留まっている。

逆に万年2位のイメージがついてしまい、1991年~1992年のエドベリ、1992年~1993年前半のクーリエ、1993年以降のサンプラスと覇権を許してしまう原因となった時代である。

キャリア後半等[編集]

1994年

ウィンブルドンでは、1993年及び1994年にベスト4[1]1995年に準優勝[2]するなど好成績を出し続け、ウィンブルドンでは通算71勝(12敗)を挙げた。

ベッカーはダブルスでも通算15勝を挙げたが、その中には1992年バルセロナ五輪の男子ダブルスで、ドイツ代表選手としてシュティヒとペアを組んだ金メダルも含まれている。

ベッカーはウィンブルドン選手権で3度の優勝、4度の準優勝など活躍し、ウィンブルドン71勝はコナーズの84勝、フェデラーの79勝に次ぐ歴代3位の記録である[3]

その後キャリア終盤の1996年には2度目の全豪制覇を成し遂げている。1996年の全豪決勝では、ベッカーと同じく17歳でグランドスラム初優勝を果たしたマイケル・チャンと好勝負を繰り広げた。

ベッカーの全仏オープンの最高成績はベスト4である(1987年1989年1991年)。 ベッカーは全仏を筆頭にクレーコートでは1つもタイトルを獲得できなかった。

年間最終戦でも長く活躍し、3度の優勝(1988年1992年1995年)、5度の準優勝(1985年1986年1989年1994年1996年)を記録している。なお準優勝5回というのはベッカーの象徴である。 ただし1996年最終戦は準優勝であったが、決勝のサンプラス戦は、「2-3のフルセット」、「5セット中3セットがタイブレーク」等1990年代最高の試合のひとつである[4] [5]1990年代最強プレイヤーの全盛期サンプラスに対して、キャリア晩年にここまでの試合ができることもベッカーの象徴である。

現役引退[編集]

1997年ウィンブルドン準々決勝でサンプラスにセットカウント1-3で敗れ、現役引退を表明した。

その後、全く試合には出ていなかったが、1999年ウィンブルドンで「もう一度挑戦したいと宣言し」一時的に現役復帰。4回戦まで進んだがパトリック・ラフターに敗退し、再度現役引退している。 なお1999年ウィンブルドンのラフター戦はサーブのコース・種類を完全に読まれる等、文字通り手も足もでず、ベッカーの現役試合とは言いがたい惨敗であった。

一方、1997年ウインブルドン準々決勝のサンプラス戦は、ベッカーが全ての準備をして挑み、当時事実上の決勝戦といわれたほどベッカー最後の名勝負であり、事実上現役最後の試合である。実際当時の新聞等にも、1997年のこの試合後「ベッカー引退」「革命児、首痛に勝てず」「試合後のサンプラスとの挨拶で、引退するんだ等声をかけた」等引退を惜しむ記事が掲載されている。

引退後[編集]

2003年国際テニス殿堂入りを果たしている。

2008年よりプロのポーカー・プレーヤーとしてのキャリアをスタートさせたが、現在は活動を停止している。

2014年よりノバク・ジョコビッチのコーチを務めている。

ライバル達との戦い[編集]

エドベリ[編集]

ベッカーはよくステファン・エドベリとライバル関係として語られることが多い。 その最大の要因はウィンブルドン決勝で3年連続で対戦したことである。また、 1991年ウィンブルドン の決勝ではシュティヒと対戦したが、シュティヒは準決勝でエドベリを4-6,7-6,7-6,7-6で破っている。この試合エドベリは1度もブレークされておらず、紙一重のところで4年連続の対戦が実現しなかったことになる。 なお、この3年連続の対戦はエドベリの2勝1敗に終わり、グランドスラムで1勝3敗と負け越している。

また ウィンブルドンと全米オープンに勝ちベッカーの全盛期といわれた1989年において、年間最終戦で、予選リーグでベッカーが完勝したが、決勝ではフルセットでエドベリに破れてしまい、両者の関係を象徴したものにしてしまっている。 また、世界ランク1位在位でもエドベリ72週に対し、ベッカーは12週にとどまっている。

このことからエドベリの方が優勢だったかに見えるが、1988年1990年の3年のことであり、19851987年はベッカーやや優勢、1991年以降はベッカーはエドベリに全く負けていない。結果としてトータルではベッカーの25勝10敗と、大幅に勝ち越している。

また1位ではエドベリが長いが、トップ5やトップ10の在位週数はベッカーのほうが長い。

以上総合的に見て、ベッカーとエドベリはほぼ互角のライバルと見られていることが多い。

レンドル、サンプラス等[編集]

