広島タクシー運転手連続殺人事件

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広島タクシー運転手連続殺人事件
場所

日本の旗 日本広島県[1]
広島市中区 流川薬研堀一帯(被害者を物色)[2]

A事件
広島市安佐南区沼田町大塚、林内にある幅1.5m、深さ1m、水深10cm林道脇側溝(遺体遺棄現場)[3]
B事件
広島市安佐南区八木、太田川橋付近(殺害現場)[4][5]
広島市安佐北区白木町小越、広島県道46号東広島白木線の脇を流れる、関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面(遺体遺棄現場)[6]
C事件
山県郡加計町穴(現・広島県山県郡安芸太田町穴)、国道191号の脇道(殺害現場)[7]
山県郡加計町加計(現・広島県山県郡安芸太田町加計)、町道脇を流れる滝山川(太田川支流)左岸法面斜面[8][9]、コンクリート製の溝の中(遺体遺棄現場)[9]
D事件
広島市佐伯区五日市町大字上河内、広島県道41号五日市筒賀線路上(殺害現場)[10]
佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)、国道433号旧道から、1mほど斜面を下った草むら(遺体遺棄現場)[11]
日付

1996年平成8年)[1]

4月18日(A事件)[12]
8月13日(B事件)[12]
9月7日(C事件)[12]
9月14日(D事件)[12]
深夜 (UTC+9)
概要 借金返済に追われていた男が、初めは強盗目的で、後に快楽目的も加わり、5か月間で4人の女性を殺害した。
攻撃手段 首を絞める
攻撃側人数 1人
武器 ネクタイ
死亡者

売春目的で知り合った女性4人

少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県賀茂郡黒瀬町在住、広島県立広高等学校定時制1年生)[13]
女性B(事件当時23歳、広島市安佐南区八木在住)[14]
女性C(事件当時45歳、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住)[15]
女性D(事件当時32歳、広島市中区在住)[16]
損害 現金約24万円(4人から奪った金額)[17]
犯人 タクシー運転手の男H(犯行当時34歳)[1][18]
動機 強盗快楽殺人
対処 逮捕起訴
謝罪 あり
刑事訴訟 死刑執行済み[12][19][20][21][22]
管轄

広島県警察

広島北警察署(A事件の初動捜査)[3]
廿日市警察署(4事件の捜査本部)[1][18]
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広島タクシー運転手連続殺人事件(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は、1996年平成8年)4月から9月にかけ、広島県内で、犯行当時34歳・タクシー運転手の男Hが、約5か月間に、売春を通じて知り合った4人の女性を、相次いで殺害した、連続殺人事件[23][1]

Hは深夜、広島市遊郭跡にある歓楽街流川新天地薬研堀一帯で、次々と女性を誘っては、タクシーの車内で首を絞めて殺害し、遺体を山中に遺棄した[24]

丸山佑介は、著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』にて[23]、その凶悪さから、広島の繁華街をパニックに陥れた本事件を[25]、「タクシードライバーによる殺人行脚」、「誰もが利用する交通機関である、タクシーの運転手が突然襲い掛かる、恐ろしい事件」と形容した[23]

死刑囚H

本事件の加害者の男Hは、1962年昭和37年)4月[26]宮崎県宮崎市[26]、農家の3人兄弟の末っ子(三男)として生まれた[27]2006年(平成18年)12月25日、死刑囚として収監されていた広島拘置所にて、法務省法務大臣長勢甚遠)の死刑執行命令により、44歳で死刑が執行された[19]

事件当時は34歳、広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった[28]

宮崎県出身のHは、高校時代まで、スポーツ万能の優等生として、地元で名が知られていた[27]。特に、日本史が得意で、高校の同級生からは、「クラスの上位15番以内に入る成績だった。空けても暮れてもテスト、テストの生活を、自分とともに乗り越えた仲間だ」と語られた[26]。末っ子であるため、小遣いは欲しがるだけもらえたという[26]

中学時代、野球主将を務めたHは[26]1978年(昭和53年)4月、県内トップの進学校として知られる県立高校に入学した[26]

1981年(昭和56年)3月、高校を卒業したHは[26]、「教師か、公務員になりたい」と、大学受験に臨んだが[26]、志望していた筑波大学の推薦入試に加え、第二志望の福岡教育大学にも不合格と、立て続けに失敗した[27]

1981年4月[26]、Hは結局、滑り止めのつもりで受けた、私立大学の福岡大学法学部にしか合格できなかった[27]

地元は、国立大学志向が強く、教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代、無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があったが、大学受験に失敗して以降、「私立大学では、たとえ教師になっても尊敬されない」と、大きな挫折感を味わった[27]。福岡大学でも、「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と、同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず、飲酒・ギャンブルにのめり込んだ[27]。この頃からは、高校時代までの友人たちと音信不通になり、同窓会にも出席しなかった[26]

しかしそれが仇となり、4年生になって、かつて見下していた同級生たちは、国家公務員・都道府県職員へと就職していった一方[27]、Hは留年が確実となり[27]、「このままでは市役所職員にもなれない」と、強い挫折感を抱えていた[29]。福岡大学入学から4年2か月後となる、1985年(昭和60年)6月末[26]、4年生に留年したまま、授業料滞納のため[26]、中途退学した[29]

その後、学費を援助していた兄に、宮崎市の実家に連れ戻されてからは[26]、周囲に対し、「司法試験に失敗した」と、嘘を言い張りつつ、宮崎市役所臨時職員として就職した[29]。しかし、飲酒・女遊びに溺れるなど、荒れた生活は改善せず、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された[29]。その後も、遊ぶ金欲しさに、ひったくりを繰り返したHは、当時24歳だった、1986年(昭和61年)1月25日午後0時過ぎ、会社員宅に侵入し、その妻に包丁を突き付け、現金2万円・預金通帳を奪った[29]。この強盗事件で逮捕・[起訴]]されたHは、懲役2年の実刑判決を受け、刑務所に服役した[29]

Hは、刑務所を出所後、故郷の宮崎県を離れると[29]1989年(平成元年)4月[26][29]、叔父を頼り、広島県広島市内に移住した[29]。母親によれば、それ以降、挫折体験を思い出したくなかったのか、宮崎の実家には、一度も帰らなかった[26]

1989年4月[26]、Hは、広島市内のタクシー会社に[26]、運転手として就職した[26]。「一からやり直す」決心で働こうとしたが[26]、大企業のエリート社員を、客として乗せ、働き続ける毎日のうちに、「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間じゃない。筑波大学に合格できていれば、今頃は国家公務員として、地位も名誉も約束された生活を送っていけたはずだ」と、コンプレックスを募らせ続けていた[29]。月収は、手取りで約30万円だったが、その大半を、飲酒・女遊びに浪費した上、消費者金融(サラ金)から借金を重ね続けていた[29]

1992年(平成4年)、当時29歳だったHは、叔父の紹介で、当時30歳の女性と結婚した[29]。当時、サラ金からの借金は、500万円に達していたが、Hはこの膨大な借金を、安佐南区の新興住宅地に建てた、建売住宅を購入した上で、その住宅ローンを、実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して、合計500万円を作ることで、完済した[29]

