「T-2 (航空機・日本)」の版間の差分

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'''T-2'''は、[[日本]][[航空自衛隊]]の高等[[練習]]。[[三菱重工業]]が製造。初飛行は[[1971年]]([[昭和]]46年)[[7月20日]]。日本が初めて開発した[[超音速]][[航空]]である。[[2006年]][[平成]]18年)[[3月2日]][[岐阜基地]][[飛行開発実験団]]のT-2特別仕様(59-5107)が引退し、初飛行から35年歴史幕を閉じた。大抵は「ティーツー」と呼ばれ愛称は無い。
'''T-2'''は、[[日本]]で開発された[[超音速]][[ジェット機]]。日本が初めて開発した[[超音速]]であり、[[航空自衛隊]]で[[戦闘機]]の一歩手前の訓練のための高等[[練習機]]として用いられた。また[[支援戦闘機]][[戦闘爆撃機]])である[[F-1 (航空)|F-1]]原型もなっている。大抵は「ティーツー」と呼ばれ愛称は無い。


== 開発経緯 ==
== 来歴 ==
=== 超音速高等練習機の検討 ===
T-2の開発には、[[1960年代]]の[[アメリカ空軍]]で周流だった「戦闘機[[パイロット (航空)|パイロット]]の養成には超音速高等練習機が必要である」という考え方が影響している。これに基づいて[[ノースロップ]]のプライベートベンチャーであるN-156F/T(後の[[F-5 (戦闘機)|F-5]]、[[T-38 (航空機)|T-38]])が使用されていた。これは超音速飛行が特殊なものであるという古い認識を引きずったもので、実際には米空軍ではT-38での訓練でも超音速を用いなかった。しかし、この論そのものは[[日本]]の航空機開発と戦闘機搭乗員養成に大きな影響を与えた。
航空自衛隊では、[[F-X_(航空自衛隊)#第1次F-X|第1次F-X]]として[[F-104 (戦闘機)|F-104J]]を導入し、[[1962年]]より配備を開始していた。同機は、従来用いられてきた[[F-86 (戦闘機)#日本|F-86F]]・[[F-86D (航空機)|F-86D]]とは隔絶した性能を備えていたことから、転換教育のため、急遽、複座型のF-104DJも導入された。しかし、戦闘機に習熟したパイロットはF-104DJでの教育だけで十分だったものの、[[T-33 (航空機)|T-33A]]練習機での課程を終えたばかりの新人パイロットにとって、F-104DJはあまりに高度であった{{Sfn|鳥養|2006}}。


このことから、T-33Aから複座型戦闘機への橋渡しをする超音速練習機の導入が検討されるようになり、T-38A/BおよびTF-104が候補機とされた。1965年9月、[[航空幕僚監部]]人事教育部の鈴木教育課長を団長とする調査団を派米し、4週間に渡って[[アメリカ空軍]]の教育体系を調査した。この結果、一度はT-38Bが選定されて、[[第3次防衛力整備計画]]より導入を開始する計画とされた{{Sfn|久野|2006}}。
当時の日本では[[1962年]]([[昭和]]37年)から超音速[[戦闘機]][[F-104 (戦闘機)|F-104J/DJ]]の配備が始まり、[[1972年]](昭和47年)には[[F-X (航空自衛隊)#第2次F-X|次期戦闘機F-X]]([[F-4 (戦闘機)|F-4EJ]])の配備も始まることとなったため、従来の練習機[[T-33 (航空機)|T-33A]]では性能差がありすぎることから、超音速飛行のできる練習機が求められていた。


しかし当時、[[技術研究本部]]の守屋富次郎本部長は、「日本はこの機会に[[超音速機]]を開発しなければ、永遠に開発できなくなる」と主張していた{{Sfn|神田|2018|pp=36-51}}。また当時の[[松野頼三|松野]]防衛庁長官は装備の国産化を志向していたこともあり、1965年末には、国産機の採用を検討するように指示された。これに対し、航空自衛隊は、国内開発では時間がかかることを危惧していたことから、3次防では「つなぎのT-X」として海外の機体を導入し、4次防からは国産T-Xを導入することが計画された。その後、1969年に、[[F-X_(航空自衛隊)#第2次F-X|第2次F-X]]として複座の[[F-4_(戦闘機)#日本|F-4EJ]]の導入が決定されると、F-4の後席要員に機種転換教育の役割を兼ねさせることになり、「つなぎのT-X」のための予算はF-4EJの購入費に転用された{{Sfn|久野|2006}}。
同時期に[[イギリス|英]][[フランス|仏]]共同で超音速練習機/[[攻撃機]](後の[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]])を開発し、高い費用対効果を上げようと言う試みは、国内開発へのはずみにもなったものの、前回の[[F-X (航空自衛隊)|F-X]]候補のひとつで、[[F-104 (戦闘機)|F-104]]に敗れたN-156Fが、航空自衛隊の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた。防衛庁内には米空軍のT-38/[[F-5 (戦闘機)|F-5]]を導入するべきだと強力に主張する勢力がおり、また、制服組からも純技術的経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。[[大蔵省]](現 [[財務省 (日本)|財務省]])とのパイプを持つ彼らは、T-38/F-5こそが[[コストパフォーマンス]]に優れ、配備予定期日を守ることができる唯一の方法だと強力に主張していた。


=== XT-2の開発 ===
しかし、コスト的にはT-38/F-5が優勢であったものの、T-38では要求をクリアすることは不可能とされ、「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。ただ、当初の予定であればF-X導入までに超音速高等練習機を国内開発することは不可能であり、導入を決定したF-4EJファントムIIが複座であることから、これを機種転換に充てるという手法で、運良く戦闘機パイロットの養成スケジュールを消化する目処が立ったために、T-X国内開発の時間的余裕が出来たようなもので、そうでなければ国内開発は時間切れで断念していた可能性もあった。
[[1967年|昭和42年]]度予算では国産T-X開発の第一歩となる基本設計のための委託設計費が認められており、同年7月には、航空幕僚長から防衛庁長官に対して要求性能が上申された。1968年2月には、技術研究本部長に対して基本設計命令が下された。開発される機体は「超音速高等練習機」とされ、2番めの国産練習機として'''XT-2'''と識別符号が付された。昭和41年度末には三菱重工業と三社グループから開発計画案が提出されており、評価検討の結果、1967年9月5日には三菱の案が採択された。またこのプロジェクトの国家的意義を考慮して、三社グループおよび新明和工業も協力者として指定された{{Sfn|防衛庁技術研究本部|1978|pp=135-141}}。


10月16日、三菱重工業では、協力企業からの技術者を加えて開発チーム(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team, ASTET)を組織し、設計面での体制を確立した。チームリーダーとなった三菱重工の池田研爾第2技術部長のみが大戦中に[[烈風]]などの開発に参加していたが{{Sfn|神田|2018|pp=36-51}}、他のメンバーは全員が戦前・戦中の航空機開発を経験していない戦後派であった。1968年3月15日の計画審査ののち、モックアップ審査と基本設計審査を経て細部設計に移行し、1969年4月末でASTETのメンバーは現会社に復帰して、以後の細部審査は製造担当会社で行われた{{Sfn|鳥養|2006}}。
次期練習機T-Xへの主な要求内容として以下が上げられた。
* [[タンデム]]複座。
* 安全性を考えエンジンは双発。
* 最大速度はM1.6程度。
* 良好な加速性能と離着陸特性をもつこと。
* 対戦闘機訓練、対地射爆訓練が可能なこと。
* 固定武装として[[機関砲]]([[M61 バルカン|M61]])を装備すること。
* [[射撃統制システム|火器管制装置]]を搭載すること。
* 非常時には補助戦闘機として使用できること。
* 支援戦闘機[[F-86 (戦闘機)|F-86F]]が近々退役することから、最小限度で支援戦闘機への改造が施せること。


