崔龍洙
表示
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | トクスリ | |||||
カタカナ | チェ・ヨンス | |||||
ラテン文字 | CHOI Yong-Soo | |||||
ハングル | 최용수 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 韓国 | |||||
生年月日 | 1973年9月10日(50歳) | |||||
出身地 | 釜山広域市 | |||||
身長 | 184cm | |||||
体重 | 79kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1994-1995 1996-2000 1997-1998 2001-2003 2004 2005 2006 |
LGチータース 安養LGチータース ->光州尚武フェニックス ジェフユナイテッド市原 京都パープルサンガ ジュビロ磐田 FCソウル |
50(18) 61(26) ?(?) 73(54) 33(20) 15(1) 2(0) | ||||
代表歴2 | ||||||
1995-2003 | 韓国 | 67(27) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2008年1月20日現在。 2. 2008年1月20日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
崔 龍洙(チェ・ヨンス、최용수 1973年9月10日-)は大韓民国・釜山広域市出身の元サッカー選手、指導者。現在はFCソウル監督をつとめている。韓国ではトクスリ(독수리、ハゲワシ)の愛称で呼ばれている。
同姓同名のボクシング元WBA世界スーパーフェザー級王者も存在するが、全くの別人である。
来歴
国際Aマッチ47試合出場25得点(当時)の現役韓国代表FWとして2001年にジェフユナイテッド市原に加入。入団初年度に21得点をたたき出すなど、2年連続でチーム最多得点を挙げエースとして君臨。左サイドの村井慎二とのホットラインは市原の名物ともなっていた。
2004年には当時J2だった京都パープルサンガに移籍する。2005年にはジュビロ磐田に移籍したが、度重なるけがのためレギュラーではなかった。2006年に韓国に戻り、Kリーグ・FCソウルで選手兼任コーチとしてプレーした。2006年8月5日のFC東京との親善試合を最後に現役を引退。引退後、FCソウルコーチに就任。2011年4月にリーグ戦での不振から皇甫官監督が辞任する事態となり、監督代行に就任。同年12月に正式に監督となった。
アラカルト/エピソード
- 若い頃は闘争心を剥き出しにする選手で、ユース時代の日本戦では試合後に日本ベンチにボールを蹴りこんだことがある。1993年ワールドユースオーストラリア大会アジア最終予選(兼AFC U-19選手権)が1992年9月からUAEで開催され、出場権を懸け西野朗監督率いるU-19日本とU-19韓国が準決勝で対戦した(当時のU-20W杯のアジアの出場枠は2)。試合は終了8分前の韓国チョウ・ヒュンのゴールで韓国が2-1で勝利し出場を決めたが、終了後、静まり返った日本ベンチに、崔龍洙がボールを蹴りこんだ。当時の日本のコーチ山本昌邦によれば『興奮して、転がってきたボールを崔龍洙めがけて蹴り返したが、キックが正確でなかった(崔龍洙に当たらなかった)。もしボールが当たっていれば大問題になっていたが、とにかく悔しくて、その日の夜は眠れなかった』とのこと[1]。日本代表のGKだった川口能活はこの行為に激怒したが、崔龍洙がその後謝罪したため、磐田では仲はよかった。
- 1997年、韓国代表としてフランスW杯アジア予選出場時、試合前の国歌吹奏(または斉唱)を他のチームメイトは胸に手を置きながら聴いていたのに対し、崔はただ1人、敬礼しながら聴いていた(当時兵役中の身で、韓国国軍のチーム「尚武」に所属していた)。
- Jリーグにやってきた頃には既に周りをまとめる年長者としての自覚が備わっており、市原時代は若手選手をまとめることを意識してパーティーを開いたりしていたことを同僚達が証言している。磐田では怪我のためにほとんど貢献できなかったものの、カレン・ロバートが、自分はどうプレーしたほうがよいのかと質問した際に「若い選手は自分をアピールすべき。ベテランはそれに合わせるから」とアドバイスし、カレンのブレイクに一役買った。
