徳川宗春
| 徳川 宗春 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代中期 |
| 生誕 | 元禄9年10月28日(1696年11月22日) |
| 死没 | 明和元年10月8日(1764年11月1日) |
| 改名 | 萬五郎、萬五郎通春、求馬通春、松平求馬通春、徳川(源)宗春 |
| 諡号 | 逞公 |
| 戒名 | 章善院殿厚譽孚式源逞大居士 |
| 墓所 | 徳興山建中寺 → 平和公園 |
| 官位 | 従五位下主計頭、従四位下、侍従 左近衛権少将、従三位左近衛権中将 参議、権中納言、贈従二位権大納言 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 中御門天皇・桜町天皇・徳川吉宗 |
| 藩 | 陸奥国梁川藩主 → 尾張国尾張藩主 |
| 氏族 | 尾張徳川家 |
| 父母 | 父:徳川綱誠、母:梅津(宣揚院) 養父:徳川継友 |
| 兄弟 | 吉通、継友、松平義孝、松平通温、宗春、松姫(前田吉徳(吉治)室・徳川綱吉養女) |
| 妻 | 正室:なし 側室:海津、民部、伊予、左近、おはる、いづみ |
| 子 | 勝子(近衛内前室 四女頼姫) 富・補誦・八千・萬五郎・八百・以津・龍千代・近姫(養女:上杉宗房室:実父は梁川藩第二代松平義方) |
| 特記 事項 |
著述「温知政要」 |
徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代の大名。尾張藩の御連枝支藩である陸奥梁川藩藩主、後に御三家尾張藩第七代藩主。質素倹約の八代将軍徳川吉宗に対し規制緩和政策をとった宗春は、よく対比される[1]。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 出生
元禄9年10月28日(1696年11月22日)、尾張藩第三代藩主・徳川綱誠の十九男として名古屋で生まれ、萬五郎と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院:遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重[3]娘)。元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父・綱誠、元禄13年(1700年)に祖父・徳川光友が相次いで没した。
宝永5年(1708年)11月、兄で第四代藩主の吉通より偏諱を受け通春(みちはる)と名乗る。吉通は夕餉の際には必ず宗春と共に食事をした[4]。正徳2年(1712年)兄通顕・通温は江戸に下向し従四位下に叙任され譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。
翌正徳3年(1713年)4月に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。閏5月、江戸に下向した際に同道した尾張藩士二人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。同月に尾張藩御連枝梁川藩主・松平義昌が、7月には吉通が没する。更に10月には甥で吉通の跡を継いだ五代藩主五郎太が逝去し、兄通顕が継友と改名して尾張六代藩主となる。12月に元服し、求馬通春となる[5]。正徳6年(1716年)2月に第七代将軍徳川家継に拝謁し、3月に譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。同年改元後、享保元年(1716年)7月に第八代将軍徳川吉宗により従五位下主計頭に任官。
享保3年(1718年)4月疱瘡に罹るが、まもなく回復。同月、兄・通温が名古屋城下に蟄居謹慎となる。12月、従四位下に叙任。吉宗から特別に鷹狩の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として将軍吉宗に大切にされる。享保13年(1728年)、実母宣揚院を見舞うために名古屋へ下向。享保14年(1729年)6月、御連枝梁川藩第三代松平義真が没し、梁川藩大久保松平家が断絶。8月に八代将軍・徳川吉宗から肝煎りで尾張藩御連枝として梁川藩三万石を改めて与えられ、尾張藩御連枝大久保松平家を復興。12月に従四位下侍従に任官し、大広間詰めとなる。
享保15年(1730年)9月、日光社参。11月27日に兄・継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張徳川家宗家を相続し第七代藩主となる[6]。享保16年(1731年)正月、公儀の法度・代々の法規を守るべき令を出す。同月に正四位下左近衛権少将に叙任。続けて従三位左近衛権中将に叙任。八代将軍吉宗より一字を賜り徳川宗春を名乗る。3月、従三位参議(宰相)・左近衛権中将に叙任。同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。同年4月、名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。
[編集] 藩主
宗春は名古屋に戻ると、四代藩主吉通の御簾中瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に三千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。名古屋城下の東照宮祭・尾張祗園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・一ヶ月半にも及ぶ盆踊り等のお祭りを奨励。女性や子供が夜でも歩ける町にするために提灯を名古屋城下に数多く置く継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下:藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会をまる二日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている。[7]藩士に城下の芝居などの見物も許可した。
