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「シャーリー・テンプル」の版間の差分

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{{Otheruseslist|アメリカの映画女優・外交官|カクテル|シャーリー・テンプル (カクテル)|子供服ブランド|シャーリーテンプル (ブランド)}}
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| 芸名 =シャーリー・テンプル
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| ふりがな = Shirley Temple
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| 画像コメント = 1944年
| 画像コメント = 子役時代のシャーリー・テンプル(右)と[[エレノア・ルーズベルト]](1938年)
| 本名 = シャーリー・ジェーン・テンプル
| 本名 = シャーリー・ジェーン・テンプル
| 別名 = Shirley Jane Temple
| 別名 = Shirley Jane Temple
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| 生年 = 1928
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| 没年 = 2014
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| 活動時期 =
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| 活動内容 = 映画、テレビ、著作
| 活動内容 = 映画、テレビ、著作
| 配偶者 = ジョン・エイガー(1945-1950)<br />チャールズ・ブラック(1950-2005)
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| 家族 = リンダ・スーザン(娘)<br />チャールズ(息子)<br />ロリー(娘)
| 家族 =
| 公式サイト = [http://www.shirleytemple.com/ Official Shirley Temple Web Site]
| 公式サイト = [http://www.shirleytemple.com/ Official Shirley Temple Web Site]
| 主な作品 =『可愛いマーカちゃん』<br/>『[[輝く瞳]]』<br/>『[[テンプルの上海脱出]]』<br/>『[[テンプルちゃん小公女]]』
| 主な作品 =『[[ハイジ]]』<br />『[[輝く瞳]]』<br />『[[テンプルちゃんお芽度う]]』<br />『[[テンプルの福の神]]』
| アカデミー賞 = [[アカデミー賞]]特別賞(1935年)
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| 日本アカデミー賞 = | フィルムフェア賞 =
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| その他の賞 = [[全米映画俳優組合賞]]生涯功労賞
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'''シャーリー・ジェーン・テンプル'''('''Shirley Jane Temple'''、結婚後は'''シャーリー・テンプル・ブラック'''、'''Shirley Temple Black'''[[1928年]][[4月23日]]- )は、[[アメリカ合衆国]]の[[ハリウッド]][[女優]]および[[外交官]]で、子役女優である。
'''シャーリー・ジェーン・テンプル'''('''Shirley Jane Temple'''、結婚後は'''シャーリー・テンプル・ブラック'''、'''Shirley Temple Black'''[[1928年]][[4月23日]] - [[2014年]][[2月10日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[ハリウッド]][[俳優|女優]]および[[外交官]]で、子役女優であった。なお、外交官としての業績により大使の称号を一生名乗ることを特に認められていたので、より正確にはシャーリー・テンプル・ブラック大使('''Ambassador Shirley Temple Black''')が正しい呼称である。


1930年代の子役時代においては、当時のすべての映画スターの中で最も格が高いスターで、アメリカの象徴的存在であった。1930年代に彼女が[[フォックス・フィルム]]社の子役スターとして登場した時、大プロデューサーの[[サミュエル・ゴールドウィン]]は、「シャーリー・テンプルの人生が続く限り、そのすべての年において、彼女は素晴らしいだろう」と語ったと伝えられる。その言葉どおりシャーリー・テンプルはいくつもの分野で顕著な業績を挙げ、6歳の時から85歳で亡くなるまでアメリカの名士であり続けた。彼女は2014年2月10日、[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]市郊外のウッドサイドの邸宅で死去した<ref>http://www.digitalspy.co.uk/movies/news/a550347/hollywood-icon-shirley-temple-dies-aged-85.html</ref>。
1930年代においてはアメリカの象徴的存在で、すべての映画スターの中で最も格の高いスターであったばかりでなく、すべてのアメリカ人の中で最も高い収入を得ていた。例えば、[[1938年]]においては、全米第2位の高額所得者の7倍の収入であった<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.13.なお、この本のこのページの記述によれば、この年の、高額所得者のベスト6は、(テンプルを除けば)会社の経営者で、その中には、MGMのルイス・B・メイヤー社長も含まれていた。</ref>。

== 概説 ==
彼女は自分の人生には3つの時期があったと述べている。女優の時期と、子育ての時期と、外交官の時期である。アメリカ映画女優として1930年代から1940年代に活躍。映画女優としては、特に1930年代の子役時代の活動が名高い。6歳にしてハリウッドの伝説的なスターであり、世界的に非常に高い知名度があり、しばしば[[コカコーラ]]や[[ニューヨーク]]にある[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神]]と比較された。その後、ティーン・アイドル・スターとなった。1950年に幸福な結婚をした後に映画界を引退し、1950年代と1960年代前半は3人の子供の子育てに専念すると共に、アメリカのテレビに出演した。1960年代後半から1990年代後半の時期は外交官や数社の大企業の重役を務めた。

シャーリーは約60年前に映画から引退しているが、アメリカでは現在にいたるまで、子役の人気投票をすると、現役の子役たちを差し置いて必ず1位か2位になる存在である。オードリー・ヘプバーンと同様に過去のスターでありながら、アメリカでは一種の「現在のスター」であり続けていると言っていい。

シャーリーはアメリカでは勤勉さと真面目さと温かさと優雅さと品行方正で知られており、伝説的な映画女優としてまた著名な外交官として高い尊敬を受けている。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 家族 ===
[[File:Eleanor Roosevelt and Shirley Temple - NARA - 195615.jpg|thumb|right|300px|子役時代のシャーリー・テンプル(右)と[[エレノア・ルーズヴェルト]](1938年)。写真はエレノアにシャーリーが贈ったサイン入りのブロマイドであり、本物は現在ルーズヴェルト大統領記念館に展示されている。]]
<!--アメリカの子役は、ショウビジネスの家庭に生まれるか、あるいは親が挫折した俳優で子供に夢を託している家庭に生まれるかのどちらかである。前者の例としては[[ジュディ・ガーランド]]や[[ミッキー・ルーニー]]や[[テータム・オニール]]、後者の例としては[[エリザベス・テイラー]]やジェイン・ウィザースが挙げられる。
シャーリー・テンプルは、ショウビジネスとは全く無縁の普通の家庭に生まれたという点で珍しい存在である。
本人と関係なく、また断定的口調なので一旦コメントアウト-->

テンプル家は[[イギリス]]系に[[ペンシルベニア・ダッチ]]が混ざった家系であるが、[[ワスプ]]とされる家系。ちなみに彼女から17代前の先祖にさかのぼると英国の詩人の[[ジェフリー・チョーサー]]がいる。テンプル家は [[プロテスタント]]の清教徒の[[長老派]]で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒は、伝統的に実業を重んじ演劇や映画を軽視する傾向があるが、シャーリー・テンプルが少女スターになった時、テンプル一族の反応は複雑なものがあったと伝えられる。<!--後に、彼女は女優を思い切りよく辞めてしまうが、彼女の行動はそういった清教徒の雰囲気を考えれば理解しやすいであろう。
↑個人の主観ではないか?-->

父方の祖父は医師であった。父親ジョージは銀行員(後に実業家)で、彼女が生まれたときは大手銀行30社の一つであるカリフォルニア銀行([[:en:Union Bank of California|Union Bank of California]])のサンタモニカ支店長であった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上([[平凡社]]・1992年)p.22-23,p.29. なお、p.304でテンプル家はプロテスタントの清教徒の長老派に属すことが分かる。</ref>。(なお、[[淀川長治]]を含む一部の情報源では父親が銀行の頭取と述べているがこれは完全な誤り。銀行の幹部ではあっても頭取になったことはない)

母方の祖父は[[ドイツ]]系で宝石・時計商であり、母親ガートルードは専業主婦であった。

彼女の2人の兄はそれぞれ[[スタンフォード大学]]と[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]を卒業後、[[連邦捜査局|FBI]]の幹部と[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の士官になった。

=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
1928年に[[カリフォルニア州]][[サンタモニカ]]の上品な住宅街で生まれた<ref>Rita Dubas, ''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star'' (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.7.</ref>。生前、この州で人生の大部分を過ごしており、[[清教徒]]の勤勉さや真面目さと並んで、カリフォルニア州的な明るさと積極性が彼女の特徴である<ref>Anne Edwards, Shirley Temple: American Princess (Berkeley Publishing Group, 1989) p.21-24.</ref>。
銀行家で実業家の父親と、専業主婦の母親の第三子として、有名なリゾート地である[[カリフォルニア州]][[サンタモニカ]]の高級住宅街で生まれる<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.7</ref>(なお、一部の情報源では父親が銀行の頭取と述べているがこれは完全な誤り。銀行の幹部ではあっても頭取になったことはない)。父親は[[ワスプ]]で、シャーリー・テンプルが生まれたときは大手銀行のカリフォルニア銀行([[:en:Union Bank of California]])のサンタモニカ支店長であった。母親は[[ドイツ]]系であった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上([[平凡社]]・1992年)p.22-23,p.29. なお、p.304でテンプル家はプロテスタントの清教徒の長老派に属すことが分かる。</ref>。母親は胎教として、シャーリーを妊娠中に音楽や美しい絵、綺麗な風景に接するようにつとめた。生まれてきたシャーリーは赤ん坊の時から、ダンスと音楽に強い関心を示した。この「シャーリー・テンプルの胎教」の話は、アメリカではよく知られたエピソードである<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.7-8. およびRobert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.13. なお、Gertrude Temple,''How I Raised Shirley Temple: By her Mother''(Saalfield Publishing Co.,1935)も参照。</ref>。


母親は胎教として、妊娠中に音楽や美しい絵、綺麗な風景に接するようにつとめた。生まれてきた彼女は赤ん坊の時から、ダンスと音楽に強い関心を示した。この「シャーリー・テンプルの胎教」の話は、アメリカではよく知られたエピソードである<ref>Rita Dubas, ''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star'' (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.7-8、およびRobert Windeler, ''The Films of Shirley Temple'' (Citadel Press, 1978), p.13。なお、Gertrude Temple, ''How I Raised Shirley Temple: By her Mother'' (Saalfield Publishing Co., 1935)も参照。</ref>。家庭は円満で、両親に愛情を注がれて育つ。良質の食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって、3歳までほとんど病気をせずに育った。2人の兄は既に十代であり、育児の手がかからなかったため、母親は彼女と毎日一緒に歌ったり踊ったりして過ごしていた<ref>Rita Dubas, ''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star'' (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.7-8、およびRobert Windeler, ''The Films of Shirley Temple'' (Citadel Press, 1978), P.13.</ref>。
目は茶色であった。髪の毛は、生まれてから7歳ぐらいまでは金髪だったのだが、8歳ぐらいから赤みを帯びるようになり、やがてストロベリー・ブロンドへ変わり、10歳ぐらいからは茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい色になった。


目の色は茶色であった。髪の毛は、生まれてから7歳ぐらいまでは金髪だったのだが、8歳ぐらいから赤みを帯び、やがて赤毛に近くなり、10歳ぐらいからは茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい色になった。
家庭は円満で、両親の強い愛情の下で育つ。良質の食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって、3歳までほとんど病気をせずに育った。彼女の上の2人の兄は既に十代になっており、育児の手がかからなくなっていたため、母親は毎日一緒に歌ったり踊ったりして過ごしていた。やがて上の2人の兄は[[スタンフォード大学]]と[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)| 陸軍士官学校]]に入学したので母親は完全にシャーリーにかかりきりになれた<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.7-8. およびRobert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.13.</ref>。


3歳の頃、ダンスと音楽に強い関心を示した彼女を、母親はメグリン・ダンス学校([[:en:Meglin Kiddies]])に入学させる。(ちなみに[[ジュディ・ガーランド]]もこの学校の卒業生である。)<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.8</ref>
1931年3歳の頃、ダンスと音楽に強い関心を示した彼女を、母親はメグリン・ダンス学校([[:en:Meglin Kiddies|Meglin's Dance School]])に入学させる<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star'' (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.8。ちなみに[[ジュディ・ガーランド]]もこの学校の卒業生である。</ref>