1971年4月28日に1号機がロールアウトし、7月20日に初飛行し、11月19日の30回目の飛行で音速を突破した{{Sfn|防衛庁技術研究本部|1978|pp=135-141}}{{Sfn|鳥養|2006}}{{Efn2|音速を突破したのは1971年11月19日午前10時17分で、これにより、日本は、アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・スウェーデンについで6番目に超音速機を開発した国となった{{Sfn|久野|2006}}。}}。その後、更に3機の試作機が制作されて、技術的試験および実用試験が同時実施されていった{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。その成果を踏まえて、1974年7月29日に部隊使用承認を取得した{{Sfn|久野|2006}}。
特に量産化による開発費低減を狙って支援戦闘機への改造が大きな要求であり、これらの要求を元に[[1967年]](昭和42年)[[2月8日]]に防衛庁が音速ジェット練習機作成に関する性能要求書に対する返答を、[[三菱重工業]]と[[富士重工業]]が計画書案を提出。[[9月5日]]に三菱が主契約企業に決定された。年内に人員75名の'''XT-2'''開発設計チーム ASTET(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team:超音速高等練習機設計チーム)を編成し、[[1968年]](昭和43年)に基本計画に着手した。エンジンは[[イギリス|英]][[フランス|仏]]共同開発の[[ロールス・ロイス・チュルボメカ|ロールス・ロイス/チュルボメカ]]「[[ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア|アドーア]]」に決定、[[1969年]](昭和44年)4月に基本設計終了、モックアップ審査が行われ、10月より試作1、2号機の製造に入る。


== 設計 ==
試作機XT-2の1号機は[[1971年]](昭和46年)[[4月28日]]に三菱重工小牧南工場で1号機がロールアウト、[[7月20日]]に初飛行、[[11月19日]]にマッハ1.08を記録、国産航空機として初めて[[音速]]を突破した。[[12月15日]]に防衛庁へ納入され、[[技術研究本部]]に所属したが、技術試験および実用試験は[[岐阜基地]]実験航空隊飛行実験群で行われた。[[1972年]](昭和47年)に試作2号機が航空自衛隊に納入、続いて3号機・4号機が納入された。
本機は、「F-86Fの後継機として戦技訓練が可能で支援戦闘の潜在能力をもち、かつ超音速飛行の能力を有する練習機」として開発された{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。


=== 機体構造 ===
* 1号機(19-5101)
[[ファイル:T-2_hikouki.jpg|thumb|300px|T-2(26号機)全景]]
: T-2前期型のプロトタイプ。機首ピトー管部には計測ブームが取り付けられており、飛行性能、エンジン関係のテストに使用された。武装はなし。ロールアウト時は全身銀塗装で、胴体尾部にだけ大きな[[日本の国旗|日の丸]]が描かれていたが、初飛行後に塗装が施された。
設計にあたってはF-104の影響が大きく、基本的な設計思想は「F-104で示された『揚力よりも余剰推力を利用して超音速での高G旋回を追求する』という思想を受け継ぎながら、F-104の難点であった『T型尾翼に起因する大迎え角でのピッチアップなどの安定操縦性の問題』『直線翼に起因する遷音速域での余剰推力不足』といった欠陥を取り除き、マッハ1.6までの遷音速・超音速域を有効に機動できるようにした飛行機」と要約された{{Sfn|鳥養|2006}}。
* 2号機(29-5102)
: T-2後期型のプロトタイプ。J/AWG-11レーダーとM61機関砲を装備。火器管制システム、武器装備関係の試験に使用された。
* 3号機(29-5103)
: 1号機同様に武装は無く、飛行特性などのテストに使用された。特にスピンテストに使用されるため、尾部にスピンシュートを装備、射出座席の改修が施された。T-2前期型のプロトタイプ。
* 4号機(29-5104)
: 2号機同様にレーダーと機関砲を装備。火器管制システム、武装関係の試験に使用。機種レーダードームに静電気防止塗装、ネオプレン・コーティングが施された。T-2後期型のプロトタイプ。


このような設計思想を反映して、主翼は21.17[[平方メートル]]と非常に小さいものとなった。翼面荷重は450 [[重量キログラム#重量キログラム毎平方メートル|kgf/cm<sup>2</sup>]]と、同時期の[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]](400 kgf/cm<sup>2</sup>)より大きく、F-104(520 kgf/cm<sup>2</sup>)に近い値である。高翼配置で、[[翼平面形]]は前縁フィレットおよびドッグ・トゥースをもった[[翼平面形#クリップトデルタ翼|クリップトデルタ翼]]とされ、前縁後退角は42.29度で、上反角降下を打ち消すため、9度の下反角が付された。構造は厚板テーパー外板の多桁構造とされた{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。なお本機の横操縦には、[[MU-2]]以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、[[補助翼]]を廃して[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]を用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している{{Sfn|鳥養|2006}}。
XT-2による飛行試験は[[1974年]](昭和49年)3月まで続き、計612ソーティ、691時間に及んだ。
その結果、XT-2に施された大きな改良点は次のとおりである。


水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気の耐熱のため[[チタン|チタニウム合金]]が用いられている。また、ロールアウトの時点では、胴体後部の[[垂直尾翼#ベントラルフィン|ベントラルフィン]]は付いていなかったが、最終設計の段階で低速高迎角時に方向安定が不足することがわかり、新たに装備された{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。
まず、着陸形態の低速時における縦安定性が弱いという問題があった。この問題は外部搭載物がある場合には著しく、安定性が負になってしまうものだった。これは、主翼前縁の張り出し部の縮小、境界層板の翼上面への追加、増槽タンクのフィンの形状変更(F-86Fのタンクのような逆T字型からX型へ)、パイロン後端の形状変更(外向きに曲がったような形に)で解決した。


胴体の基本構造は、強力縦通材{{enlink|Longeron}}と円框で構成される通常の[[モノコック]]構造を採用している。断面は大略矩形で、マッハ1.4で全機抵抗が極力小さくなるように超音速[[エリアルール]]を採用している{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。なお、主翼を薄くしたために燃料タンクが胴体内に移動したこともあって、胴体の太さを押さえて抵抗を削減することが設計の重大課題となった{{Sfn|鳥養|2006}}。
また、加速時に縦の短周期運動が発生することで、過大なGが掛かる問題があった。この問題はボブウェイトの変更とQフィールピトーの位置変更(垂直尾翼右側から前縁部へ)で解決した。


[[軍用機のコックピット|コクピット]]は[[タンデム]]配置の複座で、訓練生が前席、教官が後席に搭乗する。前・後席で280ミリの段差がついている。[[射出座席]]はゼロ高度・ゼロ速度で脱出可能なウェーバ社ES-7Jで{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}、ダイセルが[[ライセンス生産]]している{{Sfn|鳥養|2006}}。
[[1974年]](昭和49年)[[7月29日]]に防衛庁長官によって部隊使用の承認を受け、'''T-2'''として部隊配備が開始された。T-2配備の結果、従来より10ヶ月も教育期間が短縮されたという。[[1976年]](昭和51年)に[[松島基地]]にT-2教育訓練飛行隊である[[第21飛行隊 (航空自衛隊)|第21飛行隊]]が新設された。[[1988年]](昭和63年)[[3月7日]]に最終号機(#196)が納入され、全96機の生産が終了した。派生型[[F-1 (航空機)|F-1支援戦闘機]]77機と合わせ、量産効果は十分に達成できたと言える。


なおコストダウンのため、車輪は[[F-104 (戦闘機)|F-104J/DJ]]と同じものを使用している{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。
== 機体 ==
[[ファイル:T-2_hikouki.jpg|thumb|300px|T-2(26号機)全景]]
T-2は操縦訓練用の'''前期型'''と戦術訓練用の'''後期型'''の2種類に大別でき、前期型は[[機関砲]]やレーダー、火器管制装置を搭載せず、戦闘機操縦課程においての基礎の課程で使用されたのに対し、後期型は実践的な空中戦闘や射撃などの訓練に使用された。なお、一部の航空雑誌や、ファンが前期型を「T-2A」、後期型を「T-2B」とも記述、表現をしている事もあるが、このような区別・呼称は正式にはしていない。前期型と後期型の外見上の主な相違としては、後期型には機関砲が搭載されているため砲口が開口しているのに対し、前期型には砲口が無く、周囲は単なる膨らみとなっている。また、前期型は後期型と重量、重心を合わせるため、各種機器の代わりにダミーウェイト(重り)を搭載している。


=== エンジン ===
主翼が非常に小さく、また、厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状となった。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気の耐熱のため[[チタン|チタニウム合金]]が用いられている。また、ロールアウトの時点では、胴体後部の[[垂直尾翼#ベントラルフィン|ベントラルフィン]]は付いていなかったが、最終設計の段階で低速高迎角時に方向安定が不足することがわかり、新たに装備された。車輪はコストダウンのため、[[F-104 (戦闘機)|F-104J/DJ]]と同じものを使用している。
エンジンとしては、[[ゼネラル・エレクトリック J85|J85-GE-15]]、GE1/J1A1、ヴァイパー21R、M45BS、J85/J1A、そして[[ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア|アドーア]]が候補になり、特にアドーアとGE1/J1A1について詳細な検討が実施された{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}。防衛庁が発行した提案要求書ではアドーアの双発が指定されたが、開発が進展すると、再度、機種選定が問題になり、GE1/J1A1に加えて[[ゼネラル・エレクトリック J79|J79]]を推す声も上がった{{Sfn|鳥養|2006}}。


