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皇后美智子

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皇后美智子
Empress Michiko cropped 20140424.jpg
2016年1月28日 フィリピンのマニラにて
続柄 正田英三郎第一女子
全名 美智子(みちこ)
身位 皇后
敬称 陛下
お印 白樺(しらかば)
出生 (1934-10-20) 1934年10月20日(82歳)
日本の旗 日本 東京府東京市本郷区
(現・東京都文京区本郷)、
東京帝国大学医学部附属病院
配偶者 今上天皇
子女 皇太子徳仁親王(浩宮徳仁親王)
秋篠宮文仁親王(礼宮文仁親王)
黒田清子(紀宮清子内親王)
父親 正田英三郎
母親 正田富美子
役職 日本赤十字社名誉総裁
国際児童図書評議会名誉総裁
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皇后美智子(こうごう みちこ、1934年昭和9年〉10月20日 - )は、今上天皇皇后。旧姓は正田(しょうだ)。皇室典範に定める敬称陛下日本赤十字社名誉総裁国際児童図書評議会名誉総裁。

略歴

少女時代

1940年(昭和15年)頃の正田美智子

1934年(昭和9年)10月20日日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現:東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生[1]

大和郷(やまとむら)幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県の乃木高等女学校附属小学校(現:藤沢市湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現:館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍[2]転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。

小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、スポーツが得意な女の子だった[3]。また、ピアノ絵画料理香道も習っていた[4]

1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の人気子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだった事から「テンプルちゃん」や[5]ミッチ」「ミチ[4]と呼ばれていた。

1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業[6]。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長[7]、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた[8]卒業式では、総代として答辞を読んだ[9]。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた[10]。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした[11]。昭和29年度の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)。大学卒業後にフランス語の勉強をしながら19世紀児童文学の研究を続けていた[12]。なお、同大学のキャンパスは元来は久邇宮邸があり、香淳皇后が幼少期を過ごした地であり、裕仁親王(後の昭和天皇)との結婚の折にはこの地から宮中に向かったとされており、2代続けて皇后に縁のある大学であることになる。

同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は美智子の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、皇太子妃には旧皇族華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代であり、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようである。

1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。

同年11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました。」と回答。これは当時の流行語にもなった[13]。また第一印象について「ご清潔な方」とした。清楚で知的な美貌を持った美智子の姿は絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等のミッチー・ブームが起こる。テレビ放送の受信台数も急増した。

常磐会・旧華族からの反発

皇太子妃皇族五摂家(伯爵以上)といった特定の華族から選ばれるのが習わしとされており、平民から妃を迎える、ということが考えられなかった時代であり、1958年(昭和33年)の正田美智子嬢入内と、それに伴って巻き起こったミッチー・ブームは、香淳皇后や、常磐会会長の松平信子秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子柳原白蓮、旧皇族・旧華族らに強く反対された。特に、秩父宮妃勢津子の実母である松平信子は当時、宮内庁内で絶大な発言権と政治力を有しており、その権勢は時の皇后をも凌ぐといわれ、「影の昭和の女帝」または「昭和の妖怪」と恐れられていた。『入江相政日記』によると、松平信子が中心となって御婚儀反対を叫び、愛国団体をも動かした。」とあり、美智子の正家である正田家自体に圧力をかけていた。更には、美智子が2人目の子を流産してしまった際には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」などと自身から罵詈雑言を浴びせていた。皇族久邇宮家出身の皇后良子(当時)は、夏御殿場[注釈 1]に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん。」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えた。翌月の皇室会議では、猛反対をしていた秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。旧皇族の梨本伊都子は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」と記している。ただ、この結婚に理解を示した昭和天皇の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった[14]

皇太子妃時代

1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ昭和天皇香淳皇后、皇太子同妃美智子
お印に選ばれた白樺
1979年(昭和54年)10月、訪時にベアトリクス女王夫妻と
1987年(昭和62年)10月、訪時にロナルド・レーガン大統領夫妻と

1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めての民間出身[注釈 2]の皇太子妃となる。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった[15]。お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした[16]

晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる[17]。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという[18]

一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃[注釈 3]して取り押さえられる事件が起こった。

1960年(昭和35年)2月23日に第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。出産後、昭和天皇香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。

1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ[19]。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説「美智子さま」の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された[20]。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた[20]。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連付け、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる[20]。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった[21]。7月8日から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の山口国体から、段階的に公務に復帰した。

1964年(昭和37年)皇太子明仁親王と共に 東京オリンピックにて

1965年(昭和40年)11月30日、第二男子礼宮文仁親王誕生。

1969年(昭和44年)4月18日、第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。

これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した[注釈 4]

1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。

1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪は中止になった。手術の際も皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断はぎりぎりまで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。晩年の昭和天皇一家の写真にて、美智子妃が腰を悪くしていた香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃とは共にマラソンを観戦した姿も目撃、報道された[22]。また文仁親王・清子内親王は高松宮妃と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。

皇后時代

2002年(平成14年)1月米国ジョージ・W・ブッシュ大統領夫妻と会談

1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。

1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日赤坂御所にて倒れる。同年の『宝島30』8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた[23][24]島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、今上天皇夫妻を昭和天皇に比して華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々美智子皇后がミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくないという批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも皇后に対するバッシング記事が掲載された[24][25]。宮中の最高権力者となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる[24]。このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった[24][25]。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになったとされる[24]。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している[25]。また回復時の第一声は「もう大丈夫、私はピュリファイ(purify、浄化)されました」であった。

1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。

1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い、兵庫県神戸市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者を労る様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。

1998年(平成10年)、インドニューデリーで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本神話に触れ、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、IBBYの本部があるスイスバーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。

2002年(平成14年)10月20日、皇后の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように北朝鮮による日本人拉致問題についてコメントした。「小泉総理北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います[26]」。

2005年(平成17年)10月20日清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという[27]

2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。

「国民に開かれた皇室の想起者」という評価もされるが、一方で数々の発言・行動に見られるように「伝統を守る」ことも大切にしている。また訪問相手・周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は多くの人々に感銘を与えている。

2009年(平成21年)7月15日、米国ハワイホノルル第二次世界大戦太平洋戦線戦没者慰霊碑に礼をして。

しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された[28]

2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館東京都足立区)を訪問し、膝をつきながら、一人一人を親しく激励した。

2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から、徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院で精密検査を受診すると発表した。同病院で、冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している[29]

外国訪問

本項では皇后として単独での外国訪問について取り上げる。今上天皇との夫妻での外国訪問については明仁#外遊歴(平成以降)を参照。

1987年(昭和62年)今上天皇と共に アメリカ・メリーランド州アンドルーズ空軍基地にて

逸話

少女時代

  • 非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。
  • 学生時代に学校において出会ったアイルランド修道女たちに深い思いを寄せており、一人一人の顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。

天皇に関するもの

戦後新憲法日本国憲法第1章)により,天皇のご存在が「象徴」という,私にとっては不思議な言葉で示された昭和22年(1947年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を,ただそのままに受け止めておりました。御所に上がって50年がたちますが、「象徴」の意味は、今も言葉には表し難く、ただ,陛下が「国の象徴」また「国民統合の象徴」としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます[31]

成婚に関するもの

  • 1955年(昭和30年)- 1956年(昭和31年)頃、東京銀座の小料理店「井上」2階にて、独身時代の三島由紀夫と“見合い”風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。『週刊新潮』2009年(平成21年)4月2日号)。
  • 皇室に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭に軽井沢から取り寄せたその苗木を自ら植えた[16]
  • 成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が「祝典行進曲」を作曲した。この曲は後に紀宮清子内親王が降嫁する際、皇居から帝国ホテルへ出発する内親王を送るためにも演奏された。
  • 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、この事に関し2004年(平成16年)の誕生日に次のように発表した[32]
    • 「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。
  • 結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年に、刀剣では最初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王礼宮文仁親王の守り刀も彼の作である。

