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*プロ初安打は[[1993年]][[8月8日]]、[[広島市民球場]]での[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦・[[山田勉]]から
*プロ初安打は[[1993年]][[8月8日]]、[[広島市民球場]]での[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦・[[山田勉]]から
*2000本安打にリーチをかけてから、[[4月12日]]の対横浜戦で、2000本目の安打を放つまで、18打席連続無安打であった。これは2000本安打にリーチをかけてからの連続無安打記録の歴代最長である。
*2000本安打にリーチをかけてから、[[4月12日]]の対横浜戦で、2000本目の安打を放つまで、18打席連続無安打であった。これは2000本安打にリーチをかけてからの連続無安打記録の歴代最長である。
*その間の打席は
**[[4月6日]]対巨人(東京ドーム)'''センター前ヒット''' - センターフライ - レフトフライ([[木佐貫洋]]) - 三振([[越智大祐]])
**[[4月8日]]対中日(甲子園)レフトフライ - 四球 - セカンドゴロ([[中田賢一]]) - サードゴロ([[小林正人]])
**[[4月9日]]対中日(甲子園)四球 - 三振([[チェン・ウェイン]]) - 三振([[山井大介]]) - セカンドフライ(小林正人)
**[[4月11日]]対横浜(横浜スタジアム)三振 - 三振 - センターフライ([[三浦大輔]]) - 三振([[マット・ホワイト]])
**[[4月12日]]対横浜(横浜スタジアム)セカンドゴロ - 四球 - センターフライ - '''ライト前ヒット'''([[寺原隼人]])
<!--* なお、4月11日は阪神移籍後の金本にとっては本塁打の「特異日」で、2003年には移籍初HR、翌2004年には本拠地甲子園でHRを放つ等、試合が行われた4月11日には必ず本塁打が出ているが、2008年は無安打に終わった。-->


== CM出演 ==
== CM出演 ==

2008年5月13日 (火) 09:50時点における版

金本 知憲
Tomoaki Kanemoto
阪神タイガース #6
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市
生年月日 (1968-04-03) 1968年4月3日(56歳)
身長
体重
180 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1991年 4位
初出場 1992年6月2日
年俸 5億5,000万円
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

金本 知憲(かねもと ともあき、1968年4月3日 - )は、日本プロ野球選手阪神タイガース所属。外野手。ファンやマスコミからはアニキ(兄貴)、平成の鉄人西の番長などと呼ばれる。友人からの愛称はかねもっちゃんカネ。背番号は6

来歴・人物

プロ入り前

小学校4年のときリトルリーグ・広島中央リトルで本格的に野球を始める。しかし厳しい練習についていくことが出来ず1年で退部。その後は町内会のソフトボールや中学校の野球部で軟式野球を続けた。広島・広陵高等学校に進学し硬式野球部入部。外野手三塁手投手として2年からクリーンアップに座り、自身は高校通算20本塁打の活躍をするが、広陵高校の低迷期、特に投手力が弱い時代で甲子園出場は叶わなかった。西村龍次は同期入部だったが、すぐに寒川高校に転校した。金本の1学年上が桑田真澄清原和博のKKコンビで、PL学園の黄金期の桑田・清原は、当時多くの高校球児にとって憧れの存在であり、金本も広陵入学前の春休みに甲子園に清原を見に行くなど、高校・大学時代は清原マニアであったことを自認している。現在は親友としても知られており、金本の清原への心酔ぶりは、新井貴浩の金本へのそれにも通じるものがある。

その後、東京中央大学の野球部セレクション受験するが不合格(本当は法政大学に進学を希望していた)、浪人時代にヤクルトの入団テストを受けたがまたも不合格。失意中、知人から当時は全くの無名だった東北福祉大学を紹介され、野球推薦ではなく一般受験で合格。恩師として名前を挙げる故・伊藤義博監督の指導でその才能を開花させた。1年からレギュラーを獲得し佐々木主浩(後に横浜大洋入団)、大塚孝二(後に西武入団)、矢野輝弘(後に中日入団)、斎藤隆(佐々木と同じく後に横浜大洋入団)、浜名千広(後にダイエー入団)らと共に活躍。1988年第37回大学選手権では決勝で近畿大学に惜しくも逆転負けを喫するが、準優勝に貢献した。

