山雲 (駆逐艦)

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1939年9月15日、海上試験を行う山雲
艦歴
計画 マル2計画
起工 1936年11月4日
進水 1937年7月24日
就役 1938年1月15日
その後 1944年10月25日戦没
除籍 1945年1月10日
性能諸元
排水量 基準:約2,000t、公試:2,400t
全長 118.00m
全幅 10.386m
吃水 3.71m(平均)
機関 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸
ロ号艦本式重油専焼缶3基
50,000hp
最大速力 34.85kt
航続距離 18ktで5,190浬
燃料 重油580t
乗員 230名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 Ⅱ×2
(または13mm機銃 Ⅱ×2)
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九〇式魚雷16本)
九一式爆雷×36

山雲(やまぐも)は[1]大日本帝国海軍駆逐艦[2]一等駆逐艦朝潮型(満潮型)の6番艦である[3]。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦で西村艦隊に所属しスリガオ海峡へ突入、米艦隊の砲雷撃を受けて沈没した。艦名は海上自衛隊やまぐも型護衛艦やまぐも」に継承された。

艦歴

駆逐艦「山雲」は藤永田造船所で建造開始。1936年(昭和11年)10月22日、「山雲(ヤマグモ)」と命名[1]。姉妹艦「朝雲」、工作艦「明石」も同日附で命名されている[1]。同年11月4日に起工、1937年(昭和12年)7月24日に進水、1938年(昭和13年)1月15日に竣工[4]。同時に第41駆逐隊に編入された。

同年9月15日、第三予備艦となり横須賀海軍工廠蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。1939年(昭和14年)11月15日、所属の第41駆逐隊が第9駆逐隊となった。1940年(昭和15年)11月15日、第9駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊に編入された。

太平洋戦争

太平洋戦争開戦時には、朝潮型の姉妹艦3隻(朝雲夏雲峯雲)と共に第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将・旗艦「那珂」)・第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐)に所属していた。1941年(昭和16年)12月31日、リンガエン湾上陸作戦を支援中に触雷した。1942年(昭和17年)2月5日、リンガエン発[5]。9日香港に到着[6]。入渠して応急修理を行った[7]。4月1日に出港し、6日横須賀着[8]。以後9月末まで同地にとどまり修理を実施した。なお5月15日附で「山雲」は第9駆逐隊より除籍された[9]。同日附で損傷修理中の朝潮型3隻(山雲、満潮大潮)は予備艦となる[10]。 約五ヶ月が経過した10月1日、修理を終えた「山雲」は警備駆逐艦に指定される[11]横須賀鎮守府海面防備部隊に編入され、船団護衛任務に従事する。10月1日、「山雲」は第4駆逐隊「萩風」のトラック泊地~日本本土回航を護衛する[12]。航海中、スクリューの脱落で航行不能となった「萩風」を曳航し、8日に横須賀港へ戻った[12]。12月8日、乙一号輸送作戦第2部隊として輸送船「朝風丸、相良丸」を護衛し横須賀を出発、途中で駆逐艦「追風」と護衛任務を交代した[13]

1943年(昭和18年)2月8日午後4時、「山雲」は兵員輸送船「龍田丸」を護衛して横須賀を出発、トラック泊地へ向かっていた[14]。午後10時15分頃、御蔵島東方40マイル地点で「龍田丸」は米潜水艦「ターポン」に雷撃され、約20分後に沈没[14]。前方1000~1500mを航行していた「山雲」は爆発音を聞いて反転、「イカニセルヤ」と信号で問い合わせるが応答はなかった[14]。風速20mの時化により捜索は難航[14]。小野艦長は「龍田丸の痕跡を発見した者には賞金を出す」とまで通達したが、燃料切れになるまで捜索しても破片すら発見できなかったという(2月20日、白鳥丸が軍属1名の遺体を収容)[15]。乗船者約1500名(3000名とも)は全員戦死した[16]。その後も護衛任務に従事し、各地を転々とする。9月20日から10月6日まで、輸送船3隻(平安丸、護国丸、清澄丸)、水上機母艦「秋津洲」、駆逐艦3隻(山雲、巻波)は丁二号輸送部隊として第17師団の上海~呉~トラック~ラバウル移動(南東方面派遣)を実施する[17]

