ロジャー・ダルトリー

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Roger Daltrey
Roger Daltrey - May 2016.jpg
基本情報
出生名 Roger Harry Daltrey
生誕 (1944-03-01) 1944年3月1日(73歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド, ロンドンハマースミス
ジャンル ロック, ハードロック, アート・ロック, ポップ・ロック
職業 シンガー, ソングライター, ミュージシャン, 俳優, 映画作家
担当楽器 ヴォーカル, ギター, ハーモニカ, パーカッション
活動期間 1959年 - 現在
レーベル Various
共同作業者 ザ・フー, RD クルセーダーズ

ロジャー・ハリー・ダルトリーRoger Harry Daltrey CBE1944年3月1日 - )は、イギリスのミュージシャン。ザ・フーのリード・ヴォーカリストとして最も有名である。歌手としてだけではなく俳優としても成功し、多くの映画や演劇、テレビドラマに出演した。身長164cm。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第61位[1]。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位[2]

来歴[編集]

生い立ち~プロデビューまで[編集]

西ロンドンイースト・アクトンのハマースミス病院に生まれる[3]。奇しくもこの7ヵ月後には同じ病院で後にバンドメイトとなるジョン・エントウィッスルも生まれている[4]。戦時中は母・アイリーンと共にスコットランドに疎開し、終戦後復員した父・ハリーと共にシェパーズ・ブッシュに移った。その後妹のジリアンとキャロルが生まれている。少年時代は成績優秀で前途有望と見られていたが、元々ルールを守って教師に従うという考えは自称「学校反逆者」であった彼の頭になく、大人たちの手に負えないテディ・ボーイであった。1959年ロックンロールの洗礼を受けるとたちまち夢中になり、労働者階級の家庭でギターを買う金もなかったダルトリーは、父の工具を使ってアコースティック・ギターを自作する。そして地元の仲間たちと最初のバンドサルグレイヴ・レヴェルズを結成。地元のコンテストで優勝したりもした。15歳の時、トイレで喫煙していたことが表向きの理由で通っていたアクトン公立中学校を退学となる[3]

1961年夏、板金工として働きながら自身のバンドザ・ディトゥアーズでプロデビューを夢見ていたダルトリーは、中学時代の後輩でベースを抱えて歩いていたジョン・エントウィッスルを街で見かけ、ディトゥアーズに勧誘する。当時エントウィッスルはスコーピオンズというバンドにいたが、今のバンドを抜けても失うものはないと判断し、ダルトリーと活動を共にすることを決めた[5]1962年、前任のリズムギタリストに代わり、エントウィッスルのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入する[6]。タウンゼントの加入はエントウィッスルの要請によるものだったが、それ以前にダルトリーが先に目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた[7]。当初はダルトリーがリードギタリストであったが、日中の仕事でしばしば手を負傷していたこともあり、1963年には自身の所有していたエピフォンエレキギターをタウンゼントに売り、ボーカルの方に専念するようになる[8]

当時のディトゥアーズはダルトリーが絶対的なリーダーであり、彼の音域でカバーできない曲を演奏レパートリーから外すなど、バンドを意のままにした[8]。そのようなダルトリーに対しタウンゼントも意見をすることがあり、この頃から二人の間に、プロデビュー以降も続くことになる緊張感が芽生え始める[9]。ただし、ダルトリーはただ威張りくさるだけではなく移動の車の運転や楽器の準備、エージェントとの交渉など、ローディーの仕事を一手に引き受けていた。本人も「ピートに任せてたら、あいつは一日中ベッドに転がってマリファナにふけって、ライブなんかまともに出来やしなかったはずさ。誰かが奴らの面倒を見る必要があり、俺がその役目を果たしてたんだ」と語っている[10]

1964年2月、バンド名をタウンゼントのクラスメートであるリチャード・バーンズが提案したザ・フーに変更。4月に前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入。バンドは同年7月にメジャー・デビューを果たす。

1964年~1983年[編集]