以降、主力として4年連続で大学選手権に出場、翌1989年の第38回大会では連続優勝した近畿大学に再び3回戦で敗れ、第39回大会でも決勝戦まで勝ち残ったものの小池秀郎高津臣吾川尻哲郎ら好投手を擁する亜細亜大学に敗れてしまう。しかし、4年次の第40回大会(1991年)では3度目の決勝戦進出を果たし、関西大学を相手に延長17回の熱戦を繰り広げ、ついに念願の初優勝。左手首のはく離骨折という大怪我を抱えながら勝ち越しの2点タイムリーを放った金本は、東北福祉大初優勝の立役者となった。

同年、第20回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。この時、後にチームメイトとなる桧山進次郎と同部屋になり、「人に話せないようなことを色々した」(本人談)らしい。この時の縁がきっかけで、阪神入団後、雑誌で2人の対談が行われた。なお、この部屋で洗濯係をしていたのが後に中日に入団し、その後ソフトバンクに移籍した鳥越裕介であるが、鳥越は「金本さんにめちゃくちゃいじめられた」と後に語っている。

広島時代

1991年ドラフト斉藤肇の外れ4位で地元の広島東洋カープに入団。入団後の2年間は芽が出ず、年下の前田智徳江藤智らに追い抜かれ当時の打撃コーチからも、ころがして足を活かせと言われる程、非力だった。外野の守備に関しても地面に向かって投げる悪癖があり『モグラ殺し』のあだ名を付けられた。本人曰く「クビを覚悟していた」。それらの悔しさから筋トレを本格的に取り入れ、長い年月をかけて肉体改造を行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1994年後半から頭角を現し17本塁打を放つなどレギュラーに定着。1995年ベストナインを獲得した。以降、1996年に初の3割をマークすると、1997年には2年連続3割、そして初の30本塁打を達成、1998年には不振に陥るが、1999年には初の全試合出場、そして4月24日にはサイクルヒットを達成するなど復活、主に5番打者として活躍していた。

2000年、それまで不動の4番打者だった江藤が巨人へ移籍した事により4番に抜擢され、史上7人目のトリプルスリーを達成、2001年には39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立、同年の128四球は個人年間四球の歴代5位(これ以前は個人年間四球記録は王貞治が10位までを独占していた)と、主砲として大活躍、広島にとってなくてはならない存在となる。

FA権行使を巡る苦悩と決断

2002年オフ、FA権の行使に最後まで悩んだ金本は、球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1000万円減で構いませんが、FAの再契約金を100万円でいいですから出して下さい。広島の後輩のために、FA残留という形を作っていきたい」と相談した。しかし広島球団の財政事情が厳しい事もあって、FA権行使による再契約金高騰の前例が作られる事を懸念し、FA権を行使した選手との再契約を認めない広島球団側の方針は最後まで変わらなかった。

当時の山本浩二監督らの強い慰留もあったが、広島球団側の受身な経営姿勢と改革意識の欠如、そして何より自身が球団一の高年俸選手ということで冷たくあしらわれたことに憤慨した事が、思い悩んでいた金本のFA権行使を大きく後押しし、最終的に権利行使を決意したと言われる。

そして阪神の星野仙一監督(2002年当時)に金本曰く「半ば脅されて」阪神へ移籍する。(もちろん、これは金本流のジョークである。)なお、星野は後に「非公式に阪神よりも高い年俸でオファーをしていた球団は他にもあったのに、金本はよくウチに来てくれた」と語り、金本本人も「オレは大阪から東への球団には行かない」と中日、巨人等のオファーを断っていたと語る。また左打者と言うこともあり、浜風で不利な甲子園球場に難色を示していたが、星野に「異常気象でセンターからの浜風になった」と言われ、半信半疑ながら納得したと言う。

阪神時代

阪神の球団改革の一端として移籍した金本は、同時に移籍した下柳剛と共に長年チーム内に蔓延していたぬるま湯体質の是正の旗手となった。2003年は開幕から3番打者として定着。2番打者・赤星憲広との絶妙のバランスを作り出し、赤星の盗塁王獲得に貢献すると共に、自身も主軸として活躍した。前年度より1番に定着していた今岡誠と並んで、彼らが打てば負けないという流れが出来上がり、そのまま一気に優勝へなだれ込んだ。赤星の盗塁をアシストする意図もあってつなぎの打撃に徹していたため、成績的にはそれほど良くなかったものの、間違いなく優勝の立役者の1人として、ファンからも絶大なる信頼を得た。日本シリーズでは4本塁打(史上9人目、10度目)、3試合連続本塁打(史上4人目)、1試合2本塁打(史上21人目、26度目)と3つのシリーズタイ記録を達成したが、日本一にはあと一歩及ばなかった。

