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'''オイル・ショック'''([[和製英語]]:{{en|oil}} + {{en|shock}})とは、[[1973年]](第1次)と[[1979年]](第2次)に始まった(ピークは[[1980年]])、[[原油]]の供給逼迫および[[原油価格]]高騰と、それによる世界の経済混乱である。'''石油危機'''(せきゆきき、{{lang-en|oil crisis}})または'''石油ショック'''とも称される。[[OPEC]]諸国の国際収支黒字は1973年には10億ドルであったが、[[1974年]]には約700億ドルに急増。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は[[1970年]]の30億ドルから[[1980年]]の250億ドルに跳ね上がった。<ref>Morris Miller, ''Resolving the Global Debt Crisis'' [[国際連合|国連]] 1989年 p.50.</ref> |
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[[ファイル:Oil Prices Since 1861.svg|right|thumb|center|500px|1861年〜2007年の原油価格。100年近く続いた安値が[[1970年代]]に破られたことがわかる。1970年代、株価の下落幅は緩やかながら、[[世界恐慌]]が本格化した[[1930年代]]のそれよりも底が深かった。[[ニューヨーク証券取引所]]の会員権は、その価値が1968年に51万5000ドルだったのが1973年半ば7万5000ドルとなるほど投売りされた。債券市場も市場金利の上昇が利ざやを減らしたり、元本割れを起こしたりした。多くの[[投資信託]]は、そのポートフォリオに組み入れる証券を探し途方に暮れたし、仮に資産構成に目途が立っても営業マンを探したら見つからないという逆境に喘いだ。[[ニクソンショック]]のご時勢に売れたファンドは、金を掘っている[[リオ・ティント]]や[[カナダ]]の鉱山会社に集中投資をしているところだけだった。{{See also|アメリカ合衆国の経済史#インフレの悲哀: 1970年代}} |
[[ファイル:Oil Prices Since 1861.svg|right|thumb|center|500px|1861年〜2007年の原油価格。100年近く続いた安値が[[1970年代]]に破られたことがわかる。1970年代、株価の下落幅は緩やかながら、[[世界恐慌]]が本格化した[[1930年代]]のそれよりも底が深かった。[[ニューヨーク証券取引所]]の会員権は、その価値が1968年に51万5000ドルだったのが1973年半ば7万5000ドルとなるほど投売りされた。債券市場も市場金利の上昇が利ざやを減らしたり、元本割れを起こしたりした。多くの[[投資信託]]は、そのポートフォリオに組み入れる証券を探し途方に暮れたし、仮に資産構成に目途が立っても営業マンを探したら見つからないという逆境に喘いだ。[[ニクソンショック]]のご時勢に売れたファンドは、金を掘っている[[リオ・ティント]]や[[カナダ]]の鉱山会社に集中投資をしているところだけだった。{{See also|アメリカ合衆国の経済史#インフレの悲哀: 1970年代}} |
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2017年5月25日 (木) 12:17時点における版
オイル・ショック(和製英語:oil + shock)とは、1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まった(ピークは1980年)、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。石油危機(せきゆきき、英語: oil crisis)または石油ショックとも称される。OPEC諸国の国際収支黒字は1973年には10億ドルであったが、1974年には約700億ドルに急増。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は1970年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった。[1]
第1次オイルショック
発生に至る情勢
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定した。またアラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる、と決定した。
石油危機前の状況と日本における対策
