「ベガ (競走馬)」の版間の差分

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'''ベガ'''([[1990年]] - [[2006年]])は[[日本]]の[[競走馬]]。[[1993年]]に[[中央競馬]]で[[桜花賞]]、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]の[[中央競馬クラシック三冠|牝馬クラシック]][[二冠馬|二冠]]を制した
'''ベガ'''([[1990年]][[3月8日]] - [[2006年]][[8月16日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]]。


[[1993年]]に[[中央競馬]]でデビュー。[[武豊]]を[[主戦騎手]]として同年の[[桜花賞]]、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]の[[中央競馬クラシック三冠|牝馬クラシック]][[二冠馬|二冠]]を制し、[[JRA賞最優秀3歳牝馬|JRA賞最優秀4歳牝馬]]に選出された。その後は不振に陥り、翌1994年の[[宝塚記念]]で骨折を生じたことにより引退。以後は繁殖牝馬として、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]に優勝した[[アドマイヤベガ]]、[[競馬の競走格付け|GI競走]]7勝を挙げた[[アドマイヤドン]]などの活躍馬を輩出した。
※<!-- 日本のほかアイルランド、南アフリカ、アメリカ、インドにも同名馬がいるが -->本項では1990年の日本産馬について説明する。


''※[[馬齢]]は日本で2000年以前に使用された表記([[数え年]])で記述する。''
== デビュー ==
[[ノーザンファーム|社台ファーム]]期待の血統ではあったが、生まれつき脚が曲がっていたため[[庭先取引]]の話はなかった。セリ市では「お代はいくらでもかまいません」の立て札が立てられたが、それでも買い手が付かなかった。仕方なく生産者の妻である[[吉田和子 (社台グループ)|吉田和子]]の所有馬としてデビューすることになった。


== 経歴 ==
馬名は、顔の中央の白い部分に黒子のような斑点が数個あり、それが星を思わせたため、[[こと座]]の一等星[[ベガ]]にちなみ命名された。因みに、カタカナ二文字の馬名の[[八大競走]]優勝馬はベガと[[レダ (競走馬)|レダ]](唯一の[[天皇賞|天皇賞(春)]]優勝牝馬)二頭だけである。
=== デビューまで ===
1990年、[[北海道]][[早来町]]の[[ノーザンファーム|社台ファーム早来]]に生まれる。父は1988年の[[凱旋門賞]]などを制し、[[社台グループ]]が購買し輸入した新[[種牡馬]][[トニービン]]。母アンティックヴァリューは20世紀最高の種牡馬といわれた[[ノーザンダンサー]]の直仔で、その血統を求めていた社台の総帥・[[吉田善哉]]の肝煎りで輸入された馬だった<ref>木村(2000)p.13</ref>。


アンティックヴァリューには脚部が不自然に内側に曲がっている「内向」という身体的特徴があり<ref>木村(2000)p.15</ref>、本馬も成長と共に左前脚が曲がり始め、やがて誰の目にも判別できるほどひどい内向となった<ref>木村(2000)p.17</ref>。このため牧場では「競走馬になれれば御の字」という見方も生まれ<ref>木村(2000)p.19</ref>、現実にも少しのことで脚部に異常を生じ、育成調教も順調に進まなかった<ref>木村(2000)p.21</ref>。しかし2歳(1991年)秋から試験的に[[坂路]]コースでの調教を始められると、比較的脚部への影響が少ないことが分かり、さらに調教が続けられる内に動きが変わり始め、競走馬デビューへの展望も開けていった<ref name="vega">木村(2000)pp.22-24</ref>。牧場は引き続き坂路で調教することを条件に、[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]の[[松田博資]]へ競走馬としての管理を依頼し、これを了承された<ref name="vega" />。
== 競走馬時代 ==
{{節stub}}
※[[馬齢|年齢]]は表記([[数え年]])で統一する。


出生当初の予定では[[社台グループ]]が経営する[[一口馬主]]クラブ・[[社台レースホース]]で出資を募ることになっていたが、脚部の内向のため立ち消えとなり<ref>木村(2000)p.18</ref>、競走登録に際して吉田善哉の妻・[[吉田和子|和子]]の個人所有馬となった<ref name="vega" />。本馬は[[馬のマーキング|顔面の白斑]]のなかに斑点があったことから、和子の孫がこれを星に見立て、「織姫星」にあたる「[[ベガ]]」と命名<ref name="vega" />。「織姫星のように輝いてほしい」「[[七夕]]で[[七夕#風習|人々が短冊に書いた願いを叶える]]ように、みんなの願いも叶えてほしい」という意味も込められていた<ref name="vega" />。
[[桜花賞]]の[[パドック]]でベガを見た馬主の[[近藤利一]]は[[吉田勝己]](現:[[ノーザンファーム]]代表)にベガを1億円で譲ってほしいと交渉したが、断られた。しかし、ベガの仔は売ってもらえるように約束できた。


1992年9月、松田博資厩舎に入る<ref name="vega" />。入厩に際し、社台ファーム早来場長・[[吉田勝己]]からは「母親の所有馬だし、好きにやっていい」という言葉を添えられ、松田は能力を見極めながらのゆとりをもった調教に専念した<ref name="vega2">木村(2000)pp.27-31</ref>。以後は脚部不安に配慮しながらの調教が続いたが、松田はベガの身体の柔らかさに欠点克服の希望を見出し、また[[調教助手]]の[[目黒正徳]]は騎乗時にその柔軟性と頭の良さを感じ取り、大きな期待を寄せていた<ref name="vega2" />。ゲート練習<ref group="注">[[発馬機]]からのスタート練習。</ref>は何も教わらない状態のまま一回で終えてみせ、必修審査のゲート試験も一回で合格した<ref name="yutaka">武(2003)pp.30-31</ref>。
桜花賞に出走した時、時の社台ファーム総帥[[吉田善哉]]は体調を崩し、危篤の一歩手前の状態であった。しかし桜花賞の発走時刻が近づくと「テレビを点けてくれないか」と妻の和子に頼み、ベガの競走を観戦した。その後善哉は体調を持ち直し、「また馬たちに救われたな」と和子に語った。