初代マネージャーのピート・ミーデンの命により、バンドはモッズ・バンドとして売り出され、バンド名もザ・フーからハイ・ナンバーズに変更した。モッズではないのにモッズとして振舞わなければならなかったことに、ダルトリーは少なからず抵抗感があったという[11]。結局ミーデンの戦略は外れ、デビューシングルは不発に終わる。バンドもミーデンに不満を持っていたことから、新しいマネージャー・キット・ランバートクリス・スタンプの元で再始動することとなり、バンド名もザ・フーに戻した。

1965年、ザ・フー名義での1stシングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英チャートの8位につけるヒットとなり、上々のスタートを切った。だが、この頃バンド内では深刻な対立がおき始めていた。タウンゼントは当時受けたインタビューで「ロジャーがサウンドの仕上がりに文句を付け、そのことで喧嘩になることが多い」と、バンドの内情を打ち明けている。これに加え、一切ドラッグに手を染めなかったダルトリーに対し、他の3人がドラッグにはまっていたことも両者の対立を深める要因となっていた[12]。同年9月のデンマークでのツアー中、楽屋でハイになったムーンにダルトリーが激怒、彼の錠剤をトイレに流してしまい、襲いかかってきたムーンを殴って気絶させるという事件が起きる[13]。他の3人は全員一致でダルトリーの解雇を決めたが、3枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」が全英チャートに16位で初登場し、好調な売り上げを見せると(最高位2位)ダルトリーは3人に謝罪し、マネージャーらの説得も功を奏し、バンド脱退という最悪の事態は何とか免れた[12]。この騒動はその後も尾を引き、プレスからはダルトリーに代わりボズ・バレル(後のキング・クリムゾンのボーカリスト/ベーシスト)が加入するのではないかという飛ばし記事も書かれた[14]

バンド内の対立はこれで収まったわけではなく、1966年の5月3日には再びダルトリーが脱退を表明し[15]、20日に戻ってくるまでバンドはダルトリー抜きでギグをこなした[16]。そのダルトリーが戻った同日に今度はムーンがメンバーと衝突し脱退を宣言、実際に1週間ほど仕事を放棄した[17]。尚、エントウィッスルも当時ザ・フーを脱退し、ムーディ・ブルースへの加入を画策しており[18]、バンドとして非常に不安定な時期だったが、1967年から1968年にかけて行った全米ツアーを経て、「バンドが団結することが出来た」とダルトリーは振り返っている[19]

1971年にはエントウィッスルが、1972年にはタウンゼントがそれぞれソロ・アルバムを発表するが、ダルトリーはあくまでザ・フーのシンガーとしての立場にこだわり、ソロ活動に興味を示す事はなかった。それが変わったのは1973年。往年のポップ・シンガー、アダム・フェイスとその相棒のデヴィッド・コートニー、そして彼らがマネージメントをしていた新人ソングライターのレオ・セイヤーに出会ったことがダルトリーをソロ活動へ向かわせるきっかけとなった[20]。楽曲、プロデュースを彼等3人にゆだねて製作されたダルトリーの1stソロ・アルバム『ダルトリー』はバラードが中心となり、ザ・フーとは違った彼の一面を見せる作品となった。シングル・リリースした「ギヴィング・イット・オール・アウェイ」が全英5位という、ザ・フーの各メンバーのソロ作品中最高のヒット作となる[21]。アルバムも全英6位まで上昇している(全米は45位)。

1975年、ダルトリーは俳優デビューを果たす。1969年にザ・フーが発表したロックオペラアルバム『トミー』の映画化にあたり、主人公のトミーを演じたのである。この映画がダルトリーの俳優としての才能を開花させ、以降様々なドラマ、映画に出演するきっかけとなった。『トミー』の成功により、ダルトリーは一躍時の人となり、プロモーションのためにアメリカを訪れると、若い女の子たちに囲まれもみくちゃにされたという[22]。また同年、自身2枚目のソロ・アルバム『ライド・ア・ロック・ホース』をリリースする。前作とは打って変わってハードな楽曲がならび、売り上げは前作を大きく上回り、全英14位、全米28位にまで上った[23]

