四條畷神社
四條畷神社 | |
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![]() 拝殿 | |
所在地 |
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位置 | 北緯34度43分56.7秒 東経135度38分57秒 / 北緯34.732417度 東経135.64917度座標: 北緯34度43分56.7秒 東経135度38分57秒 / 北緯34.732417度 東経135.64917度 |
主祭神 | 楠木正行 他24柱 |
社格等 |
別格官幣社 別表神社 |
創建 | 明治23年(1890年) |
札所等 |
神仏霊場巡拝の道第61番(大阪第20番) なにわ七幸めぐり |
例祭 | 2月12日 |
地図 |
四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、大阪府四條畷市にある神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。
境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。
祭神[編集]
- 楠木正行(主祭神)
他、楠木一族の将士24柱を配祀している。
- 楠木正時、楠木正家、楠木正家子息
- 和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、和田紀六左衛門子息
- 大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息
- 金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息
- 河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部
歴史[編集]
河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。
明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ崇められるようになった。
それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。
同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、1889年(明治22年)12月16日に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され[1]、翌1890年(明治23年)に住吉平田神社の南隣の地に創建した。
当社創建以降、1895年(明治28年)に浪速鉄道が大阪市中心部から当社近くの四条畷駅まで開業するなどして四條畷神社周辺は大いに栄える事となり、所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併による)には「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」は甲可村の別称のようになって行った。1932年(昭和7年)に甲可村はついに四條畷村に改称するに至り、これが現市名にまで継承されている。同年には浪速鉄道から転じて国鉄路線となっていた片町線の四条畷駅以西において関西国鉄初の電車運転が開始されるなどして、四條畷神社創建をきっかけに周辺一帯は北河内地方随一の大市街地に発展してその賑わいは現在も続いている。
交通アクセス[編集]
脚注[編集]
- ^ 明治22年12月17日付官報(第1942号) 内務省告示第六十一号