1993年初頭、松田が状態の良い時を見計らって坂路コースで強めの調教をかけたところ、[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|オープン馬]]と見紛われるほどの動きと好タイムを計時し、同週にデビューすることが決まった<ref name="vega2" />。
牝馬[[三冠 (競馬)|三冠]]がかかった[[エリザベス女王杯]]は、優駿牝馬以来約5ヶ月間ぶり出走のせいか、伸びきれず[[ホクトベガ]]の3着に敗れた。その際[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の[[馬場鉄志]][[アナウンサー]]による「ベガはベガでもホクトベガです」との実況は、名フレーズの一つに数えられている。


=== 績 ===
調教は松田博資[[調教師]]が、自ら本馬に跨っておこなった。
==== 牝馬クラシック二冠 ====
1月9日、[[京都競馬場]]の新馬戦でデビュー。鞍上は松田厩舎所属の若手騎手・[[橋本美純]]が務めた。レースは先行策から直線ゴール前で他馬に突き放され、2馬身半差の2着となったが、実質一回の調教での臨戦だったことから、陣営は却って期待を高めた<ref name="vega3">木村(2000)pp.33-35</ref>。次走も橋本が騎乗する予定だったが、2戦目を前にした調教に遅刻したことで橋本は降板させられ、「天才」の異名をとる武豊に騎乗が依頼された<ref name="vega3" />。2戦目は2番手追走から直線で抜け出し、2着に4馬身差をつけて初勝利を挙げた<ref>木村(2000)pp.37-38</ref>。武はその走りに強い印象を受け、松田に「この馬、オークス勝ちますよ」と話したという<ref>武(2003)p.28</ref>。


初勝利のあと、左前脚に異常を来たす<ref name="vega4">木村(2000)pp.39-44</ref>。松田はベガについて2400メートルで行われるオークスに向いた馬で、1600メートルの桜花賞は距離が短すぎると見ていたことから、オークスを目標とすることも考えていたが、その後状態が良くなり、ベガは桜花賞[[トライアル競走|トライアル]]の[[チューリップ賞]]に出走することになった<ref name="vega4" />。1勝馬ながら、競走当日は前年の3歳女王[[スエヒロジョウオー]]などを抑え1番人気に支持された。レースでは最終コーナーで早々に先頭に立つと、直線では後続を突き放し、3馬身差で勝利を挙げた<ref name="vega4" />。
=== 競走成績 ===

桜花賞に向けては日に日に調子が上がり、競走前の最終調教では坂路コースで51秒2という際立ったタイムを計時した<ref>木村(2000)pp.45-46</ref>。4月11日の桜花賞当日は、単勝オッズ2.0倍の1番人気に支持される。スタートが切られるとベガは逃げ馬を見ながら3番人気の[[ヤマヒサローレル]]と並んで2番手を進むが、最後の直線に入ってすぐ先頭に立った<ref name="vega14">木村(2000)pp.55-56</ref>。ゴール前では[[ユキノビジン]]とマックスジョリーの2頭が追い込んできたが、前者をクビ差退けて勝利<ref name="vega14" />。牝馬クラシック初戦を制した。

桜花賞のあと、陣営は「オークスに勝った場合、秋にはフランスの[[ヴェルメイユ賞]]へ出走」という展望を明らかにした<ref name="yushun199307">『優駿』1993年7月号、p.5</ref>。また、一時はオークスではなく牡馬相手となる[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]出走も取り沙汰されたが、最終的にはオークス出走に収まった<ref>木村(2000)p.62</ref>。ベガは順調に調教を積まれ、5月20日には栗東トレーニングセンターから[[東京競馬場]]へ移動したが、初めて長距離輸送を経験したことで一時的に発熱や食欲不振といった変調を来たし、スポーツ紙でも大きく報じられた<ref>木村(2000)pp.64-66</ref>。また、桜花賞の最後の1ハロン(約200メートル)が13秒4というスタミナ切れを思わせるものでもあり<ref name="yushun1993072">『優駿』1993年7月号、p.135</ref>、5月23日のオークス当日は1番人気となったものの、オッズは3.4倍と桜花賞との比較では落ちる数字となった<ref name="vega6">木村(2000)pp.68-69</ref>。しかしこの時点でベガの体調は回復していた<ref name="vega6" />。レースでは4番手を追走から最後の直線に入ると、残り200メートル付近で先頭のユキノビジンをかわし、同馬に1馬身3/4の差をつけて優勝した。春の牝馬二冠は史上9頭目、武はこれがオークス初制覇、松田は1988年の[[コスモドリーム]]に次ぐ同2勝目となった。松田は「不安らしい不安はありませんでした」と語り<ref name="yushun1993072" />、武は後に3.4倍というオッズを取り上げ「自信があるだけに『どうして?』という感じでした」と述べている<ref>武(2003)p.34</ref>。