これが転機となり、生活が徐々に改善していったHは[23]1993年(平成5年)4月、長女が誕生、1児の父親になっている[29]。Hは、「家も持ったし、子供もできた。これで世間も認めてくれる」と、希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後、産褥期の妻が突然、意味不明な言葉をつぶやき続けたり、時折奇声を上げたりなど、精神疾患を発症した[29]。Hはその後、妻を精神科病院に入院させ、娘を妻の実家に預けたが、再び飲酒・ギャンブル・女遊びなど、荒れた生活に戻っていった[29]

Hはその後、再びサラ金から借金を繰り返し、1994年(平成6年)末には、200万円の借金を抱えたため、実家の兄に肩代わりさせた[29]。妻は一時、病状が改善したために退院したが、翌1995年(平成7年)から、再び長期入院するようになった[29]

精神疾患を患った妻に、回復の兆しが見られなくなったこと、義両親の実家に引き取られた娘と疎遠になったことなどから、Hの生活は荒れていく一方だった[29]。これに加え、「筑波大学の推薦入試を受けたほどの自分が」、強盗事件の前科で故郷を追われ、借金で首の回らないタクシー運転手にまで、「身をやつした」ことについて、激しい劣等感を感じていた[29]

Hの生活態度が、一向に改まらないことから、家族は、消費者金融に対し、貸付の停止を申し入れた[30]。これにより、Hは、金融業界の「ブラックリスト」に乗り、借り入れができなくなった[30]

1996年4月当時、サラ金などから抱えた、多額の借金の返済が迫り、追い詰められていたHは[23]、「自殺して生命保険保険金で返済しよう」とまで考えたが、Hは自殺すらできず、「己の不運は全て周囲のせい」にしていた[29]

職場の上司・同僚など、関係者によれば、Hは「あまり付き合いは良くないが、真面目なヤツだった」といい、1日の売り上げは、平均約45000円と[26]、営業成績はトップクラスだった[31]。勤務時間は、他の運転手たちより1日2時間ほど長かった[31]。また、妻子とともに買い物に行ったり、公園で遊ぶなど、家族仲は良好なように見えたという[31]

一方で、被害者を物色していた流川地区では、客にならなくても、毎晩のように訪れてくることで有名で[26]、「タクシーの男」として知られており[24]、タクシーを泥酔状態で飲酒運転していたり、シートにビールの缶が転がっていることもあったという[24]

事件の3,4年ほど前から、頻繁に歓楽街に姿を見せるようになったHは、一時は毎週のように遊び歩いていたが、遊ぶ金が尽きたのか、1996年になってからは、たまに姿を見せても、冷やかしだけで帰っていくようになった[26]

事件の経緯

A事件(第1の事件、1996年4月18日)

被害者:少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県賀茂郡黒瀬町在住、広島県立広高等学校定時制1年生)[13]

1996年4月18日午後8時、勤務中だったHは、「西日本一の歓楽街」として知られた、広島市中区流川薬研堀一帯を、タクシーで流していた[2]

その最中、売春援助交際のメッカとして知られていた、新天地公園を通りかかったところ、少女Aを見つけた[2][23]。Hは、Aに「遊ばないか」と声を掛けた[2][23]

Hは、料金2万円で応じたAを[23]、タクシーに誘い、タクシーに乗せると、コンビニエンスストア缶ビールを買い、ラブホテルに入った[2]

そのまま、2人で缶ビールを飲んだが、Aは、嗚咽交じりに、「父親の借金を返済するため、大阪から働きに来た。あと10万円返せば完済できる」[2]、「今日はその返済日だから、10万円を用意して、これから呉市に行く」と、身の上話をした[23]

Hは、この話を聞き、内心、「やられた」と思いつつも、「なんか、(セックス)するのが悪いね」と言い、お人よしのタクシー運転手を装い、呉市まで送っていくことを約束した[2]

Aをタクシーの助手席に乗せ[23]、広島市中心街から約20km先の呉市方面へ、タクシーを走らせたHは、「Aの話通り、所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して、計12万円あるはずだ。それだけあれば、今月の借金の返済は賄える。いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えた[23][2]。Hは当時、飲酒・女遊びにより、約350万円の借金を抱えており、月々15万円を返済していた[2]

Aは、Hに対し、「(親族は)大阪に祖母がいるだけ」と話していたが、Hは「身寄りのないよそ者とは好都合だ。殺して金を奪ってもばれないだろう」と考えた[2]

呉市街地の待ち灯りが見えるようになった頃、Hは、人気のない道に乗り入れ、呉市上二河町の、広島県道31号呉平谷線沿いの空き地で[32]、タクシーを停車した[2]。その上でHは、後部座席にいたAに対し、「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから、足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた[2]

Aが身をかがめ[2]、後部座席に回ったところ[23]、Hはネクタイを緩め、運転席を降りた[2]。そして、午後10時50分[2]、背後からAに忍び寄り、ネクタイを首に巻き付け、Aの首を絞め、Aを窒息死させて絞殺した[2][32]

Aを殺害した直後、Hは「とっさの判断でやったにしては、うまくいった」と思いつつ[23]、Aの所持品を改めたが、Aの所持していた現金は、Hの予想していた12万円とは異なり、わずか5万円しかなかった[2]。Hは、「嵌められた」と思いつつ[2]、その現金約5万円を奪った上で[32]、タクシーにAの遺体を乗せたまま、殺害現場から約25km離れた広島市内まで戻った[2]

その後、広島市安佐南区沼田町大塚の、雑木林の中に辿り着いた[2]。その林内を通る、林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)に[3]、田圃脇水路の土管があったため[2]。Hは、Aの遺体を土管内に遺棄した[2][32]

Hは突然、タクシーを人気のない空き地に駐車し、「エンジンの調子が悪いようだ。後部座席に行って配線を調べるのを手伝ってほしい」と、少女に指示した[23]

前述のようにAは、Hに対し、「大阪在住」と語っていたため、Hは「殺しても(身元は)バレないだろう」と考えていた[23]。しかし、殺害から18日後の1996年5月6日、少女の遺体が発見され、身元が呉市内の女子高生であることが判明した[33]。後述のように、広島県警察広島北警察署は、殺人・死体遺棄事件として、捜査を開始した[3]

これをニュースで知ったHは、「大阪の女じゃなかったのか」[33]、「同じ県内に住んでいたとなると、自分も疑われるかもしれない」と驚いた[23]。同時に、刻一刻と、自分の身辺に捜査の手が迫る気がし[33]、それ以降、逮捕されることばかり考えていた[23]

しかし、6月、7月と、時間が経過し、梅雨が明けても、Hの周囲に、警察の動きはなかったため、日が経つにつれ、Hは「警察の捜査にも限界がある。行きずりの売春婦なら、自分と接点はない。現に、警察は何もわかっていない」と安堵し、逆に自信を深めた[33]

B事件(第2の事件、1996年8月13日)

被害者:女性B(事件当時23歳、広島市安佐南区八木在住)[14]

A事件から約3カ月が経過した8月になっても、Hの周囲には、捜査の手は及ばなかったため、やがてHは、「俺は絶対に捕まらない」と自信を持つようになった[23]

1996年8月13日夜、Hは、再び新天地に向かい[23]、繁華街をタクシーで流しながら、次の標的を物色した[23]。新天地公園には、男から声を掛けられるのを待つ売春婦が、何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった[23]

Hは、「金でセックスさせる女なら、捜索願も出ないだろう」と思いつつ、新天地公園で、スナックバー勤めの、23歳女性Bを見つけ、声を掛けた[33]。Hは、Bに車中で、現金3万円を渡し、安心させた上で、ラブホテルに入った[33]