石油価格の上昇は、エネルギー源を中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。1960年代以降にエネルギー革命を迎えエネルギー源を石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショック(ドル・ショック)から立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機により相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなった。
当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
日本への影響
オイルショック前からニクソン・ショックによる円高不況で不況カルテルが沢山できていた。1973年(昭和48年)11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。
日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果、1974年(昭和49年)は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。
「狂乱物価」について経済学者の小宮隆太郎は、日本銀行のオイルショック前の行き過ぎた金融緩和政策とその後の引き締めの遅れが、企業・労働組合などに製品価格上昇・賃上げを走らせたとしている[2]。
経済学者の原田泰は「1970年代の日本の経済成長率の低下は、石油ショックでは説明できない。欧米諸国は3分の2程度の低下で、アジア諸国はほとんど低下しなかったが、日本だけが長期的な経済成長率が3分の1にまで低下した。また、1980年以降、石油価格は実質で1970年代初めの水準に戻ったが、日本の経済成長率は戻らなかった」と指摘している[3]。
このような不況が1975年以降に国債が大量に発行される契機となった。それはシンジケート団が引き受けきれないほどの規模となり、1977年に発行後1年以上経過した国債は市中売却が認められるようになった[4]。ここに金利を市場の実勢値まで抑える財政上の必要が生じた。そこで1979年に譲渡性預金が導入され、家計の余剰資金を銀行が吸い上げるようになった。一方で1973年から早々に無担保転換社債を認めるなどの社債自由化が推進され、結果として国債の相対的な低リスクが演出された。[5]もっとも、後年の国債残高推移、特に1995年から2005年までの増加率に比べれば、オイルショック当時の発行額はずっと小規模であった。
公共事業
- 整備新幹線の建設が大幅に延期され、完成時には交通事情が大きく変化していた。
- 本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前のことであった。その後計画された3ルートのうち、1ルート(瀬戸大橋)のみ、着工が1975年(昭和50年)に決定した。なお、本州四国連絡橋3ルートのひとつである西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の一部を構成する大三島橋は、1979年(昭和54年)に本州四国連絡橋としては最初に開通したことから、第1次オイルショック前後から着工が決定されていたと思われる。
生産部門
- トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動・洗剤パニック[6])
- 紙資源の不足から、週刊誌や漫画雑誌の頁数が軒並み削減され、小冊子程度の枚数となる。書籍では文字を小さくかつ頁内に多く収めるために行数が増やされるなどが行われたため、21世紀の書籍状況から考えると扱いにくい書籍が発刊された。
燃料浪費の忌避
- 燃料の高騰と騒音問題により、超音速輸送機に対しての需要が激減し、コンコルドに対しての発注取消が相次ぐ。
- 燃料の高騰により、燃費のよくなかったロータリーエンジンの採用を、多くの自動車メーカーが断念。
- 燃料の高騰と騒音問題により、燃費のよくなかった鉄道用ガスタービン動車が試作されたが実用化を断念(詳細は国鉄キハ391系気動車を参照)。
- 重油を莫大に使う石油火力発電所を見直し、石油備蓄設備建設を促し、エネルギー安全保障の観点から、日本の原子力発電所整備を促した。
省エネルギーへの取り組み
- デパートのエスカレーターの運転中止。
- ネオンサインの早期消灯。
- ガソリンスタンドの日曜休業。
- 鉄道事業者における最終列車の繰り上げなどの処置。
- 日本の地下鉄事業者が駅の照明を間引き。
- 日本プロ野球においても、照明の消費電力をセーブするために平日のナイターを19時前後開始から18時前後(遅くとも18時30分までに)開始に繰り上げてみたり、また週末・祝日は極力薄暮を含めたデーゲーム(夏季除く)で開催するようにしていた。