開発にあたっては、基本運用パターンとして、対空戦闘訓練にあたるHi-Hi-Hiプロファイルと、対地攻撃訓練にあたるHi-Lo-Hiプロファイルが想定されていた。J79は高空・高マッハで推力が急増する特性があり、Hi-Hi-Hiプロファイルには適するのに対してHi-Lo-Hiプロファイルでは燃費が悪く、航続距離に大きな差が出ると考えられた。またGE1も、Hi-Lo-Hiプロファイルには必ずしも適合しないうえに、この時点で未完成で搭載機もなく、不確定要素が大きかった{{Efn2|GE1についての日本側の危惧は的中し、結局、それ自体は実用化されなかった。ただし技術的には、後の[[ゼネラル・エレクトリック YJ101|YJ101]]、そして[[ゼネラル・エレクトリック F404|F404]]の源流となった{{Sfn|鳥養|2006}}。}}。これに対し、アドーアは高等練習機および地上攻撃機の要求に合致するように開発されたことから、Hi-Lo-Hiプロファイルにも適合する特性を備えていた。これらの検討を経て、1968年2月、アドーアの双発配置が採択された{{Sfn|鳥養|2006}}。
エンジンは英仏共同開発のロールス・ロイス/チュルボメカ「アドーア」(RT172 Mk102)を[[IHI|石川島播磨重工業]]で[[ライセンス生産]]するものとしたが、そのためか、機体はエンジンを同じくする[[イギリス|英]][[フランス|仏]]共同開発の[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]]に非常に良く似たシルエットである。もちろん、直接の関係は無いが「猿真似」と呼ばれた。
([[F-1 (航空機)#基本構造|F-1・形状]]も参照)


[[ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア]](RB.172/T.260)は、[[イギリス]]の[[ロールス・ロイス・ホールディングス|ロールス・ロイス]]社と[[フランス]]の[[チュルボメカ]]社が、[[SEPECAT ジャギュア]]のために共同開発したもので、2軸式のアフターバーナー付き低バイパス比[[ターボファンエンジン]]である。XT-2はジャギュアに続く2例目の搭載機であり、ジャギュアで搭載されていたアドーアMk.102をもとに[[IHI|石川島播磨重工業]]で[[ライセンス生産]]したTF40-IHI-801(社内呼称: アドーアMk.801)が搭載された。当初は先行生産型である-801Xが搭載されていたが、1974年からは量産型である-801Aの納入が開始された{{Sfn|石澤|2006}}。
[[翼面荷重]]が高い機体の制約から小回りは利かなかったが、上昇力や加速力は良好で、[[パイロット (航空)|パイロット]]の評判は良かった。2代目の「[[ブルーインパルス]]」に採用され、加速や上昇力を生かしてダイナミックな演技を披露した反面、小回りが利かないので演技の間隔が長くなり、観客には間延びした印象を与えた。また、このため時間内にできる課目が限定され、物足りなさを感じさせたのも事実である。


ただしアドーアは開発後間もないエンジンであり、頻繁に改良や設計変更が行われたこともあって、多くの困難が生じた。ジャギュアとは運用も異なることもあり、日本特有の不具合も発生したことから、石川島播磨重工では、ロールス・ロイスとも協議しながら日本独自の改善策を講じて問題を解決していった。また生産性についても、同社流に改善して大幅にコストダウンしたものも多かった。これらの経験は、その後、[[F-15J (航空機)|F-15J]]の[[プラット・アンド・ホイットニー F100]]、[[F-2 (航空機)|F-2]]の[[ゼネラル・エレクトリック F110]]のライセンス生産でも活かされた{{Sfn|石澤|2006}}。

=== 塗装 ===
機体配色は、後期型が基本的にグレー一色(水平尾翼、レドームおよびエンジン周辺の無塗装部等を除く)で塗装されていたのに対し、前期型はグレーを基本にして機首、垂直尾翼全面、主翼と水平尾翼の翼端が視認性向上を目的としてオレンジの蛍光色で塗装されていた。教導隊がアグレッサー(仮想敵機)として使用した機体は、同じ理由でオレンジの部分が機体別に黒・緑・黄・茶で塗装されており、また、機首下面に擬似コックピットが描かれている。
機体配色は、後期型が基本的にグレー一色(水平尾翼、レドームおよびエンジン周辺の無塗装部等を除く)で塗装されていたのに対し、前期型はグレーを基本にして機首、垂直尾翼全面、主翼と水平尾翼の翼端が視認性向上を目的としてオレンジの蛍光色で塗装されていた。教導隊がアグレッサー(仮想敵機)として使用した機体は、同じ理由でオレンジの部分が機体別に黒・緑・黄・茶で塗装されており、また、機首下面に擬似コックピットが描かれている。


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また、[[築城基地]]の[[第6飛行隊 (航空自衛隊)|第6飛行隊]]や、[[三沢基地]]の[[第3飛行隊 (航空自衛隊)|第3飛行隊]]・[[第6飛行隊 (航空自衛隊)|第8飛行隊]]には、F-1戦闘機と同様の迷彩塗装や標記を施した機体もあった。
また、[[築城基地]]の[[第6飛行隊 (航空自衛隊)|第6飛行隊]]や、[[三沢基地]]の[[第3飛行隊 (航空自衛隊)|第3飛行隊]]・[[第6飛行隊 (航空自衛隊)|第8飛行隊]]には、F-1戦闘機と同様の迷彩塗装や標記を施した機体もあった。


== 装備 ==
なお、平均価格は開発費を上乗せして、およそ19億円ほどと見込まれる。
T-2は、戦闘操縦基礎課程(前期課程)用の'''前期型'''と、戦闘操縦課程(後期課程)用の'''後期型'''の2種類に大別できる。後期型は戦技課程に対応して、J/AWG-11火器管制レーダーと光学照準器、[[M61 バルカン|JM61 20mm機関砲]]を搭載し、胴体下の[[ハードポイント]]には訓練弾ディスペンサーの装備も可能である{{Sfn|久野|2006}}。ただし後に、[[シラバス]]の変更などで、T-2運用部隊での空対地射爆撃が行われなくなったため、訓練弾ディスペンサーの装備はごく短期間で終了した{{Sfn|赤塚|2006}}。


J/AWG-11は国産初の{{仮リンク|火器管制レーダー|en|Fire-control radar}}であり、使用周波数は[[Kuバンド]]、[[アンテナ]]は[[スロットアンテナ]]をアンテナ素子とした[[アレイアンテナ|プレーナアレイ]]式とされた{{Sfn|防衛庁技術研究本部|1978|pp=135-141}}。のちにF-1支援戦闘機で搭載されたJ/AWG-12[[射撃統制システム#航空機搭載FCS|火器管制システム]] (FCS) のような精密な投下計算機能は備えていないものの、基本的なオペレーションは可能である{{Sfn|赤塚|2006}}。
== 運用史 ==
[[ファイル:T-2_and_F-1_Canopy.jpg|thumb|300px|right|T-2(上)とF-1(下)のキャノピー対比]]
=== 配備 ===
[[1971年]](昭和48年)にXT-2が制式T-2となり、T-2整備要員の教育が開始された。[[1974年]](昭和49年)には第4航空団([[松島基地]])内にT-2企画室が設置され、[[7月29日]]に防衛庁長官の部隊使用承認を受ける。三菱(名古屋)ではT-2後期型に関する講習が行われる。また、T-2操縦要員の教育を開始、T-2[[岐阜基地]]に岐阜作業班が編成され、T-2整備要員の転換教育が開始された。


なお前期型ではこれらの戦技課程用の装備を搭載していないため、機関砲の砲口の開口がなく、周囲は単なる膨らみとなっており、外見上の特色となっている。また、前期型は後期型と重量、重心を合わせるため、各種機器の代わりにダミーウェイト(重り)を搭載している{{Sfn|赤塚|2006}}。
[[1975年]](昭和50年)[[3月24日]]まで松島基地でT-2運用試験第一期を実施、[[3月26日]]には量産1号機(#105)が防衛庁に引渡され、[[3月31日]]に[[第4航空団]]に'''臨時T-2訓練隊'''(T-2 2機)が発足、T-2による操縦講習が開始される。同年の松島基地航空祭でT-2がはじめて飛行展示された。なお、同年[[6月7日]]には岐阜基地内にT-2用サイレンサーが完成する。次いで松島基地にもT-2サイレンサーが完成、第4航空団は改編されてT-2DOCKが開設、年度内にT-2によって12名が育成された。