==== 不振、引退 ====
オークスの競走終了後、厩舎に戻る時点でベガは歩様に乱れを生じた<ref name="vega7">木村(2000)pp.76-80</ref>。そのまま[[千葉県]][[富里町]]の社台ファーム千葉へ放牧に出されたが<ref name="vega7" />、ここで右肩に筋肉痛の症状が出たことで、ヴェルメイユ賞出走の計画は撤回された<ref name="yushun199307" />。その後、社台ファーム早来へ移動したが、牧場の装蹄師が[[蹄]]に[[蹄鉄]]を装着する際に、人間の[[深爪]]にあたる「釘傷(ちょうしょう)<ref group="注">蹄鉄の装着は、蹄底の角質部分に釘を打ちつけて行う。</ref>」を発生させてしまい、牝馬三冠最終戦・[[エリザベス女王杯]]への出走が危ぶまれる事態となった<ref name="vega7" />。8月末には栗東トレーニングセンターに戻ったが、本格的な調教はできず、出走を希望していたトライアル競走の[[ローズステークス]]は回避し、エリザベス女王杯へ直行することが決まった<ref name="vega8">木村(2000)pp.84-87</ref>。一時的に坂路ではなく平地で調教を行ってみるなど試行錯誤が続いたのち、10月半ば頃から動きが良くなり始め、エリザベス女王杯に出走可能な状態となった<ref name="vega8" />。

競走当日(11月14日)は、夏の間に勝利を積み重ね、ローズステークスを制した[[上がり馬]][[スターバレリーナ]]が1番人気に支持され、ベガは2番人気となった。レースでベガは好スタートを切ったものの、200メートルほどの地点で他馬と接触して体勢を崩す<ref name="vega9">木村(2000)pp.91-94</ref>。武はベガを中団に控えさせ、道中は10番手を進んだ<ref name="vega9" />。最後の直線では伸びを見せたものの、先を行く[[ホクトベガ]]と[[ノースフライト]]に突き放されて3着に終わり、史上2頭目の牝馬三冠は成らなかった<ref name="vega9" />。このとき民放テレビ中継で実況を務めた[[馬場鉄志]]は「ベガはベガでもホクトベガ」という文句を残した<ref>杉本(2001)p.109</ref>。ベガはスタート後の接触が原因で右後脚を負傷しており、競馬場の診療所で[[ウマ#身体各部の名称|球節]]付近を4針縫合した<ref name="vega9" />。松田はインタビューに対し「あのアクシデントを敗因にしたくはない。豊の乗り方も完璧やったし、久々が応えたんやな。3着か。惨敗してないんだもん、よく走ったよ」とベガを労った<ref name="vega9" />。

エリザベス女王杯の後からベガは姿勢が変化し、デビュー前のような疲れやすい体質に逆戻りした<ref name="vega10">木村(2000)pp.95-96</ref>。松田はこれについて、脚の内向が影響しない身体のバランスが辛うじて保たれていたものが、崩れてしまったことが原因であると考えた<ref name="vega10" />。

年末にはグランプリ競走の[[有馬記念]]に出走したが、最後の直線で全く伸びず、9着と初めての大敗を喫する<ref>木村(2000)p.100</ref>。翌1994年には[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]を目標に調教が行われたが、少しの運動で筋肉痛などを起こし、運動と治療を交互に繰り返す状態が続いた<ref>木村(2000)p.103</ref>。天皇賞への前哨戦として臨んだ[[大阪杯]]では1番人気に支持されるも、好位につけながら直線で伸びず9着と敗れ、天皇賞を回避することになった<ref>木村(2000)p.105-108</ref>。6月12日に行われる春のグランプリ競走・[[宝塚記念]]に目標が改められると、同競走の出走馬を選定するファン投票で第2位に選出される<ref name="vega11">木村(2000)pp.109-114</ref>。競走前の最終調教では松田が自ら騎乗して感触を確かめた<ref name="vega11" />。

競走当日は春の天皇賞を制した[[ビワハヤヒデ]]が単勝オッズ1.2倍と断然の人気を集め、ベガは離れた5番人気であった<ref name="vega11" />。スタート前、ベガははじめてゲート入りを拒む素振りを見せる<ref name="vega11" />。ゲートに収まってからは好スタートを見せ2番手でレースを進めたが、直線で伸びず14頭立ての13着と大敗。さらに競走後、左前第一指骨の骨折が判明した<ref name="vega11" />。その後、放牧が発表されたが、夏の[[札幌競馬場|札幌開催]]の開始に合わせて北海道に輸送され、そのままノーザンファーム(旧社台ファーム早来<ref group="注">1993年8月に社台グループ総帥の吉田善哉が死去し、グループの各牧場が分社化され、社台ファーム早来はノーザンファームと改称された。</ref>)に戻り引退、繁殖入りとなった<ref>木村(2000)pp.115-116</ref>。

=== 繁殖牝馬時代 ===
繁殖初年度および2年目には[[サンデーサイレンス]]と交配され、初年度産駒の[[アドマイヤベガ]]は1999年に武豊騎乗で日本ダービーに優勝し、母子でのクラシック優勝馬となった。また、第2仔アドマイヤボスも[[セントライト記念]](GII)に勝利した。[[ティンバーカントリー]]との間に産んだ[[アドマイヤドン]]は[[芝]]・[[ダート]]の両方でで活躍、2002年から2004年の[[JBCクラシック]]で史上初の同一[[競馬の競走格付け|GI競走]]三連覇を遂げるなどし、当時日本最多タイ記録のGI7勝を挙げた。これらの馬主となった[[近藤利一]]は競走馬時代からベガに着目し、桜花賞のパドックで吉田勝己に1億円即金で[[トレード]]を打診するも断られ、代わりに産駒の購買を約束したという逸話がある<ref>木村(2000)pp.52-53</ref>。最初の2頭は近藤と親しい[[橋田満]]厩舎で管理されたが、近藤が「ベガを育てた松田調教師にもお願いしたい」と希望したことで<ref>木村(2000)p.206</ref>、アドマイヤドンからは松田が管理した。

[[2006年]][[8月16日]]、ベガは[[クモ膜下出血]]のため死亡した<ref name="nikkei">{{Cite web |url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-137102.html |title=93年牝馬2冠馬ベガが死亡〜アドマイヤベガ、アドマイヤドン兄弟の母 |author= |publisher=[[ラジオNIKKEI|競馬実況web]] |accessdate=2014年5月19日 |date=2006-8-17}}</ref>。前日夕からの夜間放牧の際に、何らかの事故により転倒したものと推測されている<ref name="nikkei" />。遺体は父トニービン、息子アドマイヤベガと同じ[[社台スタリオンステーション]]の墓地に埋葬された。