- テレビの深夜放送の休止。特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月曜日から金曜日の15時-16時台前半。なお、国会中継や高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分-17時30分の内1-3時間)の放送休止。なお、民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年(昭和48年)12月14日。また、岐阜放送テレビなど独立UHF放送局の一部では、放送開始時刻の大幅な繰り下げ措置や日中の放送休止時間(千葉テレビ放送、奈良テレビ放送など)がとられた。
産業全体
- 競争力を失った「構造不況業種」を縮小させ、成長分野に資源を振り向ける「積極的調整政策」。素材産業の不振、加工組立産業の成長。
- 雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)
- 優良企業の銀行離れが進む。間接金融から直接金融(株式発行など)、内部留保依存へ。
その他
- 当時放送されていた『ウルトラマンレオ』も、石油危機による物価高騰などが制作体制を直撃し、番組は制作費の緊縮を余儀なくされてしまう。ギャラの節約を狙ったレギュラーキャストの削減や、毎回の怪獣着ぐるみの製造費・防衛チーム基地のセット維持費などのカット[7]が断行され、番組は大幅な路線変更を強いられることになった。
- 石油危機期間中は、イスラエル支持国に対する経済制裁の影響も見られた。例として選抜高等学校野球大会では、表彰式の演奏曲「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲)の使用をやめ(全国高等学校野球選手権大会では引き続き使用)、大会オリジナルの「栄光」(永野慶作作曲)が採用された。「見よ、勇者は帰る」はアラブと敵対するユダヤ戦士を称える曲であったため、経済制裁を受ける恐れから、第46回選抜高等学校野球大会より採用された。石油危機鎮静化後は元に戻す予定だったものの、急ごしらえながら高い評価を得たため、それ以降も継続して使用されている。
- 日本の国産旅客機YS-11の生産中止は石油危機の影響だと一部で語られることがある。確かにYS-11の生産中止の時期は第1次石油危機に近い(1973年3月生産終了)が、1971年(昭和46年)の通商産業省航空機工業審議会答申による既定事項なので誤り(正確には約20機分の追加生産用の資材調達が中止になった)。
- 石油危機は、日本人全体へエネルギーのみならず食料などの資源を海外からの輸入に依存することへの不信感を植え付け、特に食料自給率向上へと傾斜させる契機の一つとなったという指摘がある[8]。
第2次オイルショック
1979年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第1次石油危機並に原油価格が高騰した。
しかし、第1次での学習効果、省エネルギー政策の浸透(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第1次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)、企業の合理化効果などにより、日本経済に対する影響は第1次石油危機ほど酷いものにはならなかった。また第1次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。一方でこれとは別の要因として米国のインフレの亢進と長期金利の高騰にともなう金融市場の混乱が深刻さを増しており、石油危機を端緒とした不況は米国経済の復調をまつ1983年ころまで長引いた。
小宮隆太郎は、第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省して、いち早く強い金融引き締めスタンスを採用した事にあり、それに応じて労働組合・企業も賃上げなどのコストプッシュの要因を抑えるべく、労使協調路線を採用した事で事態を乗り切ったためとしている[2]。経済学者の伊藤修は「日銀の早急な金融引き締め、労使の賃上げ抑制、省資源・省エネルギーの進行、円高による輸入価格の抑制などが原因で、景気の落ち込みは軽微で済んだ」と指摘している[9]。
石油危機の与えた影響
先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明白となった。そのため、中東以外での新しい油田開発、調査が積極的に行われるようになった。また、原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道を始めとする公共交通機関を再評価する動き(モーダルシフト)が出た。
大和総研は「2度にわたるオイルショックは、日本経済に大きな影響を与えたが、日本企業がエネルギー効率を改善させる大きなきっかけとなった」と指摘している[10]。