しかしBは、Hを「素行不良のタクシー運転手」とみなし、牽制しようとしたのか、「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した[33]。Hは「それは怖いね」と、感心したそぶりでうなづきつつ、Bと性行為をした[33]。その後、翌8月14日午前0時50分になって、ラブホテルを出た[33]

Hはその後、コンビニに立ち寄り、缶ビール・軍手を購入した上で、山道に入った[33]。そして、B宅から北にわずか数kmの、安佐南区八木の太田川橋付近で[4][5]、何の前触れもなく、タクシーを停車した[33]

Hは、「(この車は)よく故障するんだよ」と苦笑いしつつ、Bに対し、床のシートをめくるように頼んだ[33]。そして、買ったばかりの軍手をはめ、後部座席に体を滑り込ませ、Bの背後からネクタイで、Bの首を絞めた[33]

Bは、「さっきの話は嘘だ。父親はヤクザではない。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hは気にも留めず、Bの首を絞め続け、Bを窒息死させて絞殺した[33]。Hはこの時、軍手をはめていたためか、A事件の時より、更に強い力で、Bの首を絞めていたという[33]

そしてHは、Bの遺体を物色し、所持金52000円を奪った上で[33]、安佐北区白木町小越の、広島県道46号東広島白木線の脇を流れる、関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面に[6]、Bの遺体を遺棄した[31]。Bの遺体は、8月下旬になっても発見されなかったため、Hは更に、殺人への自信を深めた[33]

Bは、1985年(昭和60年)3月、安佐南区内の別の地区から、事件当時の住居に、両親・妹弟計5人とともに転居していた[4]。後にBの遺体が、自宅からわずか北数kmで発見されたことに対し、近隣住民らからは、「こんな近くで殺されたなんて信じられない」と、驚きの声が上がった[4]

C事件(第3の事件、1996年9月7日)

被害者:女性C(事件当時45歳、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住)[15]

2人を相次いで殺害したHは、1996年9月7日深夜[33]、広島市南区松川町の路上で[7]、以前から顔見知りだったホステスの、45歳女性Cを、タクシーに誘い入れた[33]

Cは、Hと顔見知りだったためか、すぐにHのタクシーに乗り込んだ。Hが、「どこか遠くで遊ぼうか」と提案し、3万円を渡した上で、「タクシーの中でしてもいいかな」と提案すると、Cはこれに応じた[33]

事前に缶ビールを飲むのが、Hの「儀式」だったため、Hはその後、コンビニに立ち寄り、Cに缶ビールを買わせた[33]

その後、広島県山県郡加計町穴(現・広島県山県郡安芸太田町穴)の、国道191号の脇道に辿り着くと[7]、周囲は真っ暗な山道だった[33]。Hは、そこにタクシーを停車すると、Cに、「俺は後ろからするのが好きなんだ。四つん這いになってくれ」と、後背位での行為を求めた[33]

Cは承諾し、後部座席で背を向け、下着を脱ぎ、腰を突き出した[33]。Hは、ネクタイとズボンのベルトを緩めると、野獣のような唸り声を挙げつつ、Cにのしかかった[33]

Cは、危険を察知し、振り返って「何をするの」と叫んだが、Hはベルトを引き抜き、Cの首に回して絞め上げた[33]。Cは、激しく抵抗したが、Hはこれに構わず、Cが白目を剥いて失神するまで、ベルトで絞めつけた[33]。そして、とどめにネクタイで、Cの首を絞めつけ、Cを窒息死させて絞殺した[33]

Hはその後、現金約8万円を奪い[7]、殺害現場から約10km離れた、加計町加計の町道脇を流れる、滝山川(太田川支流)左岸の法面斜面にある[8][9]、コンクリート製の溝の中に[9]、Cの遺体を遺棄した[7]

D事件(第4の事件、1996年9月14日)

被害者:主婦D(事件当時32歳、広島市中区在住)[16]

C事件の後、Hは、「3人も殺したからには、(最高裁判所判例として示された死刑適用基準「永山基準」の観点から見ても)捕まったら間違いなく死刑だ」と、警察に逮捕され、死刑になることに恐怖したが、その一方で、「人知れず女たちを絞め殺しているけど、まだ警察の捜査の手は及んでいない」という事実を思い出した[33]。そして、「俺は超人じゃないか」、「絶対に捕まることはない」と、半ば本気で、揺るぎのない自信を持った[33]

Aの遺体が発見されたものの、その後続報はなく、B・C両名については、発覚すらしていなかった[33]。Hはこの頃、殺人に快楽を見出すようになっていた[33]。夕方、タクシーを運転しつつ、湧き上がる殺人衝動を抑えられない自分に直面し、恐怖を感じたこともあったため、Hは「いつもと違う自分だったら、禍々しい殺人衝動もおさまるだろう」と、乗務用の白手袋を脱ぎ、ハンドルを握ったこともあった[33]

しかし、夜が迫るにつれ、殺人衝動と、女性を絞殺する際の「堪らない快感」に駆られたHは、「金さえ渡せば、いつでもどこでもセックスする」売春婦をターゲットに、4人目の犠牲者を物色した[33]

C事件から1週間が経過した、1996年9月13日午後10時頃、Hは、以前に何度か遊んだことのある、「アイちゃん」と呼んで親しくしていた、32歳の女性Dに声を掛けた[34]

Hは、Dをタクシーに乗車させ、停車した車内で、10分ほど話をした。その後、Hは缶ビールを買いに、いったん車外に出たが、戻ってみたところ、Dの姿はなかった[34]

Hは、「逃げられた」と舌打ちしたが、日付の変わった9月14日午前0時すぎ、1軒のホテルの前で、再びDと邂逅した[34]。通常、「最高額」の2万円は、20歳代の売れっ子に限られており、通常の「相場」は、15000円から2万円未満だったため、32歳で、人並みの容姿だったDは、Hから、「相場の倍以上」となる4万円を提示され、快諾した[34]

Hは上機嫌で、「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」と、タクシーを発進させた[34]。その途中、Hは、コンビニに立ち寄り、Dに缶ビール・おつまみを買わせた後、広島市郊外の[34]、佐伯区内のホテルに投宿し[8]、性行為をした[34]

その後、H・Dの2人は、ホテルを出た[34]。Hは、タクシーの後部座席にDを載せ、廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日午前2時すぎ、人気のない、静まり返った田舎道に辿り着いた[34]。その場所が、殺害現場となった、広島市佐伯区五日市町大字上河内の、広島県道41号五日市筒賀線路上だった[10]

Hは、この現場でタクシーを停車した上で、Dに対し、「足元のシートをめくってほしい」と申し出た[34]。Hは、それまでの3人の経験から、プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく、指示に従うことを知っていた[34]

Hは、Dが屈みこんでいる間に、ネクタイをほどいたが、Dが顔を上げると、「なんか怖い」と言った[34]。Hは、Dに笑みを浮かべ、ネクタイを座性に掛けたが、Dは「一人で帰る」と言い出し、タクシーのドアを開け、車外に出た[34]

Hは、「警察にかけ込まれたら終わりだ」と思い、タクシーを急発進させた[34]。Hはそのまま、徐行しつつ、助手席の窓を開け、Dに「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けた[34]。しかしDは、速足で歩きつつ、ショルダーバッグか、Hからいったん代金として受け取った、1万円札4枚を取り出し、「もう、お金はいらないから」と叫び、Hに投げつけた[34]。そして、Dは駆けだし、Hから逃げようとした[34]