== 運用史 ==
[[1976年]](昭和51年)[[3月25日]]、臨時T-2訓練隊は'''臨時第21飛行隊'''に改編され、T-2による学生教育が開始した。年内に第一期T-2転換課程が終了。25機体制で第4航空団'''[[第21飛行隊 (航空自衛隊)|第21飛行隊]]'''が正式に発足した。同年、第81航空隊松島飛行班の発足に伴い、昭和52年3月まで支援整備を第4航空団が実施、松島基地に第81航空隊松島飛行班が新設された。
[[ファイル:T-2 107.jpg|thumb|300px|最後まで残ったT-2 #107(特別仕様機)]]
1971年にXT-2試作1号機が初飛行に成功すると、[[1972年|昭和47年]]度予算で、さっそくT-2第1次量産計画として20機が計上された。しかし同年度は[[第4次防衛力整備計画]]の初年度にあたる年であったが、[[ニクソン・ショック|ドルショック]]による経済不況を受けて決定が先送りされたため、T-2を含む主要装備が正式決定を待たずに予算に組み込まれる事となり、野党の反発を招いた。このため、実際の発注は1973年3月31日まで先送りされることになった。量産初号機(通算5号機)は1975年2月12日に初飛行し、3月26日に防衛庁に納入された。その後、生産が進み、[[1988年]][[3月7日]]に最終号機(#196)が納入されて、全96機の生産が終了した{{Sfn|久野|2006}}。


[[1974年]]8月には、[[第4航空団]]([[松島基地]])内にT-2企画室が設置されて、T-2のテストパイロットを教官、試作機を教材として、教官パイロットの養成が開始され、1975年3月に臨時T-2訓練隊が発足した。その後、量産機の配備が進展すると、[[1976年]]3月25日に臨時第21飛行隊となり、同年10月1日には25機の定数が充足して、正式に[[第21飛行隊 (航空自衛隊)|第21飛行隊]]となった。また1978年4月には[[第22飛行隊 (航空自衛隊)|第22飛行隊]]も新編された{{Sfn|久野|2006}}。
[[1977年]](昭和52年)、CT課程4名が第21飛行隊に入校、年内に第一期生として訓練が完了した。しかし、21飛所属の#127号機の射出座席が地上で誤作動する事故が発生、パラシュートが開かずに教官1名が殉職した。


松島基地でのT-2教育は1976年4月より開始された。これにより、[[レシプロエンジン]]の[[T-34 (航空機)|T-34]]での第1初級操縦課程、[[ジェットエンジン]]の[[T-1 (練習機)|T-1A/B]]での第2初級操縦課程、[[T-33 (航空機)|T-33A]]での基本操縦課程ののち、本機による戦闘操縦基礎課程・戦闘操縦課程を経て、F-104やF-4EJの機種転換操縦課程に進むという[[教育課程]]となった。また訓練を担当する飛行隊のほかにも、F-1を配備する各飛行隊にも2機ずつが配備され、要員の錬成訓練や訓練支援、連絡などに用いられた{{Sfn|久野|2006}}。
[[1978年]](昭和53年)[[4月5日]]より、'''[[第22飛行隊 (航空自衛隊)|第22飛行隊]]'''への配備が開始され、空幕による飛行安全特定監査を受けた。この年にはT-2初の1000飛行時間突破パイロットが誕生。また飛行教育集団司令官が第4航空団を初めて視察し、第4航空団は飛行安全褒章を受賞した。第35飛行隊が[[浜松基地]]に移動したことにより、第22飛行隊のベースオペレーションが移動した。


その後、老朽化に伴って用途廃止が開始され、第22飛行隊は2001年3月16日に特別塗装の160号機でラストフライトを行って、27日に解散式を行った。また2002年4月1日からは松島基地に[[F-2 (航空機)|F-2B]]の配備が開始され、第21飛行隊のT-2にF-2Bの訓練を併用する体制となった。その後、F-2Bの配備拡大に伴って、2004年3月29日、第21飛行隊はF-2Bに機種転換し、T-2による教育は終了した{{Sfn|久野|2006}}。第21・22飛行隊あわせて30万7千飛行時間、1,450人の戦闘機パイロットが育成された{{Sfn|赤塚|2006}}。以後は、[[T-7 (練習機)|T-7]]での初級操縦課程を経て、[[T-4 (練習機)|T-4]]での基本操縦課程を終了すると、すぐに[[F-15 (戦闘機)|F-15DJ]]や[[F-2 (航空機)|F-2B]]といった戦闘機の複座型での訓練に移行する課程となった{{Sfn|赤塚|2006b}}。
[[1979年]](昭和54年)から、第4航空団はT-2用フライトシミュレーターによる要員増強を行う。年内にT-2後期型のフライトシミュレーターが導入され、こちらも運用を開始した。また、無事故を続けていることから、この年も第4航空団が飛行安全褒章を受賞した。ところが、21飛所属の#147号機が訓練終了後の帰途、右脚が出なくなった。T-2/F-1は胴体着陸が禁止されているためパイロットは脱出、機体は放棄されて失われ、最初の消耗機となった。


これにより、[[2004年|平成16年]]度末の時点で、T-2は第8航空団と飛行開発実験団に7機を残すのみとなった。以後減少の一途を辿って、[[2006年]][[3月2日]]に飛行開発実験団に配備されていたT-2特別仕様機の107号機が[[岐阜基地]]でラストフライトを行って、運用を終了した{{Sfn|久野|2006}}。
[[1980年]](昭和55年)[[2月6日]]、[[F-86 (戦闘機)|F-86F]][[ブルーインパルス]]の最終展示飛行が[[入間基地]]にて実施され、T-2も6機による展示飛行を行った。また、松島基地にて模擬視界装置シミュレーターの運用を開始、矢本海浜緑地公園開園記念に5機による展示飛行を実施した。


=== アグレッサーとブルーインパルス ===
=== アグレッサーとブルーインパルス ===
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[[1988年]](昭和63年)、最終号機(#196)を第22飛行隊が受領し、生産は終了した(全96機)[[1989年]]([[平成]]元年)[[3月22日]]にも飛行教導隊所属の#135がT-2同士の空中格闘訓練中に接触、墜落して乗員2名が死亡。この事故を受けて教導隊は当初の予定よりも早い[[1990年]](平成2年)[[4月12日]]に[[F-15 (戦闘機)|F-15DJ]]に更新された。[[1991年]](平成3年)[[7月4日]]には訓練飛行中のブルーインパルス2機(#112・#172)が宮城県金華山沖で墜落してパイロット2名が殉職、同年の航空祭には不参加となった。[[1992年]](平成4年)に訓練を再開したが、6機での展示飛行の再開には3年を要した。なお、同年には量産初号機(#105)が退役し、三沢基地に恒久展示されることとなった。
[[1988年]](昭和63年)、最終号機(#196)を第22飛行隊が受領し、生産は終了した(全96機)[[1989年]]([[平成]]元年)[[3月22日]]にも飛行教導隊所属の#135がT-2同士の空中格闘訓練中に接触、墜落して乗員2名が死亡。この事故を受けて教導隊は当初の予定よりも早い[[1990年]](平成2年)[[4月12日]]に[[F-15 (戦闘機)|F-15DJ]]に更新された。[[1991年]](平成3年)[[7月4日]]には訓練飛行中のブルーインパルス2機(#112・#172)が宮城県金華山沖で墜落してパイロット2名が殉職、同年の航空祭には不参加となった。[[1992年]](平成4年)に訓練を再開したが、6機での展示飛行の再開には3年を要した。なお、同年には量産初号機(#105)が退役し、三沢基地に恒久展示されることとなった。

ブルーインパルスは[[1994年]](平成6年)に再復活し、直後の8月に来日した[[F-16 (戦闘機)|F-16C]][[サンダーバーズ]]との競演では、比較的地味に見える課目ながら、当時の規定の範囲内で最良の飛行を行い、目の肥えた観客に強い印象を残した。[[1995年]](平成7年)[[12月10日]]の[[那覇空港|那覇基地]]航空祭の展示飛行で有終の美を飾る予定であったが、地元との調整に難航し、[[12月3日]]の浜松基地祭が最後となった。[[12月8日]]にブルーインパルス最終訓練を松島基地にて実施、[[12月22日]]に戦技研究班は解散となった。同日、第11飛行隊(ブルーインパルス)が発足し、[[1996年]](平成8年)から[[T-4 (練習機)|T-4中等練習機]]に変更された。


