ジョン・エントウィッスル

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ジョン・エントウィッスル
John Entwistle-1.jpg
基本情報
出生名 ジョン・アレック・エントウィッスル
生誕 1944年10月9日
イングランドの旗 イングランド ロンドン チジック
死没 (2002-06-27) 2002年6月27日(57歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ネバダ州 ラスベガス
ジャンル ロック
ハードロック
アート・ロック
ポップ・ロック
職業 ミュージシャン
作曲家
音楽プロデューサー
編曲家
映画プロデューサー
担当楽器 ベース・ギター
ギター
ボーカル
ピアノ
トランペット
フレンチ・ホルン
ハーモニカ
ハープ
活動期間 1962年 - 2002年
共同作業者 ザ・フー
公式サイト John Entwistle

ジョン・エントウィッスルJohn Entwistle、本名:John Alec Entwistle、1944年10月9日 - 2002年6月27日)は、イギリスミュージシャンザ・フーベーシストソングライターとして知られる。ソロのシンガーソングライターとしても活動した。ロック史上最高のベーシストの1人とされている(後述)。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ロンドンチズィックで、英国海軍軍人であった父と税務署勤務の母の間に生まれる。父ハーバートからはトランペットを、母モードからはピアノを教わり、7歳の頃には楽譜が読めたという。11歳の頃に、少年楽隊の一員としてフレンチホルンを演奏したことがエントウィッスルにとって初めての人前でのステージ経験だった[1]

12歳の時、アクトン公立中学校でピート・タウンゼントと出会う。14歳になるとデュアン・エディに出会ったのがきっかけでロックンロールに興味を持つようになる。最初の頃はギターをかじっていたが、やがてベースの方に興味が移り、自宅にあったマホガニー製のダイニングテーブルを使ってベースを自作した。1959年、タウンゼントと共にコンフェデレイツというバンドを組み、デキシーやトラッド・ジャズを演奏した。バンドは長く続かなかったが、その後もエントウィッスルとタウンゼントはスコーピオンズというバンドで共にプレイするなど、付き合いを続けた[2]

アクトン公立中学校を卒業すると、母親の勧めもあり税務署員という堅実な仕事に就くが、それ以降も就業後に音楽活動を続けていた。1961年の夏、中学時代の先輩であったロジャー・ダルトリーに彼のバンド、ディトゥアーズに勧誘される。エントウィッスルはダルトリーの悪童ぶりを耳にしていたのではじめは用心していたが、スコーピオンズを離れても失うものは少ないと判断し、ディトゥアーズに加入する[2]。翌1962年にはタウンゼントも加入。ザ・フーの原型ができ上がりつつあった。1964年にはバンド名をザ・フーに変え、前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入。同年7月にメジャー・デビューした。

1964年-1982年[編集]

ザ・フーのステージでは、所狭しと暴れまわる他のメンバーを尻目に、涼しい顔で黙々とベースを引き続けるスタイルを貫き通したが、そのリード・ベースとも称される超人的プレイでバンドのアンサンブルを支えた。また、子供の頃から演奏してきたトランペットやフレンチホルン等を使用し、バンドのサウンドに広がりを持たせた。

エントウィッスルはタウンゼントに次いで多くザ・フーに楽曲を提供してきたが、彼の曲が採用されるのはアルバム1枚につき1、2曲程度であった。これに欲求不満を感じたエントウィッスルは、1971年に1stソロ・アルバム『衝撃!! (Smash Your Head Against the Wall)』をリリース。ザ・フーの中で最初にソロ作を発表することになったが、当時はバンドに籍を置きながらソロで作品を発表することが異例であり、一時はザ・フー脱退説まで流れた[3]。だがタウンゼントは彼のソロ活動に肯定的であり、「彼がアルバムを作ったことで、俺達はよりジョンを知ることができた」と語っている[4]。アルバムにはザ・フーで発表した「ヘヴン・アンド・ヘル」のセルフカバーも収録されたが、全米126位に終わった。