2004年、星野の後任として就任した岡田監督の意向で、開幕から4番として起用されると、球際に強く球界一と言われるほどのスイングスピードという本来の特徴をフルに発揮、長打を量産するようになる。7月29日の中日戦において左手首に死球を受け軟骨損傷という重傷を負いながらも、自分の物より軽い久慈照嘉のバットを借りて出場を続け(ほとんど片手でヒットを打つことも多かった)8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立すると、36歳にして打率、本塁打、打点の3部門で自己新記録(本塁打は1999年と同数)を達成、そして悲願の初タイトルとなる打点王を獲得する。

2005年は、6月10日甲子園球場での北海道日本ハムファイターズ戦の1回裏に入来祐作から本塁打を放ち、「全球団から本塁打」という記録を達成した。これは史上4人目の記録だが、過去の3人はいずれもセ・パ各4球団以上を渡り歩いて記録している。金本はこの年から導入された交流戦のおかげで、広島と阪神の2球団しか所属していないにもかかわらずこの記録を達成することができた。6月28日には米子市民球場での広島戦で、かつての同僚黒田博樹投手から本塁打を放ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけた(日本記録は山内一弘の39球場、2007年に田中幸雄が33球場で本塁打を放ったため現役1位の記録は一旦譲ったが、田中幸雄は同年限りで引退し再び現役1位となった)。さらに、8月11日中日ドラゴンズ戦では1000試合連続出場、8月25日(対広島戦)では1000得点、9月9日(対広島戦)では1000打点を達成すると、10月4日には40本塁打を達成。1986年バース以来、日本人選手では1985年掛布雅之以来の大台で、甲子園のラッキーゾーン撤廃後は初めての快挙であった。チームも優勝し、打率、本塁打、打点の3部門で前年をさらに上回る自己新記録を達成、MVPにも選ばれた。

2006年4月9日には大阪ドームでの対横浜ベイスターズ戦で、広島時代から続けてきた連続フルイニング出場において、カル・リプケンの記録を抜いて、"904試合連続フルイニング出場"の世界新記録を達成した。この記録は現在も継続中である(ちなみに連続イニング出場数では3月31日にリプケンの8243イニング連続出場を更新)。更に、同じカード・会場の同年8月15日の試合で1000試合に伸ばした。

2007年は最終的に31本塁打95打点を記録したものの低打率にあえぎ、打率.265という成績に終わった(.270に届かなかったのは1998年以来)。この年の阪神はチーム打率が12球団ワーストで得点も12球団中11位であったため、主砲である金本の不振は殊更目立ち、レフトしか守れない守備や走塁面が目に見えて衰えていることや、シーズン中に左膝半月板損傷という大怪我をしたにもかかわらず、2004年同様強行出場を続けたものの成績は振るわなかったことから、「記録のために出場している」といった非難に加えて「出場し続けることによるチームへの弊害」や「限界説」も囁かれた。なお、故障した左膝はシーズン終了後の10月に人生初という手術を受け無事成功。

右投げ左打ちの打者としては、日本プロ野球最多のホームランを放っている。

2008年、手術した左膝のリハビリテーション優先のため1月後半からアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。2000本安打まで残り13本、400本塁打まで残り6本でシーズン開幕。4月6日の巨人戦(東京ドーム)・第1打席で木佐貫洋からセンター前に1999本目の安打を記録して以来3試合19打席無安打だったが、4月12日の対横浜戦(横浜スタジアム)・第4打席にて寺原隼人からライト前にタイムリーヒットを放ち、史上37人目の通算2000本安打を達成した。この日は広島時代から金本を「アニキ」と慕っていた同僚の新井貴浩も1000本安打(投手・寺原隼人)を達成。試合も3-6で勝利し、試合後のヒーローインタビューは金本・新井二人揃ってのものとなった。

年齢を重ねるごとに成長を続ける大選手だが、何より特筆すべきはその人間性、「ケガと言わなければケガじゃない」、「プロは立ち止まったら終わりだ、現状に満足するな」という発言からも読み取れるプロ意識の高さである。金本や下柳の影響で同期の矢野、年下の今岡、赤星らが多少の怪我では欠場しなくなったほどに全試合出場への意欲を燃やすようになり、その後入団した鳥谷敬も全試合出場を目標に掲げるなど、星野の球団改革を成功させる一端を担う存在になったと言っても過言ではない。2007年の推定年俸は、5億5000万円となり日本人選手としてプロ野球界トップとなった。なお、この時球団から提示された金額は6億5000万円であったが、金本は球団スタッフの待遇改善を求めて1億円を返上している。