ソロ活動が充実する一方、ザ・フーの方はこの頃より軋みが生じるようになる。1975年、タウンゼントがニュー・ミュージカル・エクスプレスのインタビューで自身に対し厳しい意見をぶつけると、今度はダルトリーが同じ紙面でタウンゼントを痛烈に批判した[24]。二人の不仲が表沙汰になり、ザ・フー解散説がまことしやかにささやかれるようになる。さらに、ムーンが長年の不摂生により、以前のようなツアー活動が出来なくなり、ザ・フーとしての活動は停滞気味になる。そのような中での1977年、3枚目のソロ・アルバム『One Of The Boys』を発表。アルバムにはポール・マッカートニーハンク・マーヴィンなど、豪華ゲストが多数参加した。さらにエントウィッスルも参加しているが、売り上げは前作ほどは伸びず、全英45位、全米46位に終わった[23]

1978年、キース・ムーンが急逝。1979年、元フェイセズケニー・ジョーンズが新ドラマーとして加入、新生ザ・フーとして再始動する。しかし、間もなくダルトリーとジョーンズの間に軋轢が生じはじめる。ダルトリーはジョーンズのドラム・プレイを好かず、マネージャーにジョーンズをやめさせるようタウンゼントを説得してほしいと頼むほどに彼を嫌った[25]。ダルトリーは「キースは俺のボーカル・ラインに沿ってドラムを叩いてくれたがケニーは違う」と主張し、タウンゼントを悩ませた[26]

1980年、映画『McVicar』(日本未公開)に主演。同映画のサウンドトラック盤『McVicar』には、ザ・フーのメンバー全員が参加しており、便宜上はダルトリー4枚目のソロ・アルバムという扱いではあるが、むしろザ・フーの課外活動の意味合いが強い。本作はダルトリーのソロ史上最高の売り上げ(全米22位、全英39位)を記録した[23]

求心力を失っていたザ・フーは、1982年12月に最後のコンサートを行った後、1983年6月に正式に解散を表明する[27]

1984年以降[編集]

1984年、解散後初となる5枚目のソロ・アルバム『Parting Should Be Painless』をリリース。シングル「Walking In My Sleep」が全英56位、全米62位につけるも、内容が大人しく地味だった為かアルバム自体は全米102位に終わり、セールス的には奮わなかった[28]。しかし、翌1985年に、タウンゼントが楽曲提供したシングル「アフター・ザ・ファイヤー」がヒット。日本でもスズキ・カルタスのCMソングに起用された。同曲を収録した6枚目のアルバム『月の影Under A Raging Moon)』は、プロデューサーにアラン・シャックロックを、当時人気絶頂のブライアン・アダムスをゲストに迎え、さらにダルトリー自身もソングライティングに積極的に関わった意欲作となり、チャートでは全米42位、全英52位につけた。このアルバムを引っ提げ、ソロでは初のコンサート・ツアーを敢行する。ツアーではザ・フーの楽曲も披露し、盛況であった[29]

1987年、前作同様アラン・シャックロックと組んで制作した7枚目のソロアルバム『Can't Wait To See The Movie』をリリースするもチャート・インを果たせず[28]。しばらくソロでの音楽活動から遠ざかるが、1989年のザ・フーのデビュー25周年記念ツアーを経て、良い刺激を受けたダルトリーは再びソロアルバム製作に意欲を燃やす。1992年、8枚目のソロ・アルバム『Rocks In The Head』をリリース。だがプロモーション不足と北米限定での発売ということもあり、前作同様チャート・インを果たせなかった[29]。本作を最後にダルトリーのソロ名義でのオリジナル・アルバムは2017年現在まで製作されていない。同年、フレディ・マーキュリー追悼コンサートに出演、アイ・ウォント・イット・オールを歌唱した。

ザ・フー結成30周年となる1994年オーケストラを従えてザ・フー時代のナンバーを演奏するソロツアーを敢行。初日のカーネギー・ホール公演にはタウンゼントやエントウィッスルも参加した。当時不安神経症を抱えていたタウンゼントは参加を断ろうとし、ダルトリーを激怒させたが、その後気を取り直して参加を決めた[30]。このコンサートの模様を収録した『A Celebration: The Music of Pete Townshend and The Who』は年内に発売された。収録曲の中にはタウンゼントのソロ・ナンバーをダルトリーが歌ったものもあった[31]