1980年代最強プレイヤーレンドルには10勝11敗とほぼ互角。ウインブルドン中心にグランドスラムではベッカーの5勝1敗と圧倒したが、マスターズ最終戦等他の試合では逆に敗退は少なくない。両者の試合は、サーブ、ストロークとも強力なパワーテニスの応酬であり、1980年代後半の屈指のカードである。

1990年代最強プレイヤーサンプラスには7勝12敗。共にサーブ&ボレーを得意としつつストロークも強力なオールラウンダー同士。高速ハードコートでの対戦ではベッカーの7勝6敗と1990年代前半屈指のカードである。特に1996年年間最終戦では、5セットマッチのフルセットでサンプラスに軍配が上がったが、ベッカーの4連続サービスエースでの立ち上がり、見ごたえ満点の打ち合い、5セット中4セットがタイブレークまでのもつれ込み等の1990年代最高の試合の1つである [6] [7] 。しかし 1993年準決勝、 1995年決勝、 1997年 準々決勝と3回対戦したウインブルドンでは、いずれもサンプラスが勝利。1980年代後半の芝の王者であったベッカーは、キャリア晩年になったとはいえ、1990年代の芝の王者である全盛期のサンプラスに一度も芝で勝つことができず、世代交代を明確化したカードとなった。

1990年代前半のストローカタイプの強豪に対して、クーリエに6勝1敗、チャンに5勝1敗と圧倒したが、アガシには4勝10敗と苦戦している。なおアガシとの対戦成績は、強力なリターンを持ちビックサーバーを得意とするアガシの特徴・相性の影響が大きい[8]

記録[編集]

ウィンブルドン選手権最年少優勝「17歳7ヶ月」
パリ・マスターズ優勝「3回」
マラト・サフィンノバク・ジョコビッチとタイ記録。
世界ランキング1位の選手に勝利「19勝」
ラファエル・ナダルとタイ記録。
セット0–2 からの逆転勝利数「10回」
アーロン・クリックステインとタイ記録。

4大大会優勝[編集]

大会 対戦相手 試合結果
1985年 ウィンブルドン 南アフリカ共和国の旗 ケビン・カレン 6-3, 6-7, 7-6, 6-4
1986年 ウィンブルドン チェコの旗 イワン・レンドル 6-4, 6-3, 7-5
1989年 ウィンブルドン スウェーデンの旗 ステファン・エドベリ 6-0, 7-6, 6-4
1989年 全米オープン チェコの旗 イワン・レンドル 7-6, 1-6, 6-3, 7-6
1991年 全豪オープン チェコの旗 イワン・レンドル 1-6, 6-4, 6-4, 6-4
1996年 全豪オープン アメリカ合衆国の旗 マイケル・チャン 6-2, 6-4, 2-6, 6-2

4大大会シングルス成績[編集]

略語の説明
W  F  SF QF #R RR Q# LQ A WG Z# PO SF-B S G NMS NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加
WG=デビスカップワールドグループ, Z#=デビスカップ地域ゾーン, PO=デビスカッププレーオフ, SF-B=オリンピック銅メダル, S=オリンピック銀メダル, G=オリンピック金メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, NH=開催なし.

大会 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 通算成績
全豪オープン QF 2R - 4R A 4R QF W 3R 1R A 1R W 1R A A 29–9
全仏オープン A 2R QF SF 4R SF 1R SF A 2R A 3R A A A A 26–9
ウィンブルドン 3R W W 2R F W F F QF SF SF F 3R QF A 4R 71–12
全米オープン A 4R SF 4R 2R W SF 3R 4R 4R 1R SF A A A A 37–10

※: 1984・85・87年の全豪は96ドロー(1985・87年は1回戦Byeでの出場)である。

脚注[編集]

  1. ^ 準決勝でサンプラスイワニセビッチに敗退
  2. ^ 決勝でサンプラスに敗退
  3. ^ 2015年シーズン終了時
  4. ^ インターネットテニスメディアHOTSHOT記事抜粋 http://hotshot.jp/enjoy/7779
  5. ^ 海外レポート 1996年最終戦 http://www.ne.jp/asahi/pete/sampras/news/2010/N-Pete_Becker101117J.html
  6. ^ インターネットテニスメディアHOTSHOT記事抜粋  http://hotshot.jp/enjoy/7779
  7. ^ 海外レポート 1996年最終戦 http://www.ne.jp/asahi/pete/sampras/news/2010/N-Pete_Becker101117J.html
  8. ^ アガシははクーリエに5勝7敗と負け越す等ストローカを得意としていないが、シュティヒに6勝0敗等ビックサーバーをカモとしている。対戦成績はATP tennisサイトhead2head 参照

外部リンク[編集]