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[[1993年]]、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]が “音蔵シリーズ” と称するアルバム作品群の[[CD-DA|CD]]化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが発売するも短期間で自ら[[廃盤]]にした。〝[[音質]]が気に入らなかったの、特に『[[マイ・マン]](『マイ・マン+1』)』の(CDの)音はジャズではないんです〟と語った。後日別件でEMIを訪ねた藍渕が〝浅川マキの作品は浅川本人の意向により廃盤せざるを得なかった〟と当時の担当者より取材している。生涯、CDの音質について懐疑的な姿勢を示した。 |
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=== 楽曲『ロング・グッド・バイ』 |
=== 楽曲『ロング・グッド・バイ』 === |
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* [[1968年]]、[[アンダー・グラウンド・シアター蠍座|蠍座]]公演のために[[寺山修司]]が書き下ろした13作品の中の1つ。 |
* [[1968年]]、[[アンダー・グラウンド・シアター蠍座|蠍座]]公演のために[[寺山修司]]が書き下ろした13作品の中の1つ。 |
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* [[作曲]]・[[編曲]]は[[山木幸三郎]]。当初のタイトルは「朝鮮人のおじさん」であった<ref name="TAPTOP">{{Cite web |url=http://www.tapthepop.net/day/36659 |title=浅川マキが初コンサートの前夜、寺山修司に唄えないと抗議した「ロング・グッド・バイ」 |accessdate=2018-04-28 |last= |first= |author=佐藤剛 |authorlink=佐藤剛 (音楽プロデューサー) |coauthors= |date=2017-12-14 |year= |month= |format= |website=TapThePop.net |work= |publisher=TAP the POP |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180201012315/http://www.tapthepop.net/day/36659 |archivedate=2018-02-01 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。 |
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2018年5月5日 (土) 08:46時点における版
浅川 マキ | |
---|---|
生誕 | 1942年1月27日 |
出身地 | 日本・石川県石川郡美川町[1](現:白山市) |
死没 |
2010年1月17日(67歳没) 日本・愛知県名古屋市 |
学歴 | 石川県立金沢二水高等学校卒業 |
ジャンル |
ジャズ ブルース |
職業 |
歌手 作詞(詩)家 作曲家 編曲家 音楽プロデューサー |
活動期間 | 1967年 - 2010年 |
レーベル |
ビクター(1967年) EMIミュージック・ジャパン (1968年 - 2010年) |
公式サイト | MAKI |
浅川 マキ(あさかわ マキ、1942年1月27日[注 1][2] - 2010年1月17日[3])は、日本の歌手、作詞(詩)家、作曲家、編曲家。淺川マキと綴られることもある。
略歴
石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。石川県立金沢二水高等学校卒業[1]。
町役場で国民年金窓口係の職に就くも程なくして上京する。マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。
1967年にビクターからシングル『東京挽歌/アーメン・ジロー』を発表する[4]も本人と事務所の音楽的指針に大きな乖離があり、当時の出来事がその後の活動に影響を与えた。