=== 少女スター ===
=== 少女スター誕生 ===
1932年から1933年にかけて[[ユニバーサル映画]]社の下請けだったエデュケーショナル社([[:en:Educational Pictures|Educational Pictures]])が製作した、幼児だけを登場させた短編劇映画シリーズ「ベビー・バーレスク」([[:en:Baby Burlesks|Baby Burlesks]])や「フロリックス・オブ・ユース」等の主役を十本以上続けてつとめる。
[[ユニバーサル映画]]社の下請けだったエデュケーショナル社が製作した、幼児だけを登場させた短編劇映画シリーズ「ベビー・バーレスク」([[:en:Baby Burlesks]])の主役を十本以上続けてつとめた後、フォックス映画社に見出されて7年契約を結び[[1934年]]に『歓呼の嵐』に出演。さらに[[パラマウント映画]]社に貸し出されて、『可愛いマーカちゃん』に主演。映画会社の予測を遥かに超え、一夜にしてアメリカを熱狂させる。<ref>この事情に関しては、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.24-93に詳しい。</ref>。6歳にしてフォックス映画社の看板女優になったばかりではなく、たちまちのうちにアメリカ映画で最も人気のあるスターになる。彼女の映画の成功が、[[大恐慌]]下のメジャースタジオのフォックス映画社の倒産を救った<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.22-24. および、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.106-117.</ref>。続く『輝く瞳』と1935年の『小連隊長』も熱狂的な支持を受ける<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.118-167。なお、現在シャーリー・テンプルのDVDが何種類も店頭に並んでおり、それらは当然のことながら現代表記に改めてある。混乱を避けるため、この記事では表記はすべて現代表記に改めることにする。『小連隊長』は『[[小聯隊長]]』、『テンプルちゃんお芽出度う』は『テムプルちゃんお芽出度う』、『テンプルの愛国者』は『[[テムプルの愛国者]]』、『テンプルの燈台守』は『テムプルの灯台守』、『テンプルの福の神』は『テムプルの福の神』、『テンプルのえくぼ』は『[[テムプルのえくぼ]]』、『テンプルの上海脱出』は『テムプルの上海脱出』、『テンプルの軍使』は『テムプルの軍使』、『ハイジ』は『ハイデイ』、『天晴れテンプル』は『天晴れテムプル』が戦前公開時の表記である</ref>。


1935年、彼女は、1934年映画での業績対し第4回の[[アカデミー賞]]特別賞を受賞している(それ先立つ3回の受賞者は、[[ウォルトディズニー]]、[[ャーリー・チャップリ]]、[[トーキー]]最初使った[[ワー・ブラザーズ]]である)。受賞当時、シャーリー・テンプルはまだ6歳であった。アカデミー賞のすべての分野おいてこの最年少記録は現在至るまで破られてい<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.27. およびRobert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.7-28. お、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上, p.168-172.</ref>。
[[1933]]に[[フォックス・フィルム]]社([[20世紀フォックス]]社前身)見出され7年契約を結び『歓呼嵐』に出演。準主役だったが高い評価をうける。次に[[パラマウント映画]]社に貸出され、『可愛マーカちゃん』に主演。一夜にしてアメリカを熱狂させ。さら『ベビイお目見得』に主演この映画を見た[[フランクリンズベルト]]大統領は定期的に行っていたラジオ演説「[[炉辺談話]]」で全国民に向けて「大不況のさなか、アメリカ国民が映画でシャーリー・プルの笑顔見て苦労を忘れることが出来るのは素晴らしいことだ」と語る<ref>この事情関しては、シャ・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.24-93に詳しい</ref>。6歳にしフォックス・フィルム社看板女優なったばかりではなく映画会社予測を遥か超え、たちちのうちにアメリカ映画最も人気のあるスターにる。彼女の映画の成功が、[[大恐慌]]下のメジャースタジオのフォックス・フィルム社の倒産を救った<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.22-24. および、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.106-117.</ref>。続く『輝く瞳』と1935年の『小連隊長』も熱狂的支持を受ける<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.118-167</ref>。


彼女は、真面目さや勤勉さが特徴であった。映画の出演が決まると常に、撮影が始まるまでに、台本に載っているすべての登場人物の台詞を必ず暗記していたが、<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.86-87.</ref>台本には書き込みやマーク等は一切しなかった。それでも決してNGを出さず、一回の撮影で監督を満足させる演技ができることから、「一回撮りのシャーリー(One-take Shirley)」と言われていた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.181. James Haskins,''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988)p23.</ref>。撮影のときは、決して遅刻をせず、必ず予定より少し早めにセットに入っていた。大人になってからも、どんな時も常に時間に正確であることは終生変わらなかった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.225. Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.90.</ref>。
映画界に入った後は、後年まで母親のガートルードはぴったり娘につきそい、「映画界の悪い影響」を受けないように保護した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),26.撮影所で、4時間撮影の仕事をし、3時間勉強し、昼休みに1時間をかけた。昼休みに名士たちの訪問がある場合もしばしばだった。毎日4-5時ごろ帰宅し、いつも夕食まで近所の普通の子供たちと遊んでいた。夕食後は普通の子供がやるように遊んだり、ラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりしていた。寝る前に次の日の撮影の準備をした。</ref>。フォックス映画社も同じく保護が必要だという意見で、撮影所内に彼女専用の家と、専用のおもちゃと、専用の家庭教師を用意した。そのような環境において明るく品行方正に育っていった。<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.101-104.フォックス映画社は、シャーリー・テンプルが他の子役と遊ぶのを禁止していた。法律上1日4時間しか撮影に使えなかったので、その間は仕事に専念させたいという理由だった。同時に、他の素行の悪い子役から悪い影響をうけて、品行方正な子供というイメージに傷がつくのを恐れていた</ref>。以後12歳までは学校に通わず、[[20世紀フォックス]]のスタジオ内で、専用の家庭教師について学んだ。6歳のとき知能検査で10歳の知能があると評価された。知能検査ではこれは「天才」の範疇に分類される。家庭教師とは、数学年上の授業内容を学んでいた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.104,p.229-230.</ref>。


アメリカの国の機関である[[ケネディ・センター]]は次のように述べている。「最初からシャーリー・テンプルには、映画のカメラに愛される物があった。輝く瞳と、巻き毛と、魔法のような存在感と、溢れる魅力―そして驚くべき才能である」<ref name="ofwebBiographical">Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年参照)</ref>1930年代当時、大人のプロのダンサーでも難しいステップを楽々と踊れ、正確な音程とリズムで難しい曲が歌え、気難しい批評家も唸らせるような絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る5〜6歳の子役は彼女の他には一人もいなかったと言える。そして、2013年現在に至るまで、幼稚園児の年齢で踊りと歌と演技を彼女のようにこなせる子役の名前を挙げるのは難しいであろう。
映画の出演が決まると常に、撮影が始まるまでに、台本に載っているすべての登場人物の台詞を必ず暗記していた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.86-87.</ref>。決してトチったりせず、一回の撮影で監督を満足させる演技ができることから、「一回撮りのシャーリー(One-take Shirley)」と言われていた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.181. James Haskins,''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988)p23.</ref>。撮影のときは、決して遅刻をせず、必ず予定より少し早めにセットに入っていた。その後、ティーン・アイドル・スターになり、外交官にもなり、大会社の重役もつとめたが、どんな時も常に時間に正確であることは、終生変わらなかった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.225. Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.90.</ref>。


そしてケネディ・センターが「溢れる魅力」と述べているように、彼女は生まれつき、人々を惹きつけ相手の心を明るくしてしまう強い魅力を持っていた。彼女はどんな時でも快活さを失わず、決して不機嫌になったり意地悪だったりグズったりしたことがなかった。映画監督の[[デイヴィッド・バトラー]]は「彼女と話をしたことのある者は、みんな彼女の人柄に感動していた」と語っているし、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は、定期的に行っていたラジオ演説「[[炉辺談話]]」で全国民に向けて彼女の「人々に影響を与える明るさ(infectious optimism)」<ref>Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年参照)</ref>を賞賛している。
彼女以後の子役の少女は、[[マーガレット・オブライエン]]や[[ナタリー・ウッド]]や[[エリザベス・テイラー]]や[[テータム・オニール]]のようにどこかに影のある「大人のような子供」であったり、[[ブルック・シールズ]]や[[ジョディ・フォスター]]のように妖艶さを売り物にしたりするようになっていく。しかしシャーリー・テンプルは、どこまでも純粋で無邪気で明るい、子供らしい子供を演じた20世紀のアメリカ映画で唯一の大物の少女スターであった<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.15.</ref>。


1930年代に、世界最高のタップ・ダンサーと言われた俳優の[[ビル・ボージャングル・ロビンソン]]は、「神様はシャーリーを、後に続くものはいない、唯一無二の存在として創った。シャーリーの後、二度とシャーリーのような存在は現れないであろう」と語っている。
やがてシャーリー・テンプルは、ただの少女スターではなく「アメリカの無垢(アメリカン・イノセンス)」の象徴となっていく。


=== アメリカ象徴へ ===
=== 少女スターとして成功 ===
『可愛いマーカちゃん』に出演した時点で、ある出来事が起きた。彼女は両親とホテルに滞在していた時、人品卑しからぬ男がやってきて自分は土地の[[カトリック教会|カトリック]]教徒の代表だと名乗り、メダルが欲しくないかと5歳のシャーリーに尋ねた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていたので、欲しいと答えた。男はシャーリーを抱き上げ、後ろから両親とフォックス映画社の渉外部員が付いていった。なんとホテルの宴会室では、数千人の人々が出席している大きな大会が開催されている最中で、止める間もなく、男はシャーリーを壇上に上げ、メダルを授与してからスピーチを求めた。スターになるかならないかの時期で、誰もまだこんな時どうふるまえばいいか全く教えてなかったので、両親もフォックスの渉外部員も真っ青になり、どうなることかと固唾を飲んで見守った。するとシャーリーはとてもにこやかに、メダルのお礼を述べ、呼んでくれたことに感謝の言葉を述べ、大会が成功するように祈っていますと述べ、最後に、皆さんが大好きですと言って、投げキスをした。シャーリーは思ったままを述べたのであったが、出席者たちは感動し、長い大きな拍手が続いた。両親はホッとし、シャーリーが壇から降りた後でフォックスの渉外部員はシャーリーに「君に教えることは何もない。どんな時でも自分をそのまま出せばいいよ」と感に堪えたように言った。その後もシャーリーはどんな時でも自分をそのまま出すことで、感動を聴衆のアメリカ人たちに与え続け、2013年現在に至っている。
代表的な[[映画]]作品としては上述の『可愛いマーカちゃん』、『[[輝く瞳]]』、『[[小連隊長]]』の後、『[[テンプルちゃんお芽出度う]]』、『[[テンプルの愛国者]]』、『[[テンプルの灯台守]]』、『[[テンプルの福の神]]』、『[[テンプルのえくぼ]]』、『[[テンプルの上海脱出]]』、『[[テンプルの軍使]]』 、『[[ハイジ]]』、『[[農園の寵児]]』、『[[天晴れテンプル]]』、『[[テンプルちゃんの小公女]]』等が挙げられる<ref>様々な本にこの時期の話は載っているが、それぞれの作品の成功の詳しい事情に関しては、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.147-424を参照』</ref>。このうち、『[[テンプルの福の神]]』と『[[農園の寵児]]』は、公的機関であるアメリカ映画協会(AFI)によって「ミュージカル傑作180選」の中に選ばれている。<ref>アメリカ映画協会(AFI)ホームページ</ref>。


シャーリーへのファンレターは、『可愛いマーカちゃん』に出演した時点で週に4千通を超え当時のアメリカで最も多いファンレターを貰うスターとなった。その後すぐに週1万通以上になったためFOXはフルタイムで専属の秘書を10人雇った。また、彼女のサインを多くの人が欲しがった。クリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、デパートのアルバイトのサンタクロースが彼女のサインを欲しがったので、サンタクロースがいると信じるのを止めてしまったと、後に彼女は語っている。
[[ゲーリー・クーパー]]、[[スペンサー・トレーシー]]、[[キャロル・ロンバード]]、[[ジャネット・ゲイナー]]、フランク・モーガン、ライオネル・バリモア、アリス・フェイ、[[ランドルフ・スコット]]等の当時の最高のスターたちと共演している<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),pp.110-205.の各映画のクレジットの項を参照</ref>。また、当時アメリカ最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ロビンソン([[:en:Bill Robinson]])との共演は特筆すべきである。シャーリー・テンプルとビル・ロビンソンは、アメリカの歴史上初めての黒人と白人のダンス・ペアであった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.155-160。シャーリー・テンプルは、共演した相手の中で、ビル・ボージャングル・ロビンソンが最も好きだったと言っている。</ref>。


1935年、彼女は、1934年の映画での業績に対して第4回の[[アカデミー賞]]特別賞を受賞している(それに先立つ3回の受賞者は、[[ウォルト・ディズニー]]、[[チャーリー・チャップリン]]、[[トーキー]]を最初に使った[[ワーナー・ブラザーズ]]である)。受賞当時、シャーリー・テンプルはまだ6歳であった。アカデミー賞のすべての分野において、この最年少の記録は2013年現在、破られていない<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.27. およびRobert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.7-28. なお、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上, p.168-172.</ref>。当時のアカデミー賞の授賞式は夜遅くまであり、彼女の番になったのは午前1時半を過ぎてからであった。仕事の後で当然疲れて非常に眠かったはずであるが、非常ににこやかに受賞の挨拶をした。挨拶が終ってから小さな声で母親に、「ママ、もう帰っていいの?」とにっこり微笑んで尋ねた。ところがその声を集音マイクが拾ったので、アカデミー賞の会場に大きな声で流れてしまい、出席者全員が爆笑し、疲労や眠気を全く表に出さないこの幼女の驚くべき頑張りに対して賞賛の大きな拍手が起きた。
彼女が、『輝く瞳』で 歌ったOn the Good Ship Lollipop([[:en:On the Good Ship Lollipop]])は大ヒットし、その後彼女のテーマソングになった。<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p.118。この歌は、現在に至るまで非常に愛されているだけでなく、さまざまなパロディの対象にもなっている。On the Good Ship Lollipopのウィキペディアの項目を参照。</ref>。彼女の歌にはヒットソングが多く、その中には『テンプルちゃんお芽出度う』で歌ったAnimal Crackers in My Soup([[:en:Animal Crackers in My Soup]])、『テンプルの福の神』で歌ったOh, My Goodness、『テンプルの灯台守』で歌ったAt the Codfish Ball,『テンプルの上海脱出』で歌ったGoodnight, My Love([[:en:Goodnight My Love (1936 song)]])、『農園の寵児』で歌ったAn Old Straw Hat等が含まれる。現在でも彼女の歌は愛され、欧米ではCDの全集と選集がそれぞれ発行され続けている<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.214,251を参照。なお、ディズニーの「シング・アロング」シリーズの中に、唯一のディズニー社の映画の曲以外の歌として、At the Codfish Ballが収録されている。</ref>。