家庭・育児に関するもの

  • 苦しい日々にあっても優しさを忘れず、「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置。後に浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの弁当もこの厨房で自ら作ったこともある。宮中晩餐に関しては食材選びからメニューの選定まで、細心に心を配るという。
  • 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。なお、後の礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。
  • いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている[32]
  • 第2子流産の折には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」といった批判[誰?]もあった。この痛手から回復する過程において、ハンセン病患者や戦争の犠牲者への理解、慰めの心を深めたといわれる。[独自研究?]
  • 教育方針は丁寧ではあったが、過保護ではなかった[独自研究?]礼宮文仁親王がアオダイショウを追いかけ、紀宮清子内親王に捕まえるように言った際には、アオダイショウが無毒と分かると清子内親王に追いかけるように言ったというエピソードも残る。[要出典]

祭祀・公務などに関するもの

2005年(平成17年)12月、天皇誕生日の一般参賀にて天皇と共に
2013年(平成24年)新年一般参賀 皇居にて
  • 天皇行幸の際には、ほぼ常に同行している(行啓)。そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば2007年(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。
  • 明治以来の歴代皇后が行ってきた養蚕(皇后御親蚕)を継承している。紅葉山御養蚕所において奈良時代から飼育され続けてきたの品種「小石丸」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てた事もある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、内親王たちの着物に仕立てられたという。
  • 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」[注釈 5]では、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では幼少の頃に家族から聞かされた童話として新美南吉の「デンデンムシノカナシミ」を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年には、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼルより-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。
  • 戦没者慰霊の地に赴き、和歌を詠んでいる。

他の妃・皇孫に対するもの

  • 紀子妃は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。
  • 皇太子徳仁親王の結婚の際には、雅子妃ルビーの指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、香淳皇后から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、紀子妃に真珠の指輪を贈った。
  • 2006年(平成18年)2月、紀子妃の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤帝王切開が必要なことがわかると、それを心配する言葉を寄せた。
    • 無事に悠仁親王が誕生すると、皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは秋篠宮家で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた[33]
  • また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王との面会や彼女の着袴の儀を楽しみにしている旨を発表[34]。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮」と呼ばずに「愛子」と呼んでいる。

その他

プリンセス・ミチコ(1966年
1987年(昭和62年)、レーガン大統領夫人と皇太子妃美智子(当時)
  • イギリスのディクソン社からプリンセス・ミチコというバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。他にエンプレス・ミチコというバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。
  • 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」等ともいわれて[誰?]いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどリフォームをして繰り返し着用しているという[35]
  • 公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦等)をあしらったり、訪問先の国花・都道府県花等を身につけたり、国旗を意識した配色の衣服を着用する等の気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、1985年・1988年・1990年の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。植田いつ子らがデザイナーとして知られる。
  • 1992年(平成4年)に、山形県において開催された秋の国体べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して天皇をかばうなど[注釈 6]、常に天皇を気遣っている。
  • 宮内庁職員組合文化祭には白木華子(=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子内親王も「川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ)」の名前で出品した。
  • 音楽に造詣が深く、学生時代よりピアノが得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニスト中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている[36]。またピアニスト・田中希代子の演奏を愛し、1996年(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほかハープも得意とする。ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)のカナダ訪問時に訪れたトロントの小児病院では子供たちを前に、子育てのとき子供たちに歌って聞かせた「揺籃のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)を歌唱した。
1958年(昭和33年)、ピアノを演奏する皇后美智子(正田美智子)
  • 1999年(平成11年)、父・正田英三郎の死去に伴い、東京都品川区東五反田五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続の対象になった際は、相続権を放棄。正田邸跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭」になっている。
  • 元宮内庁担当記者の板垣恭介は、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい!」などと下世話な掛け声をかけながらテニスをするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した[17]。板垣は夫妻のメキシコ訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある[21]