1968年、寺山修司と寺本幸司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を三日間に渡り催行、口コミで徐々に知名度が上がる。東芝音楽工業株式会社[5]に移籍。
1969年7月1日、寺本幸司のプロデュースによる『夜が明けたら / かもめ』(EXPRESS-レーベル)で正式にレコード・デビュー。以後移籍することなく作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。特に池袋「文芸坐ル・ピリエ」で1997年まで催行した大晦日連続定期公演は有名である。
1992年、「ゼロアワー・シリーズ(0000)」と題して、宮澤昭、トリスタン・ホンシンガー、植松孝夫の3氏のアルバムをプロデュース。当初、ゼロアワー・シリーズはこの3枚のためだけに用意されたものであったが、以後発売した浅川自身の作品にも用いられている。
2000年以降はジャズ・クラブ「新宿 PIT INN」を本拠地として定期公演を再開。2000年3月26日から11月26日の「新宿PIT INN」では、『毎月・最終の日曜日 浅川マキを聴く』と題し、アカペラによる公演を行った(全9日、昼夜2回。計18公演)。
「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ[6]、ジャズやブルース、ゴスペル、フォークソング等を独自の解釈で歌唱した。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見され、搬送された病院で死亡が確認された。愛知県警中警察署によると、死因は急性心不全とみられる[3]。
2010年3月4日、「新宿 PIT INN」にてお別れの会『浅川マキ「こんな風に過ぎて行くのなら・浅川マキがサヨナラを云う日」』が催行された。ここでは真赤なバラの花の献花台とメッセージ・ボックスが用意され、彼女の生前の作品が流された。翌2011年5月、北陸放送が彼女を題材にしたラジオドキュメント「浅川マキ ロング・グッド・バイ」を制作・放映した。
CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年より新譜を発表していなかったが、2004年に映像集『幻の男たち LIVE1984』のDVD化、2007年にベスト・アルバム『DARKNESS IV』を発売するなど徐々に作品が発売されるようになり、2008年にオフィシャルサイトにて〝今年は久しぶりに新しい作品造りに入ります。〟[7]とメッセージが出たものの、実現しなかった。オリジナルアルバムでは亡くなる12年前に発売した1998年のアルバム『闇のなかに置き去りにして〜BLACKにGOOD LUCK』が遺作となった。
存命中は本人の意向により作品の大部分が廃盤[8]だったが、2010年から2011年に掛けて相次いでCD化、発売された(詳細は後述)。
2010年に『浅川マキの世界 CD10枚組BOX 自選作品集』(1990年)の復刻盤発売。またレコード会社からの正式なアナウンスは無かったが、アルバム『黒い空間』(1994年)、『こんな風に過ぎて行くのなら』(1996年)が再生産された。
一周忌に当たる2011年1月に、ファースト・アルバム『浅川マキの世界』から『寂しい日々』までの70年代アルバム10作、6月に『ONE』からLP盤が発売された最後のアルバム『Nothing at all to lose』まで80年代のアルバム14作がデジタルリマスタリングされた音源に、オリジナルレコード(LP盤)の歌詩カード(一部の作品に例外、及び色や紙質などの差異あり)やレコードレーベルを再現した紙ジャケット仕様で復刻(初CD化作品含む)。但し、帯は紙ジャケットシリーズで新たにデザインされたものに統一され、オリジナルレコード帯は再現されていない。また『WHO'S KNOCKING ON MY DOOR』以降はオリジナルレコード盤に元々帯が無く、帯代わりのステッカー(シール)が添付されていたが、こちらも再現されていない。
『夜のカーニバル』(1989年)、『STRANGER'S TOUCH』(1989年)、『BLACK-blackにgood luck-』(1991年)の3作品については再生産も復刻もされなかった。
2013年4月にEMIミュージック・ジャパンがユニバーサルミュージック合同会社に吸収合併されたため、EMIが運営していた浅川マキオフィシャル・ウェブサイトが閉鎖。ユニバーサルミュージックの統一のシンプルなサイトに切り替わった。