第四駆逐隊

この輸送作戦を準備中の9月15日、「山雲」は第4駆逐隊に編入された[18]。開戦時の第4駆逐隊は陽炎型駆逐艦4隻(萩風野分舞風)で編制され第四水雷戦隊に所属していたが、ミッドウェー海戦を経て1942年(昭和17年)7月に第十戦隊へ移籍していた。その後、1943年(昭和18年)8月6日のベラ湾夜戦で所属艦2隻(萩風、嵐)を撃沈された第4駆逐隊は「野分、舞風」の2隻となっており、「山雲」の編入で陽炎型(不知火型)と朝潮型(満潮型)の混成部隊となった。第4駆逐隊は丁四号輸送部隊第三輸送隊として輸送船2隻(日枝丸、栗田丸)を護衛、11月12日にラバウルへ到着した[19]

11月中旬、「山雲」は駆逐艦「若月」と共に日本本土へ向かう巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」を護衛する[20]。19日、「山雲」は船団を追跡していた米潜水艦「スカルピン」を発見する[21]。「山雲」は爆雷攻撃を加えて「スカルピン」に損傷を与え、浮上した同艦を砲撃により撃沈した[21]。「山雲」は米潜水艦乗組員42名(41名とも)を救助した[21]。乗組員達は「龍田丸」の仇を討とうと色めきたったが、小野(山雲艦長)はそれを制して救助を行い、コーヒーやトーストをふるまったという[15]。なおトラック泊地に到着したスカルピン乗組員は、彼等を撃沈・救助した駆逐艦について、「山雲」ではなく「YOKOHAMA」と教えられた。11月下旬、スカルピン乗組員21名は空母「冲鷹」に便乗して日本本土へ向かったが、「冲鷹」は12月3日に米潜水艦「セイルフィッシュ」の雷撃で撃沈され、21名中1名が駆逐艦「浦風」もしくは「」に救助されたにとどまった[22]

12月上旬、「山雲」は第10駆逐隊「秋雲」と共にトラック-パラオ輸送船団護衛任務に従事。同月中旬、連合艦隊は戊号輸送作戦を発動する[23]。「秋雲、風雲」と共に戦艦「大和」、空母「翔鶴」を護衛して横須賀に戻っていた「山雲」も作戦に組み込まれた。12月20日、戦艦「大和」、第17駆逐隊「谷風」、第4駆逐隊「山雲」からなる戊一号輸送部隊は横須賀を出港してトラック泊地へ向かう[24]。だが、トラック到着直前に米潜水艦「スケート」から「大和」への雷撃を許した[23]。「大和」は魚雷1本の命中により小破[23]。25日、「大和、谷風、山雲」はトラックに到着した[25]。ただちに「山雲」は戊三号輸送部隊第二部隊に編入され、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「能代」、軽巡洋艦「大淀」、秋月型駆逐艦秋月」および「山雲」という戦力でニューギニア島カビエンへの輸送作戦に従事する[26]

