美具久留御魂神社
美具久留御魂神社 | |
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![]() 下拝殿 | |
所在地 | 大阪府富田林市宮町3丁目2053 |
位置 |
北緯34度31分4.72秒 東経135度36分5.13秒座標: 北緯34度31分4.72秒 東経135度36分5.13秒 |
主祭神 |
美具久留御魂大神 (大国主命) |
社格等 |
式内社(小) 旧郷社 |
創建 | (伝)崇神天皇10年 |
別名 | 下水分社 |
例祭 | 10月第3金曜日 |
地図 |
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は、大阪府富田林市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。大阪みどりの百選に選定されている[1]。
祭神[編集]
美具久留御魂大神(大国主命)を主祭神とし、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)を配祀する。
左右殿に同じ神を祀る建水分神社を上水分社と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも称された。
歴史[編集]
創建[編集]
社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、出雲振根に杵築大社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。崇神天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」と宣託した。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀したという。
概史[編集]
国史では、嘉祥3年(850年)にみえる「河内国和爾神」の神階が従五位上に進んだと見えるが、これを当社に比定する説がある[2]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、河内国石川郡に「美具久留御玉神社」と記載され、式内社に列している[2]。河内国二宮、石川郡総社と称されたともいう。
楠木正成は、建水分神社(上水分社)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として崇敬し、社領の寄進や社殿造営を行った。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火により社殿を焼失し、万治3年(1660年)に社殿を再建した。
明治維新後、明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列している。
境内[編集]
本殿は丘陵の山腹に建てられ、その前に上拝殿が、山麓に下拝殿が建てられている。
また本殿後背の丘陵上には、宮神社裏山古墳群(美具久留御魂神社裏山古墳群)が分布する。古墳時代前期の前方後円墳1基(1号墳)・後期の円墳3基(2-4号墳)の計4基から構成される古墳群である。そのうち前方後円墳(1号墳)は墳丘長約58メートルを測り、墳丘上では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)が検出されているほか、1930年(昭和5年)頃に墳丘付近で銅鏡1面が出土したと伝わる[3][4]。
摂末社[編集]
- 熊野貴平神社
- 南木神社 - 祭神:楠木正成・楠木正虎。
- 皇大神社 - 祭神:天照皇大神・大物主神・事代主神。別名:支子大神宮、河内大神宮。
- 郡天神社 - 祭神:菅原道真・事代主命・大国主命。西浦村大字東阪田(現 羽曳野市東阪田)の郡天神社を合祀。
- 利雁神社 - 祭神:保食神・八幡大神・天児屋根命。西浦村大字尺度(現 羽曳野市尺度)の式内利雁神社を明治40年に合祀。
- 青箭宮
- 白雲宮
- 愛宕神社
- 大伴神社 - 祭神 大伴黒主。大伴村大字山中田(現 富田林市山中田)の大伴神社を合祀。
- 紫天神社
- 富榮神社
- 旭岡神社
- 稻荷神社
脚注[編集]
- ^ “大阪みどりの百選”. 大阪府. 2016年12月23日閲覧。
- ^ a b 美具久留御魂神社(平凡社) 1986.
- ^ 美具久留御魂神社裏山古墳群第1号墳 史跡説明板。
- ^ 「宮神社裏山古墳群の分布調査」『平成27年度 富田林市内遺跡群発掘調査報告書』富田林市教育委員会、2016年、p. 6(リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」)。
参考文献[編集]
- 「美具久留御魂神社」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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