作品観
作品に対する姿勢
浅川マキは音楽そのものに限らず音質、ジャケットデザイン、ライナーノーツ、ポスターの配置などにも一貫した美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことはなかった。
日本国内に於けるアンダーグラウンドを主体とした音楽活動の第一人者であるが、“アンダーグラウンド” と “(いわゆる)アングラ” を混同してはならないと主張。独自の美意識を貫く姿勢を「時代に合わせて呼吸をする積りはない」[6]と自ら表現している。
自らの作品に於いて “作詞” の表記を “詞” ではなく、“詩” を用いている。
外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行った。そのため表記を “訳詩” とせず “日本語詩” としている。ちあきなおみの歌唱で知られる「朝日のあたる家(朝日楼)」やダミアの歌唱で有名な「暗い日曜日」、ビリー・ホリデイの歌唱で知られる「マイ・マン」等に於いて独自に制作した日本語詩などは特に著名である。
ライターデビュー前の藍渕邪子が楽屋を訪れ〝「東京挽歌」の音源(7インチシングル盤)を持っている〟と告げたところ即座に〝棄ててください〟と返答した経緯がある。「東京挽歌」が世に出たこと自体は否定せぬものの “歌手・浅川マキ” の意向が反映されていないためディスコグラフィーから外しているという。だが、その経緯はステージ公演中に本人も話題にすることがあった。
1993年、東芝EMIが “音蔵シリーズ” と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが発売するも短期間で自ら廃盤にした。〝音質が気に入らなかったの、特に『マイ・マン(『マイ・マン+1』)』の(CDの)音はジャズではないんです〟と語った。後日別件でEMIを訪ねた藍渕が〝浅川マキの作品は浅川本人の意向により廃盤せざるを得なかった〟と当時の担当者より取材している。生涯、CDの音質について懐疑的な姿勢を示した。
楽曲『ロング・グッド・バイ』
- 1968年、蠍座公演のために寺山修司が書き下ろした13作品の中の1つ。
- 作曲・編曲は山木幸三郎。当初のタイトルは「朝鮮人のおじさん」であった[9]。
- 副題は『LONG GOOD-BY』[10]。内国作品/出典:PO(出版者作品届)[10]。
- 2017年現在、音楽出版ジュンアンドケイ(JUN & KEI MUSIC PUBLISHERS, INC.)が出版者としてJASRACに登録[10]。
- JASRAC作品コード:094-5182-0[10]。
- 1968年、一人の若者がノートを拡げ叫ぶようにして寺山の前で語り、その内容に触発され寺山が書き下ろした作品である(浅川マキ、談)。
当時、浅川マキは本作の歌唱に難色を示したが[9]、寺山本人から「マキがこの作品を唄わないならば、僕(寺山)が演出する意味が無くなる」と説得され、唄う決意を固めた。作曲を担当した山木幸三郎も新幹線の車中にて懊悩したという。蠍座での公演は録音され、初のアルバムである『浅川マキの世界』ではB面にその殆どが収録されたが本作のみは東芝も発表および録音を拒絶、1968年当時の公式な録音は現存しない。音楽出版ジュンアンドケイは出版権を持つものの「詩・曲・譜面データは社内に資料が現存していない」と2003年9月に取材を行った藍渕への問い合わせに回答している。
1968年の披露以来、蠍座最終日公演を最後に「ロング・グッド・バイ」はその後10数年にわたって再び唄われることはなかった[9]。9分近い本作を浅川マキが時折唄うようになったのは、1983年に寺山が死去して以降となった[9]。
本作はノンフィクションであり、実名も出てくること、また1968年当時〝更に重大な約束があり〟(浅川マキ、談)、以上の理由から今後も録音、出版される可能性は極めて低い。但し浅川マキ生前のステージ公演にてアカペラにて披露される機会は稀にあり、本作の歌唱前には必ず発表までの詳細な経緯が語られたうえで披露された。
2001年8月5日、青森県三沢市『寺山修司記念館』での開館4周年記念イベント『テラヤマ・ワールド2001 IN 三沢』(副題:寺山修司と【賞】)では、第3部がコンサート『ロング・グッドバイ』と題され浅川マキがアカペラで寺山作品を歌唱。本作も披露された。
エピソード
- 愛煙家であり、ステージ上でも煙草を燻らせていた。喫煙する姿が数多くのポートレートに残されている。
- 自他共に認める大の劇画通であった。