1972年にも2ndソロ・アルバム『風の詩 (Whistle Rymes)』をリリース(全米138位)。これは彼が作った童話的な物語(森で迷子になった少女が様々な動物と出会う話)を元にしたコンセプト・アルバムで、当時では珍しいシンセベースを使用した意欲作だった。続けて翌1973年にも3rdアルバム『死後硬直 (Rigor Mortis Sets in)』を発表(全米174位)。このアルバムに伴い、ザ・フーとは別のバンド、ライゴー・モーティスを結成し、プロモーションを兼ねたツアーも行った。1974年、他のメンバーが映画『トミー』にかかりきりになっている間隙に、自身の愛称を冠したバンド、ジ・オックスを結成。翌1975年にジョン・エントウィッスルズ・オックス名義で『マッド・ドッグ (Mad Dog)』をリリース(全米192位)、英米でツアーを行った。

だが、これらのソロ作品やツアーはいずれも赤字続きで、穴埋め分はほとんどエントウィッスルが持ち出すことになった。これ以降、しばらくソロ活動から遠ざかる[3]

1978年のキース・ムーンの死を乗り越え、1981年に6年ぶりのソロ・アルバム『最後のヒーロー (Too Late the Hero)』をリリース。全米71位につける自身最高の売上を記録した。

1983年以降[編集]

ザ・フー解散後、1986年ザック・スターキーヘンリー・スモールらを迎えて6枚目のソロ作『ザ・ロック』を製作するも、契約したレーベルがFBIによって閉鎖されたため、お蔵入りになってしまう。『ザ・ロック』はその後1996年に発売されている。この頃より、エントウィッスルの経済的困窮がメディアで取り沙汰されるようになる。以降、自身が中心となって行う音楽活動からは遠ざかることになった[3]

1987年、楽器フェアのプロモーションのために初来日。ザ・フーの中で最初に来日を果たしたメンバーとなった。1990年にはキース・エマーソンジェフ・バクスターらと共にザ・ベストを結成。このバンドで2度目の来日を果たし、ツアーも行ったが、一部から「落ち目スターの荒稼ぎ」と揶揄され、客の入りはよくなかったという。1995年にはリンゴ・スター・バンドへ参加し、このバンドで3度目の来日。2000年にもビートルズのトリビュート・バンド、アビー・ロードの一員としてのために来日した。これで生前に4度、音楽活動で日本を訪れていたことになる[5]。しかしザ・フーとしての来日することは生涯一度もなく、ダルトリーとタウンゼントは彼の死後の2004年にザ・フーとして初来日・初公演を果たしている。

1994年から1996年にかけてジューダス・プリーストのギタリストであるグレン・ティプトンのソロ・アルバムにドラマーのコージー・パウエルと参加し、アルバム『エッジ・オブ・ザ・ワールド (Edge of The World)』を制作するが、アルバムは一時お蔵入りになってしまい、発売されたのは10年後の2006年だった。バンド名は『ティプトン、エントウィッスル&パウエル』名義となっている。また、作曲とボーカルは全てティプトンが担当しており、エントウィッスルはベースの演奏だけに徹している。

1998年、久々に自身が中心となるバンド、ジョン・エントウィッスル・バンドを結成、2000年にアルバム『ミュージック・フロム・ヴァンパイアズ』をリリース。怪奇趣味があった彼らしい吸血鬼をテーマにした作品であったが、これがエントウィッスル生涯最後のスタジオ・アルバムとなった。

最期[編集]

ザ・フーの全米ツアー初日を翌日に控えた2002年6月27日、宿泊していたラスベガスのハード・ロック・ホテル&カジノで、死亡しているのが発見された。ラスベガスの検屍官は、コカインの摂取による心臓発作が死因であると断定した。血流中のコカイン量はそれほど多くなかったが、心臓の既往症によって損傷を受けていた冠状動脈が、コカインによる影響で致命的な発作に結びついたと考えられた。

ツアーの存続が危ぶまれたが、タウンゼントとダルトリーは「ジョンもツアーの続行を望んでいるはずだ」と、代役にセッションベーシストのピノ・パラディーノを立て、ツアーを続行した。エントウィッスルの葬儀は7月10日、ロンドン郊外のセント・エドワード教会で行われた。葬儀にはダルトリー、タウンゼントの他に、ムーンの後任としてザ・フーに加わったケニー・ジョーンズも訪れた[6]。遺体は火葬された後、グロスタシャーストウ=オン=ザ=ウォルドにある聖エドワード教会に埋葬された。

エントウィッスルの死に関し、ラスベガスの地元紙が彼の死亡した夜に「アダルトエンターテイナー」が彼の部屋を訪れていた、と報じた。ザ・フーの関係者はこのことについて「そのような話はない」と否定している[7]

