神峯山寺

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神峯山寺
161126 Kabusanji Takatsuki Osaka pref Japan05s3.jpg
本堂
所在地 大阪府高槻市原3301-1
位置 北緯34度53分51.4秒 東経135度36分31.8秒 / 北緯34.897611度 東経135.608833度 / 34.897611; 135.608833座標: 北緯34度53分51.4秒 東経135度36分31.8秒 / 北緯34.897611度 東経135.608833度 / 34.897611; 135.608833
山号 根本山
宗旨 天台宗
本尊 毘沙門天
創建年 伝・天武元年(683年
開山 伝・役小角
開基 開成皇子
正式名 根本山 神峯山寺 寶塔院
札所等 新西国三十三箇所14番
役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道 64番
文化財 木造聖観音立像(重要文化財)
木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)
公式HP 神峯山寺
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神峯山寺(かぶさんじ)は、大阪府高槻市原に位置する天台宗仏教寺院である。山号は根本山(こんぽんざん)。日本で最初に毘沙門天が安置された霊場といわれており、本尊である毘沙門天、双身毘沙門天(そうじんびしゃもんてん)、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)はいずれも秘仏。初夏は新緑、晩秋は紅葉の名所として知られる。新西国三十三箇所第14番、役行者霊蹟札所神仏霊場巡拝の道第64番。

概要[編集]

仁王門と狛犬

神峯山寺は高槻市の中心部より北へ約6 km、原地区という田園風景が広がる農村部山間の山寺である。行政区は大阪府であるが、地理的には京都盆地の西側、西山連山から続く最西端に位置する。敷地約100haのほとんどは山林で覆われ、一帯を総称して神峯山といい、都市近郊の貴重な原生林が現存。野鳥や草花などが多数確認できることから参拝者のほかにもハイカーやバードウォッチャーらの訪問も多い。

また、開山の祖とされる役小角(役行者)、中興の祖である開成皇子の像が境内に安置され、古来の皇室との緊密な関係は本堂の十六八重菊紋などで確認できる。また、かつて七高山と称された修験霊場の一角であり、修験者が使用した修行の道や滝、葛城山遥拝所を示す石標などが境内の各所に点在する。神峯山の参道入口には石造の鳥居が立ち、仁王門前には狛犬があるなど神仏混淆の風土が現在も見られる。

歴史[編集]

開山伝承[編集]

「神峯山寺秘密縁起」によれば、文武天皇元年(697年)に役小角が葛城山(金剛山)で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、神峯山寺に位置する場所にやってきた。そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角は伽藍を建立し毘沙門天を祀ったことが起源とされている。

さらに縁起によれば、刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町信貴山に安置されたと伝わっている。これら寺院の本尊は現在も毘沙門天であるが、この逸話はあくまで神峯山寺の縁起によるものであり関連は定かではない。

開山以後、神峯山寺は修験霊場として多くの修験者を迎え入れたとされ、同じく近畿の修験霊場として名高い比叡山比良山伊吹山愛宕山金峰山葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされている。

中興[編集]

宝亀5年(774年)、光仁天皇の子息であり桓武天皇の庶兄にあたる開成皇子が、勝尾寺(現・大阪府箕面市)から入山し、光仁天皇の命によって本堂を創建して住職となった。これを機に神峯山寺は天台宗仏教寺院となる。また光仁天皇の勅願所となって以降、神峯山寺は皇室に緊密な天台宗寺院となり、その関係は幕末まで続いていたとされる。境内には開成皇子の埋髪塔(五重塔)や、光仁天皇の御分骨塔(十三重塔)があり、日本天皇と皇室を表す十六八重菊の使用が認められ、各所に菊の紋章が見られる。

平安時代後期[編集]

平安時代後期に、天台宗僧侶であった良忍が開宗した融通念仏宗の源流が大原、鞍馬を通り神峯山寺へ伝わったとされ、神峯山寺秘密縁起4巻の冒頭にはその説話が残されている。