当時の幕府は、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に制作を進めていく。緊縮財政規制強化の幕府に対し、規制緩和民間活力の活用をする尾張藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは朝鮮使節団の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ名古屋の町は賑わっていった。
享保17年(1732年)正月に、自身の著書『温知政要』(二十一箇条)を藩士に配布。3月には『條々二十一箇条』を発布する。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」、「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げる。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、各地で暴動が頻発していた事への反発があると言われている。なお幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである[8]。
この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による巡回をさせている。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた[9]。更に、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件・当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいおは死罪」)。岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で歩くなど、当時としては斬新な政策をいくつも打ち出している。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。
享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下る。先代継友時代、享保10年(1725年)に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子万五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日、東照権現徳川家康から藩祖徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。その後、5月または9月に将軍吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、
という物だった。これに対し宗春も一応上意として受けるも、
- 他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。第一、領民に迷惑をかけていない
- 初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
- お上は倹約令を守っていないと言うが私なりに倹約に努めているつもりだ。ただお上は倹約の根本をご存じないので、お分かりにならないのだろう
と一歩も引かず反論したと通説では言われる[10]。
宗春は、規制緩和による経済の活性化を図るものの、尾張藩の財政は赤字に転じたと通説では言われる[11]享保19年(1734年)12月、宗春は尾張瀬戸から木曽の山々に至るまでの二万人規模の巻き狩りを計画するが、家臣の反対で中止する。規模を縮小するように家臣は薦めたが、宗春は頑なに二万人規模を主張し、結果的には巻狩を断念する。[12]元文元年(1736年)、三ヶ所の遊里を、もっとも高級な西小路遊郭の一ヶ所に集め、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し、規制緩和政策を後退させる。[13]。
[編集] 宗春の特異な政策
[14]
・形式よりも中身を大切にした 例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等
・意味のある祭りを盛んにし奨励した 例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等
・人道に反する祭りは禁止した 例: 梁川の正月の水掛け 国府宮の裸祭厄男 等
・奪い合うことや義に合わぬことを禁止した 例:條々二十一箇条 等
・自分の身にあった遊びは大切であるとした 例:遊廓・芝居・見せ物 等
・法律や規制は少ないほうが良いとした 例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等
・簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した 例:條々二十一箇条 等
・衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした 例:條々二十一箇条 等
・ファッションリーダーを自ら担った 例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮使節団等の衣装 等
・心を込めた贈答・饗応を大切にした 例:條々二十一箇条 等
・庶民と上級藩士が出会う場を提供した 例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等
・商人との対話を積極的にした 例:岐阜巡行・乾御殿や御下屋敷滞在時