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=== 退役へ ===
== 派生型 ==
; XT-2
[[ファイル:T-2 107.jpg|thumb|300px|最後まで残ったT-2 #107(特別仕様機)]]
: 試作機。4機製作(#101・103:前期型、#102・#104:後期型)
[[ブルーインパルス]]は[[1994年]](平成6年)に再復活し、直後の8月に来日した[[F-16 (戦闘機)|F-16C]][[サンダーバーズ]]との競演では、比較的地味に見える課目ながら、当時の規定の範囲内で最良の飛行を行い、目の肥えた観客に強い印象を残した。[[1995年]](平成7年)[[12月10日]]の[[那覇空港|那覇基地]]航空祭の展示飛行で有終の美を飾る予定であったが、地元との調整に難航し、[[12月3日]]の浜松基地祭が最後となった。[[12月8日]]にブルーインパルス最終訓練を松島基地にて実施、[[12月22日]]に戦技研究班は解散となった。同日、第11飛行隊(ブルーインパルス)が発足し、[[1996年]](平成8年)から[[T-4 (練習機)|T-4中等練習機]]に変更された。
; T-2(前期型)
: 武装と火器管制レーダー装置を搭載しない、訓練課程前半に使用する機体。俗にT-2Aともいう(#105 - #124、#147 - #156)
; T-2(後期型)
: 機関砲と火器管制レーダー装置を搭載した、後期訓練に使用する戦技訓練機。俗にT-2Bともいう(#125 - #146、#157 - #196)
; T-2特別仕様
: [[攻撃機|支援戦闘機]]のモデル機(#106、#107を改修)
; FS-T2改
: 支援戦闘機計画の呼称
; F-1
: 量産型支援戦闘機(77機)


; T-2CCV
上述の通り、本機の開発は超音速戦闘機のパイロットを育成するには超音速練習機が必須であるという当時の認識によるものであった。実際には超音速機を用いていても音速を突破する機会は稀であり、後年その認識は必ずしも正しくなかったと考えられている。そのため、練習機専任機に音速突破性能を付与することは非効率であるとされ、飛行教育体系が変更されたことにより、超音速機としての「高等練習機」の後継機は開発されなかった。現代機の速度性能をフルに発揮する高等訓練は、実際の戦闘機の複座型([[F-15 (戦闘機)|F-15DJ要撃戦闘機]]や[[F-2 (航空機)|F-2B戦闘機]])によって行われることとなった。
: 運動能力向上研究機(試作機#103を改造)


[[2000年]](平成12年)[[3月22日]]、1機のT-2が宮城県女川の山林に墜落、乗員1名が死亡した。女川[[原子力発電所|原発]]の至近であったことから、[[日本共産党]]などが抗議する。また、この年は、[[C-1 (輸送機)|C-1輸送機]]や[[T-4 (練習機)|T-4練習機]]の墜落が相次ぎ、空自にとって災厄の年となった。

[[2001年]](平成13年)[[3月16日]]には第22飛行隊の飛行訓練が終了、飛行無事故60094時間を達成した。[[3月17日]]に式典を催し、[[3月27日]]に第22飛行隊は結成23年で解隊された。T-2初号機は[[2002年]](平成14年)[[10月18日]]にラストフライトを迎えた。[[2004年]]3月末で教育系統から外れ、松島基地でのT-2訓練も終了した。第21飛行隊はF-2Bが配備される為、2002年(平成14年)[[4月1日]]に「臨時F-2教育飛行隊」が設置され、[[2003年]](平成15年)3月末でT-2は退役、更新された。

現役最後の機体は[[岐阜基地]]の飛行開発実験団に配備されていたT-2特別仕様機の#107で、[[2006年]](平成18年)[[3月2日]]に退役した。

== 発展 ==
=== 支援戦闘機 ===
=== 支援戦闘機 ===
[[ファイル:F-1Support fighter01.jpg|thumb|250px|F-1支援戦闘機(岩国基地)]]
[[ファイル:F-1Support fighter01.jpg|thumb|250px|F-1支援戦闘機(岩国基地)]]
{{main|F-1 (航空機)}}
[[ファイル:T-2 CCV.jpg|thumb|250px|CCV研究機(2008年)]]
T-2は当初から[[支援戦闘機]]([[戦闘爆撃機|戦闘攻撃機]])改造できるように開発されたであり、次期支援戦闘機は'''FS-T2改'''と呼れていた。[[1973年]](昭和48年度に第四次防衛力整備計画で2機の試作が認められたため、生産ラインにあったT-2の6号機(59-5106)と7号機(5107)をFS-T2改のプロトタイプ(T-2特別仕様機)として開発することとなった。プロトタイプ#107は[[1975年]](昭和50年)[[6月3日]]に初飛行、#106は[[6月7日]]に飛行した。その後、2機は飛行実験団と防衛庁技術研究本部において7月から翌[[1976年]](昭和51年)3月まで研究がなされ、[[11月12日]]に部隊使用められて、'''[[F-1 (航空機)|F-1支援戦闘機]]'''の名が付けられた。
T-2の開発にあたって当初から[[支援戦闘機]]([[戦闘爆撃機]])への改造も念頭おかれており、XT-2一号機の開発が一段落すると、T-2を元に支援戦闘機の試作機に改造する設計作業が開始された{{Sfn|神田|2018|pp=36-51}}。
の支援戦闘機は'''FS-T2改'''と呼称されており、[[1973年|昭和48年]]度に第四次防衛力整備計画で2機の試作が認められたため、生産ラインにあったT-2の6号機(59-5106)と7号機(5107)をFS-T2改のプロトタイプ(T-2特別仕様機)として開発することとなった。プロトタイプ#107は[[1975年]](昭和50年)[[6月3日]]に初飛行、#106は[[6月7日]]に飛行した。その後、2機は飛行実験団と防衛庁技術研究本部において7月から翌[[1976年]]3月まで研究がなされ、[[11月12日]]に部隊使用が降りて、'''[[F-1 (航空機)|F-1支援戦闘機]]'''の名が付けられた{{Sfn|久野|2006}}


=== CCV研究機 ===
=== CCV研究機 ===
[[ファイル:T-2 CCV.jpg|thumb|250px|CCV研究機(2008年)]]
[[防衛庁]][[技術研究本部]](技本)が将来の戦闘機開発に必要な要素の研究を実施する為に用いた機体。CCVは Control Configured Vehicle の略で、[[運動能力向上機]]と称する。コンピュータ制御により機体に見かけ上の静安定を作る事により、運動性が著しく向上する。
[[防衛庁]][[技術研究本部]](技本)が将来の戦闘機開発に必要な要素の研究を実施する為に用いた機体。CCVは Control Configured Vehicle の略で、[[運動能力向上機]]と称する。コンピュータ制御により機体に見かけ上の静安定を作る事により、運動性が著しく向上する。


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技術は将来の次期支援戦闘機FSX([[F-2 (航空機)|F-2]])に利用できると考えられていたが、FSXは[[アメリカ合衆国|米国]]との共同開発で[[F-16 (戦闘機)|F-16]]をベースにすることになったので、技術を生かしきることはなかった。しかし、当初輸入としていたフライト・コントロール・システムは、T-2CCVで確立した技術を採用している(米議会によるF-16のFBW[[ソースコード#備考|ソースコード]]の供与拒否でFSXが開発中止にならなかったのは、T-2CCVの成果が一応あったので、独自開発することができたためだとされている)。
技術は将来の次期支援戦闘機FSX([[F-2 (航空機)|F-2]])に利用できると考えられていたが、FSXは[[アメリカ合衆国|米国]]との共同開発で[[F-16 (戦闘機)|F-16]]をベースにすることになったので、技術を生かしきることはなかった。しかし、当初輸入としていたフライト・コントロール・システムは、T-2CCVで確立した技術を採用している(米議会によるF-16のFBW[[ソースコード#備考|ソースコード]]の供与拒否でFSXが開発中止にならなかったのは、T-2CCVの成果が一応あったので、独自開発することができたためだとされている)。

== バリエーション ==
; XT-2
: 試作機。4機製作(#101・103:前期型、#102・#104:後期型)
; T-2(前期型)
: 武装と火器管制レーダー装置を搭載しない、訓練課程前半に使用する機体。俗にT-2Aともいう(#105 - #124、#147 - #156)
; T-2(後期型)
: 機関砲と火器管制レーダー装置を搭載した、後期訓練に使用する戦技訓練機。俗にT-2Bともいう(#125 - #146、#157 - #196)
; T-2特別仕様
: [[攻撃機|支援戦闘機]]のモデル機(#106、#107を改修)
; FS-T2改
: 支援戦闘機計画の呼称
; F-1
: 量産型支援戦闘機(77機)
{{main|F-1 (航空機)}}
; T-2CCV
: 運動能力向上研究機(試作機#103を改造)


