ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ

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ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ
Luiz Inácio Lula da Silva
Luiz Inácio Lula da Silva.jpg

任期 2003年1月1日2011年1月1日
副大統領 ジョゼ・アレンカール

出生 (1945-10-27) 1945年10月27日(71歳)
Vargem Grande
政党 労働者党
配偶者 マリーザ・レティシア・ルーラ・
ダ・シルヴァ
署名 Signature of Luiz Inácio Lula da Silva.svg

ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァLuiz Inácio "Lula" da Silva, ルイース・イナスィオ・ルーラ・ダ・スィウヴァと発音、1945年10月27日 - )は、ブラジル左翼政治家、第35代大統領(在任:2003年 - 2011)。通称ルーラまたはルラで、日本のマスコミではルラと表記されることが多い。

名前の由来[編集]

1982年までは、生誕時の名前であるルイス・イナシオ・ダ・シルヴァLuiz Inácio da Silva)と名乗っていた。「ルーラ(ルラ)」(Lula)とは、自らの名前の「ルイス」(Luiz)をもじった幼少期からのあだ名であり、1982年サンパウロ州知事選に立候補するにあたって、広く知られた通称である「ルーラ」を加えてルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァと改名した。

生い立ち[編集]

2005年パースシャーサミットブラジル大統領として参加(左の一番端の人物)
妻マリーザと(2007年

ルーラはルイス・イナシオ・ダ・シルヴァとしてペルナンブーコ州の貧しい無学の農民の一家に生まれた。彼の誕生日は10月6日として届け出がなされているが、母親の記憶では10月27日生まれだと彼は主張している。ブラジルの農村部においては、出生日の食い違いは珍しいことではない。ルーラが生まれて間もなく、父親は沿岸の都市サントスに港湾荷役労働者として出稼ぎに出る。母親と8人の子供が父親の元を訪れたのは1952年のことであった。彼らはトラックの荷台に13日間揺られ父親の元へいった。彼らの生活環境はペルナンブーコに住んでいたときよりも向上したが、相変わらず苦しいものであった。

1956年に一家はサンパウロに移り住む。ルーラは母親と7人の兄弟と共にパブの裏の小さな部屋で暮らした。 ルーラは公的教育をわずかながら受けたが、四年生で学校を離れた。彼は12歳で靴磨きとして働き始める。短期間日本人の洗濯屋で働く。14歳になると製鉄所で初めて正式の工員として働く。働きながら小学校の課程を修了した。

19歳の時、プレス工として勤務していた自動車工場で起きた事故で、指を失う。その頃から彼は労働組合に加入し、重要な役職に就くこととなる。当時のブラジルは軍事独裁政権下にあり労働組合を強力に抑圧した反動から、ルーラの政治観は大きく左傾化することとなった。

1969年、マリア・ヂ・ルルデス(Maria de Lourdes)と結婚。しかしマリアは出産中に子供とともに死亡する。1974年にマリーザと再婚し、その後三児をもうける。同年、ミリアン・コルデイロ(Miriam Cordeiro)との間にも婚姻外の女児をもうける。

労働組合時代[編集]

1975年、ルーラはサンパウロ州サン・ベルナルド・ド・カンポ(São Bernardo do Campo)およびヂアデマ(Diadema)の鉄鋼労働者組合の長(president)に任命される。1978年にも再選され、その任期中に彼は軍事政権時代長きにわたって行われてこなかった、大規模なストライキを含む主要な組合行動を組織する。1980年、軍事政権下で冶金労働者のストライキを組織、裁判所はストライキを国家治安維持法違反(当時存在した法律)と判断した。当時はどんなストライキでも国家の安全を脅かすものとして不法と判断されていた。ルーラはストの首謀者として特高(DOPS、ドップス、当時存在した特殊警察組織)により逮捕、投獄された。地方軍事法廷は3年6ヶ月の懲役を言いわたしたが、高等軍事法廷はこれを棄却した。

政治家としてのキャリア[編集]

1980年2月10日、ルーラを含む学者、労働組合リーダー、知識人のグループが労働者党Partido dos Trabalhadores, PT)を発足させる。独裁政権のただ中において、進歩的な理念を掲げた左翼政党であった。 1982年、ルーラは自身初の選挙であるサンパウロ州知事選にルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァの名で臨む。敗れはしたものの、彼の労働者党は存在をつなぎ止めるのに十分な議席を確保した。

1984年、労働者党およびルーラは民衆キャンペーン"Diretas Já"(ジレータス・ジャー)に参加した。このキャンペーンは、次期大統領選挙における直接投票を要求するという趣旨のものであった。このキャンペーンの直接の結果として、民衆たちによる何年もの戦いの後、ついに1989年にいたって29年ぶりの直接選挙による大統領選挙が実現したのである。ルーラはこの大統領選挙に労働者党の候補として出馬したが、決選投票で国家再建党のフェルナンド・コロール・デ・メロに僅差で敗北した。

1992年、ルーラは民間ファンドに関わる数々のスキャンダルについて時の大統領コロールを弾劾するキャンペーンを張った。やがてコロールの弾劾裁判が行われ、コロールは辞任に追い込まれた。