・六斎市の奨励 歴代藩主の中で、許可した例がダントツに多い
・庶民が喜ぶことをした 例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装
・社会的な弱者を大切にした 例:女性・子ども・身分の低い者の保護
・死刑をしなかった
・マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し上級家臣に配布
[編集] 隠居謹慎
享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が激しく対立していた。近衛家煕が薨去した後は、桜町天皇側近で霊元法皇の強い影響下にあった一条兼香を中心に朝廷は動き始めていた。幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有識故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その三年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。尾張藩は代々朝廷と深いつながり(五摂家の九条家[15]近衛家[16]・清華家の広幡家[17]・羽林家の正親町家[18]と縁戚)を持っていた。当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方、宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。更に宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして尾張藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、尾張藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と尾張藩は徐々に政略的に板挟みとなる。御付家老竹腰正武たちの苦渋の選択により、もう一人の御付家老成瀬正太や宗春が、参勤交代で江戸に居る間に、尾張藩内では宗春の政策はすべて否定され、名古屋や岐阜の町・農村に新たな課税が行われ、尾張藩内は混乱する。将軍家は、尾張藩内の混乱と、朝廷問題を重視し、元文4年(1739年)1月に宗春に蟄居謹慎を言い渡した。
実弟の石河政朝が幕府中枢に居た御附家老竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は宗春の失脚を画策。竹腰正武は吉宗と計画[19]したと言われるが、実際は吉宗本人ではなく、老中松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年6月9日(1738年7月25日)、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために尾張藩領は混乱を起こしてしまう。この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという[20]。元文4年(1739年)正月過ぎから将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう[21]。そして正月11日(1739年2月18日)、尾張藩の家老たちを江戸城に呼び出し、筆頭老中松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌正月12日に将軍吉宗からの隠居謹慎命令を広島藩主浅野吉長(宗春の従兄)・水戸藩御連枝陸奥守山藩主松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼定嫡男松平頼寛正妻。)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸のお屋敷に隠居謹慎させられる[22]。
宗春は隠居謹慎後の父母の墓参りも含め外出は一切許されなかった。美濃国高須藩主の松平義淳が徳川宗勝として後継となったが宗春の養子ではなく、尾張藩は幕府が召し上げたうえで改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は八人の内七人までもが、宗春が尾張在府中に江戸で亡くなっており、すでに後継者は四谷松平義淳のみとなっていた(ただし、宗春の蟄居謹慎は、六代藩主継友の実母の泉光院の三之丸のお屋敷であり、時には藩主徳川宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に、「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気欝にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある。[23])。
宝暦元年(1751年)吉宗が薨去。宝暦4年(1754年)御下屋敷(七万五千坪もある尾張藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、尾張藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春はお茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身 猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野 尾張藩士鈴木庄兵衛娘)は最後まで宗春に寄り添った。
