崇峻天皇
崇峻天皇 | |
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時代 | 古墳時代 |
先代 | 用明天皇 |
次代 | 推古天皇 |
誕生 |
553年? 大和国 |
崩御 | 592年12月12日? |
漢風諡号 | 崇峻天皇 |
和風諡号 | 長谷部若雀天皇 |
諱 | 泊瀬部 |
父親 | 欽明天皇 |
母親 | 蘇我小姉君 |
夫人 |
小手子 河上娘 布都姫 |
子女 |
蜂子皇子 錦代皇女 |
皇居 | 倉梯柴垣宮 |
崇峻天皇(すしゅんてんのう、553年?〈欽明天皇14年〉 - 592年12月12日?〈崇峻天皇5年11月3日〉)は、日本の第32代天皇(在位:587年9月9日?〈用明天皇2年8月2日 〉- 592年12月12日?〈崇峻天皇5年11月3日〉)。
諱は泊瀬部(はつせべ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある[1]。漢風諡号の「崇峻天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。 日本史のなかで、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。
系譜
欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の娘の小姉君で、敏達天皇・用明天皇・推古天皇の異母弟にあたる。
系図
27 安閑天皇 | 28 宣化天皇 | 29 欽明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石姫皇女 (欽明天皇后) | 上殖葉皇子 | 30 敏達天皇 | 31 用明天皇 | 33 推古天皇 | 32 崇峻天皇 | 穴穂部間人皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大河内稚子媛 (宣化天皇后) | 十市王 | 押坂彦人大兄皇子 | 春日皇子 | 大派皇子 | 難波皇子 | 聖徳太子 (厩戸皇子) | 来目皇子 | 当麻皇子 | 殖栗皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火焔皇子 | 多治比古王 | 茅渟王 | 栗隈王 | 山背大兄王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比嶋 〔多治比氏〕 | 35 皇極天皇 37 斉明天皇 | 36 孝徳天皇 | 美努王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有間皇子 | 橘諸兄 (葛城王) 〔橘氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
即位
大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。
当時、皇位を継承できる皇族は複数人いたが、泊瀬部皇子以外(用明天皇の子の厩戸皇子と、敏達天皇の子の竹田皇子・難波皇子・春日皇子)は全員が1世代下の人物であった。旧世代(今回の場合は欽明天皇の子)が残存している状態で世代交代を行うと、皇統を巡って紛争が起こりやすいため、とりあえずの応急措置として泊瀬部皇子を即位させる「世代内継承」は穏当な選択であった[2]。
暗殺
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2023年2月) |
崇峻は、欽明や敏達、用明のように、磯城嶋や磐余といった倭王権成立以来の伝統的な地ではなく、倉梯という山間部に宮を造営し、蘇我氏やマヘツキミ層と距離を取った。そして、崇峻と蘇我氏やマヘツキミ層は、いくつかの問題で分裂を招いてしまった[2]。支配者層全体の利害を体現できず、大臣の蘇我馬子や前大后の豊御食炊屋姫尊との対立が顕在化したとき、権力基盤の弱い大王が支配者層の同意の下で殺害されるというのは、十分に起こりうる事態であった。しかもその要因は、后妃問題、宗教政策、地方支配、対外戦争も含めた外交問題のいずれか、もしくは全てであり、王権の存立の根幹に関わる問題であった可能性が高い[2]。
1つ目の齟齬は、崇峻が大伴糠手子の娘の小手子との間に蜂子皇子をもうけたことである。後日談の中で、「蘇我嬪・河上娘」の名が見えるが、彼女が后妃記事に見えないのは、崇峻の皇子女を産んでいないか、正式な妃でなかったか、実在の人物でなかったという可能性がある。いずれにせよ、崇峻の主要な后妃が小手子であったのは確かである。大王家との身内的結合を権力の基盤の第一としていた蘇我氏にとって、崇峻が大伴氏の娘と結婚したことは権力の危機であった。蜂子皇子が皇位を継承すれば、蘇我氏は外戚の地位を確保できなくなり、大王家の嫡流が崇峻系に移ってしまう可能性があった[2]。
2つ目の齟齬は、588年に飛鳥寺が建立されたことである。物部守屋が亡くなったとはいえ、いまだ仏教が全面的に受容されているとは言い難いこの時期の本格的な大伽藍寺院の建立には、賛同しない勢力も当然ながら存在したはずであり、その1人が崇峻であった可能性がある。「日本書紀」には、崇峻と仏教との関わりを示す記事は存在しない[2]。
3つ目の齟齬は、589年に崇峻が東山道・東海道・北陸道に使者を派遣して、蝦夷国境・海浜国境・越国境を観させたという政策である。これが国造国の境界の画定を伴うものであることから、国造制の誕生を東国にもたらした契機であり、地方支配の1つの画期であったと考えられる。倭王権による地方支配が進展すれば、それを快く思わない勢力が存在したことも推察できる[2]。
4つ目の齟齬は、591年の任那復興軍の派遣である。「日本書紀」によれば、崇峻自らが発議し、マヘツキミ層がそれに同意して、「二万余」の兵が筑紫に出陣し、新羅を問責する使者が発遣された。崇峻としてみれば、欽明以来の悲願を自分の代に一気に解決しようとしたのであろうが、隋の中国統一という国際情勢の中では時代にそぐわない政策であり、これに反対する勢力も存在したと考える[2]。
592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。天皇が暗殺されたのは、確定している例では唯一である[注 2]。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。近年、歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにもかかわらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している[3]。
天皇の暗殺により、蘇我氏はさらに権力を掌握していくこととなる。複数の男子の皇位継承者がいる中で一番年長の押坂彦人大兄皇子の生母(広姫)は蘇我氏出身ではなかったこと、蘇我氏と皇室との間で政治的対立を避け融和を図る為にも、崇峻天皇の異母姉にあたりかつ生母が同じく蘇我氏出身である母方の従姉にあたる推古天皇が、日本史上初の女性天皇として即位することとなった[4]。
陵・霊廟
崇峻天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
「日本書紀」の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、「今日、東国の調を進る。」という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」とある。「延喜式」諸陵式に「無陵地幷無戸」とある。「陵墓要覧」では所在地を奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする[5]。
現在、崇峻天皇陵は、倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。同地に、崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、陵地として決定したという。1876年(明治9年)、奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、1889年(明治22年)に現在の陵に改定された。
ただし、根拠には乏しいといい[6]、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ[7]。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照表
脚注
注釈
出典
- ^ 「古事記」崇峻天皇段に、「弟(おと)、長谷部(はつせべ)の若雀(わかささぎ)天皇、倉橋(くらはし)の柴垣(しばかき)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、四歳(よとせ)なりき。(分注、壬子の年の十一月十三日に崩りたましき。)御陵は倉橋の岡の上にあり」とある。倉橋の柴垣宮は、奈良県磯城郡。
- ^ a b c d e f g 倉本一宏「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中央公論新社、2015年)
- ^ 佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:「国学院大学研究紀要」39号、2001年/所収:佐藤「日本古代王権の構造と展開」吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6)
- ^ 歴代の女性天皇について(2022年4月5日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
- ^ 坂本太郎他校注「日本書紀(四)」(岩波書店、2002年)384頁下段
- ^ 和田萃「飛鳥の諸宮と大藤原京」(和田萃・安田次郎・幡多鎌一弘・谷山正道・山上豊「奈良県の歴史」山川出版社、2003年 54頁)
- ^ 飛鳥資料館 - 蘇我氏の墓|崇峻天皇の墓
関連項目
外部リンク
- 倉梯岡陵 - 宮内庁