これに対しHは、「優しく言えば付け上がりやがって」と逆上し、アクセルを踏み込み、タクシーを加速させ、Dを追い越し、前に回り込んだ[34]。Dの行く手を塞ぎ、車外に出たHは、立ちすくんでいたDの襟首を掴み[34]、持っていた果物ナイフを[10]、Dの喉元に突き付けた[34]

Hは、Dを後部座席に連れ込むと、右拳を握り締め、Dの顔面を勢い良く、計10発近く殴りつけた[34]。1996年9月14日午前2時10分頃[10]、Dが失神すると、Hはネクタイで、Dの首を絞め、窒息死させて殺害した[34]。その上で、Dが所持していた現金約56000円を奪った[10]

Dを殺害した後、Hは、「タクシーの座席が、血液や(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を、天井側部の手すりに結び付け、Dの遺体を、首吊りの格好で固定した[34]

Hはそのまま、タクシーを移動させると、10分ほどして[34]、広島県佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)の、国道433号旧道から、1mほど斜面を下った草むらに[11]、Dの遺体を投げ捨てるように遺棄した[34]

捜査

A事件の発覚

1996年5月6日午後4時半ごろ、広島市安佐南区沼田町大塚の、雑木林の中の林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)で、全裸で倒れている腐乱死体があるのを、山菜取りをしていた近くの住民が発見し、110番通報した[3][35]。後にAと判明したこの遺体は、10歳代後半から20歳代[36]、身長約155cmの女性で、18金のネックレスを着け、おかっぱぐらいの長さの髪を、紅いゴムひもで結んでいた[3]。遺体は、死後約2週間経過しており、広島県警察捜査一課・広島北警察署は、殺人・死体遺棄事件として、捜査を開始し[3]、遺体を司法解剖し、死因などを調べた[35]。現場は、広島駅から北西約10㎞の位置にあり、朝夕に幹線道路の迂回路として使用されていた以外、人・車の通行はほとんどない道だった[3]。そのため捜査一課は、車を使用した犯行とみて、不審な人物・車両の目撃者などを捜査した[3]

5月8日、広島県警は、広島北署に、女性死体遺棄事件捜査本部を設置し、164人態勢で捜査に当たった[37]。同日、捜査本部による捜査の結果、女性の血液型はO型で、盲腸には手術痕があることが判明した[37]

また、女性の上下6番目の大臼歯4本に[36]、治療痕があったことが判明したため、広島県歯科医師会に対し、該当する患者がいるかどうか、情報提供を要請した[37]。これを受け、広島県歯科医師会は、県内約1280の診療所に対し、女性の歯の状況を記した所見を送った[37]。また、女性の歯のうち、下側の5番目の小臼歯2本は、乳歯のままで、永久歯が出ない、「先天性欠如歯」だった[36]。これは、鑑定した歯科医師によれば、「数十人に1人の体質」だったため、広島県警も、大きな手掛かりとして、該当する女性患者がいないか、重点的に調べた[36]

捜査本部では、このほか、家出人の調査や、女性が身に着けていたネックレス・ピアスの入手先などを調べた[37]。その結果、家出人に関する情報は、県内外から58件寄せられた[36]。また、ネックレス・ピアスは、大手宝石店で売買されていたものであることが判明し、広島市内などの店舗に、捜査本部から照会がなされたが、遺体発見から1週間となる5月13日までに、購入先は判明しなかった[36]

現場周辺では、5月8日、捜査員80人が、遺留品を捜索したり、付近の住民らへの聞き込みを行ったが、身元の確認につながる、有力な情報は得られなかった[37]

5月13日、Aの母親と名乗る女性の声で、広島北署捜査本部に対し、「娘がいなくなっている」と電話があった[38]。これを受けて調べたところ、O型の血液型、遺体が身に着けていたネックレス・ピアスなどが、Aの特徴と酷似し、身長も一致したことから、遺体の身元はAである可能性が高まった[38]

そのため、捜査本部が、広島県歯科医師会に依頼し[38]、歯科医院のカルテなどを調査し[13]、歯の治療痕を確認した[38]。それに加え、A宅に残された髪などと、遺体の毛髪を照合したり[38]、虫垂炎の手術痕、胸のX線写真などを照合するなどして[13]、身元特定作業を実施したところ[38]、翌14日になって、遺体の身元はAと断定された[13][39]

捜査本部の調べや[13]、広高校定時制によれば[39]、Aは、4月9日に入学式に出席した[39]。その後、高校の新入生歓迎会があった4月16日までは[13]、学校に姿を見せていたが[39]、同日に登校後、そのまま帰宅せず、翌17日、広島県安芸郡音戸町(現・呉市)内から、自宅に電話したのを最後に、消息が途絶えていた[13]。欠席が続いたため、担任教諭が、A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話していた[39]。なお、Aの家族からは、捜索願は出ていなかった[39]

なお、Aは昼間、呉市内のファミリーレストランで、アルバイトの研修を受けていた[13]

広島北署捜査本部は、5月31日、Aの写真が入ったチラシ6000枚を製作した[40]。捜査本部は、このチラシを、呉警察署広警察署海田警察署西条警察署の各管内、広島市内の交番の掲示板などに張り出し、情報提供を求めた[40]

しかしその後、有力な情報はなく、未解決事件となっており、Hが自供した時点では、迷宮入り寸前だったという[24]

D事件の発覚

Dが殺害されてから5時間後[34]、9月14日午前7時ごろ、広島県佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)の、国道433号旧道から、1mほど斜面を下った草むらで、若い女性が仰向けに倒れて死亡しているのを[11][41]、犬の散歩中だった散歩中の近隣住民女性が発見した[42]。発見者女性は、近所の男性に連絡し、男性が119番通報した上で[42]廿日市警察署に通報した[11][41]。広島県警捜査一課は、遺体の状況などから、女性が絞殺されたと判断した上で、殺人・死体遺棄事件として、廿日市署に捜査本部を設置し、捜査を開始した[11][41]

現場は、広島駅から北西約25㎞の山間部で、周囲には民家が点在するが[11]、現場付近の旧道は、付近の住民が散歩で通る以外[42]、車や人の通りは少ない道だった[11]。現場周辺は、日ごろ静かな山間の集落だけに、「殺人事件なんてひとごとだと思っていた」と、住民らに対し、大きな衝撃を与えた[42]

捜査本部は同日、広島大学医学部で、遺体を司法解剖し、詳しい死因・身元などを調べた[11]。廿日市署の調べによれば、女性は20歳代から30歳代、身長約160cm、やや太り気味だった[11]。遺体に目立った外傷はなかったが[11][41]、顔がうっ血しており、14日未明に絞殺された後、現場に運ばれ、遺棄されたと推定された[41]。遺体の服装は、ベージュのタートルネック長そでセーター、えんじ色のスラックス姿で、髪は肩ほどまであり、緩いパーマをかけていた[11]。靴は、焦げ茶色の革靴を片側だけ履いていた[11]。左耳には、十字架の形をした銀色のピアスを付けており、右薬指には指輪をはめていた[11]