大治元年(1126年)の頃、摂津に橘輔元(たちばなのすけもと)という役人がおり、極めて裕福であったが七度の火災で家財がすべて失われ、輔元の父、子にわたる三代にわたっての病にかかるという苦しみを受けた。輔元は奥之院の毘沙門天の宝前でこの苦しみから救われるよう深く祈祷し、九頭龍滝に打たれるなど苦行を行ったとされている。そして輔元とその子息は、後に良恵、忍恵と名乗り、良忍の弟子となり神峯山寺の住職を継いだといわれる。

鎌倉時代以降[編集]

神峯山寺本尊・毘沙門天が武将による信仰を厚く受けていたのは、鎌倉時代末期からであったとされている。楠木正成が奉納したと伝わる殿中刀は現在も神峯山寺本堂に所蔵されており、室町幕府三代将軍・足利義満摂津守護代・三好長慶に仕えていた松永久秀や、豊臣秀頼の生母淀殿らによる寄進があった。これらは毘沙門天が戦いの神として崇拝されたことに起因するようだが、経緯は定かではない。

江戸時代[編集]

上方文化が栄えた元禄時代の頃より、神峯山寺は大坂商人から厚い信仰を受け巡礼地として栄えた。これは毘沙門天が七福神の一神であったことから、商売繁盛を祈願するために商人達が淀川を上り、三島江から神峯山寺まで歩いて参拝したことが記録されている。江戸時代の代表的な豪商である鴻池善右衛門もまた巡拝者の一人であり、三島江から神峯山寺参道にかけて十数か所に石造の道標を建立した。

神峯山寺は江戸時代に隆盛期を迎えた。最盛期には七つの堂に加え伽藍および僧坊が21か所、寺領は1,300石あり、奈良県生駒郡平群町にも飛地が存在したことが神峯山寺秘密縁起に記録されている。しかし、明和2年(1765年)に火災により本堂を消失して以降、安永6年(1777年)に再建されたものの、規模は徐々に縮小し、現在に至っている。

しかし、昨今の調査で宝塔院(本坊)にて徳川幕府2代将軍徳川秀忠から14代徳川家茂に至までの位牌が発見されるなど、江戸末期においても徳川将軍家との密接な関係があったことが確認されている。

幕末 - 明治[編集]

本堂にかかる「日本最初毘沙門天」の扁額は、伏見宮邦家親王の真筆であり、同時期には明治政府の要人であった有栖川宮熾仁(たるひと)親王が神峯山寺本坊の「宝塔院」と書いた真筆を奉納している。また有栖川宮熾仁親王の祖父母にあたる有栖川宮5代韶仁(つなひと)親王と宣子(のぶこ)女王の位牌は嶺峯院に祀られているなど、幕末から明治期にかけても皇族との関係が密接であったことを表している。

本尊[編集]

神峯山寺の本尊は3種の毘沙門天で構成されるという珍しい形態をとっており、それぞれ第一の本尊、第二の本尊、第三の本尊と称されている。いずれも秘仏だが、第二の本尊・兜跋毘沙門天のみ秋の大祭の折に開帳される。

第一の本尊、毘沙門天
毘沙門天を中尊とし、吉祥天(毘沙門天の妃または妹とされる)と善膩師童子(ぜんにしどうじ。毘沙門天の子とされる)を脇侍とする三尊形式をとり、本堂内陣中央に安置される。皇室幕府は国家安泰の神としてこの毘沙門天を厚く信仰した。また子授安産、家庭安穏の御仏としても利益があるとされる。
第二の本尊、兜跋毘沙門天
本堂奥内陣に安置される。福徳先勝の神として楠木正成松永久秀などの武将から、また商売繁盛の神として大坂商人からも厚い信仰を受けた。神峯山寺で年に一度行われる秋の大祭にて開帳され、その折にのみ拝観が可能である、
第三の本尊、双身毘沙門天
歴代住職の持仏として本堂中内陣の厨子に安置される。天台密教における双身毘沙門天の祈願作法は秘法で、天台本流の作法が正式に伝承されている。