1944年(昭和19年)1月1日、戊三号輸送部隊第二部隊はカビエンで米軍機85機(資料によっては約100機)の襲撃を受ける[23]。輸送部隊は零式艦上戦闘機の援護をうけつつ「能代、山雲」、「大淀、秋月」という二群にわかれて米軍機と交戦、敵機の撃退に成功した。軽巡「能代、大淀」が小破しているが、深刻な被害は出なかった[23]。「山雲」は撃墜5機を記録、機銃掃射と至近弾により若干の浸水被害と戦死2名・重軽傷10名という被害を受けている[27]。1月中旬以降、ラバウル方面への輸送船団護衛任務に従事。2月15日、第4駆逐隊3番艦の「山雲」は輸送船「浅香丸」を護衛してトラック泊地を出発した。2月17日、トラック泊地は米軍機動部隊及び戦艦部隊に襲撃されて大損害を受ける(トラック島空襲)。練習巡洋艦「香取」、特設巡洋艦「赤城丸」と共に第4駆逐隊司令艦「舞風」が撃沈され、4駆司令磯久研磨大佐も戦死した。4駆は「野分、山雲」の2隻編制になる。「山雲」は脱出してきた「野分」と合同し、引き続き「浅香丸」を護衛して内地へ向かった[28]。 「山雲」は24日に横須賀へ帰投して補給・修理を受けたのち、3月16日に出渠。3月25日、高橋亀四郎大佐が第4駆逐隊司令として着任し、「山雲」を司令艦とする[29]。3月31日、除籍された「舞風」の代艦として「山雲」の姉妹艦「満潮」が第4駆逐隊に編入され、同隊は3隻編制(野分、山雲、満潮)となった[30]。 第4駆逐隊に変化がある中、駆逐艦「山雲、雪風初霜」は空母「千歳」のサイパン方面輸送作戦を護衛する[31]。日本本土帰投後の4月、「能代、山雲、雪風、初霜」は空母2隻(瑞鳳龍鳳)のサイパン・グアム方面輸送を護衛した[32]

6月以降、渾作戦マリアナ沖海戦に参加。第4駆逐隊は第二航空戦隊(司令官城島高次少将)に所属し、第27駆逐隊の白露型「時雨」等と共に空母3隻(隼鷹飛鷹龍鳳)を護衛した。7月上旬、第4駆逐隊は戦艦「扶桑」の日本本土回航を護衛。航海中の7月10日、「秋雲、風雲」の喪失による第10駆逐隊の解隊にともない、同隊所属だった姉妹艦「朝雲」が第4駆逐隊に編入される[33]。第4駆逐隊は定数4隻(野分、満潮、朝雲、山雲)を回復した。日本に帰還後、「野分、山雲」は空母「瑞鳳」、第61駆逐隊(秋月初月)と小笠原諸島・硫黄島方面への輸送作戦に従事した。

10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊(満潮、朝雲、山雲、野分)は分散配備され、「野分」のみ栗田艦隊・第十戦隊旗艦の軽巡洋艦「矢矧」及び第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)と行動を共にする。第4駆逐隊3隻(満潮/司令艦、朝雲、山雲)は扶桑型戦艦山城」と「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)に所属して、指揮官西村祥治少将(旗艦「山城」)の指揮下でレイテ湾突入を目指した。10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。午前2時20-30分頃、「満潮」-「山雲」-「朝雲」-「時雨」-「山城」-「扶桑」-「最上」という単縦陣の二番手に位置していた「山雲」は、米軍駆逐艦隊が発射した魚雷の命中により航行不能となる[34]。西野(時雨駆逐艦長)によれば、「満潮、山雲、朝雲」はほぼ同時に被雷、「山雲」は轟沈であったという[35]。全員が戦死したとされる。生存者1名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録が残るが、その後の消息は不明[36]。同海戦で「山城、扶桑、満潮、朝雲」とも少数の生存者が米軍に救助されたが、その実数は定かではない。なお、栗田艦隊に所属していた「野分」も重巡「筑摩」救援中に撃沈され(野分は総員戦死)、第4駆逐隊所属艦は1日で全隻を喪失した。

1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦「山雲」は 満潮型駆逐艦[37]、 帝国駆逐艦籍[38] のそれぞれから除籍された。全滅した第4駆逐隊も解隊された[39]