== 諸元・性能 ==
== 諸元・性能 ==
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}}
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== 登場作品 ==
== 登場作品 ==
{{Main|F-1/T-2に関連する作品の一覧}}
{{Main|F-1/T-2に関連する作品の一覧}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|last=赤塚|first=聡|year=2006|chapter=T-2フォトアルバム|title=三菱 T-2|series=世界の傑作機 No.116|pages=|publisher=文林堂|isbn=978-4893191397|ref=harv}}
* 月刊『JWings』 - [[イカロス出版]]
* {{Cite book|和書|last=赤塚|first=聡|year=2006|chapter=学生パイロットから見たT-2|title=三菱 T-2|series=世界の傑作機 No.116|pages=87-89|publisher=文林堂|isbn=978-4893191397|ref={{SfnRef|赤塚|2006b}}}}
* {{Cite book|和書|last=石澤|first=和彦|year=2006|chapter=F-1/T-2の心臓、「アドーア」解剖|title=三菱 F-1|series=世界の傑作機 No.117|pages=54-61|publisher=文林堂|isbn=978-4893191410|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=神田|first=國一|year=2018|title=主任設計者が明かす F-2戦闘機開発|publisher=[[並木書房]]|isbn=978-4890633791|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=久野|first=正夫|year=2006|chapter=航空自衛隊におけるT-2の運用|title=三菱 T-2|series=世界の傑作機 No.116|pages=66-71|publisher=文林堂|isbn=978-4893191397|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=鳥養|first=鶴雄|year=2006|chapter=国産超音速練習機T-2の設計とその技術|title=三菱 T-2|series=世界の傑作機 No.116|pages=18-33|publisher=文林堂|isbn=978-4893191397|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=防衛庁技術研究本部|year=1978|title=防衛庁技術研究本部二十五年史|ncid=BN01573744|chapter=航空自衛隊装備品関係|pages=131-170|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last1=日高|first1=堅次郎|last2=上原|first2=祥雄|last3=大村|first3=平|last4=今江|first4=久光|year=1978|title=超音速高等練習機(XT-2)の開発|journal=[[日本航空宇宙学会]]誌|volume=26|issue=294|pages=336-352|doi=10.2322/jjsass1969.26.336|ref=harv}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2019年9月1日 (日) 14:12時点における版

三菱 T-2

T-2高等練習機の最終号機(岩国基地で撮影)

T-2高等練習機の最終号機(岩国基地で撮影)

T-2は、日本で開発された超音速ジェット機。日本が初めて開発した超音速機であり、航空自衛隊で、戦闘機の一歩手前の訓練のための高等練習機として用いられた。また支援戦闘機戦闘爆撃機)であるF-1の原型にもなっている。大抵は「ティーツー」と呼ばれ愛称は無い。

来歴

超音速高等練習機の検討

航空自衛隊では、第1次F-XとしてF-104Jを導入し、1962年より配備を開始していた。同機は、従来用いられてきたF-86FF-86Dとは隔絶した性能を備えていたことから、転換教育のため、急遽、複座型のF-104DJも導入された。しかし、戦闘機に習熟したパイロットはF-104DJでの教育だけで十分だったものの、T-33A練習機での課程を終えたばかりの新人パイロットにとって、F-104DJはあまりに高度であった[1]

このことから、T-33Aから複座型戦闘機への橋渡しをする超音速練習機の導入が検討されるようになり、T-38A/BおよびTF-104が候補機とされた。1965年9月、航空幕僚監部人事教育部の鈴木教育課長を団長とする調査団を派米し、4週間に渡ってアメリカ空軍の教育体系を調査した。この結果、一度はT-38Bが選定されて、第3次防衛力整備計画より導入を開始する計画とされた[2]

しかし当時、技術研究本部の守屋富次郎本部長は、「日本はこの機会に超音速機を開発しなければ、永遠に開発できなくなる」と主張していた[3]。また当時の松野防衛庁長官は装備の国産化を志向していたこともあり、1965年末には、国産機の採用を検討するように指示された。これに対し、航空自衛隊は、国内開発では時間がかかることを危惧していたことから、3次防では「つなぎのT-X」として海外の機体を導入し、4次防からは国産T-Xを導入することが計画された。その後、1969年に、第2次F-Xとして複座のF-4EJの導入が決定されると、F-4の後席要員に機種転換教育の役割を兼ねさせることになり、「つなぎのT-X」のための予算はF-4EJの購入費に転用された[2]

XT-2の開発

昭和42年度予算では国産T-X開発の第一歩となる基本設計のための委託設計費が認められており、同年7月には、航空幕僚長から防衛庁長官に対して要求性能が上申された。1968年2月には、技術研究本部長に対して基本設計命令が下された。開発される機体は「超音速高等練習機」とされ、2番めの国産練習機としてXT-2と識別符号が付された。昭和41年度末には三菱重工業と三社グループから開発計画案が提出されており、評価検討の結果、1967年9月5日には三菱の案が採択された。またこのプロジェクトの国家的意義を考慮して、三社グループおよび新明和工業も協力者として指定された[4]

10月16日、三菱重工業では、協力企業からの技術者を加えて開発チーム(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team, ASTET)を組織し、設計面での体制を確立した。チームリーダーとなった三菱重工の池田研爾第2技術部長のみが大戦中に烈風などの開発に参加していたが[3]、他のメンバーは全員が戦前・戦中の航空機開発を経験していない戦後派であった。1968年3月15日の計画審査ののち、モックアップ審査と基本設計審査を経て細部設計に移行し、1969年4月末でASTETのメンバーは現会社に復帰して、以後の細部審査は製造担当会社で行われた[1]

1971年4月28日に1号機がロールアウトし、7月20日に初飛行し、11月19日の30回目の飛行で音速を突破した[4][1][注 1]。その後、更に3機の試作機が制作されて、技術的試験および実用試験が同時実施されていった[5]。その成果を踏まえて、1974年7月29日に部隊使用承認を取得した[2]

設計

本機は、「F-86Fの後継機として戦技訓練が可能で支援戦闘の潜在能力をもち、かつ超音速飛行の能力を有する練習機」として開発された[5]

機体構造

T-2(26号機)全景

設計にあたってはF-104の影響が大きく、基本的な設計思想は「F-104で示された『揚力よりも余剰推力を利用して超音速での高G旋回を追求する』という思想を受け継ぎながら、F-104の難点であった『T型尾翼に起因する大迎え角でのピッチアップなどの安定操縦性の問題』『直線翼に起因する遷音速域での余剰推力不足』といった欠陥を取り除き、マッハ1.6までの遷音速・超音速域を有効に機動できるようにした飛行機」と要約された[1]

このような設計思想を反映して、主翼は21.17平方メートルと非常に小さいものとなった。翼面荷重は450 kgf/cm2と、同時期のジャギュア(400 kgf/cm2)より大きく、F-104(520 kgf/cm2)に近い値である。高翼配置で、翼平面形は前縁フィレットおよびドッグ・トゥースをもったクリップトデルタ翼とされ、前縁後退角は42.29度で、上反角降下を打ち消すため、9度の下反角が付された。構造は厚板テーパー外板の多桁構造とされた[5]。なお本機の横操縦には、MU-2以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、補助翼を廃してスポイラーを用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している[1]

水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気の耐熱のためチタニウム合金が用いられている。また、ロールアウトの時点では、胴体後部のベントラルフィンは付いていなかったが、最終設計の段階で低速高迎角時に方向安定が不足することがわかり、新たに装備された[5]

胴体の基本構造は、強力縦通材 (Longeronと円框で構成される通常のモノコック構造を採用している。断面は大略矩形で、マッハ1.4で全機抵抗が極力小さくなるように超音速エリアルールを採用している[5]。なお、主翼を薄くしたために燃料タンクが胴体内に移動したこともあって、胴体の太さを押さえて抵抗を削減することが設計の重大課題となった[1]

コクピットタンデム配置の複座で、訓練生が前席、教官が後席に搭乗する。前・後席で280ミリの段差がついている。射出座席はゼロ高度・ゼロ速度で脱出可能なウェーバ社ES-7Jで[5]、ダイセルがライセンス生産している[1]