境内[編集]

開山堂
本堂
仁王門よりなだらかな直線の参道を約100m上ったところにある。安永6年(1777年)に再建。上部には十六八重菊紋が見られる。堂内に3種の毘沙門天を安置する。
開山堂
現在の神峯山寺で最も高い場所にあり、役小角が伽藍を建立したとされる場所に位置する。本堂脇から急勾配の石造の階段を上る。堂内には役小角とその遣いの鬼・藍婆(らんば)、毘藍婆(びらんば)が安置されている。神峯山寺初寅会の折のみ開帳され、参拝が可能。
九頭龍滝
境内に存在し、かつては修験者の滝行に使用されていた。神峯山寺開山の縁起で伝わる「北方の光」は、九頭龍滝の飛沫であったとされる。
東堂
本堂の東側にあり、宇賀神王を本尊とする。如意輪観音龍神が安置されている。
勧請掛
山門である鳥居から仁王門までの中腹にある聖域を表すもの。
嶺峰院回向堂
境内中腹にあり、神峯山寺の阿弥陀信仰の起源となった阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)の身代わり仏が安置される。その両脇には有栖川宮5代韶仁(つなひと)親王と宣子(のぶこ)女王の位牌を安置。
十三重塔
本堂の西側奥に位置する観音堂の脇にある光仁天皇の分骨塔。さらにその奥には中興の祖である開成皇子の埋髪塔である五重塔がある。
釈迦堂
観音堂
化城院
嶺峰院

奥之院(北山本山寺)[編集]

現在の神峯山寺には奥之院は存在せず、北山本山寺がかつての奥之院「霊雲院」にあたる。本尊として毘沙門天(重要文化財)を安置。

文化財[編集]

重要文化財(国指定)[編集]

  • 木造阿弥陀如来坐像 - 1912年(明治45年)2月8日指定[1]
  • 木造聖観音菩薩立像 2躯 - 1912年(明治45年)2月8日指定[1]

市指定有形文化財[編集]

  • 神峯山寺文書 - 2013年(平成25年)7月25日指定[2]

その他[編集]

  • 伏見宮邦家親王真筆「日本最初毘沙門天」
  • 有栖川宮熾仁(たるひと)親王真筆「宝塔院」
  • 小松宮彰仁親王真筆
  • 開成皇子坐像
  • 役小角像
  • 天台大師坐像
  • 千手観音菩薩坐像
  • 十一面観音菩薩立像
  • 愛染明王坐像
  • 宇賀神王
  • 毘沙門天二十八使
  • 四天王
  • 十二天

信仰[編集]

毘沙門信仰[編集]

神峯山寺の毘沙門信仰は時代の変遷によって信奉者と祈願の内容が異なる点で興味深い。開山期は修験霊場聖地に鎮座する神として祀られ、平安期以降は皇室より国家安泰の勅願所に指定された。また鎌倉末期からは福徳先勝を祈願する武将達の信仰の対象となり、江戸時代には大坂商人による商売繁盛祈願の巡礼地でもあった。国家安泰の祈願は幕末・明治においても続いていたとされる。また最近では福徳先勝より派生して合格祈願の祈願所として初参りに訪れる大学受験者も見られる。

山岳信仰[編集]

役小角が開山した寺院であったことから、神峯山寺一帯は山岳信仰が色濃く残る場所であった。一帯の峯を総称する神峯山はご神体として信仰され、境内にある九頭龍滝はその龍の口であると言い伝えられていることなどから、神仏混淆の寺院として天台宗寺院とは異なる側面を持つ場所であることが分かる。現在も修験道を志す修験者が寺領で修行をする光景が見られる。

阿弥陀信仰[編集]