9月14日午後8時ごろ、Dの長女から、「母親と連絡が取れない」と、110番通報があった[16]。広島県警が、D宅マンションで指紋を採取し、遺体と照合した結果、遺体の身元は、13日に外出後、行方不明となっていた、広島市中区内の32歳女性Dと判明した[16][43]。それまでの調べでは、Dは6年前、前夫と離婚したが、その間に生まれた娘2人と、マンションで暮らしており、事件当時は、ナイジェリア人の男性と再婚していた[16]。身元確認を受け、捜査本部は、Dの13日夜から、14日未明にかけての足取りや、交友関係について、捜査を開始した[43]

また、捜査本部は、9月15日午前9時半から、遺体発見現場周辺を、約100人態勢で、遺留品などがないか捜索したが[43]、Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは、遺体周辺では発見されなかった[16]

逮捕・起訴

D事件で逮捕

Hは、犯行を重ねるにつれ、金を奪うことよりも、次第に人を殺す快楽に惹かれるようになっていった[23]。一連の4件の殺人は、事件を重ねるごとに、間隔が短くなっていった[23]

しかし、4人目の被害者の遺体が発見されたことで、事態は急展開した[23]。遺体の身元が確認された直後、「Dが、Hのタクシーに乗り込む姿を目撃した」という証言が[23]、捜査本部に寄せられた[34][23]。これに加え、Dが9月14日未明、事件2,3年前から親しくしていた、知人Hとともに、佐伯区内のホテルに投宿した後[8]、Hのタクシーでホテルを出ていたことが、ホテルへの聞き込みで判明した[1]

Dが行方不明になる直前、知人のHに会っていたことから、Hの犯行の線が強まったとして[18]広島県警察廿日市警察署捜査本部は[18]、D殺害をHの犯行と断定した[34]。そのため捜査本部は、1996年9月18日付で、殺人死体遺棄容疑で、Hの逮捕状を請求し[44][45][46]、行方を追った[18]

捜査が間近に迫ったことを察知し[26]、追い詰められたHは、自殺を考えたが、結局死にきれず、広島から逃亡した[23]

1996年9月20日早朝、山口県防府市内の国道2号では、当時「秋の全国交通安全運動」の一環などで、夜間・早朝の取り締まり強化のため、交通検問が行われていた[46]。この検問を、不審な乗用車が無視して突破しようとしたことから、山口県警察は、行き止まりに追い詰め、車を運転していた男を、防府警察署に任意同行した[46]。事情を調べた結果、車は同日未明、広島市中区幟町の路上で盗まれた盗難車であることや、運転していた男が、Hであることが判明した朝日新聞1996-09-22。これを受け、山口県警防府警察署は、窃盗容疑でHを逮捕した[46]。この逮捕後、Hは妻と離婚した[31][24]

1996年9月21日、取り調べに対し、Hは、「Dとは、2,3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから、遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述した[46]。これを受け、広島県警廿日市署捜査本部は、殺人・死体遺棄容疑で、Hを逮捕した[18][46][1]

C事件発覚

Hは、捜査本部の取り調べに対し、「8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で、Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30km離れた山県郡加計町(現・安芸太田町)加計まで連れて行き、首を絞めて女性を殺害し、山中に遺体を遺棄した」と自供した[8][9]

これを受け、捜査本部が、1996年10月1日、加計町加計の山中にて、滝山川(太田川支流)左岸の法面を捜索したところ[8]、正午過ぎになって[8][9]、コンクリート製の溝の中で、女性の白骨死体が発見された[9]。現場は、JR広島駅から北北西約30km、Dの遺体発見現場から北約20kmの位置で[9]、山間部を縫うように流れる、滝山川の東岸法面で、夜間はほとんど人通りがない、町道の脇だった[47]

女性の身元は、40歳代、身長約155cm、中肉中背、肩ほどまでの茶髪で、ブレスレット・指輪をつけており、Tシャツ・靴下が残っていた[8]。司法解剖の結果、女性の右上・右下の歯には、それぞれ1本ずつ、治療痕が確認されたことや、歯垢が溜まっていたことから、普段から喫煙の習慣があったことが推測された[47]。なお、Hは動機などについて、「女性は生前、九州訛りがあった」[8]、「女性を街で見かけ、顔を知っていた」[8][47]、「金銭上のトラブルがあり、女性から金を奪う目的もあった」と自供した一方で[8]、「住所・氏名は知らない」と供述した[8][47]

このことから捜査本部は、「Hは、広島市繁華街で、顔見知りの女性をタクシーに乗せ、人気のない郊外で首を絞める、という手口で、2人を殺害した」との見方を強め[47]、Hを殺人・死体遺棄容疑で再逮捕し[47]、本格的に追及する方針を固めた[8]

また、Hは、自分に不利な供述にも拘らず、「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と、現場の地図を丁寧に描き、被害者の似顔絵づくりも手伝っていた[24]。捜査本部は、その供述をもとに作成した、女性の似顔絵と、身に着けていた白い半袖Tシャツなどを公開し[47]、行方不明者名簿などから、遺体の身元特定を進めた[8]

捜査本部は10月3日、遺体の身元を、「広島市中区在住の40歳代女性」とほぼ断定した[48][49]。その上で、歯の治療痕や、Hの供述などから、裏付け捜査を進めた[48][49]

そして、10月4日、遺体の身元は、Hと顔見知りだった、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住、45歳無職女性Cと断定された[15]。Bは、事件の10年前から、宝町のマンションに住んでいたが、付近の繁華街で店員を務めていた、同居相手の男性曰く、9月上旬ごろから帰宅していなかったという[15]。近隣住民によれば、挨拶をきちんとするさっぱりした性格で、夜間に出掛けることが多かった[15]

B事件・A事件発覚

さらにHは、10月5日までに、「今年7月中旬か8月中旬の広島市中区の繁華街で、初めて会った女性に声をかけ、タクシーに乗せた」[5][50]、「その後、女性を、安佐南区内の太田川近くに停車したタクシー車内で、首を絞めて殺した。午後8時頃、遺体を道路沿いの川に遺棄した」[5]、「金が欲しかった。名前は知らない」と[50]、3件目の殺人を供述した[51][5][50][31]

この供述を受け、捜査本部が、10月5日夜、安佐北区白木町小越の山中道路脇を捜索したところ、午後8時50分頃、広島県道46号東広島白木線の脇を流れる、関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面から[6]、新たに女性の白骨遺体を発見した[5][50]。遺体は、20歳代から30歳代で、身長152cmから160cm、茶髪、半袖の青色ツーピース姿だった[5]。遺体付近には、18金の指輪が落ちていた[5]

Hは、これに加え、10月6日までに、「4月18日頃、20歳前後の女性を殺害し、広島市西区己斐峠周辺に遺体を遺棄した」と供述した[50]。Hは、この被害者女性について、「名前は知らなかったが、(遺体発見が報道された)前述のA事件も自分がやったと思う」と供述した[52]。A事件では、被害者の16歳女子高生Aが、4月18日から行方不明になっていたことに加え、Aの遺体発見現場は、己斐峠と約2kmしか離れておらず、地形的にも、Hの供述と一致した[50]。また、道路わきに遺体を遺棄するなど、手口がそれまでに判明した3事件と共通することから[5]、捜査本部は、A事件もHの犯行とみて、さらに追及を進めた[50]