映画界に入った後は、後年まで母親のガートルードはぴったり娘につきそい、「映画界の悪い影響」を受けないように保護した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),26.</ref>。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だという意見で、撮影所内に彼女専用の家と、専用のおもちゃと、専用の家庭教師を用意した。そのような環境において明るく品行方正に育っていった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.101-104.なお、『輝く瞳』で共演した子役のジェイン・ウィザーズとも付き合いはなかった。それは、『輝く瞳』の撮影のときに、ジェインが毎日シャーリー・テンプルの物真似をしてシャーリー・テンプルをからかい、撮影の本番の時、ジェイン・ウィザーズがシャーリー・テンプルの台詞を先回りして横で大声でいうので、シャーリー・テンプルはとても演技がやりにくかったという理由によるものである。ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』の中でジェインは、シャーリーの母親のせいでシャーリーとの共演がその後二度となかったと述べているが事実ではなかったらしく、1985年に全米に放送されたテレビ番組でジェインは訂正をしている。ディック・モーアの本は、元子役たちの生の声を収録した点で非常に貴重な資料と言えるが、裏を取らないまま活字にしているので、誤りの多い本でもある</ref>。フォックス・フィルム社は、彼女が他の子役や裏方と遊ぶのを禁止していた。法律上1日4時間しか撮影に使えなかったので、その間は仕事に専念させたいという理由だった。また、西部劇スターの[[ウィル・ロジャース|ウィル・ロジャーズ]]が事故死した後では、フォックス・フィルム社の命運がシャーリー・テンプル一人の肩にかかっていたので、他の子役や裏方と遊んでいるうちに病気や怪我をすることを非常に恐れていた。彼女の成功をねたんだ他の子役の母親が、顔に[[硫酸]]をかけようとしたり、毒入りのキャンディを送りつけた事件が起きてからはなおさらであった。同時に、他の早熟な子役から悪い影響をうけて、品行方正な子供というイメージに傷がつくのを恐れていた。撮影所で、4時間撮影の仕事をし、3時間勉強し、昼休みに1時間をかけた。昼休みに名士たちの訪問がある場合もしばしばだった。毎日4-5時ごろ帰宅し、いつも夕食まで近所の普通の子供たちと遊んでいた。彼女と最も親しかったのは[[ナンシー・メジャーズ]]であった。夕食後は普通の子供がやるように遊んだり、ラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりしていた。寝る前に次の日の撮影の準備をした。保護策をとらなかった[[MGM]]では子役スターたち([[ジュディ・ガーランド]]、[[ミッキー・ルーニー]]、[[エリザベス・テイラー]]等)が非常に早い時期にセックスと酒を覚えてしまい、大人になってからも精神的に不安定で結婚と離婚を何度も繰り返すようになったことを考えると、フォックスの処置は賢明だったと言える。ちなみに、フォックス映画社のもう一人の少女スターで、1930年代に悪ガキの役を演じ続け、シャーリーとは『輝く瞳』で共演したジェイン・ウィザースも精神的に安定した人生を送っている。
また、アイデアル社([[:en:Ideal Toy Company]])から発売されたシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示した。現在、オリジナルのシャーリー・テンプル人形は、一体数十万円から数万円の価格帯で取引されている。(現在でもアメリカではシャーリー・テンプル人形はダンバリー・ミント社(Danbury Mint)により全部で10種類が製作され販売されている。)また、シンデレラ・ブランドのシャーリー・テンプルの女児服、アクセサリーも爆発的な売れ行きを見せた<ref>Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.75-99. なお、Tonya Bervaldi-Camaratta,''The Complete Guide To Shirley Temple Dolls and Collectibles: Identification and Value Guide''(Collector Books,2006).によれば2000ドル以上の価格の人形がある。なお、E-bay等のオークションでは人形一体に日本円にして百万円単位の入札がある場合もある</ref>。


1935年にフォックス・フィルム社は、[[20世紀ピクチャーズ|20世紀映画会社]]と合併して、[[20世紀フォックス]] となった。合併祝賀パーティの席上、あるシナリオライターが6歳のシャーリーを抱いて、高い高いをしたところ、パーティの全員が、シャーリーが怪我をするのではないかと、恐怖で凍りついた顔になった。シナリオライターは、今自分が両手で高く差し上げているのは、20世紀フォックスの全財産にも等しい子どもなのだと気づいて、恐ろしさにくらくらして、思わずシャーリーを落としそうになったというエピソードが残っている。
『テンプルの軍使』で[[ジョン・フォード]]監督のもとで主演をつとめた時は、危険なスタントも自分でやり、殴られる場面では、本当に激しく殴らせて、痛みをこらえてけろりとした表情をしていた。ジョン・フォードは、彼女のガッツに舌を巻き、彼女を高く評価し続けた。ジョン・フォードは彼女のことを「一回撮りのテンプル(One-take Temple)」と呼んでいた。後に、ジョン・フォードは、彼女の長女の名付け親にもなっている<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.277-302.</ref>。


大スターになったシャーリーには、[[:en:stand-in|stand-in]]([[スタンドイン]])が付いていた。彼女付きのスタンドインの中では、マリリン・グラナス(Marilyn Granas)やメリー・ルー・イズライブ(Mary Lou Isleib)等が知られている。『ベビイお目見得』(''[[:en:Baby Take a Bow|Baby Take a Bow]]'')や『[[輝く瞳]]』等で、初期のスタンドインを務めた1歳年上のマリリンとは、ベビー・バーレスク作品の''[[:en:The Kid's Last Fight|The Kid's Last Fight]]''や''[[:en:Kid in Hollywood|Kid in Hollywood]]''等で出演者として競演している。マリリンは後にキャスティング・ディレクターになった。また、マリリンの後にスタンドインを務めたメリー・ルーは、撮影所で他の子役達と殆ど接触が無かったシャーリーにとって唯のスタンドインでは無く学友であり親友だった。
『[[オズの魔法使]]』のドロシーの役も、彼女が演じる予定だったが、20世紀フォックスと[[MGM]]の話し合いがつかず、結局ジュディ・ガーランドに役が回った<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.312-314。この事情をジュディ・ガーランドの側から見た文章としてはデイヴィッド・シップマン『ジュディ・ガーランド』(キネマ旬報社・1996年)p.93-94。</ref>。


以後12歳までは学校に通わず、20世紀フォックスのスタジオ内で、専用の家庭教師について学んだ。6歳のとき知能検査で10歳の知能があると評価された。この頃のシャーリーの[[知能指数|IQ]]は155以上あった。知能検査ではこれは「天才」の範疇に分類される。家庭教師とは、数学年上の授業内容を学んでいた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.104,p.229-230.</ref>。
[[1930年代]]、彼女はアメリカ映画の最大のスターであり、[[1935年]]、[[1936年]]、[[1937年]]、[[1938年]]と、アメリカのマネーメイキング・スター1位になるという歴史的な記録を打ち立てた<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.23. 1934年8位、1935年1位、1936年1位、1937年1位、1938年1位、1939年5位。1940年13位。</ref>。(なお、一部のサイトでシャーリー・テンプルの映画の出演料が100万ドルだったと述べてあるがそれは完全な間違いである。女優の映画出演料が100万ドルになったのは1960年代の、リズ・テーラーの『クレオパトラ』や[[オードリー・ヘプバーン]]の『マイ・フェア・レディ』からである。1930年代では最高で30万ドルであった。)


彼女以後の子役の少女は、[[マーガレット・オブライエン]]や[[ナタリー・ウッド]]や[[テータム・オニール]]のようにどこかに影のある「大人のような子ども」であったり、[[ブルック・シールズ]]や[[ジョディ・フォスター]]のように妖艶さを売り物にしたりするようになっていく。しかしシャーリー・テンプルは、どこまでも純粋で無邪気で明るい、子どもらしい子どもを演じた20世紀のアメリカ映画で唯一の大物の少女スターであった<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.15.</ref>。
この時代、アメリカの名士や、外国からアメリカを訪問した名士は、頻繁に彼女と顔を合わせた。[[フランクリン・D・ルーズヴェルト|フランクリン・ルーズヴェルト]]大統領とも、社会運動家の大統領夫人[[エレノア・ルーズヴェルト]]とも、FBI長官の[[ジョン・エドガー・フーバー]]とも親交を結んでいた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下(平凡社・1992年)にはアインシュタインから[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]まで多くの訪問者の名前が記載されている。フランクリン・ルーズヴェルト大統領に関してはpp.382-384、エレノア・ルーズヴェルトに関してはpp.386-390、ジョン・エドガー・フーバーに関してはpp.339-352.を参照。</ref>。


=== ハリウッドの頂点へ ===
雑誌やニュース映画では、毎月彼女のことが大きく取り上げられた。<ref>Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),pp.246-249.に書かれているニュース映画のリストを参照。なお、ある雑誌記者が彼女の出ていない雑誌があるかどうかある月の雑誌の山を調べてみたところ、彼女のことが出ていない雑誌はなかったというエピソードが書かれている </ref>。旅先のボストンのホテルで熱を出して寝込んだときは、新聞は全段ぬきの一面トップの大見出しで報じ、ニュース速報を次々に出し、彼女の泊まっているホテルの周りには彼女を案じる1万人以上もの大群衆が集まった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.398-3400.を参照</ref>。彼女の言葉は頻繁に新聞の見出しになった。(例えば「[[喫煙]]は悪い習慣だとシャーリー・テンプルは語る」とか「[[ムッソリーニ]]は侵略した[[エチオピア]]から出て行くように誰かが命じるべきだとシャーリー・テンプルは語る」など<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.15208,379.</ref>。)
契約以後、20世紀フォックスにシャーリーがもたらした収益は1930年代当時の金額で3000万ドル以上と言われている。(1930年代当時は極端なデフレでドルの価値が現在と全く異なっている。現在のドルに換算するには、年によって異なるが大体30~50を掛けてみることをお勧めする。) [[1930年代]]、彼女はアメリカ映画の最大のスターであり、[[1935年]]、[[1936年]]、[[1937年]]、[[1938年]]と、アメリカのマネーメイキング・スター1位になるという歴史的な記録を打ち立てた。4回マネーメイキング・スター1位という記録は男優ではその後1940年代に[[ビング・クロスビー]]が史上最高の5回を獲得することによって破られるが、2009年にいたるまで女優で彼女の記録を破るものはまだ現れていない。また他のスターたちは一生俳優を続けてその生涯の総決算としてマネーメイキング・スター1位を手に入れているので、10歳になるまでに易々と4回なり、後は別の分野で顕著な業績をあげたシャーリーのケースは非常に際立っていると言えよう<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.23. 1934年8位、1935年1位、1936年1位、1937年1位、1938年1位、1939年5位。1940年13位。</ref>。(なお、20世紀フォックスを含む日本の一部の情報源ではシャーリー・テンプルの映画1作品あたりの出演料が100万ドルだったと述べてあるがそれは完全な間違いである。女優の映画1作品あたりの出演料が100万ドルになったのは1960年代の、エリザベス・テイラーの『クレオパトラ』(20世紀フォックス)や[[オードリー・ヘプバーン]]の『マイ・フェア・レディ』からである。1930年代ではシャーリー・テンプルが出演料の最高であったが、10万ドルであった。)