発言

  • 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - 1958年(昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評
  • 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - 1960年(昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で
  • 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - 1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」をふまえ
  • 「平成初めての大会に当たり、昭和22年以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - 1989年(平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて
  • 「変化の尺度を測れるのは皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」
  • 「どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」 - 以上1994年(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだという指摘に対して
  • 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - 1995年(平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて
  • 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があって良かった、と、国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたいと思っています」 - 1996年(平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて
  • 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しを頂いて加わりました」 - 1998年(平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して[37]
  • 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - 2002年(平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて[26]
  • 清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - 2005年(平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に[38]
  • 東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - 2006年(平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて[39]
  • 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - 2007年(平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらという問いに対し[40]
  • 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、「妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい」という、私の以前の言葉に変わりはありません」
  • 「この頃愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、「これは面白がっているな」と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります。思い出して見ると、眞子や佳子が小さかった頃にも、同じようなことが、度々ありました」 - 2008年(平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて[41]
  • 「この度も私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - 2009年(平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ[42]
  • 「東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会を度々に頂き、また成人となってからは、陛下をお助けする中でそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて[43]
  • 「これがミクちゃんですか」 - 2013年(平成25年)8月20日六本木ヒルズ森美術館でのLOVE展にて[44]
  • 「80年前,私に生を与えてくれた両親は既に世を去り,私は母の生きた齢としを越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に,同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は,私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。」 - 2014年(平成26年)10月20日、皇后誕生日に際し、80年の傘寿を迎えて[45]

皇子女

天皇一家と諸王

今上天皇との間に、3子がいる。

御名 誕生 成婚 子女
浩宮徳仁親王 1960年(昭和35年) 1993年(平成5年)6月9日 小和田雅子 敬宮愛子内親王
礼宮文仁親王 1965年(昭和40年) 1990年(平成2年)6月29日 川嶋紀子 眞子内親王
佳子内親王
悠仁親王
紀宮清子内親王 1969年(昭和44年) 2005年(平成17年)11月5日 黒田慶樹

生家・正田家

正田貞一郎の家族
前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ、四男・順四郎、後列右から三男・英三郎、長男・明一郎、義弟・卓治、二男・建次郎

系譜

  • 『正田貞一郎小伝』9-21頁によると、
    • 「徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重家臣生田隼人[注釈 7]となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。
    • 後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、延享寛政の頃といわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。
    • 正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、大阪方面まで聞こえていた。弘化の頃(1844年 - 1847年)には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。
    • 文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。文右衛門は明治6年(1873年米穀商を辞め、醤油醸造業を始めた。」という。
  • 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)385-386頁によると、
    • 「そもそも正田家のルーツは群馬県館林の在。“開かれた皇室”を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した小泉信三は、正田家を三百年前までさかのぼって調べたという。
    • 郷土史家によれば“正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人[注釈 7]までいきあたる”というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)からである。
    • この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は“米文”の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、“亀甲正”という商号で新しく醤油醸造業を始めた。」という。
(三代)
正田文右衛門━┳━正田文右衛門
       ┃              ┏━正田明一郎
       ┃              ┣━はる
       ┗━正田作次郎━━正田貞一郎 ┃
                  ┃   ┃
                  ┃   ┃
                  ┣━━━╋━正田建次郎
                  ┃   ┃  ┣━━━━正田彬
                  ┃   ┃
                 きぬ   ┃
       (五代目・正田文右衛門の長女)┣━勅子
                      ┣━正田英三郎
                      ┃  ┣━━┳━正田巌
                      ┃ 冨美子 ┣━美智子
                      ┃     ┣━恵美子
                      ┣━祐子  ┗━正田修
                      ┣━正田順四郎
                      ┣━正田篤五郎
                      ┗━和子

正田邸

1958年(昭和34年)4月10日の正田家一族と正田邸
旧正田邸跡地の公園ねむの木の庭。(2007年)

皇后が家族と共に、出生から結婚までの半生を過ごした正田邸は、昭和初期に皇后の父である正田英三郎が構え、清水組によって建設された洋館である。竣工当時は、比較的シンプルなデザインであったが、重層的な増築により、屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのモダニズム建築の要素も加えられた。近世イギリスのテューダー朝形式の英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せる北欧のハーフティンバー様式のデザインは典型的な上流邸宅しても建設された。邸内は客室兼書斎の中央にマントルピースが備わっており、居間にはシャンデリアなどもあり、和室なども存在した[46]

