円融天皇
円融天皇 | |
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元号 |
安和 天禄 天延 貞元 天元 永観 |
時代 | 平安時代 |
誕生 | 959年4月12日 |
崩御 |
991年3月1日 円融寺 |
陵所 | 後村上陵 |
諱 | 守平 |
別称 |
金剛法(法名) 朱雀院上皇 |
父親 | 村上天皇 |
母親 | 藤原安子 |
中宮 |
藤原媓子 藤原遵子 |
女御 |
藤原詮子 尊子内親王 |
子女 | 一条天皇 |
円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年9月23日(969年11月5日) - 永観2年8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。
系譜
村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘、中宮安子。冷泉天皇の同母弟。すぐ上の同母姉資子内親王と仲がよく、これを一品に叙した。
はじめ関白藤原兼通の娘媓子を中宮とし、天元2年(979年)に彼女が亡くなると、代わって関白藤原頼忠の娘遵子を中宮に立てた。また、女御である藤原兼家の次女詮子との間には唯一の皇子女、懐仁親王(後の一条天皇)が産まれている。
系図
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
兄である冷泉天皇即位後3ヶ月余りにわたる皇太子の空位の後、康保4年(967年)9月1日、9歳にして、同母兄の為平親王を飛び越えて立太子。これは為平親王が源高明の娘を妃にしていたため、これを警戒した藤原氏の意を受けたものと考えられている。安和2年(969年)安和の変で源高明が失脚すると、その5ヶ月後冷泉天皇の譲位を受けて即位する。
即位時はまだ11歳であったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼が摂政に就任。天禄元年(970年)に実頼が薨去すると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ。同3年、伊尹が在職一年あまりで亡くなると、その弟の兼通・兼家の間で、摂関職を巡って熾烈なる争いが行われる。天皇は亡母の遺訓に従って兼通を関白に任じ、さらに貞元2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任とした。これは兼通の権勢に従ったものとされるが、兼家が当時天皇の兄である冷泉上皇には娘・超子を入内させていたにも関わらず、天皇である自分の許には娘を入内させていなかったために、天皇自身も兼家に含むところがあり、娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。
その後兼家も娘・詮子を入内させ、天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲ける。にもかかわらず、中宮媓子の崩御後「素腹の后」遵子が中宮に冊立された。一連のことは兼家の恨みを買い、彼は娘詮子・外孫懐仁親王ともども、里第に籠って出仕しなかった。これに対して天皇も2度の内裏の焼失の際に故兼通邸の堀河殿(退位後も御所として使用)や関白頼忠邸を仮の御所として兼家への依存を拒むなど、両者の緊張関係が続く事になる。
このように藤原氏の勢力争いに翻弄され、永観2年(984年)懐仁親王の立太子を条件に花山天皇に譲位。その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都諸寺への御幸を行った。寛和元年(985年)2月13日、紫野において盛大な「子の日の御遊」を催し、平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らを含む当代の著名歌人に和歌を奉らせた。この時、曾禰好忠が召されもしないのにみすぼらしい狩衣姿で推参し、ついに追い出された話は有名(『今昔物語集』巻28)。
一条朝では幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれる。摂政兼家と意見が対立することもあったことが、院別当として信頼厚かった藤原実資の『小右記』によって分かる。
和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わる。
后妃・皇子女
- 中宮:藤原媓子(947-979) - 関白藤原兼通長女
- 中宮:藤原遵子(957-1017) - 関白藤原頼忠長女
- 女御:藤原詮子(962-1001) - 右大臣藤原兼家次女、のち皇太后
- 第一皇子:懐仁親王(一条天皇)(980-1011)
- 女御:尊子内親王(966-985) - 冷泉天皇第二皇女
- 更衣:中将御息所 - 藤原懐忠女
- 更衣:少将更衣
諡号・追号・異名
退位後は後院の名に因み、朱雀院上皇と称される(「朱雀院」の称は『日本紀略』『小右記』『大斎院前の御集』などに散見)。寛和元年(985)8月、寛朝大僧正の授戒により出家し、以後勅願寺である円融寺に住む。よって死後「円融院」と追号。
在位中の元号
陵墓・霊廟
陵墓は京都市右京区宇多野福王子町にある後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)。円融寺の北原にて火葬、父村上天皇陵の傍らに遺骨を納めた。現龍安寺裏の朱山に火葬塚がある。また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。