この時期の、代表的な[[映画]]作品としては上述の『可愛いマーカちゃん』、『[[輝く瞳]]』、『[[小連隊長]]』の後、ファンの多い作品である『[[テンプルちゃんお芽出度う]]』(原作は『あしながおじさん』)、『[[テンプルの愛国者]]』、『[[テンプルの灯台守]]』、『[[テンプルの福の神]]』、『[[テンプルのえくぼ]]』、『[[テンプルの上海脱出]]』、『[[テンプルの軍使]]』、『[[ハイジ]]』、『[[農園の寵児]]』、『[[天晴れテンプル]]』、『[[テンプルちゃんの小公女]]』等が挙げられる<ref>様々な本にこの時期の話は載っているが、それぞれの作品の成功の詳しい事情に関しては、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.147-424を参照』</ref>。このうち、『[[テンプルの福の神]]』と『[[農園の寵児]]』は、公的機関であるアメリカ映画協会(AFI)によって「ミュージカル傑作180選」の中に選ばれている<ref>アメリカ映画協会(AFI)ホームページ</ref>。また『輝く瞳』は、正確に言えば準ミュージカルであるが、イギリスのテレビ局「チャンネル4」によって、「傑作ミュージカル100選(Channel 4's list of 100 Greatest Musicals」)の97位(96位は『コットン・クラブ』、98位は『ミス・サイゴン』)に選ばれている。
明るく健気で楽天的で清潔な彼女のイメージは、アメリカ合衆国の誇りとなり、また[[大恐慌]]に立ち向かうアメリカ国民の心の支えとなる象徴的存在になった<ref>John Bankston, Shirley Temple(Mitchell Lane Publishers,2004),pp.5-6.</ref>。ちなみに作家のアン・エドワーズは、ほぼ同世代の英国のエリザベス王女(現[[エリザベス2世 (イギリス女王)]])とシャーリー・テンプルを対比させながら、シャーリー・テンプルは一種の「アメリカの王女」として扱われたとその著書で論じている<ref>Anne Edwards,''Shirley Temple: American Princess''(Berkeley Publishing Group,1989).</ref>。


当時、彼女は[[ゲーリー・クーパー]]、[[スペンサー・トレーシー]]、[[キャロル・ロンバード]]、[[ジャネット・ゲイナー]]、フランク・モーガン、ライオネル・バリモア、アリス・フェイ、[[ランドルフ・スコット]]等の当時の最高のスターたちと共演している<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),pp.110-205.の各映画のクレジットの項を参照</ref>。また、当時世界最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ボージャングル・ロビンソン([[:en:Bill Robinson|Bill Robinson]])との共演は特筆すべきである。シャーリー・テンプルとビル・ロビンソンは、アメリカの歴史上初めての黒人と白人のダンス・ペアであった。彼女は、共演した相手の中で、ビル・ロビンソンが最も好きだったと言っている<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.155-160。</ref>。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、「シャーリー・テンプルがいるかぎり、アメリカは安泰だ"as long as our country has Shirley Temple, we will be all right"」と全国民に向けてのラジオ放送「炉辺談義」の中で語っている<ref>この言葉は多くの本で述べられているが、ここではアメリカの国の機関であるケネディ・センターのKennedy Center HonorsのホームページのBiography of Shirley Temple Blackを挙げておきたい。</ref>。

有名なヒューモリストのアービン・コッブはシャーリーのことを「(子供たちへの)サンタクロースの最大の贈り物」と呼んだが、彼女は世界中の少女から熱狂的な支持があった。当時、アイデアル社([[:en:Ideal Toy Company|Ideal Toy Company]])から発売されたシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示した。また、シャーリー・テンプルの女児服、アクセサリーも爆発的な売れ行きを見せた。アメリカ・ヨーロッパ・日本だけでなく、文字通り世界中の少女たちがシャーリー・テンプル人形や服やアクセサリーを欲しがっていたのである。

この間、何度か誘拐事件がらみの脅迫をうけたり、気のおかしい女性から射殺されそうになったこともあったが、間一髪で免れた。

1937年にニューヨーク・タイムズはシャーリーを「アメリカ国民の天使」に選出している。

同年に『テンプルの軍使』で[[ジョン・フォード]]監督のもとで主演をつとめた時は、危険なスタントも自分でやり、殴られる場面では、本当に激しく殴らせて、痛みをこらえてけろりとした表情をしていた。ジョン・フォードは、彼女のガッツに舌を巻き、彼女を高く評価し続けた。ジョン・フォードは彼女のことを「一回撮りのテンプル(One-take Temple)」と呼んでいた。後に、ジョン・フォードは、彼女の長女の名付け親にもなっている<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.277-302.</ref>。『テンプルの軍使』について、大小説家のグレアム・グリーンは、9歳のシャーリー・テンプルに中年の男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書き、イギリス世論の怒りと[[20世紀フォックス]]からの告訴を招いた。(この件に関しては後述の「グレアム・グリーン事件」を参照のこと)

1939年の『[[オズの魔法使]]』のドロシーの役も彼女が演じる予定であった。非公式に[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]がカメラテストをして、衣装をつけて主題歌を歌わせてみたところ素晴らしい出来だった。それで同社の社長のルイス・メイヤーはシャーリー以外にこの役を演じられる者はないと考えた。しかし、20世紀フォックスと[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]の話し合いがつかず、結局ジュディ・ガーランドに役が回った。(1937年に20世紀フォックスのシャーリー・テンプル一人と、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの[[クラーク・ゲーブル]]と[[ジーン・ハーロウ]]の2人を交換する形で、それぞれ貸し出すことに一旦話が決まっていたのだが、ハーロウが急死してしまった。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーには、ハーロウの代わりに出せるような大スターが他にいなかったので、この話は流れてしまった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.312-314。この事情をジュディ・ガーランドの側から見た文章としてはデイヴィッド・シップマン『ジュディ・ガーランド』(キネマ旬報社・1996年)p.93-94。</ref>)

彼女は、もはやただの少女スターではなく「アメリカの無垢(アメリカン・イノセンス)」の象徴となっていた。

=== アメリカの象徴 ===
1930年代に、アメリカの名士や、外国からアメリカを訪問した名士は、頻繁に彼女と顔を合わせた。[[フランクリン・D・ルーズヴェルト|フランクリン・ルーズヴェルト]]大統領とも、社会運動家の大統領夫人[[エレノア・ルーズヴェルト]]とも、FBI長官の[[ジョン・エドガー・フーバー]]とも親交を結んでいた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下(平凡社・1992年)にはアインシュタインから[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]まで多くの訪問者の名前が記載されている。フランクリン・ルーズヴェルト大統領に関してはpp.382-384、エレノア・ルーズヴェルトに関してはpp.386-390、ジョン・エドガー・フーバーに関してはpp.339-352.を参照。</ref>。ルーズヴェルト大統領の誕生日の式典において、ルーズヴェルト大統領の膝に乗って「ハッピ・バースデイ・トゥ・ユー」を歌った。

雑誌やニュース映画では、毎月彼女のことが大きく取り上げられた<ref>Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),pp.246-249.に書かれているニュース映画のリストを参照。なお、ある雑誌記者が彼女の出ていない雑誌があるかどうかある月の雑誌の山を調べてみたところ、彼女のことが出ていない雑誌はなかったというエピソードが書かれている</ref>。旅先のボストンのホテルで熱を出して寝込んだときは、新聞は全段ぬきの一面トップの大見出しで報じ、ニュース速報を次々に出し、彼女の泊まっているホテルの周りには彼女を案じる1万人以上もの大群衆が集まった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.398-340.を参照</ref>。また、1935年の12月に、シャーリーが家族とハワイにバカンスに訪れた時は、彼女を一目観ようと10万人以上の人々が、彼女の乗った船が着く港や、行く先々に押し寄せ、シャーリーがハワイに着く予定日は、ハワイの公立学校が臨時休校になった。彼女の言葉は頻繁に新聞の見出しになった。(例えば「[[喫煙]]は悪い習慣だとシャーリー・テンプルは語る」とか「[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]は侵略した[[エチオピア]]から出て行くように誰かが命じるべきだとシャーリー・テンプルは語る」など<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.15208,379.</ref>)

明るく健気で楽天的で清潔な彼女のイメージは、アメリカ合衆国の誇りとなり、また[[大恐慌]]に立ち向かうアメリカ国民の心の支えとなる象徴的存在であった<ref>John Bankston, Shirley Temple(Mitchell Lane Publishers,2004),pp.5-6.</ref>。ちなみに作家のアン・エドワーズは、ほぼ同世代の英国のエリザベス王女(現[[エリザベス2世 (イギリス女王)]])とシャーリー・テンプルを対比させながら、シャーリー・テンプルは一種の「アメリカの姫君」として「畏敬と尊敬をもって」扱われたとその著書『シャーリー・テンプル―アメリカの王女』で述べている<ref>Anne Edwards,''Shirley Temple: American Princess''(Berkeley Publishing Group,1989).</ref>。実際、アメリカに「王女」に近い存在がもしいるとすれば、それはシャーリーであると、1930年代以来言われていた。シャーリーが初めて『ライフ』誌の表紙を飾った1938年7月の号で既に「彼女は王女さながらの独自の地位を自然な形で受け入れている」という記述がある。

ルーズヴェルト大統領は、「アメリカにシャーリー・テンプルがいるかぎり、われわれアメリカ人は安泰だ"as long as our country has Shirley Temple, we will be all right"」と全国民に向けてのラジオ演説「[[炉辺談話]]」の中で語っている<ref>この言葉は多くの本で述べられているが、ここではKennedy Center: Biographical information for Shirley Temple を挙げておきたい。(2008年4月参照)</ref>

=== 少女スター時代の映画について ===
ケネディ・センターは「子供のとき、彼女は歌とダンスでアメリカ的精神を体現し、アメリカ人に計り知れないほどの喜びと希望を与えた」と述べている<ref name="Biographical">Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年4月参照)</ref>。少女スター時代に彼女の出た映画は家族向きの作品で、『足長おじさん』とか『小公女』とか『少女レベッカ』とかいった当時の少女小説の映画化が多い。彼女の演じるヒロインはたいてい、当時の児童文学のパターン通り明るく健気な孤児の少女という設定になっている。同時に多くの作品が、ディズニーの長編アニメと同様にミュージカル仕立てになっている。これは当時の英米の児童劇の伝統に則ったものである。

ミュージカル・ナンバーは彼女の映画の呼び物の一つで、彼女は非常に優れたダンサーであった。特にタップダンサーとしては[[フレッド・アステア]]や[[エレノア・パウエル]]と並んで1930年代を代表する大スターの一人である。彼女のダンス・ナンバーとしては、『歓呼の嵐』『ベビイお目見得』でのジェームズ・ダンとの踊り、『テンプルちゃんお芽出度う』でのピアノの上でのソロの踊り、『小連隊長』『テンプルの愛国者』『農園の寵児』でのビル・ロビンソンとの踊り、『テンプルの灯台守』でのバディ・エブスンとの踊り、『テンプルの福の神』でのアリス・フェイとジャック・ヘイリーとの踊り、『テンプルの上海脱出』でのフレッド・アステア人形との踊り、『天晴れテンプル』でのジョージ・マーフィーとの踊りが有名である<ref>なお、現在シャーリー・テンプルのDVDが何種類も店頭に並んでおり、それらは当然のことながら現代表記に改めてある。混乱を避けるため、この記事では表記はすべて現代表記に改めることにする。『小連隊長』は『[[小聯隊長]]』、『テンプルちゃんお芽出度う』は『テムプルちゃんお芽出度う』、『テンプルの愛国者』は『[[テムプルの愛国者]]』、『テンプルの燈台守』は『テムプルの灯台守』、『テンプルの福の神』は『テムプルの福の神』、『テンプルのえくぼ』は『[[テムプルのえくぼ]]』、『テンプルの上海脱出』は『テムプルの上海脱出』、『テンプルの軍使』は『テムプルの軍使』、『ハイジ』は『ハイデイ』、『天晴れテンプル』は『天晴れテムプル』が戦前公開時の表記である。</ref>。(ところで、20世紀フォックスから出ている日本版の『農園の寵児』のDVDのカバーには、「映画『ザッツ・エンターテイメント』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書いてあるが、これは完全な間違いである。『ザッツ・エンターテイメント』シリーズに収録されているのは、MGMのミュージカルだけであり、20世紀フォックスの映画が収録されることは無く、映画『ザッツ・ダンシング』の間違いである。かつ収録された作品は『農園の寵児』ではなく『テンプルの愛国者』である。故に『テンプルの愛国者』DVDのカバーに、「映画『ザッツ・ダンシング』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書くのが正解である)

ソング・ナンバーとしては、『輝く瞳』で 歌ったOn the Good Ship Lollipop([[:en:On the Good Ship Lollipop|On the Good Ship Lollipop]])は特に有名である。この曲は大ヒットし、その後彼女のテーマソングになった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p.118。この歌は、現在に至るまで非常に愛されているだけでなく、さまざまなパロディの対象にもなっている。On the Good Ship Lollipopのウィキペディアの項目を参照。</ref>。彼女のソング・ナンバーにはヒット曲が多く、その中には『テンプルちゃんお芽出度う』で歌ったAnimal Crackers in My Soup([[:en:Animal Crackers in My Soup|Animal Crackers in My Soup]])、『テンプルの愛国者』で歌ったPolly Wolly Doodle、『テンプルの福の神』で歌ったOh, My Goodness、『テンプルの灯台守』で歌ったAt the Codfish Ball,『テンプルの上海脱出』で歌ったGoodnight, My Love([[:en:Goodnight My Love (1936 song)|Goodnight My Love]])、『農園の寵児』で歌ったAn Old Straw Hat等が含まれる。2009年現在においても彼女の歌は愛され、欧米ではCDの全集と選集がそれぞれ発行され続けている。アメリカの小学校の音楽の教科書にもこれらの歌は載っているし、幼稚園でも歌われている<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.214,251を参照。なお、ディズニーの「シング・アロング」シリーズの中に、唯一のディズニー社の映画の曲以外の歌として、At the Codfish Ballが収録されている</ref>。

