ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)
|
ウィリアム・ラム William Lamb
2nd Viscount of Melbourne |
|
|---|---|
|
|
| 生年月日 | 1779年3月15日 |
| 出生地 | イギリス、イングランド、ロンドン |
| 没年月日 | 1848年11月24日(満69歳没) |
| 死没地 | イギリス、イングランド、ハートフォードシャー |
| 出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 | ホイッグ党 |
| 称号 | メルバーン子爵 |
| 親族 | パーマストン子爵(義弟) |
| 配偶者 | キャロライン |
| サイン | |
|
|
|
| 任期 | 1834年7月16日 - 1834年11月14日 1835年4月18日 - 1841年8月30日 |
| 国王 女王 |
ウィリアム4世 ヴィクトリア |
|
|
|
| 内閣 | グレイ伯爵内閣 |
| 任期 | 1830年11月22日 - 1834年7月16日 |
|
|
|
| 内閣 | ジョージ・カニング内閣 ゴドリッチ子爵内閣 ウェリントン公爵内閣 |
| 任期 | 1827年4月29日 - 1828年6月21日 |
|
|
|
| 任期 | 1828年 - 1848年 |
|
|
|
| 選挙区 | レオミンスター選挙区 ハーディントン・バー選挙区[1] ポーターリントン選挙区[1] ピーターバラ選挙区[1] ハートフォードシャー選挙区[1] ニューポート選挙区[1] |
| 任期 | 1806年1月31日 - 1812年10月24日[1] 1816年4月16日 - 1826年6月16日[1] 1827年4月24日 - 1828年7月23日[1] |
第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC, FRS、1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリスの政治家、貴族。
ホイッグ党に所属し、首相を二度にわたって務めた(第一次:1834年、第二次:1835年-1841年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけて保守党(トーリー党)党首ロバート・ピールと政権を奪い合った。
ヴィクトリア女王即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。
目次 |
経歴 [編集]
前半生 [編集]
イギリス首都ロンドンに初代メルバーン子爵ペニストン・ラムの次男として出生した。母はエリザベス。
母の浮気相手エグルモント伯爵の子とも言われる[2][3]。ラム家は代々ホイッグ党支持の家系であった[2]。
イートン校・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。リンカーン法曹院にも入学している[4]。
ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄の死により跡取りとなった[2]。同年にベスボロー伯爵の娘で小説家のキャロライン・ポンソンビーと結婚した[5][2]。
彼の名前が一般に知れ渡ったのは、1812年の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人バイロン男爵との不倫に走ったのである。この結果、2人は1825年に離婚した[5][2]。
一方でウィリアム自身も国王ジョージ4世の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した[5]。二人の女性から離婚訴訟で訴えられたことがあるほどである[6]。
閣僚 [編集]
1827年4月にトーリー党穏健派とホイッグ党穏健派による連立政権ジョージ・カニング内閣が誕生すると、そのアイルランド担当大臣として入閣した。
8月にカニングが急死し、ゴドリッチ子爵の短期政権を経て、1828年1月にトーリー党守旧派のウェリントン公爵の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼はカニング派と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1928年6月には陸軍・植民地大臣ウィリアム・ハスキソン、陸軍・植民地省事務長官パーマストン子爵、外相ダドリー伯爵、商務相チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)ら他のカニング派閣僚とともに辞職した[7]。
1828年7月より父の跡を継いで第2代メルバーン子爵となり、庶民院から貴族院に移った。
ホイッグ党嫌いの国王ジョージ4世の崩御、また野党勢力の結集などにより、1830年11月に半世紀ぶりにトーリー党政権が終わり、ホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立によるグレイ伯爵内閣が成立した[8]。メルバーン子爵はこの内閣に内務大臣として入閣した。
内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。大法官ブルーム男爵や王璽尚書ダーラム男爵、陸軍・植民地省事務長官ジョン・ラッセル卿は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた[9]。
しかしグレイ伯爵の指導力により内閣は分裂することなく1832年6月に第一次選挙法改正を達成した[10]。
第一次メルバーン子爵内閣 [編集]
1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する陸軍・植民地大臣スタンリー卿(後のダービー伯爵)らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は1834年7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王ウィリアム4世に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった[11]。
しかしホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にすることに反対した国王ウィリアム4世とメルバーン子爵の対立が深まり、国王は1834年11月14日にはメルバーン子爵を罷免したため、この第一次メルバーン子爵内閣は短命政権に終わった[12]。
もっともメルバーン子爵にとって罷免は計算のうちであったという。というのも少数党の保守党(トーリー党)政権をわざと誕生させることでその無能さを晒し、すぐに政権復帰して政権の安定化を図ることができると考えられたからである[13]。
第二次メルバーン子爵内閣 [編集]
組閣までの経緯 [編集]
ウィリアム4世は保守党のウェリントン公爵に大命を与えたが、ウェリントン公爵は保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピールを推挙し、イタリア訪問中のピールが戻るまでの暫定という条件で組閣した。1834年12月に第一次ピール内閣が樹立された[12]。
ピール首相はウィリアム4世の薦めで解散総選挙を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ[12]。
ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果第二次メルバーン子爵内閣が成立した[14]。
保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した[15]。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった[16]。
ヴィクトリア女王即位 [編集]