死亡当時に現役競走馬だった第5仔キャプテンベガも含め、出走した産駒は全てオープン馬となり、唯一不出走だった牝駒ヒストリックスターも母としてGI競走優勝馬の[[ハープスター]]を産んだ。なお「ハープスター」は星としての「ベガ」の別称([[こと座]]α星)にあたる<ref>{{Cite web |url=http://pc.keibalab.jp/topics/18394/ |title=祖母はベガ・ハープスターが差し切る…中京新馬 |author= |publisher=競馬ラボ |accessdate=2014年5月19日 |date=2013-7-114}}</ref>。

== 競走成績 ==
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== 繁殖牝馬時代 ==
== 繁殖成績 ==
[[1994年]]6月、現役を引退し[[繁殖牝馬]]となる。繁殖牝馬としても非常に優秀で、日本ダービー優勝馬[[アドマイヤベガ]]、[[セントライト記念]] (GII) を制した[[アドマイヤボス]]、[[芝]]・[[ダート]]の両方で[[グレード制|GI]]を勝利した[[アドマイヤドン]]などを輩出した。

[[2006年]][[8月16日]]午後、[[安平町]]の[[ノーザンファーム]]にて夜間放牧中に転倒した模様で、頭部を強打しており[[クモ膜下出血]]のため死亡した。尚、遺体は父トニービン、息子アドマイヤベガも眠る[[社台スタリオンステーション]]の墓地に埋葬された。

なお、[[ファルブラヴ]]との間に生まれた唯一の牝駒ヒストリックスター(ベガの2005)は、育成段階での[[骨折]]により未出走のまま繁殖牝馬となった。ちなみにベガ自身は2005年は[[スペシャルウィーク]]、2006年は[[ダンスインザダーク]]と交配されたものの、2005年は不受胎、2006年は流産となっていた。

=== 繁殖成績 ===
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※戦績は2013年8月25日現在
※戦績は2013年8月25日現在

== 評価・特徴 ==
オークス以降は不振から脱することはなかったが、松田博資は「私は決してベガが早熟馬だったとは思っていない」「4歳秋以降は状態が完全ではなかっただけに……。いい状態が持続できていたら、とやはり考える」と述べている<ref name="meiba">『忘れられない名馬100』pp.182-183</ref>。武豊も、4歳春の状態が持続していれば、有馬記念や宝塚記念でもっと良い成績が残せたのではないかとしている<ref name="yutaka2">武(2003)pp.38-40</ref>。

武はベガにはじめて跨った際、バネの強さに感銘を受けたといい、その走りを評して「バネのいい馬というのは時折いるのですが、ベガの場合は桁違いでしたね。よく『はずむように走る』という表現がありますが、ベガは乗っていてほんとうにその通りの走り方をする馬だったんです。飛ぶようなフォームで。あんな走り方をする馬にはなかなかお目にかからないですね」と述べている<ref name="yutaka" />。また武はベガが競走・繁殖の双方で優れた実績を残したことや、息子アドマイヤベガでの自身の日本ダービー優勝に触れ、「理想の名牝なのではないでしょうか。ぼくにとっては最高の牝馬です。かわいいし、やっぱり好きですねえ。ベガは特別です」と賞賛している<ref name="yutaka2" />。また、松田は調教師としての立場から「脚が曲がっていても、あれだけの素晴らしい成績を残してくれた。"やる前から諦めてはいけない。やるだけやって、努力して、その結果がダメなものは、諦めなければ仕方がない"。それが、ベガから改めて学んだことである<ref name="meiba" />」と述べ、その死に際しては「ベガのおかげで今の自分があると言ってもいいほど偉大な馬でした」と悼んだ<ref name="nikkei" />。

社台ファーム早来(当時)の中尾義信は、脚の内向に絡めて「10年前に生まれていたら競走馬としてデビューできなかったかもしれません。脚元に負担の掛かりにくい坂路で育成や調教ができたことが、やはり何より大きいですね。時代が彼女に合っていたということでしょう。優秀なエンジンを持っているならば、脚が曲がっているといった欠点はクリアできるという証明でもありますね」と述べている<ref>『優駿』1993年6月号、p.136</ref>。対して松田は「坂路があったから競走馬になれたとは考えたくない。馬に能力があったからこそ、こちらの要求通りにハードルをひとつひとつ越えていけたのだ」としている<ref name="meiba" />。また、ベガには内向にのほかに、蹄の底が薄い「ベタ爪」という欠点があり<ref name="vega12">木村(2000)pp.48-49</ref>、4歳夏の休養中に社台ファームの装蹄師が釘傷を生じさせる原因となった<ref name="vega7" />。栗東で装蹄を行っていた坂元利博は様々な試行錯誤を重ね、桜花賞のときにはゴムのついた蹄鉄を履かせ負担を軽減させていた<ref name="vega12" />。

性格的には非常に大人しく、我慢強く、フランス遠征の話が持ち上がったのは環境変化に強いその気性によるところもあった<ref name="meiba" />。


== 血統 ==
== 血統 ==
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四代母Amoretの曾孫に[[シャダイソフィア]]、来孫にアメリカGIヴォスバーグステークスの勝ち馬Trippiがいる。
四代母Amoretの曾孫に[[シャダイソフィア]]、来孫にアメリカGIヴォスバーグステークスの勝ち馬Trippiがいる。