なおコストダウンのため、車輪はF-104J/DJと同じものを使用している[5]

エンジン

エンジンとしては、J85-GE-15、GE1/J1A1、ヴァイパー21R、M45BS、J85/J1A、そしてアドーアが候補になり、特にアドーアとGE1/J1A1について詳細な検討が実施された[5]。防衛庁が発行した提案要求書ではアドーアの双発が指定されたが、開発が進展すると、再度、機種選定が問題になり、GE1/J1A1に加えてJ79を推す声も上がった[1]

開発にあたっては、基本運用パターンとして、対空戦闘訓練にあたるHi-Hi-Hiプロファイルと、対地攻撃訓練にあたるHi-Lo-Hiプロファイルが想定されていた。J79は高空・高マッハで推力が急増する特性があり、Hi-Hi-Hiプロファイルには適するのに対してHi-Lo-Hiプロファイルでは燃費が悪く、航続距離に大きな差が出ると考えられた。またGE1も、Hi-Lo-Hiプロファイルには必ずしも適合しないうえに、この時点で未完成で搭載機もなく、不確定要素が大きかった[注 2]。これに対し、アドーアは高等練習機および地上攻撃機の要求に合致するように開発されたことから、Hi-Lo-Hiプロファイルにも適合する特性を備えていた。これらの検討を経て、1968年2月、アドーアの双発配置が採択された[1]

ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア(RB.172/T.260)は、イギリスロールス・ロイス社とフランスチュルボメカ社が、SEPECAT ジャギュアのために共同開発したもので、2軸式のアフターバーナー付き低バイパス比ターボファンエンジンである。XT-2はジャギュアに続く2例目の搭載機であり、ジャギュアで搭載されていたアドーアMk.102をもとに石川島播磨重工業ライセンス生産したTF40-IHI-801(社内呼称: アドーアMk.801)が搭載された。当初は先行生産型である-801Xが搭載されていたが、1974年からは量産型である-801Aの納入が開始された[6]

ただしアドーアは開発後間もないエンジンであり、頻繁に改良や設計変更が行われたこともあって、多くの困難が生じた。ジャギュアとは運用も異なることもあり、日本特有の不具合も発生したことから、石川島播磨重工では、ロールス・ロイスとも協議しながら日本独自の改善策を講じて問題を解決していった。また生産性についても、同社流に改善して大幅にコストダウンしたものも多かった。これらの経験は、その後、F-15Jプラット・アンド・ホイットニー F100F-2ゼネラル・エレクトリック F110のライセンス生産でも活かされた[6]

塗装

機体配色は、後期型が基本的にグレー一色(水平尾翼、レドームおよびエンジン周辺の無塗装部等を除く)で塗装されていたのに対し、前期型はグレーを基本にして機首、垂直尾翼全面、主翼と水平尾翼の翼端が視認性向上を目的としてオレンジの蛍光色で塗装されていた。教導隊がアグレッサー(仮想敵機)として使用した機体は、同じ理由でオレンジの部分が機体別に黒・緑・黄・茶で塗装されており、また、機首下面に擬似コックピットが描かれている。

ブルーインパルスの機体色は一般公募したもので、女子高校生のグループが提案したものをベースとして、青を基本に白と水色の帯が入る。

また、築城基地第6飛行隊や、三沢基地第3飛行隊第8飛行隊には、F-1戦闘機と同様の迷彩塗装や標記を施した機体もあった。

装備

T-2は、戦闘操縦基礎課程(前期課程)用の前期型と、戦闘操縦課程(後期課程)用の後期型の2種類に大別できる。後期型は戦技課程に対応して、J/AWG-11火器管制レーダーと光学照準器、JM61 20mm機関砲を搭載し、胴体下のハードポイントには訓練弾ディスペンサーの装備も可能である[2]。ただし後に、シラバスの変更などで、T-2運用部隊での空対地射爆撃が行われなくなったため、訓練弾ディスペンサーの装備はごく短期間で終了した[7]

J/AWG-11は国産初の火器管制レーダーであり、使用周波数はKuバンドアンテナスロットアンテナをアンテナ素子としたプレーナアレイ式とされた[4]。のちにF-1支援戦闘機で搭載されたJ/AWG-12火器管制システム (FCS) のような精密な投下計算機能は備えていないものの、基本的なオペレーションは可能である[7]

なお前期型ではこれらの戦技課程用の装備を搭載していないため、機関砲の砲口の開口がなく、周囲は単なる膨らみとなっており、外見上の特色となっている。また、前期型は後期型と重量、重心を合わせるため、各種機器の代わりにダミーウェイト(重り)を搭載している[7]

運用史

最後まで残ったT-2 #107(特別仕様機)

1971年にXT-2試作1号機が初飛行に成功すると、昭和47年度予算で、さっそくT-2第1次量産計画として20機が計上された。しかし同年度は第4次防衛力整備計画の初年度にあたる年であったが、ドルショックによる経済不況を受けて決定が先送りされたため、T-2を含む主要装備が正式決定を待たずに予算に組み込まれる事となり、野党の反発を招いた。このため、実際の発注は1973年3月31日まで先送りされることになった。量産初号機(通算5号機)は1975年2月12日に初飛行し、3月26日に防衛庁に納入された。その後、生産が進み、1988年3月7日に最終号機(#196)が納入されて、全96機の生産が終了した[2]

1974年8月には、第4航空団松島基地)内にT-2企画室が設置されて、T-2のテストパイロットを教官、試作機を教材として、教官パイロットの養成が開始され、1975年3月に臨時T-2訓練隊が発足した。その後、量産機の配備が進展すると、1976年3月25日に臨時第21飛行隊となり、同年10月1日には25機の定数が充足して、正式に第21飛行隊となった。また1978年4月には第22飛行隊も新編された[2]

松島基地でのT-2教育は1976年4月より開始された。これにより、レシプロエンジンT-34での第1初級操縦課程、ジェットエンジンT-1A/Bでの第2初級操縦課程、T-33Aでの基本操縦課程ののち、本機による戦闘操縦基礎課程・戦闘操縦課程を経て、F-104やF-4EJの機種転換操縦課程に進むという教育課程となった。また訓練を担当する飛行隊のほかにも、F-1を配備する各飛行隊にも2機ずつが配備され、要員の錬成訓練や訓練支援、連絡などに用いられた[2]

その後、老朽化に伴って用途廃止が開始され、第22飛行隊は2001年3月16日に特別塗装の160号機でラストフライトを行って、27日に解散式を行った。また2002年4月1日からは松島基地にF-2Bの配備が開始され、第21飛行隊のT-2にF-2Bの訓練を併用する体制となった。その後、F-2Bの配備拡大に伴って、2004年3月29日、第21飛行隊はF-2Bに機種転換し、T-2による教育は終了した[2]。第21・22飛行隊あわせて30万7千飛行時間、1,450人の戦闘機パイロットが育成された[7]。以後は、T-7での初級操縦課程を経て、T-4での基本操縦課程を終了すると、すぐにF-15DJF-2Bといった戦闘機の複座型での訓練に移行する課程となった[8]

これにより、平成16年度末の時点で、T-2は第8航空団と飛行開発実験団に7機を残すのみとなった。以後減少の一途を辿って、2006年3月2日に飛行開発実験団に配備されていたT-2特別仕様機の107号機が岐阜基地でラストフライトを行って、運用を終了した[2]

アグレッサーとブルーインパルス

ブルーインパルスT-2

1981年(昭和56年)、一般公募によるT-2によるブルーインパルスのデザイン最終審査が行われ、都立高校の女子高生4人組の案が採用された。同年には第4航空団20000時間飛行無事故達成により第3級賞状受賞。一方、22飛の#122号機が築城基地を離陸後に墜落、パイロット2名が殉職した。築城基地には12月17日航空総隊飛行教導隊が編成され、T-2が6機、T-33Aが2機配備され、アグレッサー(仮想敵機)として運用された。

1982年(昭和57年)、松島基地の第21飛行隊内に戦技研究班を編成、T-2型機による2代目ブルーインパルスの運用が開始され、7月25日には松島基地航空祭にて初公開した。ブルーインパルスの機体配色は前記のように一般公募された女子高校生のグループの案をベースに手が加えられ、青地に白と水色のストライプが入るものとなった。「1982年戦技競技会」にT-2飛行教導隊がフェイカーとして初参加した。第4航空団が飛行安全褒章を受賞。しかし、11月14日浜松基地航空祭にて展示飛行中のブルーインパルス4番機(#174)が墜落炎上し、パイロット1名が殉職すると共に住民が負傷した。これによりT-2による飛行訓練が一時停止された。ブルーインパルスの展示飛行再開はさらに1年を要した。

