用明天皇
用明天皇 | |
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時代 | 飛鳥時代 |
先代 | 敏達天皇 |
次代 | 崇峻天皇 |
誕生 | 不明(#即位の項参照) |
崩御 | 用明天皇2年(587年)4月9日 |
陵所 | 磐余池上陵→河内磯長陵 |
諱 | 池辺皇子 |
別称 |
大兄皇子 橘豊日命 橘豊日天皇 |
父親 | 欽明天皇 |
母親 | 蘇我堅塩媛 |
皇后 | 穴穂部間人皇女 |
子女 |
聖徳太子 来目皇子 殖栗皇子 茨田皇子 田目皇子 麻呂子皇子 酢香手姫皇女 |
皇居 | 磐余池辺雙槻宮 |
用明天皇(ようめいてんのう、不明 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))は、第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))[1]。
和風謚号・異名
和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、『古事記』では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)[2]という。 諱は池辺皇子(いけのべのみこ)。また、即位前の名称として大兄皇子(おおえのみこ)[3]とも称する。
系譜
- 皇后:穴穂部間人皇女(泥部穴穂部皇女ともいう。欽明天皇の皇女)
- 嬪:石寸名(いしきな、蘇我稲目の娘。または意富芸多志比売[4][5])
- 妃:広子(葛城直磐村の女[6][7]。または葛木当麻倉首比里古の女、伊比古郎女[4])
飛鳥時代(27代から37代)
27 安閑天皇 | 28 宣化天皇 | 29 欽明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石姫皇女 (欽明天皇后) | 上殖葉皇子 | 30 敏達天皇 | 31 用明天皇 | 33 推古天皇 | 32 崇峻天皇 | 穴穂部間人皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大河内稚子媛 (宣化天皇后) | 十市王 | 押坂彦人大兄皇子 | 春日皇子 | 大派皇子 | 難波皇子 | 聖徳太子 (厩戸皇子) | 来目皇子 | 当麻皇子 | 殖栗皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火焔皇子 | 多治比古王 | 茅渟王 | 栗隈王 | 山背大兄王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比嶋 〔多治比氏〕 | 35 皇極天皇 37 斉明天皇 | 36 孝徳天皇 | 美努王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有間皇子 | 橘諸兄 (葛城王) 〔橘氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇居
都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)。現在の奈良県桜井市阿部、あるいは同市池之内などの説があるが、同市池尻町で2011年に所在地が不明だった磐余池と見られる池の堤跡が見つかり、その堤跡上で発見された大型建物跡が磐余池辺雙槻宮であった可能性も出てきた[9]。
大連・大臣
即位
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
敏達天皇崩御を受け即位。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじた。
一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人・穴穂部皇子と通じていた。しかしながら、用明天皇は疱瘡のため、在位2年足らずの用明天皇2年(587年)4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。享年は36[10]、41[11]、48[12]、67[13]、69[14]など諸説ある。
陵墓
磐余池上陵(いわれのいけがみのみささぎ)に葬られたが後に河内磯長陵(大阪府南河内郡太子町大字春日)に改葬された。
在位年と西暦との対照表
『新唐書』の目多利思比孤
『隋書』卷81 列傳第46 東夷にある俀王「姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、『新唐書』東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。
その他
聖徳太子による法隆寺の建立は、元々用明天皇の病気平癒のために天皇の願いを受けて太子が寺の建立を誓ったからだとする説がある。また、聖徳太子の父ということで後世様々な説話に引用され、江戸時代には近松門左衛門が「用明天皇職人鑑」という浄瑠璃作品を発表している。
明治3年(1870年)に仲恭天皇と弘文天皇が追贈されるまで、在位期間が最も短い天皇であった。
脚注
- ^ 『古事記』用明天皇段に「弟(おと)、橘の豊日命、池邊宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三歳(みとせ)なりき。この天皇、稲目(いなめ)の大臣の女、意富藝多志比売(おほぎたしひめ)を娶して、生ませる御子、多米(ため)王。(分注、一柱。)また庶妹開人穴部(ままいもはしひとのあなほべ)王を娶して、生みませる御子、上宮(うえつみや)の厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)命。(この後、四人の御子が生まれ、また比売(ひめ)を娶り、二人の御子が生まれると記す。)この天皇。(分注、丁未の年の四月十五日に崩りましき。)御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)にありしを、後に科長(しなが)の中の陵に遷(うつ)しき」とある。池邊宮は、奈良県磯城郡。上宮の厩戸豊聡耳命は、聖徳太子。
- ^ 即位前の名称として「橘豊日皇子」と表記されることがあったが、和風諡号の誤用にあたるため、現在ではほとんど用いられない。
- ^ 大兄皇子の「大兄」とは皇位継承資格を示す称号であり、実名ではない。
- ^ a b c d e 『古事記』
- ^ 欽明天皇の妃堅塩媛を誤伝したものとされる(日本古典文学大系新装版『日本書紀』の頭注参照)。
- ^ a b c 『日本書紀』
- ^ 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『日本書紀』用明天皇紀に、推古天皇の代まで斎宮をつとめ、後に葛城に帰り亡くなった、との記述が推古天皇紀にある旨の注がある。ただし該当記事は推古紀にはない。
- ^ “「磐余池」か、堤跡発見 日本書紀・万葉の最古ダム”. 中日新聞. (2011年12月16日)
- ^ 『水鏡』
- ^ 『神皇正統記』、『如是院年代記』、『和漢合符』
- ^ 『仁寿鏡』、『東寺王代記』
- ^ 鴨脚本『皇代記』
- ^ 『皇年代略記』、『興福寺略年代記』
関連項目
外部リンク