約70年間保存されてきた貴重な建造物であったが、2003年(平成15年)3月に老朽化を理由に解体された。2004年(平成16年)8月26日に、「旧正田邸跡地」「皇后美智子の生家跡」とされ、後に自由公園であるねむの木の庭が建設された。現在では、公園用地として品川区が運営している。公園名の由来は、皇后が聖心女子高等学校時代に作った詩である「ねむの木の子守歌」にちなんで名付けられた。旧正田邸の門扉を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。園内には、皇后が歌会始で詠んだやまぼうしねむの木ライラックや、皇后のお印である白樺などが植えられている。また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇プリンセス・ミチコも、初夏と秋に咲いている。

栄典

日本

外国

名誉役職

著作

和歌・発言集

児童関連楽曲・書籍

  • 『はじめての やまのぼり』絵 武田和子 至光社 1991年、ISBN 9784783401995
  • 五木の子守唄 鮫島有美子』 Denon、1992年(作詞した「ねむの木の子守歌」を収録、作曲は山本正美
  • 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、1995年(楽譜、19曲目に作詞曲を収録)
  • 『どうぶつたち (The Animals):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年9月、ISBN 978-4-915777-06-6
  • 『ふしぎなポケット (The Magic Pocket):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年6月、ISBN 4-915777-21-9
  • 『橋をかける--子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、1998年11月 ISBN 4-915777-22-7文春文庫、2009年4月、ISBN 978-4-16-775381-8
  • 『バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、2003年2月、ISBN 4-915777-34-0(第2版)

出典・注釈

注釈

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  1. ^ 通常は避暑地として使われた秩父宮家の別邸。
  2. ^ 士族以下の意。ただし徳川氏の遠祖新田義重の重臣である徳川郷郷主生田氏の家系であり、南北朝時代まで遡ると家格は決して低くない。
  3. ^ 午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。犯人は長野県上伊那郡長谷村(現伊那市)出身で県立伊那北高校卒業の19歳の浪人生。走って馬車に接近、一発投石した。石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁丸の内警察署に逮捕された。この模様はそのままテレビで生中継された。犯人は練馬区の東京少年鑑別所に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、未成年者であったこともあり保護観察処分となり釈放された。
  4. ^ 大正天皇貞明皇后の時代より改革が行われ、続く昭和天皇香淳皇后女官制度廃止・乳母は置いたがほぼ母乳で育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。
  5. ^ このビデオ講演は、NHK教育テレビETV特集(現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。出雲大社社務所では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。
  6. ^ この時の様子は津川雅彦小林よしのりも証言している[1][リンク切れ][2]
  7. ^ a b 重幸。生田隼人は当主の代々名。