平安時代末期に融通念仏宗の源流が神峯山寺で伝播したことから、神峯山寺周辺は阿弥陀信仰が根付いた地域でもある。「病気平癒」などのご利益があるとされる阿弥陀如来(重要文化財)は現在も本堂に安置されており、融通念仏宗とも独自の交流がある。

自然[編集]

参道
天然記念物
野鳥
草木
90種以上の樹木と180種5万株の植生が生息するとされている。
紅葉
例年の見頃は11月下旬から12月上旬にかけてであり、境内にある約400本のモミジ紅葉する。また落葉樹が多数植生する神峯山一帯は、11月下旬に全山が紅葉し非常に美しいことでも知られている。

東海自然歩道[編集]

山門から仁王門にかけての参道の脇には東海自然歩道が並走しており、ハイカー達の中継地点にもなっている。

周辺寺院との関係[編集]

神峯山寺の北方に位置する北山本山寺はかつて神峯山寺奥之院霊雲院であったことが神峯山寺秘密縁起中にて記されており、さらに南方の南山安岡寺もまた縁起中に神峯山寺に関連する寺院であった事が記録されている。また、同じく北摂に位置する茨木市の神峯山(かぶさん)大門寺、賀峰山(かぶさん)忍頂寺もまた「かぶさん」の山号を持つことから、七高山の神峯山とは現在の神峯山寺のみを指すのではなく、これら寺院一帯の総称であったのではないかと推測される。

神峯山寺秘密縁起より[編集]

大阪府高槻市原にある寺。天台宗。根本山宝塔院と号す。本尊は毘沙門天文武天皇元年修験道の開祖といわれる役小角が葛城の峰から四方を望むと、北方の峰の頂が金色に輝いているのでその峰を来訪。ここが「拾芥抄」に見える七高山(比叡山比良山伊吹山愛宕山金峰山葛城山)の一つとされる同山であった。この時山の守護神金比羅童子に化して出現、小角は霊端と感じ伽藍を草創した。明王獄にある藍婆・毘藍婆の二神が守護する霊木を得て毘沙門天像を彫りたいという金比羅童子の願いにより小角は霊木を入手。この霊木で金比羅童子が毘沙門天像4体を造りあげると、3体がそれぞれ鞍馬山信貴山・北山(本山寺)に飛行。最初に造った1体が当地にとどまったので根本山と号したと伝える(神峯山寺秘密縁起/高槻市史3)。天平9年聖武天皇の勅を奉じて大般若経一部600巻を書写。同21年麓の原村に荘田800畝を賜給。国家安寧を祈る道場とされる。原村は平安期の天喜年間に大原荘と改称。奈良末期宝亀5年開成が神峯山寺に入り、奥之院霊雲院と本院宝塔院を建立し神峯山寺を中興。顕学衆徒のための遍照院賀称坊・円乗院喜多坊・観喜院東之坊・大乗院尾崎坊・蓮華院西之坊、修験蜜学の行人のための中之坊・岩倉坊・奥之坊・谷之坊・向之坊・下之坊などを置いた(同前・伽藍開基記/摂陽群談)。開成は光仁天皇の皇子で弥勒寺(現・箕面市粟生間谷の勝尾寺)を建立した僧(本朝高僧伝/仏教全書103)。宝亀年間に光仁天皇が神峯山寺に大般若経を転読させ、開山堂を建立して谷川の里の田200畝を施入したという。谷川はのち川窪と改称。平安期に入り延暦10年10月桓武天皇は原の荘田300歩を下賜して大般若経を読経させた(府誌5)。貞観2年文徳天皇が神峯山寺を訪れ神峯山房知羅に帰依し3か月逗留、元慶8年陽成天皇の勅で霊雲院・宝塔院の諸堂宇を修造し、落慶供養の導師として京都元慶寺の伝法阿闍梨位安然(阿覚大師)を招請、延喜年間醍醐天皇が病の時、神峯山房知羅の破五鈷を天皇に奉り、真筆を給わるなど歴代天皇から帰依を受けたという。崇徳天皇の時橘輔元という者が出家して良恵と称し融通念仏の良忍大念仏寺開山)の法を嗣いで平野大念仏寺2世となり、晩年神峯山寺に居住。その際念仏の回数をかぞえるために小豆を用い、それを庵のかたわらに散布したところ赤土となったので、ここを小豆坂と呼ぶようになったとする(同前)。この頃の寺領は、大原荘に500石、川窪村に50石、大沢村に50石、萩谷村に40石、大和国平群谷に350石、河内国交野に300石、合わせて約1,300石を所有。中世の寺歴は未詳の部分が多いが、戦国期の元亀2年12月20日高槻城和田惟長により当寺領・山林等を安堵され(神峰山寺文書/大日料10-7)、しだいに伽藍が修造された。天正年間高槻城主高山友祥(右近)に焼かれ堂宇を損失(摂陽群談)。その後慶長9年豊臣秀頼が諸堂を再建したという(府誌5)。江戸期に入り比叡山延暦寺末とされ、慶安2年将軍徳川家光から朱印地16石5斗余を給される(高槻市史4)。明和2年火災にあい、安永6年再建されたが、以降寺運は衰退(府誌5)。神峯山寺より北西2km程の本山寺山腹に所在の北山霊雲院本山寺は神峯山寺と創建時同一寺院で、神峯山寺がもとの里坊、本山寺が奥之院であったと推定される(高槻市史1)が、2寺の関係については未詳。原盆地から神峯山寺参道に入る所に京坂があり、この分かれ道に牛地蔵が置かれているが、昔京坂を越えて前島浜などに寒天や薪炭を運んだウシを供養したものという。現在寺宝として平安時代後期作と推定される脇侍をもつ木造阿弥陀如来坐像、平安時代後期作の木造聖観音菩薩立像2体(国の重要文化財)を所蔵。