その後ルーラは1994年1998年の大統領選挙に出馬したが、いずれもブラジル社会民主党(Partido da Social Democracia Brasileira, PSDB)のフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ(フェルナンド・エンヒーキ・カルドーゾと発音)に敗れている。

大統領時代[編集]

モザンビーク訪問時(2003年11月)

2002年12月27日、ルーラは社会民主党の候補ジョゼ・セーハ(José Serra)を破って大統領に選出される。投票率は61%、得票数は5240万票にも達し、ブラジル民主主義史上最大の得票数であった。

2003年の元日より同職に就任する。宣誓式において、ルーラは涙ぐみながら次のように宣言した。

E eu, que durante tantas vezes fui acusado de não ter um diploma superior, ganho o meu primeiro diploma, o diploma de presidente da República do meu país.


(訳:大学の学位がないと何度も非難されてきたこの私が、生まれて初めて免状を手にします。それがわが国の大統領という称号です。)

これによってルーラは、国家の最重要職を務めるのには致命的とされてきた公教育経験の不足を非難する幾多の攻撃に応える形となった。労働者党の支持者たちは彼の明晰な知性を引き合いに出し、かような非難を重く捉えることはなかった。

2006年の大統領選挙では、所属する労働党のスキャンダルが相次いだことで1回目の投票で過半数が得られず、決選投票にもつれ込んだが、10月29日に行われた決選投票では、60%以上の得票率を獲得して大統領再選を果たす。

大統領二期目も高い支持率を維持したが、憲法規定により三選は禁止されているため、ルーラは2011年1月1日の任期満了をもって退任した。退任時の支持率は90%近くであった[1]。後継の大統領候補には官房長官を務めたジルマ・ルセフ(ジウマ・ルセッフィと発音)を指名し[2]、好調な経済を背景にルセフが後任の大統領に当選した。

大統領退任後[編集]

石油会社ペトロブラスから不正な資金がルーラに渡った疑惑が持ち上がり、2016年3月4日に警察によって身柄を拘束された[3]。これに対してルセフ大統領はルーラを入閣させることで捜査や起訴に最高裁判所の承認が必要となる措置をとったため、抗議デモがさらに相次いだ[4]

政策[編集]

外交[編集]

日本人移民100周年記念式典に参加するため、ブラジルを訪れた皇太子徳仁親王と握手するルーラ

国際舞台におけるルーラ政権の試みは、発展途上国内でのリーダーシップを模索するとともに、富裕国と対峙することであった。メルコスール(メルコスーウと発音)を通じて南米の統合を促進し、ベネズエラの加盟を推し進めた。2006年のサミットにおいてはより自立したラテンアメリカの支持者を自認、FTAを通したアメリカの伸長から距離を置いている。また、アラブ世界やアフリカなど、過去にブラジルと関連の薄かった国々との通商ルートの開拓にも専心した。国連安全保障理事会の改革にも奔走し、ブラジルの常任理事国入りを目指す。

日本との外交関係も重視しており、2005年5月に来日した。2008年7月にも、第34回主要国首脳会議に併せて開催されたエネルギー安全保障と気候変動に関する主要経済国会合に出席するため、北海道洞爺湖町を訪れた。

社会政策[編集]

「飢餓ゼロ計画」でギターを寄贈したU2ボノ(左)と(2006年)

社会政策としては「飢餓ゼロ計画」を立ち上げ、貧困層への支援を積極的に行っている。その一環として当選の翌年2003年10月、貧困層への家族手当である「ボルサ・ファミーリア(Bolsa Família:家族賃金)」を創設した。これは「ボウサ・エスコーラ」(学童基金)・食糧補助・ガス助成金・食糧カードといった4つの公的扶助制度を統合したもので、月間所得が50レアル(ヘアウと発音)以下(16歳以下の通学中の子供がいる場合は100レアル以下)の貧困世帯に対し1ヶ月50レアル、通学中の子供1人につき15レアルの家族手当を支給する制度である。「飢餓ゼロ計画」では他に廉価で食事を提供する「大衆レストラン」の設置や食糧配給なども実施されている[5]。また、貧困対策としては最低賃金の引き上げも実行した。

経済[編集]

労働者党出身とはいえ、急進的な左派路線は採らず、基本的には現実的な経済政策を採っている。2002年の大統領選挙では、過去の大統領選におけるルーラの左翼的な主張から市場に警戒感が広がり、対ドル市場ではレアル安が進んだ。しかし政権が発足するとルーラは公務員年金改革による財政支出の削減などを行い、カルドーゾ政権の財政健全化路線を踏襲したため、その懸念を払拭した。実際、IMFの目標値を超える財政黒字を達成し、2009年にはIMFに対する純債権国となっている[6]。また、インフレ抑制にも成功している。

逸話[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]


公職
先代:
フェルナンド・カルドーゾ
ブラジルの旗 ブラジル連邦共和国大統領
第35代:2003 - 2011
次代:
ジルマ・ルセフ
党職
先代:
(結党)
労働者党大統領選挙候補者
1989, 1994, 1998, 2002, 2006
次代:
ジルマ・ルセフ