藤本敦士新井貴浩をいじめているなどと言われるが、ただジャレて遊んでいるだけで、特に藤本は、やられたらやり返している。

出囃子(テーマソング)

タイトル・表彰・記録

タイトル

表彰

  • 日本シリーズ敢闘賞:1回(2003年)
  • 優秀JCB・MEP賞:5回(1996年、2000年、2004年、2006年、2007年)
  • セパ交流戦優秀選手賞(日本生命賞):1回(2005年)
  • 月間MVP:2回(1996年9月、2005年5月)
  • オールスターMVP:2回(1996年第3戦、2003年第2戦)

記録

  • サイクルヒット:1回(1999年4月24日)
  • トリプルスリー:1回(2000年)
  • 1186試合連続フルイニング出場(1999年7月21日 - 継続中 2007年シーズン終了時)※世界記録。
  • 1331試合連続出場(1998年7月10日 - 継続中 2007年シーズン終了時)※歴代2位。
  • 1002打席連続無併殺打(2000年5月12日 - 2001年9月28日)※日本記録。
  • シーズン128四球(2001年)※歴代5位。 
  • 1試合5四球(2001年10月11日)
  • 1イニング5打点(2003年5月31日)
  • 日本シリーズ4本塁打(2003年)※シリーズタイ記録。
  • 日本シリーズ3試合連続本塁打(2003年)※シリーズタイ記録。
  • オールスター出場:9回(1995年 - 1997年、2000年、2001年、2003年 - 2006年)
  • ヒット数1999本から2000本になるまでの打席数(19打席)
  • 2000本安打:2008年4月12日、対横浜ベイスターズ(横浜スタジアム)、7回表、寺原隼人から

年度別打撃成績

年度 チーム


























O
P
S
1992年 広島 10 5 3 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 2 0 .000 .250 .000 .250
1993年 42 89 9 17 3 0 4 32 9 0 0 0 5 1 16 4 .191 .242 .360 .602
1994年 90 257 41 69 14 2 17 138 43 2 3 2 31 0 64 3 .268 .345 .537 .882
1995年 104 369 72 101 15 1 24 190 67 14 0 3 61 5 78 5 .274 .381 .512 .896
1996年 126 423 84 127 18 2 27 230 72 18 0 7 77 4 104 2 .300 .407 .544 .951
1997年 133 465 77 140 17 2 33 260 82 13 0 4 80 3 104 8 .301 .404 .559 .963
1998年 133 499 77 126 33 3 21 228 74 9 0 1 68 5 94 2 .253 .347 .457 .804
1999年 135 502 84 147 21 2 34 274 94 10 0 1 70 3 92 3 .293 .382 .546 .928
2000年 136 496 96 156 20 2 30 270 90 30 0 4 80 8 101 2 .315 .415 .544 .959
2001年 140 472 101 148 28 1 25 253 93 19 0 6 128 9 69 1 .314 .463 .536 .999
2002年 140 540 80 148 30 2 29 269 84 8 0 2 60 2 99 5 .274 .348 .498 .846
2003年 阪神 6 140 532 94 154 24 2 19 239 77 18 0 2 93 5 89 6 .289 .399 .449 .848
2004年 138 521 92 165 32 4 34 307 113 5 0 8 79 5 100 10 .317 .406 .589 .995
2005年 146 559 120 183 35 3 40 344 125 3 0 2 98 3 89 6 .327 .429 .615 1.044
2006年 146 545 85 165 24 4 26 275 98 2 0 5 79 5 98 5 .303 .393 .505 .897
2007年 144 533 74 141 17 3 31 257 95 1 0 7 81 3 113 9 .265 .361 .482 .843
通算成績 1898 6805 1187 1987 331 33 394 3566 1216 152 4 54 1091 61 1309 71 .292 .392 .524 .916