なお、Cの遺体発見現場の加計町山中から、北西約30kmに位置し、国道191号で結ばれた、島根県美濃郡美都町宇津川(現・益田市美都町宇津川)の山中では[51]、同年8月27日[31]、国道191号沿いのガードレール下で[31]、30歳代から40歳代の身元不明女性の、腐乱した他殺体が発見されていた[51]島根県警察益田警察署捜査本部が当時、殺人・死体遺棄事件として捜索していたこの事件についても[31]、同じ国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど、Hの一連の事件と共通点が見られたため[51]、広島県警廿日市署捜査本部が、Hによる連続殺人事件と、何らかの関連性がないか、関心を寄せた[51]。しかし、Hはこの事件について、「事件は知っているが、やっていない」と供述し、関与を否定した[31]。結局、島根の事件については立件されなかった。

このように、Hが新たに2件の殺人を自供したことから、一連の事件は、過去にあまり例のなかった、女性を狙った連続殺人事件の様相が濃厚となった[31][注釈 1]。このことから、捜査本部は、1人目の遺体発見当時、100人体制だったが、50人を追加動員し、150人体制となった[6]。事件を担当した捜査員からは、「事件の広がりは予測がつかない」という声も出た[31]

Hが、A・C両事件を自白したのは、D事件の取り調べ中、捜査員に対し、D事件とは関係ない地名・日時を、自ら語ったことがきっかけだったことが、10月7日に判明した[52]。突然出てきた言葉を、捜査員が追及したところ、次第に話のつじつまが合わなくなり、Hは新たに、3人の殺害を自供し、遺体発見につながった[52]。捜査本部は、Hが短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱し、証言に矛盾をきたしたとして、さらに追及した[52]

10月7日、捜査本部は、5日夜に遺体で発見された女性について、似顔絵を公開した[52]。司法解剖の結果、遺体の推定年齢は、20歳代から40歳代で、血液型はA型、喫煙の習慣があったことが、それぞれ判明した[52]

取り調べで、Hは、「C・D事件は、金銭関係のトラブルが動機だった」[31]、『5日に遺体が発見された女性については、金目当てだった」と[30]、それぞれ供述した上で[31]、「被害者の女性にはすまないことをした。(自分の)人生には、もう夢も希望もない」と語った[31]

しかし、被害者から金を奪ったとはいえ、合計しても24万円程度であったため[17]週刊誌AERA』1996年10月21日号(朝日新聞社出版本部)では、「金目当てというより、諍いのうちに殺害し、金はついでに奪った、という方が正確なようだ」と報道された[24]

10月8日、5日に発見された白骨遺体の身元は、安佐南区八木在住、23歳女性Bと判明した[14][4]。捜査本部が着衣・似顔絵を公開したところ、Bの知人から情報が提供された[14]。歯の治療痕を、安佐南区内の歯科医が鑑定したところ、Bの治療痕と一致したため、Bの家族に確認し、着衣も含め、本人と断定した[14]

また、Hは、血痕の付着した、タクシー後部座席のカバーを、自家用車内に隠していたことが、捜査本部の捜査で判明した[30]

D事件で起訴

1996年10月12日、広島地方検察庁は、D事件で逮捕された被疑者Hを、強盗殺人死体遺棄罪で、広島地方裁判所起訴した[10]

C事件で再逮捕・追起訴

1996年10月15日、広島県警捜査本部は、Cを殺害し、現金を奪ったとして、D事件で起訴されていた被告人Hを、強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した[7]

1996年11月5日、広島地検は、C事件における強盗殺人・死体遺棄罪で、Hを広島地裁に追起訴した[53]

この頃までにHは、全面的に容疑を認めたが、取り調べで「どうせ、俺なんか」と、投げやりな発言をしていた[26]。この言葉は、『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面記事で、「大学入試など、人生での挫折経験を、自分で乗り越えることができず、『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を、心の奥底に、引きずって生きてきたことを表しているのだろう」と綴られた[26]

B事件で再逮捕・追起訴

1996年11月6日、広島県警捜査本部は、強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを再逮捕した[54]

1996年11月27日、広島地検は、Bを殺害し、現金を奪ったとして、強盗殺人・死体遺棄罪で、Hを広島地裁に追起訴した[55]

A事件で再逮捕・追起訴

捜査本部は、Hの供述に基づき、Aの遺体が発見された水路から、南に数km離れた山林内で、Aのバッグ・化粧品など、遺留品を発見した[56]

1996年12月4日、広島県警捜査本部は、Aを殺害して現金を奪い、遺体を遺棄したとして、強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを再逮捕した[32]

1996年12月14日、広島県警は、Hの供述に基づき、Aの遺体を遺棄したとされる、安佐南区沼田町大塚の現場を検証した[57]

1996年12月24日、広島地検は、A事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを広島地裁に追起訴した[58]。これにより、Hが自供した4件の殺人事件は、すべて起訴された[58]

刑事裁判(広島地裁)

初公判(1997年2月10日)

1997年(平成9年)2月10日、広島地方裁判所刑事第2部(谷岡武教裁判長)で、被告人Hの初公判が開かれた[59][60][28][61][62]

検察側は、冒頭陳述で、「Hは、『妻に消費者金融からの借金を知られたくない』と思う一方で、夜の繁華街で遊びたいという、相反する欲望から、約350万円もの借金を抱えた」[28]、「遊ぶ金欲しさに、繁華街で知り合った女性を狙った」と主張した[61]。その上で、連続殺人の動機について、「街で声を掛けた女性を殺しても、「『自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない』、ということから、(B事件以降は)『他人の死をも支配できる』という、一種の満足感・快感を覚えた」などと主張した[61][62]

また、Dの2人の娘が、「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と語っていたことも、検察側が明らかにした[28]

Hは、冒頭の罪状認否で、4件の強盗殺人・起訴事実について、全面的に認めた[23][59][60][61][62]

Hが、事実認定を争わなかったため、弁護人には、刑法第39条に基づく、心神喪失・心神耗弱による、無罪・死刑回避を狙う他に、手段はなかった[23]。弁護人は、「事件当時、Hは、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張し、被告人調書を証拠採用することを留保した[28]。その上で、精神鑑定申請も視野に入れ、争う姿勢を示した[28]

第4回公判(1997年4月23日)

1997年4月23日、第4回公判が開かれた[63]

検察側は、「Hは、『殺害した4人とは別に、別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする、検察調書を明らかにした[63]

検察調書によると、Hは、逮捕直前の1996年9月頃、広島市内の繁華街にいた、顔見知りの女性2人を、強盗殺人の対象として考えていた[63]

また、Hが、Dを殺害した容疑で逮捕された際、まだ発見されていなかったB・C両名について、遺体を遺棄した場所などを自供したことについては、「刑事から『他に隠していることはないか』と訊かれたので、警察が既に遺体の在処を把握していると思った。自分の情状のために、自分から言うのを待っているのだと思った」、「(被害者が)4人になることを話すのは、あまりにもセンセーショナルなので、自分なりに、自供する時期について迷った」と供述していたことも、検察調書で判明した[63]

Hのこの供述が、早期の事件解決のきっかけとなったが、事件を取材した作家・祝康成(現・永瀬隼介)は、この動機を、「Hの、何ともお粗末な勘違い」、「卑しい、自己本位の性根が透けて見える言葉だ」と非難した[34]

精神鑑定実施(1997年11月以降)

弁護人側は、1997年10月30日付で[64]、「検察側は、金銭目当ての犯行を主張するが、4人とも、奪った額は数万円程度だ。普通、この程度の額のために、強盗殺人を犯すとは考えられない」[64]、「動機がはっきりとしないため、責任能力の有無を問いたい」として、広島地裁に対し、Hの精神鑑定を行うよう請求した[65][66][64]