1996年、ザ・フーのロックオペラ『四重人格』(1973年発表)の再演ツアー以降、ザ・フーとしての活動が主軸になるが、2009年、北米およびカナダで久々にソロツアーを行う。バンドメンバーの中にはタウンゼントの弟でミュージシャンのサイモン・タウンゼントも含まれた。2010年にはエリック・クラプトンと共にジョイント・ツアーを敢行。2011年にはソロ・ツアーで『トミー』を再演する[32]2012年4月にはソロで来日し、東京横浜大阪名古屋で公演を行っている。

2014年ウィルコ・ジョンソンとコラボレートしたアルバム『ゴーイング・バック・ホーム』をリリース(全英3位)。

音楽スタイル[編集]

ややハスキーがかったパワフルな声質を持つが、本人は自分の声を気に入っていないという[33]。ザ・フーのコンサートでは、タウンゼントのギター破壊が注目を集めたが、ダルトリーもまたコードを軸にマイクを投げ縄の如く振り回すパフォーマンスで観客を魅了した。上記のとおり、元々はリードギター担当だったため、ギターも弾けるが、ザ・フーではあくまでボーカルに徹し、ハーモニカタンバリン以外の楽器は使用してこなかった。だがソロ活動や近年のステージではギターを弾きながら歌う事もある。

自ら作詞作曲を行う事はあまりなく、ダルトリーがザ・フーのために書いた曲は、「エニウェイ・エニハウ・エニホエア[34]、「シー・マイ・ウェイ」[35]、「アーリー・モーニング・コールド・タクシー」[36]、「ヒア・フォー・モア」[37]の4曲のみである。このうち「アーリー・モーニング…」は、実際にはデイヴ・ラングストン(バンドのツアー・マネージャー)が単独で書いたものである。当初ダルトリーは「サイ(ラングストンのニックネーム)と二人で書いた」と言ってこの曲を提出したが、ラングストンが耐え切れずに暴露してしまった。タウンゼントはダルトリーに作者としてのクレジットは諦めるよう説得したが、結果的にダルトリーの名はクレジットに残されている[38]

タウンゼントはダルトリーがなぜもっと曲を書かないのか理解できなかったと言い、「多分ロジャーは、解釈者、声、楽器として存在している方が楽しかったのだろう」と推測している[38]。ソロにおいても外部ミュージシャンに作曲を依頼する事が多く、自作曲はそれほど多くない。尚、ダルトリーが一番気に入っているザ・フーのナンバーは「ビハインド・ブルー・アイズ」(アルバム『フーズ・ネクスト』収録)であるという[39]

人物[編集]

ダルトリーとタウンゼント (1976年)

最年長であったダルトリーは、初期のザ・フーにおいては絶対的なリーダーであり、小柄な体格にもかかわらず腕っ節が強く、必要な場合には暴力も使いバンドを牽引した。タウンゼントは「ロジャーはすべてを自分の思うようにした。もし彼に反対したら、普通は拳を食らったよ(Giuliano, p. 26)」と証言している。やがてタウンゼントが作曲家として頭角を現すようになり、バンドの主導権はダルトリーからタウンゼントに次第に移っていったが、後年、この事がダルトリーとタウンゼントの間に個人的確執を生む事になる[20]。しかし、タウンゼントは「私とロジャーはしぶしぶながらもお互いに敬意を抱いていたと言っていい。そしてそれは今でも続いている」と語っている[9]。また近年のインタビューで、ザ・フーの解散理由について尋ねられ「当時のピートはツアーのプレッシャーについてよく話しており、このままでは彼が自殺してしまうのではと思い、ザ・フーの解散を決めた」と答えており、タウンゼントを慮って解散させた事を打ち明けている[40]。タウンゼントが2003年に児童ポルノサイトにアクセスした容疑で警察から捜索を受けた時も、一貫してタウンゼントを擁護した[41]。タウンゼントはダルトリーに感謝の念を表している[42]。32歳の若さで死亡したキース・ムーンについては、彼を救ってあげられなかった事を非常に後悔していると語っている[39]。さらに「キースにとって安心できる存在は、ザ・フーの中では僕だけだった」とも語っており、リーダーの座をタウンゼントに譲ってからも、ダルトリーがバンドの精神的支柱であった事を窺わせている[33]