エピソード・その他

  • 少年時代に博成(ひろなり)から知憲に改名している。
  • 所属していたリトルリーグのチーム、広島中央リトルに野村弘樹(元横浜ベイスターズ)と元お笑いタレント山本圭一(元極楽とんぼ)がいた。山本の実家には当時の写真が保管されている。
  • ヤクルト高津臣吾は、同期で高校時代のライバルチーム県立広島工業の投手。練習試合も含め何度か対戦があるが、高津の方が控えで直接対決は無い。金本は広島時代、高津と一緒に飲んだりする事があった。
  • 「振り遅れているのに引っ張りの打球が打てる」というタイプの選手であり、フルスイングに至っては「命を切り売りしている」とまで言われる程のスイングスピードを誇る。肉体年齢は25歳前後(実年齢は40歳)。年中筋肉トレーニングに励み、体脂肪率は8~9%を維持している。
  • 鉄人と言われている彼だが、実際はシーズン中に骨折をしていることもあり、満身創痍のまま試合に出ていることが多い。しかしプロ意識の高さからか、体調管理を怠らない。一方で、そんな状態でも出場して結果を出す姿こそ鉄人だという逆説的な見方もある。
  • 自らを「ストイックなタイプではない」と評す。ビールは水のように飲む酒豪で、好物の芋焼酎「森伊蔵」の酒量もさほど減らず、ヘビースモーカー禁煙もすっかり諦めたという(しかし2007年より再び禁煙に挑戦している)。しかしサプリメント鍼灸、上記の猛トレーニングなどによる体調管理が肉体を支えている(ちなみにアンチエイジング治療も受けている)。
    • タバコ問題首都圏協議会によって行われる「タバコやめてネ」コンテスト(2006年)において、禁煙してほしい有名人の中で1位の常連である和田アキ子以上の得票を得て1位にランクインした[1]
  • 阪神移籍時に過去の阪神の背番号6番を付けていた藤田平和田豊の背番号を引き継げて嬉しいと話し、阪神ファンの心を掴んだ(しかし金本本人は本当は5番を付けたかったと話しており、このとき阪神への移籍が取り沙汰されていた中村紀洋のため6番にしたという)。また2003年の日本シリーズでのサヨナラホームランで一躍阪神ファンの人気が上昇した。成績が素晴らしいだけでなく、「阪神らしさ」を持った選手として、移籍選手でありながらオールドファンからの人気もある。
  • ランナーがいる場面ではよく敬遠の対象となる。また次打者に対して全幅の信頼を示しており、シーズン決起集会で2003年、濱中に「俺は四球や繋ぐバッティングしかしない」「打てなかった時だけ俺が決める」2005年は今岡に「今年はお前が打点王を取れ」などと声を掛けた。
  • これほどまでに出場に拘る姿勢は、カープ時代に試合前の練習中、当時ドラゴンズの監督であった星野とカープの監督であった達川の世間話をたまたま耳にしたことがきっかけになっている。と星野SDが著作で明らかにした。
  • 2004年に左手首を故障した際は、普段弱音などを吐かない金本も「この時だけは記録のために出続けた」とシーズン後語っている。もっとも、死球を受けた後は52試合で打率.381、9本塁打と打率に関してはむしろ上がっており、ある打席ではバットがボールにぶつかる瞬間に故障している左手をバットから放して右手一本でライト前ヒットや本塁打を放ったこともある。
  • 後輩選手に対して苦言を呈する事は滅多にないが、2007年7月8日中日戦で1アウト満塁から金本のヒットで生還しなかった二塁ランナーの鳥谷敬に対し「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」「足の速い若い選手が緊張感とか集中力がないのかなと思う」と珍しく叱咤し、翌日のスポーツ紙各紙では大きく取り上げられた。
  • 1999年オフより、鹿児島市最福寺で護摩行をするのが恒例。火柱のすぐそばで不動真言を唱える。ちなみに同寺には新井貴浩も行っている。
  • 守備に関しては大きな特徴はなくスローイング、守備率、守備範囲いずれも左翼手として悪くはないが、グラブ捌きやクッションボールの処理が粗末なシーンが見られることもある。福本豊によれば「上手くはないがそれを補おうとしている姿勢は見える。」とのこと。
  • 広島時代からのチームメイトの新井貴浩藤本敦士中村豊秀太らを子分にして、よくいたずらの標的にしている。彼らとのやり取りはファンの中でも名物化している。最近では林威助狩野恵輔庄田隆弘などの若手への打撃指導に対しても門戸を開くなど、現役選手でありながらも指導者的立場も見せ始めている。
