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バハーイー教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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イスラエルのハイファにあるバハーイー世界センター
階段の上に建っているのがバーブ寺院
バハーイー教の象徴・九芒星

バハーイー教(ばはーいーきょう)は、19世紀半ばにイランバハーウッラーが創始した一神教である。

イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラクトルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。

信徒数は公称600万人、189ヶ国と46の属領に広がっており、ブリタニカ百科事典によると現在布教国数でキリスト教に続き世界で二番目に広がりを見せている宗教である。[1]なお、ペルシア語の発音に即して「バハーイー」と日本語表記されることが多いが、日本のバハーイー共同体は「バハイ」と呼んでおり、「バハイ教」「バハウラ」「バハイ信教」とも表記される。

教義

バハーウッラー自身の家系、また、その神学の誓約もアブラハムへ遡るところからバハーイー教は基本的にはアブラハムの宗教に含まれるものだが、モーセイエスムハンマドらに足して、アブラハムの宗教に含まれていないゾロアスター釈迦などの世界の全ての大宗教の創始者も神の啓示者であり、バハーイー教の創始者バハーウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされる。この他宗教を排除しない寛容な思想の影響もあり、相手を改宗させる目的での布教活動は禁止されている。

人類平和と統一を究極の目標とし、真理の自己探求、男女平等一夫一婦制科学宗教との調和、偏見の除去、教育の普及、国際補助語(エスペラント語英語はバハイからでもなければ、バハイによって承認もされていないが、その指摘からヒントを受け広がったと言われる[誰?])の採用、極端な貧富の差の排除、各国政府法律の尊重(暴力革命の否定)、アルコール麻薬の禁止などの教義戒律を持つ。発祥地のイランや中東に留まらない世界的な普遍宗教としての性格を有する。

万国正義院

バハーイー教には聖職者はおらず、各地のバハーイー共同体は「地方精神行政会」(Local Spiritual Assembly)と呼ばれる。同様に、「全国精神行政会」(NSA)と呼ばれる9メンバーの行政会は、全国バハーイー共同体の事務を指示し調整する役目を負う。その上に万国正義院 (House of Justice) の世界全体を管轄する9メンバーの行政会がおかれる。これらのメンバーは、成人のバハーイー教徒の中から共同体に役立つことができる信徒を互選することになっている。なお、万国正義院全国精神行政会地方精神行政会への立候補など、選挙運動は禁じられている。

バハーイー教では、バハーウッラーの権威から連続した「聖約」(神との契約)を重視するため、バハーウッラーの後継者アブドゥル・バハーとその後継者および「万国正義院」と呼ばれる現在のバハーイー共同体最高機関の正当性を否定、無視、または、他の個人や機関を正当性のあるバハーイー共同体の機構だと訴える信徒は「聖約を破る人」としてバハーイー共同体から除名されることがある。聖約はバハーイー教の中での枝分かれ、派閥、そして個人の独善的な解釈や自我によって起こりうる組織の分裂を阻止することと啓示と教えを守るためのやむを得ない手段である。

アブドゥル・バハーが進化論を否定し、疑似科学に基づく創造論を主張[2]する。ただし、他の宗教同様進化論に対する対応は信者によって違い、多様である。

歴史

バーブ

1844年に、イランのシーラーズの商人セイイェド・アリー・モハンマド(バハーイー教では啓示者のひとり)が、イマームと交信する能力があると宣言して、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」の称号を名乗った。彼の開いたバーブ教は、実質的にイスラム教から独立した宗教であるとみなされる。シャイヒー派の信徒を中心に多くの十二イマーム派の信徒に支持されたが、イランの十二イマーム派ウラマーたちの強い反発を招き、ガージャール朝政府の弾圧を受けた。バーブ教信徒たちは反乱を起こして抵抗したが鎮圧された。結局バーブは1850年タブリーズで処刑されるが、信徒たちは今度はバーブが予言した「神が現し給う者」の到来を探し始めた。