エントウィッスルの何百にも及ぶギターやベースのコレクションは、死後、相続税対策のため、息子のクリストファーによって、ロンドンのサザビーズ競売にかけられた。 また、ストウ=オン=ザ=ウォルドに所有していたエントウィッスルの大邸宅と多くの所有物は、皮肉にも彼のかつての職場である租税検査官の内国税収入に応じた課税要求に応じるため、売り払われた。 なお、かつてウィキペディアの当該ページに、サザビーズの競売にかけられたエントウィッスルのベースについて、「ピーター・フックや日本の俳優の中村梅雀が、オークションでいくつか落札している」という記述があったが、中村は自身のブログにてこれを明確に否定、自身が買ったものは1998年にエントウィッスルが離婚の慰謝料の捻出のために売りに出したものの一つで、東京の店に入荷されたと知って買いに行ったと説明している[8]

エントウィッスル没後の2004年に発売されたザ・フーのシングル『リアル・グッド・ルッキング・ボーイ』では、バンドからの依頼でグレッグ・レイクがベースを弾いている。またB面曲『オールド・レッド・ワイン』はエントウィッスルに捧げられた。以後、現在に至るまでザ・フーはベースに正式メンバーを迎えず、ピノ・パラディーノらをサポートメンバーとして活動している。

音楽スタイル[編集]

エントウィッスルはベースを聴衆の正面に向けつつ斜め前に構え、さらに顔はヘッドの方へ向けるという独特の弾き方をしていた(聴衆からはエントウィッスルが右を向いて演奏しているように見えた)。アタック音を効かせた上でのすばやい運指は、正にリード・ベースと呼ぶにふさわしいものであった。そのプレイは、ギターの代わりにオブリガートを主張し、さらにメロディを奏でる特異的なものであった(タウンゼントのギターはリズム・カッティングやコードに徹している)。タウンゼントも「ザ・フーはベースとドラムがリード楽器で、ギターがリズム楽器と、本来の役割が逆転していたところがユニークだった」と語っている[9]。そのプレイから"Thunderfingers"と渾名された。ザ・フーの大ヒット曲「マイ・ジェネレーション」で聴けるベースソロも、当時のイギリスのミュージシャンはギターソロと勘違いしていたという逸話もある。だが、エントウィッスルはあくまでバンドのアンサンブルを重視しており、彼のベースソロをフィーチャーした曲は存外に少ない[10]。ステージでは、派手に動き回るタウンゼントやダルトリーと異なり、マイクスタンドの前に直立不動で黙々とプレイする姿勢を貫いた。彼のニックネーム"The Ox"(雄牛の意)はこれに由来する[11]。本人は「動き回らないほうがいい演奏ができることに気付いた。それにリードボーカルをとることもあったし、いやと言うほどバッキングボーカルも歌わなきゃならなかったからね」と語っている[12]

自作曲においては、自らリードボーカルをとることが多かった。またかなり高い声が出せるため、彼のファルセットはザ・フーのコーラスワークで重要な役割を果たした。だが地声は低く、その低音ボイスを活かし「ボリスのくも野郎」や「サマータイム・ブルース」といった曲で台詞を担当した。レコーディングでは上記のとおり管楽器や、キーボードを弾くこともあった。

ザ・フーの中で最も早くソロ活動に着手したが、レコードの売り上げにはつながらず、チャートの100位以内に入った作品は『トゥー・レイト・ザ・ヒーロー』のみで、次作以降のアルバムはチャートインすら果たせていない[13]

人物[編集]

クールな性格で、タウンゼントからは「ジョンは何に対しても無関心だった」と指摘されている[14]ビル・ワイマンは「私生活では最も静かな人物であるが、ステージ上では最もやかましい人物である」と評している[15]。他のメンバーのように感情的になることは少なかったが、観客が暴徒化し警察がコンサートを強制終了させたことに腹を立て、ベースをアンプに叩きつけたことがある[16]。また1966年には、バンド内で頻繁に起きる喧嘩に辟易し、ムーンと共に脱退することを考えたこともあるという[17]

元妻のアリソン・ワイスは、ザ・フーの演奏時にカメラが派手な動きのダルトリーとタウンゼントばかり映していたため、エントウィッスルが映らないことを不満に思っていた。また、エントウィッスル自身は派手な服を着てお洒落をしていたという。[18]