== 出典・注釈 ==
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== 参考文献 ==
*木村俊太『ベガとアドマイヤベガ - 奇跡の親仔物語』(イーハトーヴ出版、2000年)ISBN 978-4900779679
*[[杉本清]]『三冠へ向かって視界よし (にちぶん文庫) 』(日本文芸社、2001年)ISBN 978-4537065428
*武豊『ターフの女王 - 最強牝馬コレクション』(朝日新聞社、2003年)ISBN 978-4022578723
*『忘れられない名馬100』(学研、1996年)ISBN 978-4056013924
**松田博資「ベガ - "諦める前に、まずできる限りのことをする"大切さを学んだ」
*『[[優駿]]』1993年6月号(日本中央競馬会)
*『優駿』1993年7月号(日本中央競馬会)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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*[http://jra.jp/topics/bn/mc_tm/tm05_0409.html JRA Video Interactive 平成5年(1993年)第53回桜花賞(GI)優勝馬 不朽の超一等星 ベガ]

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[[Category:1990年生 (競走馬)|日へか]]
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2014年5月24日 (土) 12:40時点における版

ベガ
欧字表記 Vega
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1990年3月8日
死没 2006年8月16日(16歳没)
トニービン
アンティックヴァリュー
母の父 Northern Dancer 
生国 日本の旗 日本北海道早来町
生産者 社台ファーム早来
馬主 吉田和子
調教師 松田博資栗東
厩務員 山口慶次
競走成績
生涯成績 9戦4勝
獲得賞金 3億0077万1000円
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ベガ1990年3月8日 - 2006年8月16日)は日本競走馬繁殖牝馬

1993年中央競馬でデビュー。武豊主戦騎手として同年の桜花賞優駿牝馬(オークス)牝馬クラシック二冠を制し、JRA賞最優秀4歳牝馬に選出された。その後は不振に陥り、翌1994年の宝塚記念で骨折を生じたことにより引退。以後は繁殖牝馬として、東京優駿(日本ダービー)に優勝したアドマイヤベガGI競走7勝を挙げたアドマイヤドンなどの活躍馬を輩出した。

馬齢は日本で2000年以前に使用された表記(数え年)で記述する。

経歴

デビューまで

1990年、北海道早来町社台ファーム早来に生まれる。父は1988年の凱旋門賞などを制し、社台グループが購買し輸入した新種牡馬トニービン。母アンティックヴァリューは20世紀最高の種牡馬といわれたノーザンダンサーの直仔で、その血統を求めていた社台の総帥・吉田善哉の肝煎りで輸入された馬だった[1]

アンティックヴァリューには脚部が不自然に内側に曲がっている「内向」という身体的特徴があり[2]、本馬も成長と共に左前脚が曲がり始め、やがて誰の目にも判別できるほどひどい内向となった[3]。このため牧場では「競走馬になれれば御の字」という見方も生まれ[4]、現実にも少しのことで脚部に異常を生じ、育成調教も順調に進まなかった[5]。しかし2歳(1991年)秋から試験的に坂路コースでの調教を始められると、比較的脚部への影響が少ないことが分かり、さらに調教が続けられる内に動きが変わり始め、競走馬デビューへの展望も開けていった[6]。牧場は引き続き坂路で調教することを条件に、滋賀県栗東トレーニングセンター松田博資へ競走馬としての管理を依頼し、これを了承された[6]

出生当初の予定では社台グループが経営する一口馬主クラブ・社台レースホースで出資を募ることになっていたが、脚部の内向のため立ち消えとなり[7]、競走登録に際して吉田善哉の妻・和子の個人所有馬となった[6]。本馬は顔面の白斑のなかに斑点があったことから、和子の孫がこれを星に見立て、「織姫星」にあたる「ベガ」と命名[6]。「織姫星のように輝いてほしい」「七夕人々が短冊に書いた願いを叶えるように、みんなの願いも叶えてほしい」という意味も込められていた[6]

1992年9月、松田博資厩舎に入る[6]。入厩に際し、社台ファーム早来場長・吉田勝己からは「母親の所有馬だし、好きにやっていい」という言葉を添えられ、松田は能力を見極めながらのゆとりをもった調教に専念した[8]。以後は脚部不安に配慮しながらの調教が続いたが、松田はベガの身体の柔らかさに欠点克服の希望を見出し、また調教助手目黒正徳は騎乗時にその柔軟性と頭の良さを感じ取り、大きな期待を寄せていた[8]。ゲート練習[注 1]は何も教わらない状態のまま一回で終えてみせ、必修審査のゲート試験も一回で合格した[9]

1993年初頭、松田が状態の良い時を見計らって坂路コースで強めの調教をかけたところ、オープン馬と見紛われるほどの動きと好タイムを計時し、同週にデビューすることが決まった[8]

戦績

牝馬クラシック二冠

1月9日、京都競馬場の新馬戦でデビュー。鞍上は松田厩舎所属の若手騎手・橋本美純が務めた。レースは先行策から直線ゴール前で他馬に突き放され、2馬身半差の2着となったが、実質一回の調教での臨戦だったことから、陣営は却って期待を高めた[10]。次走も橋本が騎乗する予定だったが、2戦目を前にした調教に遅刻したことで橋本は降板させられ、「天才」の異名をとる武豊に騎乗が依頼された[10]。2戦目は2番手追走から直線で抜け出し、2着に4馬身差をつけて初勝利を挙げた[11]。武はその走りに強い印象を受け、松田に「この馬、オークス勝ちますよ」と話したという[12]

初勝利のあと、左前脚に異常を来たす[13]。松田はベガについて2400メートルで行われるオークスに向いた馬で、1600メートルの桜花賞は距離が短すぎると見ていたことから、オークスを目標とすることも考えていたが、その後状態が良くなり、ベガは桜花賞トライアルチューリップ賞に出走することになった[13]。1勝馬ながら、競走当日は前年の3歳女王スエヒロジョウオーなどを抑え1番人気に支持された。レースでは最終コーナーで早々に先頭に立つと、直線では後続を突き放し、3馬身差で勝利を挙げた[13]