  • FA移籍するにあたって、かつて広島から巨人にFA移籍した川口和久江藤智が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため、自分も広島市民球場での試合では野次られるのではないかと恐れていたが、阪神移籍後の広島市民球場での初の試合では、逆に声援がおこり、安堵したと語っている。
  • 金本が阪神に移籍する以前に阪神の監督をしていた野村克也(現楽天監督)の著書内で、「金本の獲得でタイガースは大きく変わった」「今のプロ野球界で本当にチームリーダーと呼べる存在なのは金本だけだ」と高い評価を受けている。
  • 広島時代から東京ドームはよく本塁打を放っていて相性が良い。それは阪神でも変わらず、阪神移籍後初の本塁打、250号はいずれも東京ドームでだった。
  • 阪神を変えたと言われるプロ意識の高さ、ここぞと言う場面での一打の多さなどで「アニキ」の愛称で親しまれるが、実生活では4人兄弟の末っ子である。
  • 公私混同を非常に嫌がるタイプであり、2001年の結婚時も夫人を写さないことなどを条件に取材制限をしたほどである(但し一度週刊誌に撮られて同誌に公開されたことがある)。
  • 非常に明るく、茶目っ気のある性格で、多くのチームメイトにいたずらをすることでも有名。和田豊コーチによると、「調子の良さに比例していたずらも増える」とのこと。そのいたずらの矛先は、2006年までヘッドコーチであった平田勝男にまで向けられた事があったらしい。またインタビューでのジョークも度々行う。連続試合フルイニング出場の世界新記録の時でも「セレモニーを見て、『オレ引退するのか?』と思った」と発言している* インターネットで一時「金本は後輩とご飯を食べに行く時は割り勘にするほどケチである」という噂が流れた。しかし金本は、2004年から打ったホームランの本数に応じて自費で熱海の温泉旅館への家族旅行招待などのプレゼント企画を行っており、決してケチではない。ちなみにこの噂は普段金本に「かわいがられている」藤本敦士がいたずらのつもりで広めたものなので、信憑性はない。なお、2007年からは虎バン主義の企画で、阪神甲子園球場で予定されている公式戦での本塁打を1本打つごとにハワイ家族旅行をプレゼントしている。
  • 以前の応援歌の替え歌として「食事は割り勘金本リボ払い それ行け偽善者金本ケチだ金本」という歌詞がある。これを赤星憲広がテレビで披露したこともある。この時一緒に出演していた金本は「何人かで一緒に食事に行ったときに、冗談で『みんなあと○百円ずつ』と言ったら、真に受けられてしまって本当にみんな数百円ずつ払ってきて、それからケチと言われるようになった」という主旨の弁解をしていた。収録終了後、金本は歌を披露した赤星と藤本を正座させ叱ったとされる。
  • 2006年11月15日に兵庫県から兵庫県スポーツ優秀選手特別賞を受賞している。
  • ファイテンとアドバイザリー契約を結んでいる。また2006年12月から日産自動車ADバンの雑誌広告、ラジオCMに出演している。
  • 男性タレント島田紳助と仲が良いことが2005年FNSの日で明らかになった。島田は桧山進次郎などの阪神の選手達との交友歴が長い。
  • 阪神甲子園球場では「金本兄貴のスタミナハラミ丼」という弁当が販売されている。金本が東北福祉大学時代によく食べていたという弁当を本人の協力をもとに再現したものだが、大学野球部のルームメイトであった大塚光二からは「食べているのを見たことない。アイツそんな金あったのか?嘘くさー!」[2]と言われている。
  • 自身が通っているスポーツジム「アスリート」の金本専用ベルトには、広島時代の背番号10と共に名前が書いてあるが、名前の上のフリガナが「ヒクソン・グレイシー」である。
  • アスリートに来ると必ずと言っていいほど「広島風お好み焼き」を食べる。
  • ビール焼酎どっちが好き?」と言う質問に対して、金本本人は「どっちも。これだけははずせない(笑)」と答えていた。
  • プロ初安打は1993年8月8日広島市民球場でのヤクルト戦・山田勉から
  • 2000本安打にリーチをかけてから、4月12日の対横浜戦で、2000本目の安打を放つまで、18打席連続無安打であった。これは2000本安打にリーチをかけてからの連続無安打記録の歴代最長である。

CM出演

脚注

  1. ^ 2006『「タバコやめてネ」コンテスト』結果発表!第1位は金本選手に!
  2. ^ e2 by スカパー!e2プロモチャンネル内で同弁当が紹介されたときの発言。

関連項目

外部リンク

先代
A.ラミレス
セ・リーグ打点王
2004年
次代
今岡誠
先代
川上憲伸
セ・リーグMVP
2005年
次代
福留孝介
先代
-
交流戦優秀選手(セ・リーグ)
2005年
次代
佐藤充