=== 少女スター時代についてのシャーリー自身の意見 ===
ほとんどの子役スターは、ハリウッドの子役時代に対して何らかの心の傷を抱えている。しかしシャーリーは、ハリウッドという危険な虎の穴に入って、その体験を楽しみ、けろりとして無傷で出てきたほとんど唯一の存在であった。彼女は次のように、自分を誇ることなく慎ましく語っている。「私は、最高の子供時代を過ごした。神話とか小説とかの素晴らしい物語を読んでもらう代わりに、私は実際に物語の中で生きることが出来たのだった。母は私が幼いとき、雑誌とか新聞の中の私についての記事が私の目に触れないようにしていた。後になって、もし読みたいなら読んでもいいことになったのだが、二三の記事を読んで、読むのは止めてしまった。確かに私についての記事なのだが、他の人が作り上げたシャーリー・テンプルについての考えなのであってたいていは理想化してあった。私はプリンセスではないし女神でもない。なりたいとも思わない。私は最高の人生を送ってきたし、幸運だった。私は映画で人々に喜びをもたらしたと思いたい。しかし、私にチャンスがまわってきたのは、運命つまりタイミングのいたずらだった」


=== ティーン・アイドル・スター ===
=== ティーン・アイドル・スター ===
やがて、思春期になり、子役としては微妙な時期にさしかかる<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p34-53を参照</ref>。12歳から、名門の私立中高一貫のウェストレイク女子校([[:en:Harvard-Westlake School]])で学ぶ成績優秀だったため本来より一年上の学年に編入したので、卒業は18歳ではなく17歳の時である<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p68-81を参照</ref>。このときから、夏休みの1ヶ月だけを映画の撮影にあて、残りの11ヶ月は学業に専念するようになった。彼女が主演した映画『[[青い鳥]]』のプレミア試写会に出席して舞台挨拶と記者会見をするようにとの20世紀フォックスの要請を、ウェストレイク校の校長の許可が出なかったため断わり、20世紀フォックスを唖然とさせた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p82を参照</ref>。
やがて、思春期になり、子役としては微妙な時期にさしかかる<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p34-53を参照</ref>。12歳から、アメリカ最難関の私立中高一貫校(プレップ・スクール)一つであるウェストレイク女子校([[:en:Harvard-Westlake School|Harvard-Westlake School]])で学ぶ。ウェストレイク女子校は多くの優れた人材をアメリカに送り出していることで知られている。成績優秀だったため本来より一年上の学年に編入したので、卒業は18歳ではなく17歳の時である<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p68-81を参照</ref>。このときから、夏休みの期間だけを映画の撮影にあて、残りの時期は学業に専念するようになった。彼女が主演した映画『[[青い鳥]]』のプレミア試写会に出席して舞台挨拶と記者会見をするようにとの20世紀フォックスの要請を、ウェストレイク校の校長の許可が出なかったため断わり、20世紀フォックスを唖然とさせた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p82を参照</ref>。


[[画像:ShirleyTempleMackenzieKing2.jpg|thumb|250px|[[1944年]]、第12代[[カナダ首相]][[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]([[:en:William Lyon Mackenzie King]])と(ティーン・アイドル・スター時代)。]]
[[ファイル:ShirleyTempleMackenzieKing2.jpg|thumb|250px|[[1944年]]、第12代[[カナダ首相]][[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]([[:en:William Lyon Mackenzie King|William Lyon Mackenzie King]])と(ティーン・アイドル・スター時代)。]]
[[ファイル:ShirleyTempleMackenzieKing1.jpg|thumb|250px|[[1944年]]、カナダ首相キングと。]]
20世紀フォックスでの最後の2作品、『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字になった<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.207.</ref>。MGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られた『青い鳥』は台本がリアリズムと象徴主義の奇妙な結合から成り立っており時代を先取りしすぎて、当時の観客には理解できない部分があった。テンプルの台本部分も、シャーリー・テンプルのイメージとは大きなズレがあった。(シャーリー・テンプルの回想録によれば『青い鳥』は1970年代になってから再評価の動きがある由)<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p56-63を参照。</ref>。『ヤング・ピープル』の台本も、ひたすらセンチメンタルなだけで、非常にまずく書かれていた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p82-83を参照</ref>。
20世紀フォックスでの最後の2作品、『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字になった<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.207.</ref>。(MGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られた大作『青い鳥』は台本の象徴主義が時代を先取りしすぎて、当時の観客には理解できない部分があった。また、衣装や小道具がグリム童話風の雰囲気を出そうとドイツ風であったのだが、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した当時の状況では観客の不興を買った。彼女の台本部分も、彼女のイメージとは大きなズレがあった。ただし、彼女の回想録によれば『青い鳥』は1970年代になってから再評価の動きがある由)<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p56-63を参照。</ref>『ヤング・ピープル』の台本も、ひたすらセンチメンタルなだけで、非常にまずく書かれていた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p82-83を参照</ref>。


フォックスからMGMに移り、10ヶ月だけ在籍するが、1940年代のMGMは『オズの魔法使』へのシャーリー・テンプルの出演を切望していた1930年代の MGMとは様変わりしていた。MGMといえばルイス・B・メイヤーとアーサー・フリードとロジャー・イーデンスのラインで製作されたミュージカルが売り物であったが、当時のMGMミュージカルは、ルイス・B・メイヤーの子飼いのジュディ・ガーランド(『[[若草の頃]]』)やキャスリン・グレイソン(『錨を上げて』)や[[ラナ・ターナー]](『美人劇場』)の全盛期であり、新参者のシャーリー・テンプルには、キャスリン・グレイソンが断った低予算の、魅力の無い台本のミュージカル作品『キャスリーン』が回ってきただけであった。13歳の夏休みに撮影をおこなった。もっとも、子役とティーン・スターの中間の時期で、なかなか彼女に合うような企画がなかったとも言えるかもしれない。)しし、『キャスリーン』は興行的には黒字になっている<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.214-217.シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』(平凡社・1992年)下pp.99-127を参照。次に移ったデヴィッド・O・セルズニックのプロダクションは一切ミュージカルを作っていなかったので『キャスリーン』が彼女の最後のミュージカル作品になった。</ref>。
フォックスからMGMに移り、10ヶ月だけ在籍するが、1940年代のMGMは『オズの魔法使』へのシャーリー・テンプルの出演を切望していた1930年代の MGMとは様変わりしていた。MGMといえばルイス・B・メイヤーとアーサー・フリードとロジャー・イーデンスのラインで製作されたミュージカルが売り物であったが、当時のMGMミュージカルは、ルイス・B・メイヤーの子飼いのジュディ・ガーランド(『[[若草の頃]]』)や[[キャスリン・グレイソン]](『[[錨を上げて (映画)|錨を上げて]]』)や[[ラナ・ターナー]](『[[美人劇場]]』)の全盛期であり、新参者の彼女には、キャスリン・グレイソンが断った低予算の、魅力の無い台本のミュージカル作品『キャスリーン』が回ってきただけであった。13歳の夏休みに撮影をおこなった。もっとも、子役とティーン・スターの中間の時期で、なかなか彼女に合うような企画がなかったとも言えるかもしれない。次に移ったデヴィッド・O・セルズニックのプロダクションは一切ミュージカルを作っていなったので『キャスリーン』が彼女の最後のミュージカル作品になっ<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.214-217.シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』(平凡社・1992年)下pp.99-127を参照。</ref>。


次に、アメリカで最高の品質の映画を作ると定評があった、プロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]](『[[風と共に去りぬ]]』)のプロダクションに移る<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.142-147を参照</ref>。当時のセルズニックのプロダクションは[[ユナイテッド・アーティスツ]]映画社と密接な関係にあったが、同時にどの映画会社とも取引があった。セルズニックは、[[ジェニファー・ジョーンズ]]と大恋愛の最中であったので、一番よい娘役(たとえば『ジェニーの肖像』や『聖処女』)はジェニファー・ジョーンズに回ったが、テンプルもセルズニック・プロダクョンのティーン・アイドル・スターとして立派な成功をおさめた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.148-274を参照。彼女がティーン・アイドル・スターとして活躍した時期は、[[第二次世界大戦]]と戦後の混乱期にあたり、日本では当時の彼女の作品は公開時期を逸したり、かなり後になってから目立たない形で公開されたものが多い</ref>。セルズニックのプロダクションに所属していた時の彼女の作品はすべて黒字である<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.を参照</ref>。
プロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]](『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』)のプロダクションは、アメリカで最高の品質の映画を作と定評があった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.142-147を参照</ref>。当時のセルズニックのプロダクションは[[ユナイテッド・アーティスツ]]映画社と密接な関係にあったが、同時にどの映画会社とも取引があった。セルズニックは、[[ジェニファー・ジョーンズ]]と大恋愛の最中であったので、一番よい娘役(たとえば『ジェニーの肖像』や『聖処女』)はジェニファー・ジョーンズに回ったが、シャーリーも、当時アメリカに数人いたティーン・アイドル・スターの一人として立派な成功をおさめた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.148-274を参照。彼女がティーン・アイドル・スターとして活躍した時期は、[[第二次世界大戦]]と戦後の混乱期にあたり、日本では当時の彼女の作品は公開時期を逸したり、かなり後になってから目立たない形で公開されたものが多い</ref>。セルズニックのプロダクションに所属していた時の彼女の作品はすべて黒字である<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.を参照</ref>。


ただし、彼女は品がよすぎて、皆から愛される天真爛漫なティーンは上手に演じられるのだが、セクシーな面やダークな面がどうしても出せず、彼女の役柄は極めて限定され、「明るい健全な夢見るティーン」タイプのものが主になってしまった。(また、1930年代にアメリカの象徴的存在になってしまっていたので、セクシーな面やダークな面は演じにくかったことも事実である。観客はセクシーな面やダークな面が出たシャーリー・テンプルを見たいとは全く思わなかったであろう。ワーナー・ブラザ-ズに貸し出されて撮った、日本未公開の『''[[:en:That Hagen Girl| That Hagen Girl]]''』では台本に、相手役の[[ロナルド・レーガン]](後のアメリカ大統領)が彼女に「アイ・ラブ・ユー」と言う台詞があったのだが、彼女のイメージにそぐわないと判断してワーナー・ブラザーズがこの台詞を削除したほどである<ref>James Haskins, ''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988),pp.35-36.</ref><!--しかし、セクシーなやダークな面出た作品が全く無かったことは後に子供向きTVーのホスト役したり、外交官なったりたときは、かえっ有利であったといえよう←書き手独自評論なっているのでコメントアウト。-->
ただし、彼女は品がよすぎて、皆から愛される天真爛漫なティーンは上手に演じられるのだが、セクシーな面やダークな面がどうしても出せず、彼女の役柄は極めて限定され、「明るい健全な夢見るティーン」タイプのものが主になってしまった。(また、1930年代にアメリカの象徴的存在になってしまっていたので、セクシーな面やダークな面は演じにくかったことも事実である。観客はセクシーな面やダークな面が出たシャーリー・テンプルを見たいとは全く思わなかったであろう。ワーナー・ブラザズに貸し出されて撮った、日本未公開の『''[[:en:That Hagen Girl|That Hagen Girl]]''』では台本に、相手役の[[ロナルド・レーガン]](後のアメリカ大統領)が彼女に「アイ・ラブ・ユー」と言う台詞があったのだが、彼女のイメージにそぐわないと判断してワーナー・ブラザーズがこの台詞を削除したほどである<ref>James Haskins, ''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988),pp.35-36.</ref>)彼女は品行方正なスターとて知られておりスタのスキャンダルを暴くので有名ゴシップ記者のルエラ・パーソンズヘッ・ホッパーが、シャーリーの品行方正さ賞賛していたほどであ(ルエラ・パーソンズとヘッダ・ホッパーは、[[ジュディ・ガーランド]]薬物中毒、[[ディアナ・ダービン]]の「不倫」等を最初暴いている


ティーン・アイドル・スター時代の作品として、彼女自身が最も気に入っているのはコメディ『接吻売ります』である<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),Pp.220-253.</ref>。
ティーン・アイドル・スター時代の作品として、彼女自身が最も気に入っているのはコメディ『接吻売ります』である<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),pp.220-253.</ref>。