1837年6月20日深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で推定王位継承者ヴィクトリアのいるケンジントン宮殿に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとのお言葉を賜った[17]。
ヴィクトリアは成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザーであるケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父ケント公の面影を見いだしていたし、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵はウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。
メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった[18]。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった[19]。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい[20]、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった[21]。
この頃の女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場する[21][22]。ヴィクトリアがはじめて貴族院に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書かれている[23]。
チャーティズム運動取り締まり [編集]
1838年には労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」[注釈 1]を盛り込もうとする救貧法改正に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった[25]。
1838年5月にはウィリアム・ラベットによって「人民憲章」[注釈 2]が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった[26]。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった[27]。
ところが急進派も含めて議会のほぼ全議員がこの請願を拒否した。メルバーン子爵も政治改革はあくまで議会内で行われるべきと考えており、こうした議会外からの圧力運動には抑圧の姿勢で臨んだ[28]。メルバーン子爵は1839年から1840年にかけて500人のチャーティズム運動指導者を逮捕させている[29]。
寝室女官事件 [編集]
1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した[30]。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという[31][32]。
後任予定の保守党のロバート・ピールは現在ホイッグ党の国会議員の妻で占められる女王の女官を保守党の国会議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否されたため、組閣を拝辞した。ヴィクトリアはメルバーン子爵に留任を求め、その結果メルバーン子爵が留任することになった(寝室女官事件)[33]。
ただメルバーン子爵もこの事件が立憲主義の抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという[34]。
外交問題 [編集]
メルバーン子爵が首相在任中、外交問題は慌ただしかった。ベルギー独立革命をめぐる国際紛争の仲裁、第二次エジプト・トルコ戦争によって起きた国際紛争の仲裁(第二次東方問題)、アメリカとの国境紛争、清に自由貿易を強要するために発動したアヘン戦争、ロシアの南下政策への対抗のために発動した第一次アフガン戦争と外交紛争がたてつづけに起きた。外交問題は基本的に外相であったパーマストン子爵に全幅の信頼をおいて任せていた。パーマストン子爵はメルバーン首相の妹と長年の愛人関係の末結婚しており公私共に親しい間柄であった[35]。
しかしパーマストン外交のうち第一次アフガン戦争は散々な失敗に終わり、内閣崩壊の原因ともなった[36]。
総辞職 [編集]
1841年4月に穀物法廃止(穀物自由貿易)運動への譲歩で政権の延命を狙ったが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、1841年4月に提出した砂糖関税低減の法案は議会で否決された。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これに対抗してピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決された。これを受けてメルバーン子爵は解散総選挙に打って出たが、敗北した[37]。
メルバーン子爵内閣は1841年8月に内閣総辞職することとなった[37]。
首相退任後 [編集]
首相退任の翌年1842年に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのはジョン・ラッセル卿とランズダウン侯爵だった[38]。
この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、この頃には女王の相談役は1840年に女王と結婚したアルバート公子になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった[38]。
1845年7月にグレイ伯爵が死去するとメルバーン子爵が一番の「長老政治家」になった[39]。
1845年末にはピール内閣が穀物法廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することもさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)[40]。
結局ピール内閣は1846年6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ホイッグ党が政権を奪還した[41]。
それを見届けた後の1848年11月に69歳で死去した[39]。
メルバーン子爵の爵位は弟フレデリック・ラムが継承した。
人物 [編集]
ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが[42]、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった[43]。
メルバーン子爵を演じた人物 [編集]
- ポール・ベタニー:イギリス映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(2009年)[44]
- カール・ルートヴィヒ・ディール:オーストリア映画『女王さまはお若い』(1954年)[44]
- フレデリック・レスター:イギリス映画『The Prime Minister』(1941年)[44]
- H.B.ワーナー:イギリス映画『Victoria the Great』(1937年)[44]
- オットー・トレスラー:ドイツ映画『女王さまはお若い』(1936年)[44]
脚注 [編集]
注釈 [編集]
出典 [編集]
- ^ a b c d e f g h HANSARD 1803–2005
- ^ a b c d e victorianweb
- ^ ストレイチイ(1953) p.63
- ^ a b c Venn, J.; Venn, J. A., eds (1922–1958). “Lamb, the Hon. Henry William”. Alumni Cantabrigienses (online ed.). Cambridge University Press.
