モハンマド・モサッデク
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محمد مصدق
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モサッデグ(最前列左の人物、1954年)
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| 生年月日 | 1882年5月19日 |
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| 没年月日 | 1967年3月5日(満84歳没) |
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| 所属政党 | 国民戦線 |
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| 任期 | 1951年4月28日 - 1952年7月16日 |
| 皇帝 | モハンマド・レザー・パフラヴィー |
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| 任期 | 1952年7月21日 - 1953年8月19日 |
| 皇帝 | モハンマド・レザー・パフラヴィー |
モハンマド・モサッデグ(محمد مصدق 、1882年5月19日~1967年3月5日)はイランの民族主義者、政治家。イラン首相(1951~)となり、1951年、石油国有化政策を行った(→アーバーダーン危機、も参照)。
目次 |
[編集] プロフィール
テヘランで、ガージャール朝の縁戚にあたる名家に生まれる。留学しソルボンヌ大学卒業を経て、スイス・ヌーシャテル大学で法学博士号を取得。帰国後にイラン立憲革命に参加、国会議員となりアフマド・カバム内閣で財務大臣となる。
[編集] イラン首相
パフラヴィー朝成立後の1944年に国民戦線を結成、民族主義を標榜しながら政治経済の両面で影響を及ぼしていたイギリスへの抵抗運動を始める。第二次世界大戦後にトゥーデ党が1949年に非合法化されるとほぼ唯一の反植民地主義的勢力となり、1951年にイランの首相に就任した。
[編集] 石油国有化政策
第二次世界大戦においてイランは、北はソ連、南はイギリスに占領され(→イラン進駐)、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)はアバダンの石油を独占していた。そのような状態のもと、以前から存在した石油生産の国有化案を民族主義者モサッデグは「石油国有化政策」へとつなげていった。
モサッデグは「アングロ・イラニアン石油会社の利益をイギリスとイランが半々ずつ受け取る」という石油協定の改正案には、イギリスのイラン支配継続の意図をみて、断固として反対した。石油国有化はイランの完全な主権回復を主張する運動のシンボルとして盛り上がりを増し、1951年の首相就任後に石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化する。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、ソ連と関係を深めていった。このことは西側諸国の反感を買う。
国際石油資本(メジャー)によるイラン石油の国際市場からの締め出しのためにイラン政府は財政難に瀕し、国民戦線の内部では離反者が出るなどしてモサッデグの支持が失われていく中、1953年にアメリカ政府、イギリス政府が画策したCIAによる皇帝派クーデター(1953年イランクーデター)によってモサッデグなど国民戦線のメンバーは逮捕され、モサッデグは失脚した。その後、3年間の投獄を経て自宅軟禁となるが軟禁中に死去。
[編集] 関連項目
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