これを受け、1997年11月5日の第10回公判で[67]、広島地裁(谷岡武教裁判長)は、「各犯行状況を鑑みて、その動機をはっきりさせるためにも、精神鑑定が必要だ」として[64]、この請求を認める決定をした[67][65][66][64]

これにより、審理は一時中断し[23]、広島地裁が、精神科医山上皓(当時・東京医科歯科大学教授)に依頼し、精神鑑定を実施した[68][69]

精神鑑定採用(第11回公判、1999年2月24日)

1999年(平成11年)2月24日、広島地裁(谷岡武教裁判長)で、第11回公判が開かれ[70][68]、約1年3か月ぶりに、公判が再開された[70][69]

同日の公判で、精神鑑定の結果が報告・提出され、証拠採用された[70][68][69]。その鑑定結果は、弁護側の狙いとは裏腹に、「責任能力が認められる」というものだった[23][70][69]

精神鑑定を担当した山上は[68][69]、「Hの人格には、著しい偏りがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような、病的なものとはみなされない」という結論だった[23][68][69]

また、精神鑑定では、Hが殺人に至った動機について、解明が試みられ、「Hは、男性としての自身に欠けたとする挫折感を抱き、『暴力犯罪の空想などで、強い男性像を示したい』という性癖があった。犯行は、この空想を実際に移したものである」とされた[23][70]

Hの挫折感は、青春時代に経験した、大学受験の失敗などの挫折に端を発しており、そこで自分自身に失望した半面、絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており、自分の力を証明する方法として思いついたのが、女性を殺害することだった[23]

弁護人側は、「鑑定書には疑問点や、確認したい点がある」として、山上の証人申請をした[68]

検察側・論告求刑(1999年10月6日)

1999年10月6日、広島地裁(戸倉三郎裁判長)で、論告求刑公判が開かれ、検察側はHに対し、死刑を求刑した[71][72][73][74][75]

論告で、検察側は、「A事件以降、自分に捜査の手が及ばなかったことから、自信を深め、遊興費などを得ようと、さらに女性を物色し、次々に殺害・遺棄した」[75]、「落ち度のない4人を次々に殺害した、自己中心的な犯罪だ。犯罪史上稀に見る、残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない」[73]、「わずか5か月間に、4人もの女性を殺害した、凶悪な犯行だ。社会に与えた影響は大きく、自らの生命をもって償うしかない」と指弾した[71]

弁護側・最終弁論(1999年11月10日)

1999年11月10日の公判で、弁護人による最終弁論が行われ、結審した[76][77]

弁護人側は、精神鑑定結果に異議を唱えた上で、「Hは、最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで、自暴自棄の心理状態にあった」と主張した[23][77]。これに加え、「被告人は、捜査・公判とも、誠実に協力しており、死刑は重過ぎる」と主張し[12][78]、情状酌量による死刑回避を訴えた[76][77]

しかしこれは、自ら死刑を望んでいた、Hの希望に反するものだった[23]。最終弁論後[79]、最終意見陳述が行われた[76][77][79]

その陳述の場で、連続殺人鬼として法廷に立ったHは[25]、「すべて自己中心的な犯行で、一切弁解の余地はありません」[79][23][77][76]、「今すぐ命を絶って詫びたいが、それでも、被害者・遺族から許されるとは思っていない」と述べた[79][77]

Hはその上で、「(死刑の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで、被害者の恐怖と苦痛の何分の一かを味わえる」[79][77]、「(死刑判決を受け)、一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」[79][77][80][12][78]、「自分はいったい、何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えると辛く、悲しい気持ちでいっぱいです」と[79]、涙を流しながら、懺悔の言葉を述べ[25][79]、自ら死刑を希望する意思を示した[23][77][80][12][78]

作家・祝康成(現・永瀬隼介)は、この事件の刑事裁判を取材し、最終弁論・最終意見陳述を傍聴していた[79]。その後、祝は、広島拘置所に収監されていたHから、手紙を受け取った[79]。Hは一貫して、弁護人以外との面会を拒否しており、祝に手紙を送ったのも、この1度だけだったが[79]、その手紙には、「(逮捕されてから)これまでの3年間、何回となく、否、何百回と想い悩み、そして苦しんで、眠れぬ夜も幾多あったかわかりません。しかし、今日、ここに至っては、もう何も申し上げることはありません」[79][25]、「これまで、担当の弁護士以外、どなたともお会いしておりませんし、手紙などのやり取りもしておりません。今後もお願いするつもりはありません」と綴っていた[79]

永瀬は後に、市川一家4人殺人事件犯行当時少年の死刑囚を追ったノンフィクション小説『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で、「市川一家4人殺人事件の死刑囚は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている[25]

死刑判決(2000年2月9日)

2000年(平成12年)2月9日、判決公判が開かれ[80]、広島地裁(戸倉三郎裁判長)は、検察側の求刑通り、Hに死刑判決を言い渡した[81][82][83][12][78][84][17][85][86][87][23]

死刑判決を言い渡す際は、判決主文を後回しにし、判決理由から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は、異例の冒頭主文宣告を行った[82][83][84]

広島地裁は、主文言い渡し後、判決理由にて、「教師を目指していた被告人が、大学受験の失敗や、結婚後の妻の病気へのストレスから、行き場のない挫折感を募らせていった境遇には、同情の余地がある。しかし、わずかな金を奪うため、人の生命を奪ったのは、あまりにも短絡的で、最大限の非難に値する」[84]、「犯行は冷酷非情で、被害者の無念さは想像を絶する」[12][78]、「短期間に4人の命を奪った、まr寧見る凶悪事案だ。計画性は明白で、酌量の余地はない」と[17]、厳しく指摘した[84]。その上で、量刑について「被告人Hは、反省の情を示しているが、刑事責任は極めて重い」[12][78][17]、「死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを、十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」と述べた[84][17]

判決を言い渡した後、戸倉は、Hに対し、「被害者・遺族に対する謝罪の気持ちは、心の底から出たものと信じている」[83]、「殺される理由のなかった被害者への、謝罪の気持ちを持ち続けてください」と声を掛けた[23][84][17]

判決を傍聴した被害者遺族からは、「死刑は当然。絶対に許せない」、「Hは、法廷で謝罪したが、もっと早く謝ってほしかった。死刑判決が出たことで、娘の墓前に報告できる」など、犯行への憤りや、判決を評価する声が相次いだ[84][83]

また、Hの元同僚であるタクシー運転手は、「公判を度々傍聴したが、Hが自ら、死刑を望む発言を繰り返していたのが印象的だった。死刑はやむを得ないだろう」と述べた[83]

甲斐克則広島大学法学部教授(刑法)は、「最高裁が、死刑適用に慎重になっている流れに逆行するものだ。確かに犯行は悪質で、被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は、自首の成立や、犯行後の改悛の情を認めており、『永山基準』など、それまでの判例が示した、死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」として、判決に疑問を呈した[83]

一方、藤田浩・広島経済大学経済学部教授(比較憲法)は、「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では、被告人の自供もあり、冤罪の可能性は低い。犯行の悪質さ、被害者感情などを考えると、死刑はやむを得ないのではないか」と評価した[83]