御詠歌[編集]

  • 新西国三十三カ所大寿四番 御詠歌
    • 「かぶの山 すずしき音の かよひ来て 心のそこに ひびく滝つせ」
  • 近藤大道鶴僊大阿闍梨の御詠歌
    • 「何事も 心のままに かなうなり 北に向かいて 願えもろ人」
    • 「いのりても つきぬる事や なかるらん 神のあたうる 福のかずかず」
    • 「とおくとも まいれ人々 神峯山は 毘沙門天の 浄土なりけり」
  • パンフレットに掲載されている短歌
    • 「あしひきの 山ぎわもゆる 竜の尾の 桜吹雪は 野へと散るらむ」
    • 「瀧つ瀬の はやき千歳を 慈しみ 苔に響かむ ふる蝉時雨」
    • 「鱗雲 仰げばうつる 紅葉こそ 昔も今も 譬えん方なし」
    • 「立ち昇る 護摩の煙に 身を委ね かじかむ指に かかる白息」

札所[編集]

  • 新西国三十三箇所第14番
  • 役行者霊蹟札所
  • 神仏霊場巡拝の道第64番

交通アクセス[編集]

高槻市営バス
  • JR高槻駅北口より、市バス「原大橋」行き「神峯山口」下車、東へ徒歩約1.3km。

脚注[編集]

  1. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション”. 明治45年2月8日内務省告示第11号. 2015年12月28日閲覧。
  2. ^ 指定文化財”. インターネット歴史館. 高槻市. 2015年11月22日閲覧。

参考文献[編集]

  • 橋本章彦著『毘沙門天-日本的展開の諸相-』岩田書院 2008年
  • 田中久夫著『日本仏教史の研究』永田文昌堂 1986年
  • 『大阪府史』二巻(大阪府)1990年
  • 『神峯山寺秘密縁起』(神峯山寺所蔵)
  • 『広辞苑』第六版 岩波書店 2008年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]