=== 最初の結婚と離婚 ===
ウェストレイクを卒業後17歳の時に、シカゴの大手食品加工会社の社長の孫で、同級生の兄の美男のジョン・エイガー([[:en:John Agar]])軍曹と結婚する。(結婚が決まるとアメリカ議会では祝福の演説がなされた。この結婚は、第二次世界大戦にまつわるさまざまな出来事と共に、1945年において最も多く報道された事柄であった。)しかし、彼は人格に問題があり、連日家を空けては酒に溺れ浮気をし、家に戻ると彼女に罵言を浴びせ続けた。一児をもうけるが、やがて2人は離婚することになった(その後エイガーは、西部劇やB級怪奇映画の脇役をつとめ続けることになる。)<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.199-289を参照.[[ジョン・ウェイン]]や[[ヘンリー・フォンダ]]と共演した西部劇『アパッチ砦』では、ジョン・エイガーの恋人役を演じているが、そういった裏の事情を知って見ると興味深い</ref>。
ウェストレイクを卒業後17歳の時に、シカゴの大手食品加工会社の社長の孫であった、同級生の兄の美男のジョン・エイガー([[:en:John Agar|John Agar]])軍曹と結婚する。結婚が決まるとアメリカ議会では祝福の演説がなされた。この結婚は、第二次世界大戦にまつわるさまざまな出来事と共に、1945年において最も多く報道された事柄であった。


一児をもうけた。しかし彼は人格に問題があり、連日家を空けては酒に溺れ浮気をし、家に戻ると彼女に罵言を浴びせ続けた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.199-289を参照.[[ジョン・ウェイン]]や[[ヘンリー・フォンダ]]と共演した西部劇『アパッチ砦』では、ジョン・エイガーの恋人役を演じているが、そういった裏の事情を知って見ると興味深い</ref>。彼は後に脇役俳優になる。
離婚が決まった後、セルズニックは彼女に、ティーン・アイドル・スターは卒業して本格的な大人の女優を目指すべきだと言い、何年かイタリアに行ってリアリズム映画の演技の本格的な勉強をするようにすすめる<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.71.</ref>。しかし、彼女は先ずハワイに出かけていった。そこでチャールズ・ブラック海軍少佐とまるで映画のような運命的な出会いをする。パーティで出会って視線を交わした後、おたがいに一目ぼれをしてしまった<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p293-309を参照</ref>。

1949年に、彼女は、ハリー・トルーマン大統領の大統領就任式の舞踏会において主賓をつとめた。

1950年1月にシャーリー・テンプルはジョン・エイガーと離婚することになった。彼はその後も素行が悪く、離婚後数年たったころ常習的な飲酒運転で数ヶ月牢屋に入ることになる。また、彼が再婚した時も泥酔して千鳥足で結婚式場に現れスキャンダルになった。離婚が決まった後、セルズニックは彼女に、ティーン・アイドル・スターは卒業して本格的な大人の女優を目指すべきだと言い、何年かイタリアに行ってリアリズム映画の演技の本格的な勉強をするようにすすめる<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.71.</ref>。しかし、彼女は先ずハワイに出かけていった。そこでハンサムなチャールズ・ブラック海軍少佐とまるで映画のような運命的な出会いをする。パーティで出会って視線を交わした後、おたがいに一目ぼれをしてしまった<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p293-309を参照</ref>。セルズニックとの契約は1950年10月で終えることになった。


=== 幸福な結婚 ===
=== 幸福な結婚 ===
[[1950年]]に、30歳で結婚歴の無いチャールズ・ブラック([[:en:Charles Alden Black]])海軍少佐と再婚する<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.332-337</ref>。前回の結婚の失敗懲り彼女は知人のジョン・エドガー・フーヴァー[[FBI]]長官に頼んで彼の素行調査をしてもらい、FBIから非常によい返事をもらったということである<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.311-313</ref>。(ちなみに、チャールズ・ブラックは、当時アメリカ最大手の企業の一つであったパシフィック・ガス電気会社の会長の息子であった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.319</ref>。カリフォルニアで最も資産家の独身男性として知られていた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.72.</ref>。名門私立の全寮制の中高一貫校の男子校ホッチキス校([[:en:The Hotchkiss School]])校から[[スタンフォード大学]]を出た後、[[ハーバード大学]]の大学院に行き、第二次世界大戦で徴兵され海軍の将校をつとめたという経歴の持ち主であった<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.72-73.</ref>。[[MBA]]を取得していた<ref>アメリカのウィキペディアのチャールズ・ブラックの項目</ref>。知り合った当時は予備役で、パイナップルの[[ドール・フード・カンパニー|ドール]]社の社長室に勤務していた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.72.</ref>。結婚後、海軍の現役に戻りワシントンで海軍中佐として勤務する<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.357-374</ref>。数年して海軍を退役した後は、テレビ会社重役を経て、スタンフォード大学の大学院の研究所の幹部をつとめた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple(''Citadel Press,1978),P.74.</ref>。スタンフォード大学を退職後、アンペックス社の重役をつとめた後、牡蠣・鮑・鮭の養殖会社マディーラ社を起業し社長になると共に、サンタ・クララ大学([[:en:Santa Clara University]])の評議員をつとめた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.80.アメリカのウィキペディアのチャールズ・ブラックの項目</ref>。趣味はサーフィンでった<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.76.</ref>。)2人は非常に仲のいい夫婦であった<ref>James Haskins,Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988).p57. </ref>。
[[1950年]]12月に、22歳で結婚歴の無いチャールズ・ブラック([[:en:Charles Alden Black|Charles Alden Black]])海軍少佐と再婚する<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.332-337</ref>。彼女の結婚にって、ジョン・エドガー・フーー[[連邦捜査局|FBI]]長官は、女に前回の結婚の失敗の轍を踏ませないようFBIにチャールズ・ブラックの素行調査を命じ彼女はFBIから非常によい報告をもらったということである<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.311-313</ref>。
ブラック家は1620年に[[メイフラワー号]]でイギリスからマサチューセッツへ移民してきた先祖を持つ名門の清教徒であった。チャールズは、当時アメリカ最大手の企業の一つであった[[パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー|パシフィック・ガス電気会社]] ([[:en:Pacific Gas and Electric Company|Pacific Gas and Electric Company]](PG&E) ) の会長の次男であった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p.319</ref>。カリフォルニアで最も資産家の独身男性として知られていた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.72.</ref>。アメリカ最難関の中高一貫私立(プレップ・スクール)一つホッチキス校(全寮制の男子校)([[:en:The Hotchkiss School|The Hotchkiss School]])校から[[スタンフォード大学]]を出た後、[[ハーバード大学]]の大学院に行き、第二次世界大戦で徴兵され海軍の情報将校をつとめたという経歴の持ち主であった<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.72-73.</ref>。[[経営学修士|MBA]]を取得していた<ref>アメリカのウィキペディアのチャールズ・ブラックの項目</ref>。知り合った当時は予備役で、パイナップルの[[ドール・フード・カンパニー|ドール]]社の社長室に勤務していた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.72.</ref>。結婚後、海軍の現役に戻りワシントンで海軍中佐として勤務する<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.357-374</ref>。数年して海軍を退役した後は、テレビ会社の[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]](ABCネットワーク)の幹部を経て、[[スタンフォード研究所]](SRI International)財務担当理事をつとめた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple(''Citadel Press,1978),P.74.</ref>。スタンフォード研究所を退職後、アンペックス社の副社長をつとめた後、牡蠣・鮑・鮭の養殖会社マディーラ社を起業し社長になると共に、サンタ・クララ大学([[:en:Santa Clara University|Santa Clara University]])の評議員をつとめた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.80.アメリカのウィキペディアのチャールズ・ブラックの項目</ref>。海洋学の専門家でもあるチャールズは、タイタニック号発見にも貢献した。また、チャールズは、世界最高の超エリート会員制クラブの一つとして知られる[[ボヘミアンクラブ]]・オブ・サンフランシスコ([[:en:Bohemian Club|Bohemian Club]])の会員でもあった。趣味はサーフィンで当時は毎日のようにやていた<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.76.</ref>。

この結婚は「おとぎ話のような結婚」として知られている。それは、彼女は彼が当時のアメリカで最も裕福な一族の一つの息子だということを知らず、彼は勉強と軍務とサーフィンに明け暮れた生活を送ってきたので映画を12歳以来見たことがなかったため彼女がシャーリー・テンプルだということを知らず、お互いに恋に落ちたからであった。

結婚直後、女優と結婚したという理由で、夫チャールズが当時出版されていた社交界名士録から名前を外されるという事件がおきる。当時のアメリカの上流社会では演劇や映画を軽視するという清教徒の伝統が強く、俳優と結婚すると社交界名士録から名前を外されるという規則があった。国の誇りとされた品の良いスターのシャーリーでさえ例外扱いはされなかったのである。(なお、シャーリーの自伝の日本語訳ではこの話のところで、翻訳者が社交界(society)を「社会」と誤訳したため文章が意味不明になっている。)

夫は社交界名士録から名前を外されたことを気にしなかったが、1950年12月に彼女は22歳で映画から引退した。彼女が引退して3年後の1953年になって、彼女より1歳年下のオードリー・ヘプバーンが『ローマの休日』でハリウッド・デビューをしたことを思えば、あまりにも早い時期の引退だったと言えよう。以後、上流階級という言葉を使うことを彼女自身は嫌っているが、アメリカの上流階級の一員としての生活が、2010年現在に至るまで続く。(なおアメリカ版のウィキペディアでは彼女が1949年に引退したと書いてあるが1950年が正しい)

夫が海軍の現役に復帰し[[ペンタゴン]]に勤めることになったので、1951年5月から首都ワシントン市に引っ越す。

1954年に、彼女は、室内装飾の趣味が高じてインテリア・デコレーター(インテリア・デザイナー)の資格を取り、インテリア・デコレーターとして仕事をやろうとした事がある。富裕層の個人の邸宅を対象にすることからアメリカの上流階級の女性は当時よくインテリア・デコレーターを仕事にしていた。その時の名刺には、テンプルの名前は入れず、“シャーリー・T・ブラック インテリア・デコレーター”とだけ記していたが、それでも、相当な問い合わせが有った。ただ、初めて仕事先の邸宅に出て行ったところ、シャーリー・テンプルに興味津々の女性たちが何人も待ち構えていたので彼女は回れ右をして引き返し、仕事はそれで辞めてしまった<ref>ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』(早川書房・1984)p342</ref>。

2人は非常に仲のいい夫婦であった<ref>James Haskins,Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988).p57.</ref>。彼女は、専業主婦として、3人の子供の子育てに専念した<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.337-399.</ref>。

夫チャールズの父は、[[ドワイト・アイゼンハワー]]大統領と親交があったが、シャーリー・テンプルと夫チャールズもアイゼンハワー大統領と親交を結ぶようになった。シャーリー・テンプルは後に、歴代の大統領の中で一番好きな大統領としてアイゼンハワーの名を挙げている。

=== テレビ出演 ===
1954年、夫の海軍退役に伴い、カリフォルニア州アサートンの日本風の庭園のついた邸宅に引っ越す。

末娘が3歳になり、前より手がかからなくなった1958年から1961年にかけて、一流のゲスト・スターを集め高額の予算をかけた[[テレビ]]の子供向け番組『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』シリーズと『シャーリー・テンプル・シアター』シリーズにホスト役兼主役として出演する。主婦として子育てをメインに考えているので、一ヶ月に3日以上は時間的な拘束をうけないというのが出演の条件であった<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),pp.254-256.</ref>。当時の彼女は29歳から31歳で、優しい声と清潔な雰囲気を持っており、子供向きの番組のホスト役としてうってつけで、高い視聴率を得た<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),p.255.''Shirley Temple: The amazing story of the child actress who grew up to be America's fairy princess'' (A Monarch Books,1959)も参照</ref>。なお1989年にイギリスで出版された書籍『ハリウッド・ロリータ』を含む一部の情報源では、彼女は3人の子供たちが子役になることに大反対したと書いてあるがそれは事実ではない。彼女の3人の子供たちが一時、テレビ出演に興味を示したので、『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』の「マザーグース」のエピソードでは、彼女の3人の子供たちが彼女と一緒に劇に出演しているし、『シャーリー・テンプル・シアター』の「ベイブス・イン・トイランド」のエピソードでも彼女は3人の子供たちと一緒にホスト役を務めている。ただし、子供たちはそれで満足してそれ以上子役の仕事に興味を示さなかったので、以後彼女の子供たちが俳優の仕事に関わることは二度となかった。

1961年にカリフォルニア州のサンフランシスコ市郊外のウッドサイド([[:en:Woodside, California|Woodside]])のチューダ王朝風の邸宅に引越し、2013年現在まで居住する。ウッドサイドはアメリカで最も豊かな地区の一つであり、現在はシリコン・ヴァレーの中心地でありIT関係の経営者の住宅が並ぶ町として知られている。

=== 第2波、第3波のブーム ===
アメリカでは、これらの番組の放映にあわせて、1930年代の少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画が「シャーリー・テンプル・フェスティバル」としてゴールデン・アワーに繰り返し放映され毎回高い視聴率を得た<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.113.</ref>。テレビの高視聴率により、第2波のシャーリー・テンプル・ブームが当時のアメリカでは起き、アイデアル社のシャーリー・テンプル人形やシャーリー・テンプルの女児服が再び大きな売れ行きを示した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.112-113.</ref>。その後、アメリカでは、毎年、夏休みやクリスマス休暇やイースター休暇になると、テレビで少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画が放映されるようになった。