上記のとおり、他のメンバーとの仲が悪くなろうとも、ボーカリストとして喉を大事にするためにドラッグには一切手を出さないなど、生真面目な性格である一方で(但し、「自分はマリファナどまりだった」とも語っており、全く手を出さなかったわけではない様である[33])、タウンゼントからは「(ダルトリーは)面白いと思ったら、ファンと一緒になって悪い事でも何でもやった」とも指摘されている[43]インターネットを積極的に活用しているタウンゼントとは対照的に、ダルトリーはインターネットに否定的であり、「インターネットによりミュージシャンは何の見返りもなく働かされている」と批判している[44]

私生活では2度の婚姻を経験している。1度目はメジャーデビューする前の1964年3月、当時16歳の恋人とだった。同年8月には第一子も授かった[45]。しかし結婚生活はすぐに破綻し、1年も経つとダルトリーはバンド用のバンで寝泊りするようになる[12]。1968年1月に離婚届を申請し、1970年5月に正式に離婚した[46]。現在の妻であるヘザー・テイラーとは前妻と別れて間もない1968年に出会っており、1971年に結婚[19]。3人の子供を授かっている[47]

妹のキャロルはにより32歳の若さで死去している[48]。このため健康には人一倍気を遣っており、体調面においてはかなりナーバスになるという[49]2015年ウイルス性髄膜炎に感染し、ザ・フーのツアーを中断したが、回復後のインタビューでは「闘病中はひどい苦痛の中にいたが、逆に心が平穏になった。もし死が訪れても喜んで受けれただろうね」と語っている[50]。尚、タウンゼントは17歳の頃、一時的にではあるがキャロルと付き合っていた[51]

慈善事業[編集]

ダルトリーはザ・フーとしても個人としても、慈善事業に積極的に関わっている。ダルトリーは若年層の癌患者を支援する団体、ティーンエイジ・キャンサー・トラストの名誉後援者としてその名を記されており、また同団体のためのロイヤル・アルバート・ホールでのチャリティ・ライブを発起した[52]。このコンサートは2000年からほぼ毎年開催されており、ザ・フー以外にもポール・マッカートニーオアシスポール・ウェラージミー・ペイジロバート・プラントロン・ウッドら豪華なアーティスト陣がゲスト出演している[53]。このコンサートでこれまでに2千万ポンドの収益を上げている[54]。ザ・フーでは、「アンコール・シリーズ」と銘打った公式海賊盤のインターネット販売を2002年のツアー分から行っているが(入手はこのサイトから可能)、ここからの収益は全て上記の団体に寄付される[55]

2014年、イギリスの音楽誌「Music Week」主催のアワードで、長年のチャリティ活動の功績により功労賞を受賞する。授賞式ではポール・ウェラーからアワードを手渡され、さらにポール・マッカートニーがビデオ・メッセージでダルトリーを讃えた[56]

ディスコグラフィー[編集]

  • Daltrey (1973年)
  • Ride a Rock Horse (1975年)
  • One of the Boys (1977年)
  • McVicar (1980年)
  • Parting Should Be Painless (1984年)
  • Under a Raging Moon (1985年)
  • Can't Wait to See the Movie (1987年)
  • Rocks in the Head (1992年)
  • A Celebration: The Music of Pete Townshend and The Who (1994年)
  • Going Back Home (2014年) ※ウィルコ・ジョンソンとの共作

出演作品[編集]