怪奇趣味があり、自作曲のテーマも死後の世界や変質者、アル中患者など、一般的に嫌忌されがちなものを取り入れることが多かった[2]。彼が愛用したクモを模ったペンダントや、1970年ワイト島ロック・フェスティバルで着用した骸骨スーツにその一端が垣間見える。また銃器も所持していた。映画『キッズ・アー・オールライト』の中で、彼が自宅の庭でゴールド・ディスクを的にして撃っているシーンがあるが、このゴールド・ディスクは自分の物ではなくダルトリーの物であった[19]

生前、レッド・ツェッペリンのバンド名は自分が考えたと主張していた。だがジミー・ペイジは「エントウィッスルが何と言おうと、あれはキース・ムーンのアイデアだ」と完全に否定している[20]。ただし、エントウィッスルから聞いた話だと言わずにムーンがペイジに伝えた可能性はある。

私生活では2度の婚姻、2度の離婚を経験している。1度目の結婚は1967年6月、相手は幼馴染のアリソン・ワイス[21]。1972年に息子、クリストファーが誕生するが[22]、後に離婚(時期不明)。1991年に再婚したが、やはり1997年に離婚している[23]

評価[編集]

ザ・フーのメンバーによるもの[編集]

  • 「ジョンが死んでからは、ステージに大きな穴が開いてしまった。そこに入り込んで自分の音を拡げることもできるから、実はギタリストとしてはジョンがいない方がやりやすい。だが、あのとてつもなく大きくて力強い肉感的な音を再現したくとも、ジョンのいない今は諦めざるを得ない」[24] - ピート・タウンゼント
  • 「ジョンは大事な存在だ。決して俺を見放さない。(死んでしまった)今も勇気づけ励ましてくれる。いいミュージシャンだ、と言ってくれた。俺の元気の素だったよ」[25] - ピート・タウンゼント

他のミュージシャンによるもの[編集]

  • 「エントウィッスルはロック史上最高のベーシストの1人だと思う。縁の下の力持ちという立場にとどまることなく、凄まじいテクニックとサウンドをもって、ベースという楽器が持つ無限の可能性を証明してみせた」[26] - ゲディ・リー
  • 「ジョン・エントウィッスル、そしてクリス・スクワイアがこの世を去った今、私たちはクラシックロック史上最高のベーシスト2人を失ったことになる」[27] - リック・ウェイクマン
  • 「俺のようなプレイヤーは他にいないと思う。ずっとジョン・エントウィッスルに憧れてたけど、そのポジションはもう埋まってた。だから俺はその出来損ないになったんだ」[28] - レミー・キルミスター
  • 「彼は史上最高のロックンロール・ベーシストだ。永久にね」[29] - レミー・キルミスター
  • 「(マイ・ジェネレーションのベースソロは)墓碑に刻むべきさ。驚異的だ」[30]。 - ノエル・ギャラガー

他にもザ・フーの伝記ドキュメンタリー『アメイジング・ジャーニー』でピノ・パラディーノ、スティングビリー・シーンジ・エッジジェフ・バクスターらが称賛のメッセージを寄せている。

メディアによるもの[編集]

ロック史上最高のベーシストの1人という評価が確立している。

  • 2011年、ローリング・ストーン誌が選んだ「最も偉大なベーシスト」で第1位[31]
  • 2020年、同誌の「史上最高のベーシスト50選」で第3位(ロック・ベーシストの中では第1位)[32]

使用機材[編集]

フェンダー・プレシジョンベース[33]
デビュー時から1971年ごろまでメインで使用。当時は他にもエピフォンリッケンバッカーヴォックス製の物を並行して使用していた。
ギブソン・サンダーバードIV[34]
1971年から1972年にかけて使用。
フェンダーバード[34]
1973年から1974年にかけて使用。上記のサンダーバードIVのボディーに、フェンダー・プレシジョンベースのネックを取り付けたエントウィッスルオリジナルのベースギターである。この他にもギブソン・エクスプローラーと同シェイプのベースにやはりプレシジョンベースのネックを取り付けた「エクスプローラーバード」もある。
アレンビック・シリーズ1/エクスプローラー・ベース[35]
1974年から1985年までメインで使用。エクスプローラーシェイプの方は、ヘッドがV字型になっているバージョンもある。
ワーウィック・バザード[36]
1986年から死去する2002年までメインで使用。エントウィッスル自らデザインした変形ベースギター。この他にも斧や炎をモチーフにしたオリジナルの変形ベースを多数オーダーメイドしていた。