明和元年10月8日(1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。宗春の謹慎は死後も続いた。墓石に金網が掛けられたという噂が流れているが、確たる証拠はない。尾張藩十代藩主・徳川斉朝は一橋徳川家から養子に入るが、斉朝の母方は二条家出身であり、九条家を通して四代藩主吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る山王社を御下屋敷横に創建。通称孚式権現と呼ばれ、主祭神は宗春であったという。宗春没後75年の天保10年(1839年)に第11代将軍・徳川家斉の十二男斉荘が尾張藩第12代藩主に就任する際に名誉回復されて従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる。また金網も撤去されたという。尾張十四代藩主徳川慶恕(徳川慶勝)は、御下屋敷の薬草園跡に、精林庵(現:名古屋市東区 浄土宗 無量寿院)を江戸の下屋敷戸山邸より移して宗春の菩提を弔った。[24]
[編集] 墓所と遺骸
死後遺体は建中寺に埋葬された。土葬だったため明治期の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかり、経帷子や守り刀の木刀も残っていた。1945年(昭和20年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受け墓石の一部が損傷した。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い市内の墓が千種区の平和公園に移転、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された。なお、副葬品などは建中寺に納められている。平成二十二年(2010年)、有志の集まり「宗春ロマン隊」により、宗春の墓が修復される。平成二十四年二月五日には尾張徳川第二十二代当主徳川義崇氏や名古屋市長・愛知県副知事等と共に、宗春ロマン隊は「尾張七代藩主徳川宗春公を大河ドラマにしよまい」というお祭を名古屋城で行い、約3000人の人が集まる。
[編集] 官歴
- 享保元年7月22日(1716年9月7日。異説12月22日(1717年2月3日)) - 従五位下に叙し、主計頭に任官
- 享保3年12月18日(1719年2月6日) - 従四位下に昇叙。主計頭如元
- 享保14年(1729年)
- 享保15年11月28日(1731年1月6日) - 尾張国尾張藩主となる。徳川の苗字を称する
- 享保16年(1731年)
- 享保17年12月1日(1733年1月16日) - 権中納言に転任
- 元文4年1月12日(1739年2月19日) - 幕府より蟄居を命ぜられる
- 明和元年10月8日(1764年11月1日) - 薨去。法名:章善院殿厚譽孚式源逞、墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺
- 天保10年11月5日(1839年12月10日) - 贈従二位権大納言
[編集] 家族
- 父:徳川綱誠 尾張藩第三代藩主
- 母:宣揚院・梅津(生年不明 - 寛保3年(1743年)9月2日) - 三浦太治兵衛嘉重の娘。葬建中寺
- 長女:富(理泡院)(享保9年(1724年)4月9日 - 享保18年(1733年)6月17日) - 母は海津(栄昌院)。葬天徳院
- 次女:補誦(凛霜院、三保)<>(享保11年(1726年)1月4日 - 享保20年(1735年)10月8日) - 母は民部(永光院)。葬傅通院
- 三女:八千(曄徳院)(享保11年(1726年)12月8日 - 享保16年(1731年)5月17日) - 母は海津(栄昌院)。葬天徳院
- 四女:頼(霊樹院、於須亭・傅・勝子)(享保13年(1728年)1月20日 - 宝暦10年(1760年)10月10日) - 母は伊予。
- 長男:國丸(慧運院、萬五郎)(享保14年(1729年)12月17日 - 享保20年(1735年)9月9日) - 母は海津(栄昌院)。葬傅通院
- 五女:八百(秋蔵院)(享保15年(1730年)1月13日 - 享保16年(1731年)7月12日) - 母は民部(永光院)。葬天徳院
- 六女:以津(性如院)(享保15年(1730年)8月21日 - 享保16年(1731年)9月4日) - 母は伊予。葬太宗寺
- 次男:龍治代・龍千代(圓徳院)(元文2年(1737年)11月12日 - 元文2年(1737年)12月24日) - 母は民部(永光院)。葬傅通院
- 養女:近(蓮胎院)(正徳3年(1713年)8月7日 - 寛延4年(1751年)5月5日)実父:梁川藩二代藩主松平義方。元文元年(1736年)7月19日、上杉宗房に嫁ぐ。葬傅通院
- 異母兄:徳川吉通 尾張藩第四代藩主
- 異母兄:徳川継友 尾張藩第六代藩主
- 異母兄:松平義孝 尾張藩御連枝高須藩(四谷松平)第二代藩主・
- 異母兄:松平通温
- 異母妹:松(光現院・磯) 加賀前田吉徳(吉治)正室・五代将軍徳川綱吉養女
[編集] 史料
- 『徳川実紀』
- 『尾藩世記』
- 『金府紀較』
- 『尾張藩御日記頭書』
- 『尾州家条々』
- 『金鱗九十九之塵』
- 『尾公口授』
- 『尾張徳川家系譜』
- 『夢之跡』
- 『徳川宗春年譜』
- 『温知政要』 - 京都所司代により京の都での一般への出版発行は禁止された。宗春蟄居謹慎後、尾張藩内でも回収されて処分されている。
[編集] 脚注
- ^ 宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。『徳川実紀』には、むしろ吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録が散見される。宗春が江戸でも尾張藩内と同じ様な言動をとっていたという直接的な資料は未だ見つかっていない。宗春と吉宗の対立は、同時代もしくは後世の人による創作の可能性が強い。宗春はむしろ幕閣の先を行く政策を行なっており、吉宗と対立したのではなく、幕閣と対立していた可能性が高い。[要出典]
- ^ * 『徳川実紀』『尾藩世記』『金府紀較』『尾張藩御日記頭書』より
- ^ 後に犬山城主成瀬正親家臣二百石取
- ^ 近松茂矩著『圓覺院様御伝十五箇条』
- ^ 求馬の通称は、本来は御連枝梁川藩大久保松平家の嫡子の通称。宗春が求馬を名のるのは松平義真誕生前であり、義真が生まれる前に従五位主計頭に任官され、求馬の通称は使わなくなった。
