バハーイー教

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イスラエルのハイファにあるバハーイー世界センター
階段の上に建っているのがバーブの聖廟
バハーイー教の象徴・九芒星

バハーイー教(バハーイーきょう)は、19世紀半ばにイランバハーウッラーが創始した一神教である。

イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラクトルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。

信徒数は公称600万人、189ヶ国と46の属領に広がっており、ブリタニカ百科事典によると現在布教国数でキリスト教に続き世界で二番目に広がりを見せている宗教である。[1]なお、ペルシア語の発音に即して「バハーイー」と日本語表記されることが多いが、日本のバハーイー共同体は「バハイ」と表記している。バハーイー教の創始者の名前も同様に、発音表記を「バハーウッラー」とする文献もあるが、バハーイー共同体では、「バハオラ」と表記している。

教義[編集]

バハーウッラー自身の家系、また、その神学の聖約もアブラハムへ遡るところからバハーイー教は基本的にはアブラハムの宗教の系列に含まれるものだが、モーセイエスムハンマドらに足して、アブラハムの宗教に含まれていないゾロアスター釈迦などの世界の全ての大宗教の創始者も神の啓示者であり、バハーイー教の創始者バハーウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされる。この他宗教を排除しない寛容な思想の影響もあり、相手を改宗させる目的での布教活動は禁止されている。

人類平和と統一を究極の目標とし、真理の自己探求、男女平等一夫一婦制科学宗教との調和、偏見の除去、教育の普及、国際補助語の採用、極端な貧富の差の排除、各国政府法律の尊重(暴力革命の否定)、アルコール麻薬の禁止などの教義戒律を持つ。発祥地のイランや中東に留まらない世界的な普遍宗教としての性格を有する。

万国正義院

バハーイー教には聖職者はおらず、各地のバハーイー共同体は「地方精神行政会」(Local Spiritual Assembly) と呼ばれる行政機関により管理されている。同様に、「全国精神行政会」(NSA) と呼ばれる9人のメンバーから構成される行政機構は、全国バハーイー共同体の事務を指示し調整する役目を負う。その上に万国正義院 (The Universal House of Justice) という世界的なバハーイー共同体の行政管理を行う、9名のメンバーから構成される機構が置かれる。これらのメンバハー、成人のバハーイー教徒の中から共同体に役立つことができる信徒を互選することになっている。なお、万国正義院全国精神行政会地方精神行政会への立候補など、選挙運動は禁じられている。

バハーイー教では、バハーウッラーの権威から連続した「聖約」(神との契約)を重視するため、バハーウッラーの後継者アブドル・バハーとその後継者ショーギ・エフェンデイおよび上述の「万国正義院」の正当性を否定、無視する信徒、または、他の個人や機関を正当性のあるバハーイー共同体の機構だと訴える信徒は「聖約を破る人」としてバハーイー共同体から除名されることがある。聖約はバハーイー教の中での枝分かれ、派閥、そして個人の独善的な解釈や自我によって起こりうる組織の分裂を阻止することと啓示と教えを守るためのやむを得ない手段である。

アブドル・バハーが進化論を否定し、疑似科学に基づく創造論を主張[2]する。ただし、他の宗教同様進化論に対する対応は信者によって違い、多様である。

歴史[編集]

バーブ[編集]

1844年に、イランのシーラーズの商人セイイェド・アリー・モハンマド(バハーイー教では啓示者のひとり)が、諸々の宗教で「約束された人物」(つまりバハーウッラー)の先駆者であると宣言して、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」の称号を名乗った。彼の開いたバーブ教は、実質的にイスラム教から独立した宗教であるとみなされる。シャイヒー派の信徒を中心に多くの十二イマーム派の信徒に支持されたが、イランの十二イマーム派ウラマーたちの強い反発を招き、ガージャール朝政府の弾圧を受けた。結局バーブは1850年タブリーズで処刑されるが、信徒たちは今度はバーブが予言した「神が現し給う者」の到来を探し始めた。

バハーウッラー[編集]