フランスのジスカール・デスタン大統領の発案により、1975年に第1次石油危機以降の経済の回復を主たる議題として、先進国の首脳が一堂に会する第1回主要国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された。
インフレーション傾向を強めていた先進国経済は、石油危機によりスタグフレーションに突入。1971年のニクソン・ショックと合わさり、戦後世界経済の成長体制は破壊された。工業化による投資で、対外債務を膨張させていた南アメリカやアフリカなどの開発途上国は、石油輸入コストの急上昇で、国家債務返済を遅延することとなり、国際金融問題となった。
ベン・バーナンキは、石油価格の高騰が財・サービスのコストを引き上げ、インフレを悪化させるのは事実であるが、それよりもアメリカ合衆国でインフレが深刻になったのは、家計・企業が連邦準備銀行の金融引き締めが十分ではないことを予想し、それが高いインフレ予想を招いたことであるとしている[11]。バーナンキはその結果、賃金の引き上げ・製品価格の値上げが起きたとしている[12]。
石油輸出国は、経済制裁及び輸出価格の急騰により政治・経済両面でのパワーを持つこととなった。輸出対価として得たアメリカ合衆国ドル(オイルダラー)は、世界金融市場の中で存在感を強めた。湾岸諸国は莫大な歳出が可能となり、福祉の充実を達成した。
第3次オイルショック
2004年頃から2008年秋頃にかけて(ピークは2008年)、目立った供給減少を伴わない原油価格の高騰が続いた。これを第3次オイルショック(第3次石油危機)と呼ぶ者もいる[13]。2008年2月にはニューヨークの商業取引所の原油先物市場で100米ドル/バレルを突破した。
ピーク時の価格は、第1次・第2次石油危機のピークに比して、名目で3倍を超え、実質でも上回っていた。ただし、第1次・第2次に比べ、価格の上昇速度は緩やかだった。
高騰の原因は、
が挙げられるが、その中で最も大きな理由と指摘されているのは、余剰マネーとしての投機的資金が原油の「現物」や「先物」を買い占めていることである[要出典]。世界の金融市場から見ると原油の市場規模は相対的に小さいものだが、そこに住宅サブプライムローン問題に端を発した米国不景気から投機的資金が原油市場に流れ込めば、「先物」としての原油価格が急騰するのも当然のことである[要出典]。
原油先物相場が史上最高値を更新し続けているなど、原油価格高騰を受けて、石油が関係している製品の値上げが相次ぎ、航空機では燃油サーチャージの導入で、さらなる原油価格高騰および値上げ幅の上昇を招いた。
その後、サブプライム問題が世界的な景気の後退を引き起こし、余剰マネー自体が乏しくなるに至り、2008年9月下旬頃より僅か2カ月で、原油価格は半分程度にまで大きく落ち込んだ。しかし暫くすると、原油価格は再びゆるやかに回復し、2008年のピークには及ばないものの高値が続いた。
出典
- ^ Morris Miller, Resolving the Global Debt Crisis 国連 1989年 p.50.
- ^ a b 田中秀臣 『経済政策に歴史を学ぶ』 ソフトバンク クリエイティブ〈ソフトバンク新書〉、2006年、190頁。
- ^ 原田泰 『コンパクト日本経済論(コンパクト経済学ライブラリ)』 新世社、2009年、30頁。
- ^ 著者・タイトル不明 配布元は内閣府経済社会総合研究所 2つのコクサイ化 p.73.
- ^ 日本政策投資銀行 金融自由化とコーポレート・ガバナンス 社債発行によって銀行の機能は低下したか 2008年9月 p.5. p.29.
- ^ 石けん基礎知識 石鹸洗剤の基礎(2) 日本石鹸洗剤工業会
- ^ 最終クールの「恐怖の円盤生物シリーズ!」は、円盤生物の奇襲による防衛チームの全滅の他、怪獣との対戦を可能な限り、プロップの操演で表現しようという苦肉の策でもあった。着ぐるみが存在する円盤生物でも、ノーバや星人ブニョなどは簡素な造形で、演出でインパクトを出そうという苦心が見受けられる。
- ^ 川島博之、日本人がこれほど「食料自給率」に怯える理由 日本農業、再構築への道<1>、JBpress、2010年10月13日、2016年2月10日閲覧
- ^ 伊藤修 『日本の経済-歴史・現状・論点』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年、108頁。
- ^ 大和総研 『最新版 入門の入門 経済のしくみ-見る・読む・わかる』 日本実業出版社・第4版、2002年、53頁。
- ^ 田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、179-180頁。
- ^ 田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、180頁。
- ^ NHK クローズアップ現代 2008年6月25日