1986年(昭和61年)は松島基地の滑走路工事を行うため、第21飛行隊は築城基地、戦技研究班は新田原基地、第22飛行隊主力は小松基地、分遣隊は浜松基地に移動訓練実施した。年内に滑走路工事終了し、移動訓練は完結した。同年、飛行教導隊所属の#171号機が帰投中に墜落、パイロット1名殉職した。さらに、同じく飛行教導隊所属#167が訓練中に墜落、パイロット2名が殉職した。

1988年(昭和63年)、最終号機(#196)を第22飛行隊が受領し、生産は終了した(全96機)1989年平成元年)3月22日にも飛行教導隊所属の#135がT-2同士の空中格闘訓練中に接触、墜落して乗員2名が死亡。この事故を受けて教導隊は当初の予定よりも早い1990年(平成2年)4月12日F-15DJに更新された。1991年(平成3年)7月4日には訓練飛行中のブルーインパルス2機(#112・#172)が宮城県金華山沖で墜落してパイロット2名が殉職、同年の航空祭には不参加となった。1992年(平成4年)に訓練を再開したが、6機での展示飛行の再開には3年を要した。なお、同年には量産初号機(#105)が退役し、三沢基地に恒久展示されることとなった。

ブルーインパルスは1994年(平成6年)に再復活し、直後の8月に来日したF-16Cサンダーバーズとの競演では、比較的地味に見える課目ながら、当時の規定の範囲内で最良の飛行を行い、目の肥えた観客に強い印象を残した。1995年(平成7年)12月10日那覇基地航空祭の展示飛行で有終の美を飾る予定であったが、地元との調整に難航し、12月3日の浜松基地祭が最後となった。12月8日にブルーインパルス最終訓練を松島基地にて実施、12月22日に戦技研究班は解散となった。同日、第11飛行隊(ブルーインパルス)が発足し、1996年(平成8年)からT-4中等練習機に変更された。

派生型

XT-2
試作機。4機製作(#101・103:前期型、#102・#104:後期型)
T-2(前期型)
武装と火器管制レーダー装置を搭載しない、訓練課程前半に使用する機体。俗にT-2Aともいう(#105 - #124、#147 - #156)
T-2(後期型)
機関砲と火器管制レーダー装置を搭載した、後期訓練に使用する戦技訓練機。俗にT-2Bともいう(#125 - #146、#157 - #196)
T-2特別仕様
支援戦闘機のモデル機(#106、#107を改修)
FS-T2改
支援戦闘機計画の呼称
F-1
量産型支援戦闘機(77機)
T-2CCV
運動能力向上研究機(試作機#103を改造)

支援戦闘機

F-1支援戦闘機(岩国基地)

T-2の開発にあたっては、当初から支援戦闘機戦闘爆撃機)への改造も念頭におかれており、XT-2一号機の開発が一段落すると、T-2を元に支援戦闘機の試作機に改造する設計作業が開始された[3]

この支援戦闘機型はFS-T2改と呼称されており、昭和48年度に第四次防衛力整備計画で2機の試作が認められたため、生産ラインにあったT-2の6号機(59-5106)と7号機(5107)をFS-T2改のプロトタイプ(T-2特別仕様機)として開発することとなった。プロトタイプ#107は1975年(昭和50年)6月3日に初飛行、#106は6月7日に飛行した。その後、2機は飛行実験団と防衛庁技術研究本部において7月から翌1976年3月まで研究がなされ、11月12日に部隊使用承認が降りて、F-1支援戦闘機の名が付けられた[2]

CCV研究機

CCV研究機(2008年)

防衛庁技術研究本部(技本)が将来の戦闘機開発に必要な要素の研究を実施する為に用いた機体。CCVは Control Configured Vehicle の略で、運動能力向上機と称する。コンピュータ制御により機体に見かけ上の静安定を作る事により、運動性が著しく向上する。

CCVの研究は三菱を主契約企業として1978年(昭和53年)に始まった。T-2 #103号機の機体をベースにして、機首に垂直1枚・水平2枚のカナード翼を取り付け揚力中心位置を変更しているほか、主翼のスポイラーを廃止して主翼後縁フラップをフラッペロンに変更、デジタル・フライ・バイ・ワイヤ・システムを使用して、動翼をコンピューターで制御する機構をもたせている。1983年(昭和58年)8月9日に初飛行、10月14日小牧飛行場にて一般にも公開した。 しかし、その後のCCVモードでの初飛行の際、脚上げ直後から始まったロール振動が発散を始め、最終的に左右に90度近くなった。パイロットは咄嗟に脚下げとMBU(Mecha­nical Back UP)システムへの切り替えを行い、緊急事態を宣言して着­陸した。原因はフライ・バイ・ワイヤ・システムのロールゲインを100%にしたところ、パイロット誘導振動(PIO)を励起したものであった。この時期、フライ・バイ・ワイヤ・システムを搭載した最新鋭機で似たような事故が多発していた。最終的にこの問題はロールゲインの設定値を調整する事で解決した。 この模様はテレビカメラで撮影されており、全国ネットの報道番組で放映される事となった。

1984年(昭和59年)に技本が受領し、実験航空団による各種支援のもと、操縦性応答の最適化など基礎実験が2年にわたり延べ90時間行われた。機体は1987年(昭和62年)に返還され、T-2CCVの部隊使用が認可された。

技術は将来の次期支援戦闘機FSX(F-2)に利用できると考えられていたが、FSXは米国との共同開発でF-16をベースにすることになったので、技術を生かしきることはなかった。しかし、当初輸入としていたフライト・コントロール・システムは、T-2CCVで確立した技術を採用している(米議会によるF-16のFBWソースコードの供与拒否でFSXが開発中止にならなかったのは、T-2CCVの成果が一応あったので、独自開発することができたためだとされている)。

諸元・性能

出典: 防衛庁技術研究本部創立25周年記念行事企画委員会 編「航空自衛隊装備品関係」『防衛庁技術研究本部二十五年史』防衛庁技術研究本部、1978年、131-170頁。 NCID BN01573744 

諸元

性能

  • 最大速度: 1958.4 km/h (マッハ1.6) ※高度36,000 ft時
  • 失速速度: 231.5 km/h (125ノット)
  • 戦闘行動半径: 300海里以上
  • 実用上昇限度: 15,240 m (50,000 ft)
  • 上昇率: 10,668 m/分 (35,000 ft/分)
  • 離陸滑走距離: 914 m (3,000 ft)
  • 着陸滑走距離: 610 m (2,000 ft)

武装

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登場作品

脚注

注釈

  1. ^ 音速を突破したのは1971年11月19日午前10時17分で、これにより、日本は、アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・スウェーデンについで6番目に超音速機を開発した国となった[2]
  2. ^ GE1についての日本側の危惧は的中し、結局、それ自体は実用化されなかった。ただし技術的には、後のYJ101、そしてF404の源流となった[1]

出典

参考文献

  • 赤塚, 聡「T-2フォトアルバム」『三菱 T-2』文林堂〈世界の傑作機 No.116〉、2006年。ISBN 978-4893191397 
  • 赤塚, 聡「学生パイロットから見たT-2」『三菱 T-2』文林堂〈世界の傑作機 No.116〉、2006年、87-89頁。ISBN 978-4893191397 
  • 石澤, 和彦「F-1/T-2の心臓、「アドーア」解剖」『三菱 F-1』文林堂〈世界の傑作機 No.117〉、2006年、54-61頁。ISBN 978-4893191410 
  • 神田, 國一『主任設計者が明かす F-2戦闘機開発』並木書房、2018年。ISBN 978-4890633791 
  • 久野, 正夫「航空自衛隊におけるT-2の運用」『三菱 T-2』文林堂〈世界の傑作機 No.116〉、2006年、66-71頁。ISBN 978-4893191397 
  • 鳥養, 鶴雄「国産超音速練習機T-2の設計とその技術」『三菱 T-2』文林堂〈世界の傑作機 No.116〉、2006年、18-33頁。ISBN 978-4893191397 
  • 防衛庁技術研究本部 編「航空自衛隊装備品関係」『防衛庁技術研究本部二十五年史』1978年、131-170頁。 NCID BN01573744 
  • 日高, 堅次郎、上原, 祥雄、大村, 平、今江, 久光「超音速高等練習機(XT-2)の開発」『日本航空宇宙学会誌』第26巻第294号、1978年、336-352頁、doi:10.2322/jjsass1969.26.336 

関連項目

外部リンク