ガージャール朝に仕える高級官僚の家系に生まれたミルザ・ホセイン・アリは、バーブ教が開かれた直後からバーブの信徒で、1852年に政府により逮捕され拘束された。このテヘランでの獄中生活の最中に、彼は自身がバーブが予言した「神が現し給う者」であると最初に受け取ったとされる。9年後の1863年、ホセイン・アリはイラクのバグダード(オスマン帝国領)に追放されるが、ここで彼は正式に、自身がバーブの予言した、「神が現し給う者」であると宣言し、アラビア語で「神の栄光」を意味するバハーウッラーの称号を名乗った。これがバハーイー教の実質的な始まりである。

バハーウッラーの教えはバーブ教のほとんどの信徒に受け入れられたが、バハーウッラー自身はイラン政府とオスマン政府の警戒を受けて、バグダードからイスタンブールエディルネに移され、最終的には1868年パレスチナアッカ(アクレ)に流され、後にその近辺にあるバージに移り、1892年にそこで昇天した。アッカ及びバージの地はバハーイー教徒にとっての聖地となっている。

アッカ・バージ以外でバハーイー教の聖地はハイファカルメル山の斜面に位置するバーブの聖廟とその周辺地域である。バーブの遺骸は、イランから聖地へ運ばれ、バハーウッラーによって指定された場所に築かれた聖堂に埋葬された。

バハーウッラーは、数多くの書物を著したが、中でも『最も神聖なる書(ケタベ・アクダス)』は『コーラン』やバーブの著した『バヤーン』に代わる教典とみなされる。

アブドル・バハー[編集]

アブドル・バハー

バハーウッラーによって後継者に使命されたのは、彼の長男、アブドル・バハー(彼の名前はアラビア語で「バハー(=栄光)のしもべ」を意味する)であった。バハーウッラーは長男を「聖約の中心」と呼ぶように定め、全てのバハーイー教徒が、バハーウッラー亡き後、彼の指導に従うよう指示した。バハーウッラー自身、彼のことを息子でありながら「師」(Master)と呼んだと言う。

アブドル・バハーは既に父の長い追放と監禁の生活を共に過ごしていたが、継承後も監禁生活は1908年青年トルコ人革命まで続いた。解放後、アブドル・バハーは父の教えをアラビア語で「光を求める者」を意味する「バハーイー」と呼んだ。彼はヨーロッパアメリカカナダに旅行して世界的な宣教を開始し、多くのバハーイー教文献が様々な言語に翻訳された。1921年11月28日にアブドル・バハーはハイファで亡くなった。遺体はバーブの遺骸のある聖廟に埋められている。

ショーギ・エフェンディ[編集]

ショーギ・エフェンディ

アブドル・バハーの孫であり、また、バーブの血を引く。アブドル・バハーは父、後継者として最年長の孫、ショーギ・エフェンディを「守護者」に任命した。アブドル・バハーの逝去時、ショーギ・エフェンディは、オックスフォード大学の学生であったが、1921年から1957年イギリスで死去するまでの36年間、バハーイー共同体を導き、世界的規模の共同体の確立の基盤を敷いた。また、この間、バハーウッラーとアブドル・バハーの著作の翻訳も精力的に進めた。ショーギ・エフェンディの時代にハイファのバハーイー教本部は世界センターに発展し、バハーイー教の世界布教は大いに進展する。

バハーイー共同体運営機構の確立[編集]

万国正義院は、バハーウッラーにより定められた行政機構で、世界的バハーイー共同体の行政管理を司る。また、バハーウッラーがその法律の書である「アグダスの書」の記していない詳細な事項について法律を制定し、また時代の変遷に応じてその法律を廃止し、更新していく権限と機能をバハーウッラー自身により与えられている。選挙で選ばれる9名のメンバーから構成される。創立は1963年である。

参照[編集]

  1. ^ バハーイーとは”. 日本バハーイー共同体. 2011年2月4日閲覧。
  2. ^ 第四部 人間の起源と能力と状態について

関連項目[編集]

外部リンク[編集]