さらに、1980年代になると、1930年代の少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画がすべてカラー化されて、アメリカのディズニーチャンネルで繰り返し放映され、毎回高い視聴率をあげ、また、ビデオやLDも高い売れ行きを示した。第3波のシャーリー・テンプル・ブームが当時のアメリカでは起き、アイデアル社のシャーリー・テンプル人形が再び大きな売れ行きを示した。テレビ番組『[[大草原の小さな家]]』シリーズの少女スターの[[メリッサ・ギルバート]]は、当時、シャーリーの大フアンで、ビデオを毎日かけてはシャーリーにあわせて歌ったり踊ったりしていたと、2005年に語っている。

さらに、近年アメリカでは、シャーリー・テンプルの映画をフォックス・テレビがクリスマスの当日に連続放映している。例年クリスマス前後には、20世紀フォックスから発売されている彼女のDVDの売れ行きが高まる。また、シャーリー・テンプルの誕生日には、DVDのプロモーションを兼ね、毎年フォックス・テレビで何らかのシャーリー・テンプル特集が組まれている。

ケネディ・センターは「シャーリー・テンプルの映画は、テレビやビデオによって常に、何世代にもわたって人々の心を捉え征服してきた。彼女はアメリカの小さなプリンセスであり続けている。」と述べている<ref name="Biographical" />。アメリカ人は成長の過程のどこかで、ディズニーのアニメと、1939年の『オズの魔法使い』と、そしてシャーリー・テンプルの映画に必ず接すると言われている<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.</ref>。若いファンが現在でも生まれており、幼いファンからのファンレターが多数、彼女の連絡先(Shirley Temple c/o Melveney & Myers Embarcadero Center West Battery Street San Francisco, CA 94111 USA)に送られてくると伝えられる。

子役時代の映画は子供に理解できるように吹き替え音声を選択できるようにした上で世界各国で家族向けの映像DVDとして現在も発売されている。フランス版もドイツ語版もスペイン語版もイタリア語版もロシア語版も中国語版もヒンディ語版もチェコ語版もデンマーク語版も吹き替え音声がついているが、何故か日本語版だけは例外で字幕のみである。

=== ファイナンス ===
シャーリー・テンプルの高収入は伝説になっている。

1937年を例に挙げよう(ちなみに、この年のアメリカ成人の年間給与の平均は$860だった。また、シャーリーのスタンドインで親友のメリー・ルー・イズライブのギャラは週50ドルだった)。映画関係者で、映画会社からの総収入の全米トップはシャーリーで、$307,014であった。他のスターだと[[クラーク・ゲーブル]]は$272,000、[[グレタ・ガルボ]]が$270,000、[[フレッド・アステア]]が$266,837、[[スペンサー・トレーシー]]が$212,000、[[ジンジャー・ロジャース]]が$208,000であった。経営者だと、ダリル・ザナックが$265,000、ジョセフ・M・セルズニックが$106,000であった。シャーリー以外の人々は、映画会社以外からの収入はほとんど無く、かつ映画会社からの収入だけでも当時の大恐慌下のアメリカでは最も富裕な層に属していた。しかしシャーリーは、以上の映画会社からの収入以外に人形等のライセンス料として、映画会社からの収入の約15倍にあたる$4,500,000を得ていた。1930年代のアメリカでシャーリーが図抜けて富裕な存在であったのは当然であろう<ref>Anne Edwards,''Shirley Temple: American Princess''(Berkeley Publishing Group,1989),pp93-94.</ref>。(1930年代当時は極端なデフレでドルの価値が現在と全く異なっている。現在のドルに換算するには、年によって異なるが大体30~50を掛けてみることをお勧めする。)

1932年において[[:en:The Red-Haired Alibi|The Red-Haired Alibi]]の端役で2日で$50。1933年において[[:en:Kid in Hollywood|Kid in Hollywood]]で週に$150。1934年においてフォックス映画社と契約を結んで『歓呼の嵐』で週に$4150。同年の[[:en:Pardon My Pups|Pardon My Pups]]において、週に$1000(他に$35,000を契約終了後に受け取る形でのシャーリーの信託基金へ積み立て)。更に母親のガートルードに週$250。1936年において『テンプルの福の神』で週給$15,000+1本に付$50000。

20世紀フォックスとの契約終了後、1944年においてセルズニックの試用期間において『君去りし後』([[:en:Since You Went Away|Since You Went Away]])1年契約で週に$2200。この作品の成功の後、7年契約で週給$5000+1本に付$50,000ドル。1948年において『アパッチ砦』1本で$110,000。1948年当時、シャーリーは「アメリカの恋人(アメリカン・スイートハート)」として[[ジューン・アリソン]]と当時の娘役の人気を二分し、後ろから同じティーン・アイドル・スターであるエリサベス・テイラーが追いかけているという状態だったが、シャーリーのギャラはティーン・アイドル・スターたちの中では最も高かった。(ちなみに当時、『オズの魔法使』で脚光を浴びたジュディ・ガーランドは既に重度の覚醒剤中毒になっており、映画の撮影所より多くの時間を精神科の病室で過ごしていた)

1958年において『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』シリーズと『シャーリー・テンプル・シアター』シリーズにおいては、1本あたり$100,000+利益の4分の1であった。全部で41本の作品に出演しているので、利益の歩合を入れなくとも$4,100,000になる。これが、同時期のテレビ出演料として最高の額であったのは当然のことだが、当時の映画女優の出演料と比べてみると、いかに彼女のテレビ出演が破格の扱いであったかがわかる。例えば、1940年代にシャーリー・テンプルと並んでティーン・アイドル・スターだったエリザベス・テイラーは、撮影に足掛け4年かかった『クレオパトラ』(1963年)でようやく映画1作品あたりの出演料が(利益の歩合なしで)$1,000,000になっている。そしてこれが当時映画女優の最も高い出演料であった。


チャールズと結婚した頃、父親が彼女の未成年の時期の(税金等を支払った後での)出演料の収入約$3,200,000ドルのほとんどを自分の名義にしており、かつ投資に失敗してかなり目減りして約810,000ドルになってしまっていたことが分かる。多くの本やネット上の記事で大きく取り上げられている話であるが、親が使ってしまって無一文になってしまった子役のジャッキー・クーガン([[:en:Jackie Coogan|Jackie Coogan]])等のケースとは全く異なる。目減りはしていても、相変わらず彼女は豊かであった。22歳で首都ワシントン市郊外の約2.5エーカー(約12000平方メートル)の敷地の邸宅と、貯金と有価証券併せて89,000ドルを父親から自分の名義として引き継いでいるし、以前も以後も彼女の父親は晩年まで、毎週75ドルほどの仕送りを彼女に対して続けていた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.341-355.</ref>。(なお、1988年にラリー・キングのインタビューに答えた時には、20世紀FOXの契約出演だけで当時の金額で3,000,000ドル以上の収入と、それとは別に契約終了後受け取る形の信託基金への積み立てが有ったが、父親のジョージが積み立金を引き出して自分の名義にしていた上、契約終了後の信託基金終了時の課税の為、彼女名義の信託基金に関しては残高45,000ドルだったとシャーリー本人が語っている)
こうしてチャールズ・ブラックと結婚すると、22歳で女優を引退した。映画産業には3歳のときから19年以上いたことになる。以後専業主婦として、3人の子供の子育てに専念した<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.337-399.</ref>。


=== 選挙 ===
この時期、父親が彼女の未成年の時期の出演料等の収入(現在の日本円に換算して、税金等を支払った後で約160億円)のほとんどを自分の名義にしており、かつ投資に失敗してかなり目減りして(約45億円になってしまっていた)いることが分かる。多くの本やネット上の記事で大きく取り上げられている話であるが、親が使ってしまって無一文になってしまった子役のジャッキー・クーガン等のケースとは全く異なる。<!--ジョン・エイガーのような男と結婚しておればシャーリー・テンプル名義の財産は少なくしていたほうが賢明であったこと、また大恐慌の時期は投資の失敗はありふれた現象だったことも確かであろう。 ←書き手の推測が強いのでコメントアウト。-->目減りはしていても、相変わらず彼女は豊かであった。22歳で家(3億円相当)と、貯金と有価証券(3億円相当)を父親から自分の名義として引き継いでいるし、以前も以後も彼女の父親は[[1980年]]に亡くなるまで、毎週37万円ほどの仕送りをシャーリー・テンプルに対して続けていた。<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.341-3355.</ref>。
彼女の夫の父親は、当時世界最大の企業であった[[USスチール]]の重役を兼ねていたが、彼女の夫の父親と親交のあったUSスチールの副社長が、彼女と夫をアメリカ最高のエリート達(パワー・エリート)の内輪の会合に連れて行くようになった。子供のときからアメリカの名士たちと親交のあったシャーリー・テンプルは、自然にその一員になった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.365-370を参照</ref>。


彼女は結婚後[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の活動に参加しており、一貫して共和党中道派に属し、[[環境保護]]に関して熱心な活動をしていることで知られている。[[1967年]]には、ドワイト・アイゼンハワー元大統領のバックアップで下院選挙(Congressional race)にも共和党から出馬しているが、当選はしなかった。これは、当時の[[ベトナム戦争]]での[[北爆]]を、該当選挙区の有権者が嫌っており、彼女の立場について、共和党員で無所属で立候補したピート・マクロスキー([[:en:Pete McCloskey|Pete McCloskey]])候補(後に大統領選に出馬したことや、共和党から民主党に鞍替えしたことで有名)に突かれ、徹底した[[ネガティヴ・キャンペーン]]を受けたためであった。結果的にはピート・マクロスキーが当選したが、彼女自身は選挙期間中も、ベトナム戦争には反対の立場をとり、戦争拡大(エスカレーション)を続ける民主党の[[リンドン・ジョンソン]]大統領に強く反対していた。彼女は、選挙公約の第一条にベトナムからの早期の名誉ある撤退を訴えている。彼女はまた、減税、環境保護、[[ドラッグ]]の規制強化、[[ポルノ]]の規制強化を訴えた。女性の地位向上に賛成であったのは当然だが、かえって女性の地位向上を妨げるものとして女性解放運動の過激化には懐疑的であった<ref>James Haskins,''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988)pp45-46.アメリカのウィキペディアには、ベトナム戦争には賛成したと書いてあるが異論のあるところであろう。想像できることは、ピート・マクロスキーのネガティヴ・キャンペーンがまだ大きく響いているということであろう。シャーリー・テンプルが裕福なことから、当時の流行のミニ・スカートをはかなかったことまでが攻撃の材料となった。ピート・マクロスキー陣営によるネガティヴ・キャンペーンについては''The Sinking of the Lollipop Shirley Temple vs. Pete McClosky (conservative vs liberal Republican written by liberal Democrat)'' を参照</ref>。
=== 第2波のブーム ===
末娘が3歳になり前より手がかからなくなった、1958年から1960年にかけて、一流のゲスト・スターを集め高額の予算をかけた[[テレビ]]の子供向け番組『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』シリーズと『シャーリー・テンプル・シアター』シリーズにホスト役兼主役として出演する。主婦として子育てをメインに考えているので、一ヶ月に2日以上は時間的な拘束をうけないというのが出演の条件であった。<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),pp.254-256. </ref>。当時の彼女は29歳から31歳で、優しい声と清潔な雰囲気を持っており、子供向きの番組のホスト役としてうってつけで、高い視聴率を得た<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),p.255.''Shirley Temple: The amazing story of the child actress who grew up to be America's fairy princess'' (A Monarch Books,1959)も参照</ref>。


国際政治的には、民主主義と複数政党による自由選挙を擁護し人権侵害に強く反対した。戦争中は独裁者[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]と[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]と米国内の追随者に対して強く反対した。戦後の冷戦の時期はソビエトの独裁者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と米国内の追随者に対して強く反対した。これには戦後、ドイツ系だった母の遠縁の親戚の住む地域が東ドイツになり、遠縁の親戚たちが抑圧を受けていたという個人的な事情もあった。東西の緊張緩和に動きスターリンを批判した[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]首相に対しては好意的であった。またフルシチョフ失脚後のソビエトの強権的行動に対しても批判的であった。その理由の一つとして、国際会議でたまたまチェコのプラハに滞在していた時に、「[[プラハの春]]」の民主化運動をソビエト軍の戦車が蹂躙しチェコ人たちが怒り悲しみ絶望する様子を目撃したことが挙げられる。中華人民共和国とは親しい関係にあった。
アメリカでは、『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』と『シャーリー・テンプル・シアター』の放映にあわせて、1930年代の少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画が「シャーリー・テンプル特集」としてゴールデン・アワーに繰り返し放映され毎回高い視聴率を得た。<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.113.</ref>。