歴代艦長

艤装員長
  1. 阿部俊雄 中佐:1937年8月16日[40] - 1937年12月1日[41]
  2. 原為一 少佐:1937年12月1日[41] - 1938年1月15日[42]
駆逐艦長
  1. 原為一 少佐/中佐:1938年1月15日[42] - 1938年12月1日[43]
  2. 溝畠定一 中佐:1938年12月1日[43] - 1939年3月10日[44]
  3. 有馬時吉 少佐:1939年3月10日[44] - 1939年11月15日[45]
  4. 古賀彌周次 少佐/中佐:1939年11月15日[45] - 1942年5月20日[46]
  5. 小野四郎 少佐/中佐:1942年5月20日[46] - 1944年10月25日 戦死、同日付任海軍大佐[47]

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3(防衛省防衛研究所) 巻3追録/第13類 艦船(1)』。 
    • Ref.C13071997700『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。 
    • Ref.C05110759800『公文備考昭和12年E教育(演習))検閲巻3/第3617号12.7.13駆逐艦山雲進水当日艦外形撮影の件』。 
    • Ref.C12070100800『昭和11年達 完』。 
    • Ref.C12070162800『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。 
    • Ref.C12070165700『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。 
    • Ref.C12070180700『昭和18年9~10月内令4巻/昭和18年9月(4)』。 
    • Ref.C12070196900『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。 
    • Ref.C12070195500『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。 
    • Ref.C12070503600『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。 
    • Ref.C08030110100『昭和17年2月1日~2月28日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030111700『昭和17年3月1日~4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030112300『昭和17年4月1日~6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030145300『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030145400『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030145500『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030145600『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030050000『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030050100『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030050200『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030050300『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030050400『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C08030050500『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(6)』。 
    • Ref.C08030724100『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌』。 
    • Ref.C08030050800『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日第10戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030050800『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日第10戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030050800『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日第10戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C14061105800『捷1号作戦に於ける2YBの作戦経過概要 5F水雷主務参謀 中佐 森幸吉記憶』。 
  • 小淵守男『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯今日の話題社、1990年。ISBN 4-87565-136-8 
  • 小淵守男『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』光人社NF文庫、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • サミュエル・モリソン大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9 
  • 郵船OB氷川丸研究会『氷川丸とその時代』海文堂出版株式会社、2008年2月。ISBN 978-4-303-63445-2 