桜花賞に向けては日に日に調子が上がり、競走前の最終調教では坂路コースで51秒2という際立ったタイムを計時した[14]。4月11日の桜花賞当日は、単勝オッズ2.0倍の1番人気に支持される。スタートが切られるとベガは逃げ馬を見ながら3番人気のヤマヒサローレルと並んで2番手を進むが、最後の直線に入ってすぐ先頭に立った[15]。ゴール前ではユキノビジンとマックスジョリーの2頭が追い込んできたが、前者をクビ差退けて勝利[15]。牝馬クラシック初戦を制した。

桜花賞のあと、陣営は「オークスに勝った場合、秋にはフランスのヴェルメイユ賞へ出走」という展望を明らかにした[16]。また、一時はオークスではなく牡馬相手となる東京優駿(日本ダービー)出走も取り沙汰されたが、最終的にはオークス出走に収まった[17]。ベガは順調に調教を積まれ、5月20日には栗東トレーニングセンターから東京競馬場へ移動したが、初めて長距離輸送を経験したことで一時的に発熱や食欲不振といった変調を来たし、スポーツ紙でも大きく報じられた[18]。また、桜花賞の最後の1ハロン(約200メートル)が13秒4というスタミナ切れを思わせるものでもあり[19]、5月23日のオークス当日は1番人気となったものの、オッズは3.4倍と桜花賞との比較では落ちる数字となった[20]。しかしこの時点でベガの体調は回復していた[20]。レースでは4番手を追走から最後の直線に入ると、残り200メートル付近で先頭のユキノビジンをかわし、同馬に1馬身3/4の差をつけて優勝した。春の牝馬二冠は史上9頭目、武はこれがオークス初制覇、松田は1988年のコスモドリームに次ぐ同2勝目となった。松田は「不安らしい不安はありませんでした」と語り[19]、武は後に3.4倍というオッズを取り上げ「自信があるだけに『どうして?』という感じでした」と述べている[21]

不振、引退

オークスの競走終了後、厩舎に戻る時点でベガは歩様に乱れを生じた[22]。そのまま千葉県富里町の社台ファーム千葉へ放牧に出されたが[22]、ここで右肩に筋肉痛の症状が出たことで、ヴェルメイユ賞出走の計画は撤回された[16]。その後、社台ファーム早来へ移動したが、牧場の装蹄師が蹄鉄を装着する際に、人間の深爪にあたる「釘傷(ちょうしょう)[注 2]」を発生させてしまい、牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯への出走が危ぶまれる事態となった[22]。8月末には栗東トレーニングセンターに戻ったが、本格的な調教はできず、出走を希望していたトライアル競走のローズステークスは回避し、エリザベス女王杯へ直行することが決まった[23]。一時的に坂路ではなく平地で調教を行ってみるなど試行錯誤が続いたのち、10月半ば頃から動きが良くなり始め、エリザベス女王杯に出走可能な状態となった[23]

競走当日(11月14日)は、夏の間に勝利を積み重ね、ローズステークスを制した上がり馬スターバレリーナが1番人気に支持され、ベガは2番人気となった。レースでベガは好スタートを切ったものの、200メートルほどの地点で他馬と接触して体勢を崩す[24]。武はベガを中団に控えさせ、道中は10番手を進んだ[24]。最後の直線では伸びを見せたものの、先を行くホクトベガノースフライトに突き放されて3着に終わり、史上2頭目の牝馬三冠は成らなかった[24]。このとき民放テレビ中継で実況を務めた馬場鉄志は「ベガはベガでもホクトベガ」という文句を残した[25]。ベガはスタート後の接触が原因で右後脚を負傷しており、競馬場の診療所で球節付近を4針縫合した[24]。松田はインタビューに対し「あのアクシデントを敗因にしたくはない。豊の乗り方も完璧やったし、久々が応えたんやな。3着か。惨敗してないんだもん、よく走ったよ」とベガを労った[24]

エリザベス女王杯の後からベガは姿勢が変化し、デビュー前のような疲れやすい体質に逆戻りした[26]。松田はこれについて、脚の内向が影響しない身体のバランスが辛うじて保たれていたものが、崩れてしまったことが原因であると考えた[26]

年末にはグランプリ競走の有馬記念に出走したが、最後の直線で全く伸びず、9着と初めての大敗を喫する[27]。翌1994年には天皇賞(春)を目標に調教が行われたが、少しの運動で筋肉痛などを起こし、運動と治療を交互に繰り返す状態が続いた[28]。天皇賞への前哨戦として臨んだ大阪杯では1番人気に支持されるも、好位につけながら直線で伸びず9着と敗れ、天皇賞を回避することになった[29]。6月12日に行われる春のグランプリ競走・宝塚記念に目標が改められると、同競走の出走馬を選定するファン投票で第2位に選出される[30]。競走前の最終調教では松田が自ら騎乗して感触を確かめた[30]

競走当日は春の天皇賞を制したビワハヤヒデが単勝オッズ1.2倍と断然の人気を集め、ベガは離れた5番人気であった[30]。スタート前、ベガははじめてゲート入りを拒む素振りを見せる[30]。ゲートに収まってからは好スタートを見せ2番手でレースを進めたが、直線で伸びず14頭立ての13着と大敗。さらに競走後、左前第一指骨の骨折が判明した[30]。その後、放牧が発表されたが、夏の札幌開催の開始に合わせて北海道に輸送され、そのままノーザンファーム(旧社台ファーム早来[注 3])に戻り引退、繁殖入りとなった[31]