バハーウッラー

ガージャール朝に仕える高級官僚の家系に生まれたミールザー・ホセイン・アリーは、バーブ教が開かれた直後からバーブの信徒で、1852年に政府により逮捕され拘束された。このテヘランでの獄中生活の最中に、彼は自身がバーブが予言した「神が現し給う者」であると最初に受け取ったとされる。9年後の1863年、ホセイン・アリーはイラクのバグダード(オスマン帝国領)に追放されるが、ここで彼は正式に、自身がバーブの予言した、「神が現し給う者」であると宣言し、アラビア語で「神の栄光」を意味するバハーウッラーの称号を名乗った。これがバハーイー教の実質的な起こりである。

バハウッラーの教えはバーブ教のほとんどの信徒に受け入れられたが、バハーウッラー自身はイラン政府とオスマン政府の警戒を受けて、バグダードからイスタンブルエディルネに移され、最終的には1868年パレスチナアッコ(アクレ)に流され、1892年に亡くなるまでそこに留められた。アクレの地はバハーイー教徒にとっての聖地となっている。

アクレ地域の他の重要なバハーイー教徒の聖地はハイファカルメル山の斜面に位置するバーブの墓あるいは聖堂である。バーブの遺骸は、イランから聖地へ秘密裏に運ばれ、バハーウッラーによって指定された場所に築かれた聖堂に埋葬された。

バハーウッラーは、数多くの書物を著したが、中でも『至聖の書(キターベ・アクダス)』は『コーラン』やバーブの著した『バヤーン』に代わる教典とみなされる。

アブドゥルバハー

アブドゥルバハー

バハーウッラーによって後継者に使命されたのは、彼の長男、アブドゥルバハー(彼の名前はアラビア語で「栄光のしもべ」を意味する)であった。バハーウッラーは長男を「聖約の中心」と呼ぶように定め、全てのバハーイー教徒がバハーウッラーの指示に従うよう指示した。バハーウッラー自身彼のことを息子でありながら「マスター」(先生)と呼んだと言う。

アブドゥルバハーは既に父の長い追放と監禁の生活を共に過ごしていたが、彼の継承後も監禁生活は1908年青年トルコ人革命まで続いた。解放後、アブドゥルバハーは父の教えをアラビア語で「バハーに従う者」を意味する「バハーイー」と呼ぶことを宣言した。彼はヨーロッパアメリカカナダに旅行して世界的な宣教を開始し、多くのバハーイー教文献が様々な言語に翻訳された。1921年11月28日にアブドゥルバハーはハイファで亡くなった。遺体はバーブの遺骸のある聖堂に埋められている。

ショーギ・エフェンディー

ショーギ・エフェンディー

アブドゥルバハーの孫であり、また、バーブの血を引くため次の後継者となる。彼の死後は万国正義院がバハーイー教の中心となった。

バハーイー共同体運営機構の確立

アブドゥルバハーは父、バハーウッラーの御教えに基づき「万国正義院」と呼ばれるバハーイー共同体最高機関の設置を定め、後継者として最年長の孫、ショーギ・エフェンディを「バハーイーの守護者」に任命した。祖父が死んだときオックスフォード大学の学生であったショーギ・エフェンディは、1957年イギリスで死去するまでの36年間、万国正義院に指導されるバハーイー共同体の組織確立に尽力した。バハーウッラーとアブドゥルバハーの著作の翻訳が精力的に進められたショーギ・エフェンディの時代にハイファのバハーイー教本部は世界センターに発展し、バハーイー教の世界布教は大いに進展する。

1963年には、万国正義院の行政会を構成し世界のバハーイー教徒を指導する9人のメンバーの最初の選挙が行われた。

参照

  1. ^ バハイとは”. 日本バハイ共同体. 2011年2月4日閲覧。
  2. ^ 第四部 人間の起源と能力と状態について

関連項目

外部リンク

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