映画

  • トミー - Tommy (1975年)
  • Lisztomania (1975年)
  • The Legacy (1978年)
  • McVicar (1980年)
  • Murder: Ultimate Grounds for Divorce (1984年)
  • Pop Pirates (1984年)
  • マッチ売りの少女 - The Little Match Girl (1987年)
  • Mack the Knife (1990年)
  • Buddy's Song (1991年) ※プロデューサー兼任
  • If Looks Could Kill (1991年)
  • Lightning Jack (1994年)
  • Vampirella (1996年)
  • ブラックプール・ストーリー - Like It Is (1998年) ※カメオ出演
  • Best (2000年)
  • .com for Murder (2001年)
  • Johnny Was (2006年)

テレビ

[47]

出典・脚注[編集]

  1. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Roger Daltrey”. 2013年5月26日閲覧。
  2. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
  3. ^ a b エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.31
  4. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.32
  5. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.36
  6. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.37
  7. ^ フー・アイ・アム・p.41
  8. ^ a b エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.41
  9. ^ a b フー・アイ・アム・p.54
  10. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.49
  11. ^ アルティミット・ガイド・p.146
  12. ^ a b c エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.75
  13. ^ アルティミット・ガイド・p.159
  14. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.97
  15. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.114
  16. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.115
  17. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.116
  18. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.102
  19. ^ a b エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.164
  20. ^ a b アルティミット・ガイド・p.147
  21. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.252
  22. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.285
  23. ^ a b c アルティミット・ガイド・p.149
  24. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.286
  25. ^ フー・アイ・アム・p.297
  26. ^ フー・アイ・アム・p.298
  27. ^ フー・アイ・アム・p.316
  28. ^ a b アルティミット・ガイド・p.150
  29. ^ a b アルティミット・ガイド・p.148
  30. ^ フー・アイ・アム・p.377
  31. ^ アルティミット・ガイド・p.151
  32. ^ Roger Daltrey Performs 'Tommy': Concert Review” (英語). 2017年8月6日閲覧。
  33. ^ a b c DVDキッズ・アー・オールライト』収録のロジャー・ダルトリーインタビューより。
  34. ^ ザ・フーの2ndシングル。タウンゼントとの共作。
  35. ^ ザ・フーの2ndアルバム『ア・クイック・ワン』収録曲。
  36. ^ デイヴ・ラングストンとの共作。ザ・フーの3rdアルバム『セル・アウト』のアウトテイク。リイシューCDに収録。
  37. ^ ザ・フーのシングル「シーカー」B面曲。
  38. ^ a b フー・アイ・アム・p.117
  39. ^ a b ザ・フーのロジャー・ダルトリー 亡き盟友キース・ムーンについて語る” (日本語). 2017年8月6日閲覧。
  40. ^ ロジャー・ダルトリー「ピート・タウンゼントの命を救いたくてザ・フーを解散した」” (日本語). 2017年8月6日閲覧。
  41. ^ ザ・フーのロジャー・ダルトリー、“ピートは小児性愛者ではない”” (日本語). 2017年8月6日閲覧。
  42. ^ Townshend pays tribute” (英語). 2017年8月6日閲覧。
  43. ^ ザ・フーのドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』より。
  44. ^ フーのロジャー・ダルトリー、インターネットは「歴史上最大の搾取」だと語る” (日本語). 2017年8月6日閲覧。
  45. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.59
  46. ^ エニウェイ・エニハウ・エニウェア・p.60
  47. ^ a b Roger Daltrey - IMDb
  48. ^ フー・アイ・アム・p.410
  49. ^ フー・アイ・アム・p.348
  50. ^ フーのロジャー・ダルトリー、闘病中に死を受け入れて平穏を感じたと語る” (日本語). 2017年8月6日閲覧。
  51. ^ フー・アイ・アム・p.48
  52. ^ Patrons” (英語). 2017年8月6日閲覧。
  53. ^ Royal Albert Hall previous shows” (英語). 2017年8月6日閲覧。
  54. ^ Royal Albert Hall” (英語). 2017年8月6日閲覧。
  55. ^ The Who To Offer Live Bootlegs” (英語). 2017年8月6日閲覧。
  56. ^ ロジャー・ダルトリーのチャリティー活動にポール・マッカートニーも称賛” (日本語). 2017年8月6日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]