繁殖牝馬時代

繁殖初年度および2年目にはサンデーサイレンスと交配され、初年度産駒のアドマイヤベガは1999年に武豊騎乗で日本ダービーに優勝し、母子でのクラシック優勝馬となった。また、第2仔アドマイヤボスもセントライト記念(GII)に勝利した。ティンバーカントリーとの間に産んだアドマイヤドンダートの両方でで活躍、2002年から2004年のJBCクラシックで史上初の同一GI競走三連覇を遂げるなどし、当時日本最多タイ記録のGI7勝を挙げた。これらの馬主となった近藤利一は競走馬時代からベガに着目し、桜花賞のパドックで吉田勝己に1億円即金でトレードを打診するも断られ、代わりに産駒の購買を約束したという逸話がある[32]。最初の2頭は近藤と親しい橋田満厩舎で管理されたが、近藤が「ベガを育てた松田調教師にもお願いしたい」と希望したことで[33]、アドマイヤドンからは松田が管理した。

2006年8月16日、ベガはクモ膜下出血のため死亡した[34]。前日夕からの夜間放牧の際に、何らかの事故により転倒したものと推測されている[34]。遺体は父トニービン、息子アドマイヤベガと同じ社台スタリオンステーションの墓地に埋葬された。

死亡当時に現役競走馬だった第5仔キャプテンベガも含め、出走した産駒は全てオープン馬となり、唯一不出走だった牝駒ヒストリックスターも母としてGI競走優勝馬のハープスターを産んだ。なお「ハープスター」は星としての「ベガ」の別称(こと座α星)にあたる[35]

競走成績

年月日 競馬場 競走名 人気 倍率 着順 距離 タイム 3F 騎手 勝ち馬 / (2着馬)
1993. 1. 9 京都 4歳新馬 4人 6.6 2着 芝1800m(良) 1:49.5 橋本美純 プリンセスメール
1. 24 京都 4歳新馬 2人 3.4 1着 芝2000m(良) 2:02.5 武豊 (キョウワジュテーム)
3. 13 阪神 チューリップ賞 1人 2.6 1着 芝1600m(良) 1:36.8 武豊 (ベルシャルマンテ)
4. 11 阪神 桜花賞 GI 1人 2.0 1着 芝1600m(良) 1:37.2 武豊 ユキノビジン
5. 23 東京 優駿牝馬 GI 1人 3.4 1着 芝2400m(良) 2:27.3 (35.2) 武豊 (ユキノビジン)
11. 14 京都 エリザベス女王杯 GI 2人 3.7 3着 芝2400m(良) 2:25.4 (36.0) 武豊 ホクトベガ
12. 26 中山 有馬記念 GI 6人 13.4 9着 芝2500m(良) 2:32.3 (36.3) 武豊 トウカイテイオー
1994. 4. 3 阪神 産経大阪杯 GII 1人 3.0 9着 芝2000m(良) 2:02.2 (35.9) 武豊 ネーハイシーザー
6. 12 阪神 宝塚記念 GI 5人 22.3 13着 芝2200m(良) 2:14.9 (38.7) 武豊 ビワハヤヒデ

繁殖成績

生年 馬名 毛色 厩舎 馬主 戦績・用途
1 1996 アドマイヤベガ 鹿毛 *サンデーサイレンス 栗東・橋田満 近藤利一 8戦4勝
東京優駿-GI、京都新聞杯-GII、ラジオたんぱ杯3歳S-GIII、弥生賞-GII 2着
種牡馬2004年死亡)
2 1997 アドマイヤボス 青鹿毛 10戦2勝
セントライト記念-GII、大阪杯-GII 3着
種牡馬→乗馬
3 1999 アドマイヤドン 鹿毛 *ティンバーカントリー 栗東・松田博資 25戦10勝(うち地方7戦5勝、海外1戦0勝)
フェブラリーS-GI、朝日杯フューチュリティS-GI、JBCクラシック-GI 3回、帝王賞-GI、マイルチャンピオンシップ南部杯-GI、エルムS-GIII、ジャパンCダート-GI 2着2回ほか
種牡馬
4 2000 (生後直死) - - *サンデーサイレンス - - -
5 2003 キャプテンベガ 黒鹿毛 栗東・松田博資 吉田和子 45戦5勝
東京新聞杯-GIII 2着、エプソムC-GIII 3着2回
乗馬
6 2005 ヒストリックスター 鹿毛 *ファルブラヴ - - 不出走
繁殖牝馬
その仔ハープスターは桜花賞-GI、チューリップ賞-GIII、新潟2歳S-GIII

※戦績は2013年8月25日現在

評価・特徴

オークス以降は不振から脱することはなかったが、松田博資は「私は決してベガが早熟馬だったとは思っていない」「4歳秋以降は状態が完全ではなかっただけに……。いい状態が持続できていたら、とやはり考える」と述べている[36]。武豊も、4歳春の状態が持続していれば、有馬記念や宝塚記念でもっと良い成績が残せたのではないかとしている[37]

武はベガにはじめて跨った際、バネの強さに感銘を受けたといい、その走りを評して「バネのいい馬というのは時折いるのですが、ベガの場合は桁違いでしたね。よく『はずむように走る』という表現がありますが、ベガは乗っていてほんとうにその通りの走り方をする馬だったんです。飛ぶようなフォームで。あんな走り方をする馬にはなかなかお目にかからないですね」と述べている[9]。また武はベガが競走・繁殖の双方で優れた実績を残したことや、息子アドマイヤベガでの自身の日本ダービー優勝に触れ、「理想の名牝なのではないでしょうか。ぼくにとっては最高の牝馬です。かわいいし、やっぱり好きですねえ。ベガは特別です」と賞賛している[37]。また、松田は調教師としての立場から「脚が曲がっていても、あれだけの素晴らしい成績を残してくれた。"やる前から諦めてはいけない。やるだけやって、努力して、その結果がダメなものは、諦めなければ仕方がない"。それが、ベガから改めて学んだことである[36]」と述べ、その死に際しては「ベガのおかげで今の自分があると言ってもいいほど偉大な馬でした」と悼んだ[34]