脚注

  1. ^ a b c #達昭和11年p.11『達第百六十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻工作艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十月二十二日 海軍大臣永野修身|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝雲(アサグモ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 山雲(ヤマグモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 工作艦 明石(アカシ)』
  2. ^ #日本軍艦集2600年版p.39『一等驅逐艦 山雲(やまぐも) 基準排水量1,500噸、長さ108.55米、幅10.15米、平均吃水2.75米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管8門、起工昭和11年11月4日、進水昭和12年7月24日、竣工昭和13年1月15日、建造所藤永田造船所-満潮と同型。同型艦朝潮は昭和12年8月31日竣工、大潮は同年10月31日竣工。』
  3. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』
  4. ^ #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『山雲|(艦性能略)|藤永田造船所|11-11-4|12-7-24|13-1-15|(艦兵装略)』
  5. ^ #昭和17年2月~第4水雷戦隊日誌(1)p.69『2月5日|山雲1135「リンガエン」発』
  6. ^ #昭和17年2月~第4水雷戦隊日誌(1)p.66『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  7. ^ #昭和17年3月~第4水雷戦隊日誌(2)p.37『(一)麾下艦船部隊ノ行動|第九駆逐隊 山雲|香港 海軍工廠船渠』
  8. ^ #昭和17年4月~第4水雷戦隊日誌(1)p.20『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  9. ^ #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八駆逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九駆逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  10. ^ #内令昭和17年5月(2)pp.26-27『内令第八百五十一號 横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 大潮 驅逐艦 満潮 驅逐艦 山雲 右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八駆逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九駆逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  11. ^ #内令昭和17年10月(1)pp.2-3『内令第千八百二十五號|横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 山雲|呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 夕霧 驅逐艦 白雲|右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  12. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)192頁
  13. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)224頁
  14. ^ a b c d #氷川丸とその時代281頁
  15. ^ a b #氷川丸とその時代282頁(山雲乗組員、市川登《水雷科海軍上等兵兵》談)
  16. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)253頁
  17. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)436頁
  18. ^ #内令昭和18年9月(4)p.28『内令第千九百三十六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年九月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「舞風」ノ下ニ「、山雲」ヲ加フ』
  19. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)438頁
  20. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)518頁
  21. ^ a b c #モリソンの太平洋海戦史379-380頁
  22. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)529頁(戦史叢書では31名だが、実際には21名)
  23. ^ a b c d e #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)525-527
  24. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(1)p.22『20日(略)1100便乗者50名乗艦、谷風ト共ニ大和護衛戊第一号輸送任務ニ従事』
  25. ^ #昭和18年12月~第10戦隊日誌(1)p.25『25日1500/大和谷風山雲 トラック着』
  26. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(1)p.24『30日(略)0715陸軍部隊乗艦、能代・大淀・秋月ト共ニ戊第三号輸送任務ニ従事』
  27. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(2)p.9『五.戦果及被害』
  28. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)623頁
  29. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(3)p.9.11『3月25日/一.新司令(高橋大佐着任)|二.山雲四駆司令駆逐艦トナル(略)』
  30. ^ #内令昭和19年3月(5)p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  31. ^ #昭和18年12月~第10戦隊日誌(4)p.3『4日山雲横須賀第一号ドック入渠16日出渠ス、雪風初霜ト共ニ千歳護衛ノ目的ヲ以テ大宮島発「サイパン」ニ回航5日同地着』
  32. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(3)p.10『能代山雲雪風初霜ニテ瑞鳳龍鳳ヲサイパン及グアムニ護衛』-『0755横須賀発グアムニ向フ(瑞鳳護衛)/1655龍鳳ト合同ス』
  33. ^ #内令昭和19年7月p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  34. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『○0220頃 第二番艦タル山雲ハ魚雷ヲ受ケ、航行不能トナル』
  35. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.19『山雲ハ約三分ニシテ轟沈、満潮、朝雲ハ盛ンニ蒸気ヲ噴出シツツ航行不能』
  36. ^ #10月18日以降増援兵力p.3『地区:マニラ|所轄:山雲|進出期日(編制期日)1944.10.25|員数1』
  37. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.2『内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「 島風」ヲ削ル(以下略)』
  38. ^ #秘公報昭和20年1月(2)pp.8-10『内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島|呉鎮守府在籍 軍艦 八十島|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹|右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙 驅逐艦 満潮 驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲 驅逐艦 野分 驅逐艦 早霜 驅逐艦 秋霜 驅逐艦 若月 驅逐艦 霜月|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風 驅逐艦 島風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風 驅逐艦 卯月 驅逐艦 夕月 驅逐艦 初春|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波 驅逐艦 濱波 驅逐艦 沖波 驅逐艦 岸波|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣』
  39. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  40. ^ 昭和12年8月16日付 海軍辞令公報 号外 第28号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072072200 で閲覧可能。
  41. ^ a b 昭和12年12月1日付 海軍辞令公報 号外 第99号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072072700 で閲覧可能。
  42. ^ a b 昭和13年1月17日付 海軍辞令公報 号外 第123号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072073300 で閲覧可能。
  43. ^ a b 昭和13年12月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第267号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072074700 で閲覧可能。
  44. ^ a b 昭和14年3月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第312号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072075500 で閲覧可能。
  45. ^ a b 昭和14年11月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第402号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072076700 で閲覧可能。
  46. ^ a b 昭和17年5月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第863号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072085500 で閲覧可能。
  47. ^ 昭和20年7月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1856号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072106100 で閲覧可能。

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