ジョルジャ・メローニ

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ジョルジャ・メローニ
Giorgia Meloni
Giorgia Meloni 2022.jpg
2022年のCPACでのメローニ
イタリアの旗 イタリア共和国無任所大臣
(若年層政策担当大臣)
任期
2008年5月8日 – 2011年11月16日
首相シルヴィオ・ベルルスコーニ
イタリアの旗 イタリア共和国下院副議長
任期
2006年4月4日 – 2008年4月28日
イタリアの旗 イタリア共和国下院議員
就任
2006年4月21日[1]
個人情報
生誕 (1977-01-15) 1977年1月15日(45歳)
イタリアの旗 イタリアラツィオ州
ローマ県ローマ
国籍イタリア民族
政党イタリア社会運動 (1992-1995)
国民同盟 (1995-2009)
自由の人民 (2009-2012)
イタリアの同胞 (2012-)
配偶者アンドレア・ジャンブルノ
専業ジャーナリスト
宗教ローマ・カトリック

ジョルジャ・メローニイタリア語: Giorgia Meloni1977年1月15日 - )は イタリア政治家イタリアの同胞(FdI)代表。

無任所大臣第3次ベルルスコーニ内閣)、下院副議長、下院議員(4期)、国民同盟(AN)及び自由の人民(PdL)党青年団書記長、イタリアの同胞(FdI)副代表などを歴任した。

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

1977年1月15日イタリア共和国の首都ローマに生まれる。両親がそれぞれイタリア島嶼部出身(父はサルデーニャ島、母はシチリア島)という家庭に育っている。学生時代からネオ・ファシズムを掲げる極右政党のイタリア社会運動(MSI)を支持し、15歳の時にはMSIの党青年団「青年戦線」(Fronte della Gioventù)に入会して左翼民主主義者によるジュリアーノ・アマート政権への反政府運動で頭角を現した。1994年、MSIが国民同盟(AN)に再編されると党学生団「学生行動」(Azione Studentesca)に加わり、1996年から学生団の指導者となった。

アメリゴ・ヴェスプッチ寄宿学校を卒業後[2]バーテンダーウェイトレスとして働きながら政治活動に取り組んだ。1998年、ANのローマ県党支部で評議員に選出された。2000年、ANの党青年団「青年行動」(Azione Giovani)の全国指導者に就任、2004年から党青年団の書記長となった。

2006年4月4日、MSI時代に党青年団指導者から議員に推された経験を持つジャンフランコ・フィーニ書記長に引き立てられ、同年の総選挙ラツィオ州第1比例区から党公認で下院選に出馬、29歳の若さで初当選した。2007年、国民同盟とフォルツァ・イタリアが合流して結成された自由の人民(PdL)が設立されると、Pdlの党青年団「若きイタリア」の書記長に就任した[3]

2008年、総選挙ではラツィオ州第2比例区で再選、第3次ベルルスコーニ政権が成立すると青年政策に関する無任所大臣に抜擢されて初入閣した。31歳での大臣就任はリソルジメント以来の最年少記録となっている[3]。2010年11月、青年層に向けた3億ユーロ相当の経済支援案を提示した。

イタリアの同胞[編集]

2012年、ベルルスコーニの汚職問題を契機にPdLから旧AN系議員が大量離脱する中、自身もPdLを離党した。離党後はマリオ・モンティ政権を支持したフィーニ派のイタリアのための未来と自由(FLI)には合流せず、4名の議員と政治グループとして「イタリアの同胞」(Fratelli d'Italia)を結党した。メローニはイニャツィオ・ラ・ルッサイタリア語版元国防相のグループ「国民中道右翼」(Centrodestra Nazionale)と合流してイタリアの同胞・国民中道右翼(FdI–CN)を結党し、新党の副代表に就任した。

2013年、共和国議会総選挙では故郷のラツィオ州から北部のロンバルディア州第3比例区に選挙区を移し、下院議員として3期目を迎えた。FdI全体もチェントロ・デストラ(中道右派連合)イタリア語版に参加して約60万票を獲得して下院議員9名が当選した。2014年、ルッサの任期終了によって党代表を引き継ぎ、党名をイタリアの同胞・国民同盟(FdI-AN)に改称した。旧AN系・MSI系政党の再結集を図る意向を示し、党青年団「国家青年英語版(Gioventù Nazionale)」を設置するなど組織固めを進め、同年の欧州議会選挙では議席獲得は果たせなかったもののイタリア全土で約100万票を集めている。

2016年、右派連合からローマ市長候補に擁立されて予備選では約20%の支持を得て第3位候補となったが、妊娠中に出馬した事などが賛否を分けて右翼票を集めきれず、同じ女性政治家で五つ星運動に所属するヴィルジニア・ラッジに敗れた。2017年、マッテオ・レンツィ政権の総退陣に繋がった憲法改正投票に党と共に反対票を投じている。

2018年、共和国議会総選挙では党名をイタリアの同胞(FdI)に戻す事を発表した。本選挙では小選挙区制が復活した事からラツィオ州の第7小選挙区(ラティーナ県)に中道右派連合の公認を受けて出馬、約40%の票を得て当選した。下院議員33名・上院議員17名が選出されたFdIは議会の第5党となり、一度は空中分解状態に陥っていた旧国民同盟勢力を着実な組織運営で纏めなおし、イタリア社会運動時代の党勢にまで回復させている。選挙後に成立した五つ星運動同盟による連立政権には加わらなかったものの、ポピュリズムと距離を取るベルルスコーニのフォルツァ・イタリアとも一線を画して閣外協力の姿勢を取った。

2019年、同年の欧州議会選ではFdIの得票が制限条項を上回って議席を獲得、地方選でもアブルッツォ州の州知事選で勝利を収めるなど躍進が続いた。同年、五つ星運動が民主党の左派連立が成立するとチェントロ・デストラ(中道右派連合)イタリア語版の所属政党と共に野党として活動した。

2020年、マッテオ・サルヴィーニシルヴィオ・ベルルスコーニらとアルフォンソ・ボナフェデ英語版法務相の再任に反対票を投じている。

2021年、欧州や南米の反左翼政党によるマドリード憲章英語版にFdI代表として署名した。

略歴[編集]

出典[編集]

外部リンク[編集]