社台ファーム早来(当時)の中尾義信は、脚の内向に絡めて「10年前に生まれていたら競走馬としてデビューできなかったかもしれません。脚元に負担の掛かりにくい坂路で育成や調教ができたことが、やはり何より大きいですね。時代が彼女に合っていたということでしょう。優秀なエンジンを持っているならば、脚が曲がっているといった欠点はクリアできるという証明でもありますね」と述べている[38]。対して松田は「坂路があったから競走馬になれたとは考えたくない。馬に能力があったからこそ、こちらの要求通りにハードルをひとつひとつ越えていけたのだ」としている[36]。また、ベガには内向にのほかに、蹄の底が薄い「ベタ爪」という欠点があり[39]、4歳夏の休養中に社台ファームの装蹄師が釘傷を生じさせる原因となった[22]。栗東で装蹄を行っていた坂元利博は様々な試行錯誤を重ね、桜花賞のときにはゴムのついた蹄鉄を履かせ負担を軽減させていた[39]

性格的には非常に大人しく、我慢強く、フランス遠征の話が持ち上がったのは環境変化に強いその気性によるところもあった[36]

血統

血統表

ベガ血統ゼダーン系 / Hyperion4×5=9.38%、Nasrullah5×5=6.25%) (血統表の出典)

*トニービン
Tony Bin
1983 鹿毛 アイルランド
父の父
*カンパラ
Kampala
1976 黒鹿毛 イギリス
Kalamoun *ゼダーン
Khairunissa
State Pension *オンリーフォアライフ
Lorelei
父の母
Severn Bridge
1965 栗毛 イギリス
Hornbeam Hyperion
Thicket
Priddy Fair Preciptic
Campanette

*アンティックヴァリュー
Antique Value
1979 鹿毛 アメリカ
Northern Dancer
1961 鹿毛 カナダ
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
母の母
Moonscape
1967 鹿毛 アメリカ
Tom Fool Menow
Gaga
Brazen Bold Ruler
Amoret F-No.9-f


兄弟、近親

  • 半姉 - ニュースヴァリュー(父シアトルソング)
  • 全弟 - マックロウ(京都記念
  • 半妹 - スターアルファ(父サンデーサイレンス)
  • 全妹 - チェイスザウインド
  • 全妹 - マインドスケイプ

四代母Amoretの曾孫にシャダイソフィア、来孫にアメリカGIヴォスバーグステークスの勝ち馬Trippiがいる。

出典・注釈

  1. ^ 発馬機からのスタート練習。
  2. ^ 蹄鉄の装着は、蹄底の角質部分に釘を打ちつけて行う。
  3. ^ 1993年8月に社台グループ総帥の吉田善哉が死去し、グループの各牧場が分社化され、社台ファーム早来はノーザンファームと改称された。
  1. ^ 木村(2000)p.13
  2. ^ 木村(2000)p.15
  3. ^ 木村(2000)p.17
  4. ^ 木村(2000)p.19
  5. ^ 木村(2000)p.21
  6. ^ a b c d e f 木村(2000)pp.22-24
  7. ^ 木村(2000)p.18
  8. ^ a b c 木村(2000)pp.27-31
  9. ^ a b 武(2003)pp.30-31
  10. ^ a b 木村(2000)pp.33-35
  11. ^ 木村(2000)pp.37-38
  12. ^ 武(2003)p.28
  13. ^ a b c 木村(2000)pp.39-44
  14. ^ 木村(2000)pp.45-46
  15. ^ a b 木村(2000)pp.55-56
  16. ^ a b 『優駿』1993年7月号、p.5
  17. ^ 木村(2000)p.62
  18. ^ 木村(2000)pp.64-66
  19. ^ a b 『優駿』1993年7月号、p.135
  20. ^ a b 木村(2000)pp.68-69
  21. ^ 武(2003)p.34
  22. ^ a b c d 木村(2000)pp.76-80
  23. ^ a b 木村(2000)pp.84-87
  24. ^ a b c d e 木村(2000)pp.91-94
  25. ^ 杉本(2001)p.109
  26. ^ a b 木村(2000)pp.95-96
  27. ^ 木村(2000)p.100
  28. ^ 木村(2000)p.103
  29. ^ 木村(2000)p.105-108
  30. ^ a b c d e 木村(2000)pp.109-114
  31. ^ 木村(2000)pp.115-116
  32. ^ 木村(2000)pp.52-53
  33. ^ 木村(2000)p.206
  34. ^ a b c 93年牝馬2冠馬ベガが死亡〜アドマイヤベガ、アドマイヤドン兄弟の母”. 競馬実況web (2006年8月17日). 2014年5月19日閲覧。
  35. ^ 祖母はベガ・ハープスターが差し切る…中京新馬”. 競馬ラボ (2013-7-114). 2014年5月19日閲覧。
  36. ^ a b c d 『忘れられない名馬100』pp.182-183
  37. ^ a b 武(2003)pp.38-40
  38. ^ 『優駿』1993年6月号、p.136
  39. ^ a b 木村(2000)pp.48-49

参考文献

  • 木村俊太『ベガとアドマイヤベガ - 奇跡の親仔物語』(イーハトーヴ出版、2000年)ISBN 978-4900779679
  • 杉本清『三冠へ向かって視界よし (にちぶん文庫) 』(日本文芸社、2001年)ISBN 978-4537065428
  • 武豊『ターフの女王 - 最強牝馬コレクション』(朝日新聞社、2003年)ISBN 978-4022578723
  • 『忘れられない名馬100』(学研、1996年)ISBN 978-4056013924
    • 松田博資「ベガ - "諦める前に、まずできる限りのことをする"大切さを学んだ」
  • 優駿』1993年6月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』1993年7月号(日本中央競馬会)

外部リンク