- ^ 梁川藩は断絶:異母兄の尾張藩御連枝筆頭高須藩主松平義孝を飛び越える異例な人事。
- ^ これは上級の武士と町民の交流を果たすことが目的であった。
- ^ 後年、九代将軍家重・十代将軍家治時代の田沼意次の政策は宗春のそれを踏襲している。
- ^ しかしその結果、獄中に死罪人が溢れることとなった。これらの罪人は藩主交代後に全員が処刑された。
- ^ 公式記録には何も残されておらず、5月には兄で高須藩主の松平義孝の死があり、9月は詰問に出向いたと言われる滝川元長や石河政朝の出自や役職、さらに直後の鷹狩への使者が滝川元長であったことなどの状況証拠から考えると、実際にこの詰問があったかどうかは、甚だ疑わしい。
- ^ 『名古屋市史』の中に所収されるその資料は江戸末期のもので。宗春当時の記録ではない。宗春時代に記されたもので尾張藩が赤字に転じたという資料はない。その資料によると六代藩主継友と八代藩主宗勝は黒字であったとされるが、共にその藩政では市谷藩邸が全焼しており黒字になる可能性は限りなく低い。
- ^ この巻狩の前の数カ月間、宗春は御下屋敷で商人たちと会っていて、名古屋城二の丸に戻っていない。
- ^ 緩みすぎた藩士の規律を正すものであると同時に、幕府の元文の改鋳によるインフレ政策対策として、引き締め政策に転じた。名古屋はすでにインフレ状態であり、強いインフレに陥らないように庶民を守った政策である。それと同時に、元文2年(1737年)の名古屋や岐阜の町、ならびに農村からの借財は、幕府の蓄銭禁止令に対応した。借財という方法論によって、多く出回りすぎる貨幣を藩が集め、インフレを押さえたからである。
- ^ 『温知政要』『條々二十一箇条』『尾藩世紀』『徳川実記』『幸和先生御伝』等
- ^ 四代藩主徳川吉通正妻の輔子は九条輔実の娘。吉通長女の千姫は九条幸教に嫁ぐ。
- ^ 六代藩主徳川継友正妻の安己は近衛家熙の次女。
- ^ 初代広幡忠幸は、尾張藩初代藩主徳川義直の猶子であり、義直の娘の京姫を正妻とする。
- ^ 尾張家御連枝川田久保松平友著正妻伊喜姫は正親町公通の娘。
- ^ NHK・その時歴史が動いた 2008年(平成20年)9月18日
- ^ 『尾藩世紀』:この祈祷を幕府転覆のために行ったという意見がある、白い衣を着て行ったという。密教では白とは息災法であり、宗春は尾張領民の安寧を祈ったと考えるほうが妥当であろう。[要出典]翌年暮れに吉宗の使者に「領民の安寧が私の心の楽しみ」と述べたという記録もある。『尾公口授』
- ^ 『徳川実紀』によると、京の大嘗会への使者である高家堀川広益が京から戻って吉宗に報告した翌日から将軍吉宗は引き篭もり、年初恒例の行事を老中に代参させている。
- ^ 『徳川実紀』によると、御三家はじめ御家門のほとんどが閉門したほどの事件があったにも関わらず、この日の吉宗は、関白一条兼香等朝廷に異例の貢物を送っている。その後、一条兼香は四人の姫を水戸・紀州・一橋・清水の御三家御三卿の御簾中として送り出し、また、幕閣はこの年に霊元法皇の影響を受けた四人の和歌の名人の公卿の名前を提出させている。
- ^ 『尾公口授』江戶時代写本
- ^ 慶勝は、幕府の大老となる井伊直弼と対立する一橋派徳川慶喜に属しており、幕閣と対立するために宗春の遺徳に頼った。
- ^ 名古屋叢書三編尾張徳川家譜による
[編集] 関連書籍
- 清水義範著『尾張春風伝』(上・下)幻冬舎 ISBN 4877281908、ISBN 4877281916
- 海音寺潮五郎著『吉宗と宗春』文藝春秋 ISBN 4167135329
- 矢頭純著『徳川宗春』海越出版社 ISBN 4876971838
- 尾張名古屋異聞」
- 『尾張なごや傑物伝』千田達彦 風媒社 ISBN978-4-8331-0554-5
- 豊田有恒著『異聞・ミッドウェー海戦 タイムパトロール極秘ファイル』角川書店 ISBN 9784041377307 に収録。宗春の政策はタイムトラベラーによるものと言う短編。
[編集] 演じた俳優
- 滝田裕介(「大岡越前第1、2部」・1970~1971年、TBS)
- 大瀬康一(「大岡越前第3部」・1972~1973年、TBS)
- 菅野菜保之(「大岡越前第4部」・1974~1975年、TBS)
- 入川保則(「大岡越前第10部」・1988年、TBS)
- 青山良彦(「大岡越前第11部」・1990年、TBS)
- 中尾彬(「暴れん坊将軍、III~VII」・1978年~1982年、1988年~1997年、テレビ朝日)※この作品では、権力亡者・自己保身の権化のように描かれており、「知らん!余は何も知らん!」が決まり文句であった。
- 成田三樹夫(「暴れん坊将軍II」・1983年~1987年、テレビ朝日)
- 西岡徳馬(「暴れん坊将軍VIII、IX」・1997年~1999年、テレビ朝日)※西岡は同局で放送された「殿さま風来坊隠れ旅」で2代後の藩主・宗睦を演じている。
- 中井貴一(「八代将軍吉宗」・1995年、NHK大河ドラマ)
- 神田正輝(「痛快大名徳川宗春~吉宗に挑んだ男」・1996年、テレビ愛知)
- 萩原流行(「炎の奉行 大岡越前守」・1997年、テレビ東京)
- 国広富之(「米将軍・吉宗に挑んだ男」、・1998年、テレビ大阪)
- 栗塚旭(「逃亡者 おりん」・2006年、テレビ東京)
- 夏原遼(「大岡越前2時間スペシャル」・2006年、TBS)※前名の通春を名乗っている。
- 山田純大(「徳川風雲録 八代将軍吉宗」・2008年、テレビ東京)
[編集] 関連項目
- むねハルくん - NHK名古屋放送局の地上デジタル放送マスコットキャラクター。
- 宗春かるた - 愛知・名古屋の日本一を編んだ名古屋弁かるた。
- 河村たかし - 現:名古屋市長。名古屋市で開催の世界コスプレサミットでは2010年(平成22年)と2011年(平成23年)、宗春に扮して開催の挨拶を行なっている。
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