彦根城

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彦根城
滋賀県
天守(国宝)
天守(国宝)
別名 金亀城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)
築城主 井伊直継
築城年 1622年(元和8年)
主な城主 井伊氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋
石垣、土塁、堀
指定文化財 国宝(天守等2棟)
国の重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
国の特別史跡
再建造物 御殿
位置 北緯35度16分35.12秒 東経136度15分6.8秒 / 北緯35.2764222度 東経136.251889度 / 35.2764222; 136.251889
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代表紋章:彦根橘

彦根城(ひこねじょう)は、日本滋賀県彦根市金亀町にあったである。江戸時代および1869年(明治2年)の版籍奉還後から1871年(明治4年)の廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。

概要

近世にあたる江戸時代滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

明治初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守[1]、附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)のほか、安土桃山時代から江戸時代のなど5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。

天守が国宝指定された四城の一つに数えられる。1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストにも記載されているが、世界遺産登録は厳しい状況にある。滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された(歴史・沿革を参照)。

構造

城の形式は連郭式平山城。また、現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。なお、城の北側には玄宮園楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。

地理特性

湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸からに至る東国西国の結節点であり、壬申の乱672年(白鳳元年))・姉川の戦い1570年(元亀元年))・賤ヶ岳の戦い1583年(天正11年))・関ヶ原の戦い1600年(慶長5年))など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。 戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城羽柴秀吉に与えている。 また、豊臣秀吉徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成井伊直政を、この地に配置している。

建築

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。 建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城岡山城姫路城福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。

時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている[2]。この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。

通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)[3]」といわれる石垣で支えられ、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ[4]昭和の天守解体修理(1957年(昭和32年)- 1960年(昭和35年))のときに、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている[note 1]

歴史・沿革

江戸時代

玄宮園から天守を望む
天秤櫓と廊下橋

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。 佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い[note 2]、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。 その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。 なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月20日は西の丸三重櫓で執務を行っていた。これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためであり、徳川幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として徳川時代の大半を過ごした。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。 向かって右手が築城当初からの「ごぼう積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している[5]

近現代

1934年(昭和9年)、築城以来徳川幕府の要の役割を果たしていた彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員の吉田繁治郎が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した。[6]

1944年(昭和19年)、井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。

天守等6棟が1951年(昭和26年)に重要文化財に指定、うち2棟(天守、附櫓及び多聞櫓)が1952年(昭和27年)に国宝に指定された。その後1963年に馬屋が重要文化財に指定されている。

姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1951年(昭和26年)6月9日に国の特別史跡に指定された。

1987年(昭和62年)、彦根市市制50周年として御殿が復元され、「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具などが展示されている。

2006年(平成18年)4月6日には日本100名城(50番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

文化財

ファイル:Hikone jyou hori 1.jpg
佐和口多聞櫓と堀
国宝
  • 天守
  • 附櫓及び多聞櫓(1棟)
重要文化財
  • 天秤櫓
  • 太鼓門及び続櫓(1棟)
  • 西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)
  • 二の丸佐和口多聞櫓
  • 馬屋

探訪

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画像-1 :天守の景観。南東より望む。
画像-2 :天守 東側にある広場からの景観。
画像-3 :北西より望む、天守と石垣。
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画像-4 :西側から天守を見上げる。
画像-5 :天守2階内部
画像-6 :廊下橋 創建時は壁と屋根付きの廊下のような橋であった。
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画像-7 :太鼓門櫓
画像-8 :天秤櫓の門
画像-9 :馬屋

舞台となった作品

映像

映画
テレビドラマ

など数多くの映画や、テレビドラマのロケ地として頻繁に使われている。

東映京都撮影所京都映画撮影所から場所が近いことから、姫路城とともに時代劇のロケが頻繁に行われている。江戸城の代わりとして用いられる事が多い姫路城に対して、それより小規模な本城は無名の小城という設定での撮影が多い。

文学

井伊直弼が藩主の座に就くまでに先の藩主やその候補者の多くが夭折(ようせつ)していることから、神秘的な物語の舞台に採り上げられることが多い。

なお、国宝・彦根城築城400年の開催を機に、小説を対象に2007年(平成19年)、舟橋聖一文学賞が創設された。

観光

所在地
滋賀県彦根市金亀町1-1
利用情報
日本100名城スタンプラリーのスタンプは、彦根城表門券売所に設置されている。

交通

鉄道
自動車道

脚注

  1. ^ 京極高次が建てた大津城天守を移築したもの。
  2. ^ 内藤信成時代の長浜城大手門。
  3. ^ ごぼうのように細長い大小の自然石を土塁の中に差し込み、石を積んでいく野面積みの一種である。四角く切った石を積んだ石垣と違い、見た目は無骨だが崩れにくく、非常に頑丈な石垣である。(「石垣の積み方」も参照。)
  4. ^ 天守がややずんぐりしているのはそのためであるという。
  5. ^ 昭和60年度から6年間にわたって修復を受けた。
  6. ^ 広報ひこね第1262号4ページ 2012年3月1日

参考文献

  1. ^ 三浦正幸監修 『【決定版】図説・天守のすべて』 学習研究社、{{subst:和暦|2007}}、ISBN 978-4-05-604634-2
  2. ^ 西ヶ谷恭弘ほか 『名城を歩く4 彦根城(歴史街道3月特別増刊号)』 PHP研究所2003年(平成15年)

関連項目

ファイル:Hikonyan01.JPG
彦根城のマスコット「ひこにゃん

外部リンク