弁護人が控訴断念

弁護人は、情状酌量による死刑回避を求めていたが、「予想されたとはいえ、厳しい判決だ。控訴するかどうかは、被告人と早急に接見して決めたい」とした[84]

Hは公判後、収監されていた広島拘置所で、弁護人・二国則昭弁護士らと面会した[88]。Hは、弁護人らに対し、広島高等裁判所への控訴をしない意思を伝えたため、弁護人らは、控訴を断念する方針を決めた[88]

控訴せず死刑確定(2000年2月24日)

Hは、控訴期限の2000年2月24日午前0時までに、広島高等裁判所に控訴する手続きをしなかったため、そのまま死刑判決が確定した[23][25][89][90][91][92]

死刑執行

2006年(平成18年)12月25日法務省法務大臣長勢甚遠)の死刑執行命令により、収監先の広島拘置所で、死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された[19][20][21][22]

同日には、東京拘置所でも死刑囚2人、大阪拘置所でも1人と、Hを加え、計4人の死刑が執行された[19][20][21][22]

死刑囚4人に対する同時執行は、1997年8月1日、法務大臣・松浦功の死刑執行命令により、永山則夫永山則夫連続射殺事件)や、夕張保険金殺人事件の死刑囚2名ら、計4人に対し、死刑が執行されて以来、9年4カ月ぶりだった[19]

国家賠償請求訴訟

広島弁護士会所属の弁護士・足立修一は、死刑執行11日前の2006年12月14日、再審請求についての説明・意思確認を行おうと、広島拘置所に、Hとの接見を申し入れた[93][94]。しかし、広島拘置所職員は、「Hは現時点で、再審請求をしていないため、接見は認められない」として、足立の申し入れを拒否した[93][94]。足立はこれに対し、「弁護士が接見に来ていると、本人に伝えたのか?」などと問い合わせたが、職員は「これ以上話はできない」などと拒んだ[93][94]

足立は、職員のこの対応を不当と訴え、国を相手取り、慰謝料など約180万円の支払いを求め、2007年8月2日付で、広島地裁に国家賠償請求訴訟を起こした[93][94]。足立は提訴後、記者会見で、「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されており、そこに光を当てたい」とコメントした[93]

広島地方裁判所(金村敏彦裁判長)は、2009年12月24日、足立の請求を棄却する判決を言い渡した[95]。広島地裁は判決理由で、「死刑確定者は、刑事訴訟法でいう、『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは、再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には、Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた[95]

原告である足立は、判決を不服として即日控訴したが[95]、控訴審・広島高等裁判所も、第一審の判決を支持し、控訴を棄却した[96]

最高裁判所第一小法廷桜井龍子裁判長)は、2011年10月13日付で、足立の上告を退ける決定をしたため、足立の敗訴が確定した[96][97]

事件の影響

廿日市警察署の対応

捜査本部が置かれた廿日市警察署(署長:吉村一彦、署員115人)では、9月14日、Dの遺体が、管内の湯来町内で発見されたのを受け、150人態勢の捜査本部が設置された[98]。この際、同署からも、刑事課を中心に、多くの捜査員が本部入りした[98]

当時、管内での殺人事件の発生は、1993年8月以来だった[98]。また、署が保有していた、1897年(明治30年)以来の資料では、連続殺人事件が発生した記録はなかったため、1874年(明治7年)の設立以来、前代未聞の大事件となった[98]

それだけでなく、10月12日に開幕を控えた、秋の国民体育大会(国体)会場のうち、柔道・剣道・産学の各競技が、廿日市署管内にあった[98]。廿日市市スポーツセンターで行われた柔道協議には、天皇皇后両陛下が、見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った[98]

また、新制度下における初の国政選挙となった、第41回衆議院議員総選挙(10月20日投開票)では、激戦の広島県第2区にて、刑事課17人中3人が、選挙違反の監視を、専従で行った[98]

このように、かつてない忙しさに見舞われた廿日市署では、署員から「目が回る」と悲鳴が上がった[98]。吉村署長は、「事件では、捜査一課との連携も上手くいっている。いろいろと重なり、きついのは確かだが、署員の士気も上がっており、今後も最善を尽くす」と語った[98]

広島県タクシー協会の対応

事件を受け、広島県タクシー協会(会長:濱田修)は、1996年10月11日、広島市西区内のホテルで、緊急会議を開き、広島市内60社のタクシー会社の経営者ら、約100人が出席した[99]。濱田会長は、「今回の事件で、市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するため、協会が一段となって努力していこう」と話した[99]

経営者からは、「最近、乗務員の接客態度が悪いという苦情が、多く寄せられる。事件を機に、乗務員の再教育を徹底すべきだ」といった意見などが出された[99]

最後に、協会に加盟する、広島市内の全タクシーに、お詫びの文章を車内掲示することが決まった[99]。協会はその後も、他の地域でも会議を開き、信頼回復を呼び掛けた[99]

タクシー会社への風評被害

警察発表・新聞報道などでは、Hの勤務先だった、車両数約30台のタクシー会社について、詳細な住所は発表されなかった[100]。しかし、電話帳の情報や、会社の建物写真などから、勤務先はすぐに特定されてしまった[100]

事件後、ある運転手は、客から「湯来町まで行ってくれ」と、遺体が遺棄された現場に行くよう指示されたが、これは嫌がらせで、本来の目的地は別だった[100]。この他にも、無言電話・嫌がらせ電話などがかかるなどしたため、社員が退職したり、休みを取ったりした[100]

Hの元上司は、『朝日新聞』広島総局の取材に対し、「彼(H)の起こした事件に、責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考え、会社をつぶさないようにするだけでも必死だった」と振り返った[100]。その後、12月時点では、事件に関する電話は少なくなり、売り上げは落ちたが、社内の結束は強くなったという[100]

『朝日新聞』記者・樫山晃生は、「新聞・テレビの報道では、会社は匿名で報道されたが、ダメージを受けることとなってしまった」、「真実を伝えなければならないが、何気なく書いたことでも、思わぬ影響を与えることがある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と、身が引き締まる思いがした」と振り返った[100]

新天地公園の現在

また、事件後、若い売春婦は、携帯電話でなじみ客と連絡を取り合うようになった[79]。そのため、事件から4年が経過した2000年現在、Hが被害者らを物色した新天地公園に立つことは、めったになくなったという[79]

参考文献

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    • 祝康成(現・永瀬隼介)が、『新潮45』2001年1月号に寄稿した、本事件についての記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。
  • 永瀬隼介(祝康成からペンネーム変更)『19歳 一家四人惨殺犯の告白』角川文庫、2004年8月25日、217-218頁。ISBN 978-4043759019 ref=永瀬(2004){{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 

脚注

注釈

出典

※出典見出し中のうち、死刑囚・被害者の実名部分はそれぞれ、死刑囚の姓イニシャル「H」本文中で使われている仮名に置き換えている。
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  98. ^ a b c d e f g h i 『朝日新聞』1996年10月11日朝刊広島県版「連続殺人・国体・選挙で大忙し 署員たち『目が回る』/広島」
  99. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年10月12日朝刊広島県版「車内におわび文書 タクシー協会、連続殺人で緊急会議開く /広島」
  100. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1996年12月25日朝刊広島県版「マツダ・フォード提携 連続女性殺人事件(96取材現場から)/広島」「連続女性殺人事件の余波 同僚運転手ら迷惑、会社には嫌がらせ電話」(記者:樫山晃生)

関連項目