- 崔は日本サッカーに関して「Jリーグは前線よりも中盤に重点を置いているため、よいFWが育ちにくい環境にある。鈴木(隆行)も玉田も柳沢も自分から点を取るタイプではないだろう。本物のストライカーと呼べるのは高原とゴン中山さんくらいだろう」「特にゴン中山さんのあのプロ魂には感服する、だから40を過ぎてもまだサッカーを続けていられるんだ。若いカレンや前田はゴン中山さんを見習えばもっと成長する」とコメントしている。
- そのいかつい風貌とは裏腹に、好物がショートケーキだったり、市原のロッカールームで安全地帯の『ワインレッドの心』をご機嫌で熱唱していた(日本語もかなり流暢だったという)など親しみやすい人柄を覗かせる逸話がある。
- ジェフで同僚だった巻誠一郎に慕われており、崔も彼を大切にしていた。
所属クラブ
- ユース経歴
- (年度不明) - 釜山東来高校
- (年度不明) - 延世大学校
- プロ経歴
- 1994年-1996年 安養LGチータース
- 1997年-1998年 尚武
- 1999年-2000年 安養LGチータース
- 2001年-2003年 ジェフユナイテッド市原
- 2004年 京都パープルサンガ(期限付き移籍)
- 2005年 ジュビロ磐田
- 2006年 - 同年8月 FCソウルプレイングマネージャー
経歴
現役
引退後
- 2006年 - 2011年4月 FCソウル コーチ
- 2011年4月 - 2011年12月 FCソウル 監督代行
- 2011年12月 - FCソウル 監督
個人成績
このテンプレートは利用者空間内にあるため使用しないで下さい。:今後はコピー先のTemplate:サッカー選手国内成績表_topを使用して下さい。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 安養LG | Kリーグ | 29 | 9 | 6 | 1 | - | 35 | 10 | ||
1995 | 21 | 9 | 7 | 2 | - | 28 | 11 | ||||
1996 | 16 | 4 | 6 | 1 | |||||||
1997 | 尚武 | K2リーグ | |||||||||
1998 | |||||||||||
1999 | 安養LG | Kリーグ | 20 | 12 | 7 | 2 | 3 | 5 | 30 | 19 | |
2000 | 25 | 10 | 9 | 4 | |||||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2001 | 市原 | 10 | J1 | 26 | 21 | 5 | 2 | 3 | 4 | 34 | 28 |
2002 | 23 | 16 | 1 | 0 | 4 | 3 | 28 | 19 | |||
2003 | 24 | 17 | 2 | 0 | 0 | 0 | 26 | 17 | |||
2004 | 京都 | 21 | J2 | 33 | 20 | - | 1 | 0 | 34 | 20 | |
2005 | 磐田 | 16 | J1 | 15 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 16 | 1 |
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2006 | ソウル | 11 | Kリーグ | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 韓国 | Kリーグ | 113 | 44 | 35 | 10 | |||||
韓国 | K2リーグ | 45 | 22 | ||||||||
日本 | J1 | 88 | 55 | 9 | 2 | 7 | 7 | 104 | 64 | ||
日本 | J2 | 33 | 20 | - | 1 | 0 | 34 | 20 | |||
総通算 |
このテンプレートは利用者空間内にあるため使用しないでくだい。:今後はコピー先のTemplate:サッカー選手国際成績表_topを使用して下さい。 |
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2005年 | 磐田 | 16 | 4 | 2 |
通算 | AFC | 4 | 2 |
個人タイトル
- 1994年 - Kリーグ新人王
- 2000年 - KリーグMVP
出場大会
- 1996年 - アトランタオリンピック (グループリーグ敗退)
- 1998年 - FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2002年 - FIFAワールドカップ (4位)
代表歴
- U-22、U-23韓国代表(1995年-1996年)
- 韓国代表(1995年-2003年、67試合27得点)