- 緑魔子とはレコード会社が同じ東芝であったこともあり、自らファンだと語っていた。
音楽作品
シングル
- 「東京挽歌/アーメン・ジロー」はビクター、それ以外は東芝音楽工業 / 東芝EMI[5]より発売。
- 多くの文献でシングル「ちっちゃな時から」でデビューと記載されているが、国立国会図書館所蔵の目録を閲覧・確認したところ正確な7インチシングル盤のディスコグラフィーは下記の通りである[11]。
- 東京挽歌/アーメン・ジロー(1967年4月5日 / SV-1001)
- アビオン・レコード株式会社制作、ビクターレコード発売。目録上では1967年6月発売とされている。
- 夜が明けたら[12]/かもめ(1969年7月1日 / EP-1156)
- ちっちゃな時から/ふしあわせという名の猫[12](1970年2月5日 / EP-1202)
- 「ふしあわせという名の猫」は、編曲のスコアも歌唱も別のテイク(シングル・ヴァージョン)。
- 港の彼岸花[12]/赤い橋(1971年4月5日 / ETP-2413)
- 「港の彼岸花」は、歌唱のみ別テイク。
- 少年/めくら花(1971年10月5日 / ETP-2524)
- こんな風に過ぎて行くのなら/さかみち(1972年7月1日 / ETP-2691)
- 裏窓/翔べないカラス(1973年6月1日 / ETP-2862)
- 「翔べないカラス」はシングル・ヴァージョン。
- 夕凪のとき/それはスポット・ライトではない(1976年4月1日 / ETP-20237)
- マイ・マン/ちょっと長い関係のブルース(1982年2月21日/ETP-17296)
- 「マイ・マン」はシングル・ヴァージョン。
- こころ隠して/むかし(1982年10月1日 / ETP-17412)
- 「こころ隠して」はシングル用に尺を短く編集したヴァージョン。
- コントロール/時代に合わせて呼吸する積りはない(1983年8月21日 / ETP-17518)
- 見えないカメラ/アメリカの夜(1988年12月21日 / RT07-2244)
コンパクト盤
アルバム
- 浅川マキの世界(1970年9月5日)
- MAKI II(1971年9月5日)
- MAKI LIVE(1972年3月5日)
- ブルー・スピリット・ブルース(1972年12月1日)
- 裏窓(1973年11月5日)
- MAKI VI(1974年12月20日)
- 灯ともし頃(1976年3月5日)
- 流れを渡る(1977年3月5日)
- 浅川マキ・ライヴ・夜(1978年2月5日)
- 寂しい日々(1978年12月1日)
- ONE(1980年4月5日)
- ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった(1980年12月21日)
- マイ・マン(1982年2月21日)
- CAT NAP(1982年10月21日)
- WHO'S KNOCKING ON MY DOOR(1983年8月1日)
- 幻の男たち(1983年12月1日)
- SOME YEARS PARST(1985年2月21日)
- ちょっと長い関係のブルース(1985年6月29日)
- アメリカの夜(1986年3月1日)
- こぼれる黄金の砂 -What it be like-(1987年2月25日)
- UNDERGROUND(1987年12月25日)
- 幻の女たち(1988年5月26日)
- Nothing at all to lose(1988年12月21日)
- 夜のカーニバル(1989年4月26日)
- STRANGER'S TOUCH(1989年12月13日)
- BLACK -blackにgood luck-(1991年2月20日)
- 黒い空間(1994年12月21日)
- こんな風に過ぎて行くのなら(1996年6月26日)
- 闇のなかに置き去りにして〜BLACKにGOOD LUCK(1998年11月26日)
ベスト・アルバム
- Selected Album by MAKI(1984年7月21日)
- CDベストナウ(1986年12月20日)
- DARKNESS(1988年2月16日/2枚組)
- DARKNESS I(1995年8月30日/2枚組)
- DARKNESS II(1996年12月21日/2枚組)
- DARKNESS III(1997年11月19日/2枚組)
- DARKNESS IV(2007年2月14日/2枚組)
- Long Good-bye(2010年10月27日/2枚組)