- ^ a b c 森(1986) p.558
- ^ ストレイチイ(1953) p.67
- ^ 君塚(2006) p.28
- ^ 君塚(1999) p.59
- ^ 君塚(1999) p.60
- ^ 君塚(1999) p.61
- ^ 君塚(1999) p.62
- ^ a b c 君塚(1999) p.63
- ^ 神川(2011) p.71
- ^ 君塚(1999) p.64
- ^ 木畑・秋田(2011) p.89
- ^ 君塚(1999) p.65
- ^ ストレイチイ(1953) p.53
- ^ 尾鍋(1984) p.54
- ^ 森(1986) p.559
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.165
- ^ a b 君塚(2007) p.31
- ^ ストレイチイ(1953) p.71-74
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.170-171
- ^ 村岡、木畑(1991) p.83
- ^ 村岡、木畑(1991) p.84
- ^ a b 村岡、木畑(1991) p.105
- ^ 村岡、木畑(1991) p.105-106
- ^ 木畑・秋田(2011) p.90
- ^ 君塚(1999) p.73
- ^ 尾鍋(1984) p.65
- ^ ストレイチイ(1953) p.87
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.193
- ^ 尾鍋(1984) p.66
- ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.196
- ^ 君塚(2006) p.23
- ^ 浜渦(1999) p.95
- ^ a b 神川(2011) p.100
- ^ a b 君塚(1999) p.75
- ^ a b 君塚(1999) p.78
- ^ 君塚(1999) p.80-82
- ^ 君塚(1999) p.83
- ^ ストレイチイ(1953) p.68
- ^ ストレイチイ(1953) p.66
- ^ a b c d e IMDb
参考文献 [編集]
- 尾鍋輝彦 『最高の議会人 グラッドストン』 清水書院〈清水新書016〉、1984年(昭和59年)。ISBN 978-4389440169。
- 神川信彦 『グラッドストン 政治における使命感』 君塚直隆編、吉田書店、2011年(平成23年)。ISBN 978-4905497028。
- 『近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで』 木畑洋一、秋田茂、ミネルヴァ書房、2011年(平成23年)。ISBN 978-4623059027。
- 君塚直隆 『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』 有斐閣、1999年(平成11年)。ISBN 978-4641049697。
- 君塚直隆 『パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代』 有斐閣、2006年(平成18年)。ISBN 978-4641173224。
- 君塚直隆 『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』 中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4121019165。
- リットン・ストレイチイ 『ヴィクトリア女王』 小川和夫訳、角川書店〈角川文庫601〉、1953年(昭和28年)。ASIN B000JB9WHM。
- 浜渦哲雄 『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』 中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。
- 『イギリス史〈3〉近現代』 村岡健次、木畑洋一編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300。
- 森護 『英国王室史話』 大修館書店、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4469240900。
- スタンリー・ワイントラウブ 『ヴィクトリア女王〈上〉』 平岡緑訳、中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4120022340。
関連項目 [編集]
- イギリスの首相の一覧
- ホイッグ党 (イギリス)
- メルバーン子爵
- ヴィクトリア (イギリス女王)
- グレイ伯爵
- ロバート・ピール
- メルボルン(メルバーン子爵に因んで名づけられたオーストラリアの都市)
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: サー・ロバート・ピール准男爵 |
1835年-1841年 |
次代: サー・ロバート・ピール准男爵 |
| 先代: ウェリントン公爵 |
1835年-1841年 |
次代: ウェリントン公爵 |
| 先代: グレイ伯爵 |
1834年 |
次代: ウェリントン公爵 |
| 先代: グレイ伯爵 |
1834年 |
次代: ウェリントン公爵 |
| 先代: サー・ロバート・ピール准男爵 |
1830年-1834年 |
次代: ベスボロー伯爵 |
| 先代: ヘンリー・ゴールバーン |
1827年-1828年 |
次代: フランシス・ルーソン=ゴア卿 |
| 党職 | ||
| 先代: グレイ伯爵 |
ホイッグ党党首 1834年-1842年 |
次代: 貴族院:ランズダウン侯爵 庶民院:ジョン・ラッセル卿 |
| アイルランドの爵位 | ||
| 先代: ペニストン・ラム |
第2代メルバーン子爵 1828年 - 1848年 |
次代: フレデリック・ラム |
|
||||||||||