出典

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  1. ^ 歴代皇后125代総覧423頁
  2. ^ 軽井沢観光協会公式ホームページ 軽井沢を知る 軽井沢と皇室”. 2016年4月11日閲覧。
  3. ^ 歴代皇后125代総覧424頁8行目
  4. ^ a b 週刊朝日』1959年4月12日号
  5. ^ 歴代皇后125代総覧424頁5行目
  6. ^ 歴代皇后125代総覧424頁11行目
  7. ^ 歴代皇后125代総覧424頁12行目
  8. ^ 歴代皇后125代総覧424頁13行目
  9. ^ 歴代皇后125代総覧424頁14行目
  10. ^ 歴代皇后125代総覧424頁15行目
  11. ^ 歴代皇后125代総覧425頁1行目
  12. ^ 歴代皇后125代総覧425頁5行目
  13. ^ (板垣 2006, p. 22)
  14. ^ 講談社『美智子さまと皇族たち』(河原敏明・1994年)44項~46項
  15. ^ 朝日新聞』2009年3月9日 「ご成婚パレード「儀装馬車」展示 京都御所の特別公開で」 - ウェイバックマシン(2009年4月16日アーカイブ分)
  16. ^ a b 皇室の系図-皇室とっておき”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2016年1月29日閲覧。
  17. ^ a b (板垣 2006, pp. 26-33)
  18. ^ (板垣 2006, p. 49)、『入江相政日記』1967年(昭和42年)11月13日。
  19. ^ 『朝日新聞』1963年3月23日「美智子妃お疲れのかげに‥興味本位の雑誌記事 “守られぬ皇室の人権”」
  20. ^ a b c (板垣 2006, pp. 34-40)
  21. ^ a b (板垣 2006, pp. 41-49)
  22. ^ FOCUS』昭和57年12月3日号
  23. ^ 大内糺 「皇室の危機-「菊のカーテン」の内側からの証言」『「皇室の危機」論争』 宝島30編集部、宝島社、1993年11月、5-34頁。ISBN 4-7966-0714-5
  24. ^ a b c d e 島田雅彦 『おことば 戦後皇室語録』 新潮社2005年、192-193頁。ISBN 4-10-362207-5
  25. ^ a b c (板垣 2006, pp. 196-199)
  26. ^ a b 宮内庁 2002年10月20日「皇后陛下お誕生日に際し(平成14年)」
  27. ^ 読売新聞』2005年11月16日「嫁ぐ朝 強く抱きしめ『大丈夫よ』皇后さま」[リンク切れ]
  28. ^ 宮内庁、宮中三殿祭祀と両陛下のご健康問題・天皇皇后両陛下のご健康問題について - ウェイバックマシン(2008年10月20日アーカイブ分)
  29. ^ 『バザードラボ』2015年07月30日 09時39分「美智子皇后 心筋虚血の疑いで精密検査へ」
  30. ^ “皇后さま、ベルギー元王妃の国葬に参列 ブリュッセル”. 朝日新聞. (2014年12月12日). http://www.asahi.com/articles/ASGDD5R6HGDDUHBI025.html 2014年12月22日閲覧。 
  31. ^ 天皇陛下御即位二十年際して宮内庁
  32. ^ a b 宮内庁、2004年10月、皇后陛下のお誕生日(平成16年10月20日)に際して 宮内記者会の質問に対する文書ご回答とこの1年のご動静 - ウェイバックマシン(2008年10月23日アーカイブ分)
  33. ^ 読売新聞社、悠仁さま満1歳[リンク切れ]
  34. ^ 宮内庁、2006年10月、皇后陛下のお誕生日(平成18年10月20日)に際して 宮内記者会の質問に対する文書ご回答とこの1年のご動静 - ウェイバックマシン(2008年12月11日アーカイブ分)
  35. ^ 主婦の友』1969年4月号
  36. ^ 週刊新潮』2009年9月24日号 「演奏家人生50年「中村紘子」私の知られざるエピソード」
  37. ^ 宮内庁、1998年10月、皇后陛下お誕生日に際し(平成10年)
  38. ^ 宮内庁、2005年10月、皇后陛下お誕生日に際し(平成17年)
  39. ^ 宮内庁、2006年10月、皇后陛下お誕生日に際し(平成18年)
  40. ^ 宮内庁、2007年5月、ヨーロッパ諸国ご訪問に際し(平成19年)
  41. ^ 宮内庁、2008年10月、皇后陛下お誕生日に際し(平成20年)
  42. ^ 宮内庁、2009年4月、天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年)
  43. ^ 宮内庁、2009年11月、天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年)
  44. ^ 朝日新聞 (2013年8月20日). “皇后さま「これがミクちゃんですか」 LOVE展を鑑賞”. 2013年8月21日閲覧。[リンク切れ]
  45. ^ 宮内庁にて(2014年10月20日)皇后陛下お誕生日に際し(平成26年)
  46. ^ 『天皇陛下と皇后美智子さま 至高の愛の物語』(ハースト婦人画報社、2012年)

参考文献

  • 板垣, 恭介 『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか 元宮内庁記者から愛をこめて』 大月書店2006年1月20日、初版第1刷。ISBN 4-272-21086-6

関連項目

外部リンク