ディスコグラフィ[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

  • 『衝撃!!』 - Smash Your Head Against the Wall (1971年)
  • 『風の詩』 - Whistle Rymes (1972年)
  • 『死後硬直』 - Rigor Mortis Sets in (1973年)
  • 『マッド・ドッグ』 - Mad Dog (1975年)
  • 『最後のヒーロー』 - Too Late the Hero (1981年)
  • 『ザ・ロック』 - The Rock (1986年製作、1996年発売)
  • 『ミュージック・フロム・ヴァンパイアズ』 - Music From Van-Pires (2000年)
  • 『エッジ・オブ・ザ・ワールド』 - Edge of the World (1994-1996年録音、2006年発売。『ティプトン、エントウィッスル&パウエル』名義)

ライブ・アルバム[編集]

  • 『キング・ビスケット・ライヴ』 - King Biscuit Flower Hour Presents in Concert (1996年)
  • Left for Live (1999年)

ベスト・アルバム[編集]

  • Anthology 1971-1981 (1996年)
  • So Who's The Bass Player? -The Ox Anthology- (2005年)

脚注[編集]

  1. ^ ニール、ケント・pp32-33
  2. ^ a b c ニール、ケント・pp35-36
  3. ^ a b c アルティミット・ガイド・p154
  4. ^ ニール、ケント・pp225-226
  5. ^ アルティミット・ガイド・p152
  6. ^ ピート・タウンゼント、ロジャー・ダルトリー、ケニー・ジョーンズらがジョン・エントウィッスルの葬儀に参列 | The Who | BARKS音楽ニュース:
  7. ^ ザ・フーのジョン・エントウィッスル、死の前に“アダルトエンターテイナー”と一夜を過ごしていた? | The Who | BARKS音楽ニュース:
  8. ^ ジョン・エントウィッスルのベースギター - 梅雀のひとりごと:
  9. ^ アルティミット・ガイド・p139
  10. ^ アルティミット・ガイド・p153
  11. ^ ニール、ケント・p56
  12. ^ ニール、ケント・p55
  13. ^ John Entwistle | Awards | AllMusic:
  14. ^ 映画『キッズ・アー・オールライト』より。
  15. ^ ビル・ワイマン、サミー・ヘイガー、ヴァン・ヘイレンのマイケルらがジョン・エントウィッスルを偲ぶ | The Who | BARKS音楽ニュース:
  16. ^ ニール、ケント・p117
  17. ^ ニール、ケント・p102
  18. ^ 伝記ドキュメンタリー『アメイジング・ジャーニー』
  19. ^ ロジャー・ダルトリー2003年インタビュー。DVD『キッズ・アー・オールライト』(2004年)収録。
  20. ^ シンコー・ミュージック・ムック『天才ギタリスト ジミー・ペイジ 完全版』、2004年。ISBN 978-4401618552、p210。
  21. ^ ニール、ケント・p148
  22. ^ ニール、ケント・p242
  23. ^ John Entwistle - Biography - IMDb:
  24. ^ ザ・フーのピート・タウンゼント、ステージでキース・ムーンやジョン・エントウィッスルの霊を感じると語る (2012/10/12) | 洋楽 ニュース | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイト:
  25. ^ 伝記ドキュメンタリー『アメイジング・ジャーニー』
  26. ^ 史上最高のベーシスト50選
  27. ^ 史上最高のベーシスト50選
  28. ^ 史上最高のベーシスト50選
  29. ^ Thunderfingers: A Tribute to the legendary John Entwistle - promo
  30. ^ 伝記ドキュメンタリー『アメイジング・ジャーニー』
  31. ^ Rolling Stone Readers Pick the Top Ten Bassists of All Time Pictures | Rolling Stone:
  32. ^ 史上最高のベーシスト50選
  33. ^ John Entwistle Gear: 1960-1966 | John Entwistle Bass Gear | Whotabs:
  34. ^ a b John Entwistle Gear: 1971-1974 | John Entwistle Bass Gear | Whotabs:
  35. ^ John Entwistle Gear: 1974-1985 | John Entwistle Bass Gear | Whotabs:
  36. ^ John Entwistle Gear: 1986-2002 | John Entwistle Bass Gear | Whotabs:

参考文献[編集]

  • アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、ISBN 978-4-401-63255-8
  • レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』、2004年。

外部リンク[編集]