- 全32曲のオフィシャル・ベストアルバム。未発表写真ブックレット付き。
- シングル・コレクション(2011年06月15日 / 配信限定)
- 初デジタル化4曲(未CD化)を含む22曲。
アルバムBOX
- 浅川マキの世界 CD10枚組BOX 自選作品集(1990年12月19日)
その他のアルバム
- 寂しい日々(1981年)
- カセットのみの発売。
- (この作品以外にも、カセットのみでのベスト作品リリースが数種類確認されている。)
- 夜が明けたら(1999年)
- スキャンダル 京大西部講堂1982
映像作品
- 本人が生前に企画監修・編集を行っていたドキュメンタリー作品。
上記の他、1970年開催の第2回中津川フォークジャンボリーで『かもめ』を唄う模様を記録したフィルムが現存する。
プロデュース作品
以下作品は「ゼロアワー・シリーズ(0000)」と題して3タイトル同時発売。
- 野百合 - 宮澤昭(1992年8月26日)
- From the Broken World - トリスタン・ホンシンガー(1992年8月26日)
- COME FROM WITH - 植松孝夫(1992年8月26日)
著書
- 『幻の男たち』講談社、1985年6月25日。ISBN 4062018829。
- 『こんな風に過ぎて行くのなら』石風社、2003年7月15日。ISBN 4883440982。
出演
- 恐怖劇場アンバランス 第7話「夜が明けたら」(円谷プロダクション・フジテレビ、1973年)
関連項目
生前交流があったアーティスト
注釈
脚注
- ^ a b 『テレビ・タレント人名事典(第6版)』日外アソシエーツ、2004年6月、28頁。ISBN 978-4-8169-1852-0。
- ^ 浅川マキ、他『ロング・グッドバイ 浅川マキの世界』白夜書房(原著2011年1月17日)、291頁。ISBN 978-4-86191-698-4。
- ^ a b “歌手の浅川マキさんが死去、心不全か”. 中日新聞. 中日新聞社 (2010年1月18日). 2010年1月19日閲覧。
- ^ 正式には日本初のインデペンデント・レーベル「アビオン・レコード」が制作。ビクターが販売を担っていた。
- ^ a b 現:ユニバーサルミュージック合同会社内EMIレコーズ・ジャパンレーベル
- ^ a b 『きれいな歌に会いにゆく』大栄出版、1993年11月21日。ISBN 4886825621。
- ^ 浅川マキ (2007年12月25日). “浅川マキ・ライブ情報及びメッセージ”. MAKI. EMIミュージック・ジャパン. 2008年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年2月9日閲覧。
- ^ ベストアルバム『DARKNESS I』~『DARKNESS IV』、アルバム『闇のなかに置き去りにして〜BLACKにGOOD LUCK』、VHS/DVD『幻の男たち LIVE1984』を除く。
- ^ a b c d 佐藤剛 (2017年12月14日). “浅川マキが初コンサートの前夜、寺山修司に唄えないと抗議した「ロング・グッド・バイ」”. TapThePop.net. TAP the POP. 2018年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月28日閲覧。
- ^ a b c d JASRAC作品データベース検索サービス J-WID 検索結果
- ^ CDシングルでの発売実績は無い。
- ^ a b c LP盤やCDに収録された実績の無い音源。2011年6月15日よりダウンロード形式で購入可能となった。
- ^ “浅川マキ スキャンダル”. pignose.net. ピッグノーズレコード (2011年). 2016年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月28日閲覧。
- ^ “浅川マキ スキャンダル 京大西部講堂 1982”. pignose.net. ピッグノーズレコード (2011年). 2015年12月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月28日閲覧。
外部リンク
- 浅川マキ - UNIVERSAL MUSIC JAPAN OFFICIAL WEB SITE
- WELCOME TO PIT INN INFORMATION WEB - 新宿PIT INN OFFICIAL WEB SITE