なお日本の一部の情報源では彼女が右翼運動に関係したと書いてあるが、これは彼女の自伝の中の「[[ミニットマン]](Minutemen)」という語を翻訳者が誤訳したために起きた誤解である。1950年代初頭の出来事についてシャーリーは「私は独立戦争の時代の(英雄的な)民兵たちに倣った」と書いているが、翻訳者はこの文を「ミニットマン(反共秘密ゲリラ組織)に倣った」と誤訳していた。アメリカ独立戦争の時の民兵「ミニットマン」と同名を名乗る右翼団体(反共秘密ゲリラ組織)は確かにアメリカに存在するが、それが創立されたのは1960年代になってからであった。
『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』と『シャーリー・テンプル・シアター』と、少女スター時代の作品の高視聴率があいまって、第2波のシャーリー・テンプル・ブームが当時のアメリカでは起き、シャーリー・テンプル人形やシャーリー・テンプルの女児服が再び大きな売れ行きを示した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.112-113.</ref>。以後、現在にいたるまでアメリカでは、毎年、夏休みやクリスマス休暇やイースター休暇になると、テレビで少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画を放映するのが恒例となっている。現在も、アメリカ人は成長の過程のどこかで、ディズニーのアニメと、1939年の『オズの魔法使』と、そしてシャーリー・テンプルの映画に必ず接すると言われている。<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.</ref>。


シャーリーは、自分が手本(ロールモデル)にしている人物として、社会運動家の大統領夫人[[エレノア・ルーズベルト]]を挙げている。シャーリーはエレノアとは親交があった。エレノア・ルーズベルトはシャーリーと同様国連で様々な人権擁護活動を行い、またシャーリーと同様アメリカの国連代表をつとめている。また女性の社会進出の草分けであった飛行家の[[アメリア・イアハート]]も手本に挙げている。アメリアとも同じく親交があった。
しかし以上のテレビの仕事は例外的なものであった。以後は、なるべく映画やTVの仕事は控え、自分の子供たちにもマスコミのスポット・ライトが一切当たらないように努めた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),p.256.</ref>。大人になってからの彼女の仕事は外交官であった。


=== 外交官 ===
=== 外交官 ===
彼女の[[外交官]]としてのキャリアは、[[ハリウッド]]でのキャリアよりもはるかに長い<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)400ページを参照。シュルツ国務長官がこの『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』の後書きの文章を書いたときシャーリー・テンプルはまだ外交官としての仕事の半ばであった。</ref>。以後、彼女は70歳の引退の時期まで、共和党系の国務省の幹部と同じパターンで仕事をしていく。共和党が政権にあるときは国務省の要職につき、共和党が下野すると、国務省とは緩やかな繋がりは保ちつつ、大会社の重役として実業家になるという形である。通算すると、彼女は30年間外交関係の仕事をしている。
彼女の夫の父親は、当時世界最大の企業であった[[USスチール]]の重役を兼ねていたが、彼女の夫の父親と親交のあったUSスチールの副社長が、彼女と夫をアメリカ最高のエリート達の内輪の会合に連れて行くようになった。子供のときからアメリカの名士たちと親交のあったシャーリー・テンプルは、自然にその一員になった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.365-370を参照</ref>。


[[1968年]]から[[1969年]]にかけ、後述する複数の大会社の重役を務め、非常に高い評価を得た。
彼女は結婚後[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の活動に参加しており、一貫して共和党に属し、[[環境保護]]に関して熱心な活動をしていることで知られている。[[1967年]]には下院選挙(Congressional race)にも共和党から出馬しているが、当選はしなかった。これは、当時の[[ベトナム戦争]]での[[北爆]]を、該当選挙区の有権者が嫌っており、彼女の立場について、共和党員で無所属で立候補したピート・マクロスキー([[:en:Pete McCloskey]])候補(後に大統領選に出馬したことや、共和党から民主党に鞍替えしたことで有名。)に突かれ、徹底した[[ネガティブ・キャンペーン]]を受けたためであった。ピート・マクロスキーが当選した。彼女自身は、ベトナム戦争自体には反対の立場をとっていた。彼女は、選挙公約の第一条にベトナムからの早期の名誉ある撤退を訴えている。彼女はまた、減税、環境保護、[[ドラッグ]]の規制強化、[[ポルノ]]の規制強化を訴えた<ref>James Haskins,''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988)pp45-46.アメリカのウィキペディアには、ベトナム戦争には賛成したと書いてあるが異論のあるところであろう。想像できることは、ピート・マクロスキーのネガティヴ・キャンペーンがまだ大きく響いているということであろう。シャーリー・テンプルが裕福なことから、当時の流行のミニ・スカートをはかなかったことまでが攻撃の材料となった。ピート・マクロスキー陣営によるネガティヴ・キャンペーンについては政治的文書''The Sinking of the Lollipop Shirley Temple vs. Pete McClosky (conservative vs liberal Republican written by liberal Democrat)'' を参照</ref>。


[[1969年]]から[[1970年]]にかけ、アメリカ合衆国の国連大使を補佐する6人の[[国際連合|国連]]代表の一人になった。国連代表としての彼女の担当は環境問題と青少年問題と人権問題であった。また、[[1970年]]から[[1974年]]にかけて、環境問題と青少年問題と人権問題に関する多くの国際会議のアメリカ代表をつとめた<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.124-126.</ref>。彼女はすぐに持ち前の勤勉さと人間的な魅力で「アメリカ外交の秘密兵器」といわれるほどの優秀な外交官になった。演説の原稿はすべて自分で書いていた。(なお日本の一部の情報源には国連で武力によるベトナム戦争の解決を主張したと書いてあるが、彼女が国連で演説したのは宇宙の平和利用と環境問題と難民問題についてだけである。)
彼女の[[外交官]]としてのキャリアは、[[ハリウッド]]でのキャリアよりもはるかに長い<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)400ページを参照。シュルツ国務長官がこの『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』の後書きの文章を書いたときシャーリー・テンプルはまだ外交官としての仕事の半ばであった。彼女は30年間外交官としての仕事をしている。</ref>。


[[中華人民共和国]]の国連加盟を強く主張し、アメリカ政府の首脳部に公式の請願書を送り、様々な働きかけをした。やがて中華人民共和国の国連加盟と米中国交回復が実現していく<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.95.</ref>。
[[1969年]]から[[1970年]]にかけ、アメリカ合衆国の[[国連]]代表であった。また、多くの環境問題に関する国際会議のアメリカ代表をつとめた<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.124-126.</ref>。


当時アメリカと国交のなかったエジプトで開かれた会議に彼女が出席したとき、予定には無かったことだったが、[[サダト]]大統領が突然現れ、自分は彼女のファンだったと言い、彼女が主演した『ハイジ』の映画フィルムが欲しいと言った。そして、自分は「(イスラエルとの)平和を心から望んでいる最初のアラブの指導者だ」と言った。シャーリー・テンプルは、この発言をすぐ[[キッシンジャー]]国務長官に伝え、帰国後『ハイジ』の映画フィルムをすぐ送った。やがて、アメリカとエジプトの国交回復を経て、[[ジミー・カーター]]大統領のときに、イスラエルとエジプトとの和平が成立する<ref>James Haskins,''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988)pp49-50.</ref>。
[[中華人民共和国]]の国連加盟を強く主張した<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.95.</ref>。


その後[[1974年]]に、アフリカの民族主義が強まる時期のアフリカの大国[[ガーナ]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[特命全権大使|大使]]をつとめた。それまでのアメリカ大使とは違い、アフリカの民衆の中に飛び込み、ガーナ人の心をつかむようにつとめた。(なお、一部のサイトでは「ガーナの親善大使」と述べてあるがこれは全くの誤りだし意味不明。「親善大使」なる職名は国務省にはい。)<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.128.</ref>
その後[[1974年]]から[[1976年]]にかけて、アフリカの民族主義が強まる時期のアフリカの大国[[ガーナ]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[大使|特命全権大使]]をつとめた。大使の職はアメリカでは、政治任用ポストとされ、功なり名遂げた政治家や財界人、高名な学者、有力官僚などの中から任命されている。日本のような公務員試験はないが、議会による厳しい資格審査(上下両院の外交委員会での長時間の口頭試問を含む)があるので、指名された者で大使に任用されないままになるものも多い。アメリカの歴史において、女優で大使になった者はシャーリー・テンプル以前には一人もいなかったし、シャーリー以後にも一人もいない。当時はそもそも女性の大使さえ非常に少数であった時代であり、彼女がガーナ大使になった時にガーナ人の男性の中には女性だという理由で反対する者もいたが、彼女が仕事をきちんとこなしているうちに、反対は消えていき、称賛がとってかわった。<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.124.</ref>。彼女はそれまでのアメリカ大使とは異なり、アフリカの民衆の中に飛び込みことで、ガーナ人の心をむようた。ガーナ大使を務めていた時は、108人のスタッフのトップとして1日17時間働いた。(、一部の情報源では「ガーナの親善大使」と述べてあるがこれは全くの誤りで、「親善大使」という職名は国務省には存在しない。)<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.128.</ref>(ユーチューブに、ガーナ大使に就任が確定後フォード大統領を訪問した様子がShirley Temple Black - Meeting With President Gerald R Fordという題で掲載されている。)


ガーナ大使時代の2つのエピソードを紹介する。最初のエピソードは着任直後のものである。シャーリーは深夜の大使館の庭で、捨てられた子猫が哀れっぽくニャーニャーなく声を聞いた。子猫を哀れに思ったシャーリーは拾って世話をしてやろうと大使館の庭に下りて声のする方を探してまわった。すると突然ガーナ人の庭師が血相を変えて飛び出してきて、彼女を必死に大使館の中へ引きずっていった。実は、夜になると大使館の庭には近くのジャングルから無数の毒蛇があらわれるのでだれも夜には庭には出ないのであった。シャーリーが子猫の鳴き声と思ったのは猛毒のコブラが餌に襲いかかる時の威嚇音で、シャーリーはあと少しでコブラに噛まれるところだったのだった。2番目のエピソードは、部下の大使館員と一緒に有力部族の大酋長に会いに行った時の話である。ガーナでは相手に靴の裏を見せることは最大の侮辱とされており、決してやってはならない仕草である。ところが、部下の大使館員は話に夢中になって、靴の裏がだんだんと大酋長に向き始めたのであった。シャーリーはやきもきして、部下の大使館員に身振りで、靴の裏が大酋長に向かないように必死に合図をしたのであった。ところがシャーリーは非常にやきもきしたため、注意がお留守になり、うっかり大酋長の話しかけてきた言葉にイエスと言ってしまったのだが、じつは大酋長はその時、第三夫人にならないかと言っていたのであった。有頂天になった大酋長に第三夫人になることをあきらめてもらうには、巧みな外交的な駆け引きが必要だったのは言うまでもない。
また、女性としては初の、米国典儀長([[:en:Chief of Protocol of the United States]])をつとめ、[[ホワイトハウス]]の全ての儀式の責任者となるとともに、[[ブレアハウス]]等のアメリカの[[迎賓館]]を統括し、アメリカを訪問する全ての[[国賓]]の接待の責任者となった。同時に無所任大使でもあった。彼女は現在に至るまで最も有名な米国典儀長として記憶されている<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.130.</ref>。


ガーナ大使としてシャーリーは高い評価をうけた。[[1976年]]に、前任者の国連大使昇格に伴いフォード大統領は彼女をガーナ大使の任期の途中でワシントンに呼び戻し、無所任大使として、女性としては初の米国典儀長([[:en:Chief of Protocol of the United States|Chief of Protocol of the United States]])に抜擢した。彼女は[[ホワイトハウス]]の全ての儀式の責任者となるとともに、[[ブレアハウス]]等のアメリカの[[迎賓館]]を統括し、アメリカを訪問する全ての[[国賓]]の接待の責任者となった。また、大統領が海外を訪問する時は大統領専用機で大統領に同行し、大統領の右腕として相手国との折衝を統括した。三木武夫首相訪米の際は彼女が米国典儀長として接待の責任者であった。また[[1977年]]のジミー・カーター大統領の就任式は彼女が統括した。彼女は米国典儀長としても非常に高い評価を得た。彼女は現在に至るまで最も高名な米国典儀長として記憶されている<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.130.</ref>。(ユーチューブに、米国典儀長就任式の模様がShirley Temple Black's Inaugurationという題で掲載されている。)
[[国務省]]で外交官養成機関である米国外交アカデミーを創設し、そのトップをつとめ、新任の外交官とその配偶者に必要なトレーニングをおこなった<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.1131-133.およびChief of Protocol of the United Statesに関するウィキペディアのアメリカ版の記事を参照</ref>。


米国典儀長を退任の際、それまでの外交官としての業績により大使の称号を一生名乗ることを特に認められている。
[[1989年]]には[[チェコスロバキア]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[特命全権大使|大使]]に任命された。チェコスロバキアでは、彼女の在任中に旧東側の体制が崩壊したが、彼女は民主主義を支持し、流血の事態が起きないように努めた。チェコスロバキアでは一滴の血も流れなかった。いわゆる[[ビロード革命]]である。(なおアメリカ版のウィキペディアでは彼女が1968年にもチェコスロバキア大使であったように書いてあるが全くの誤りである)<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.134-135.</ref>。


[[1977年]]から[[1981年]]にかけてのジミー・カーター大統領の時代は、複数の大会社の重役を務めるとともに、父親の介護を行い最期を看取っている。[[1977年]]にはシャーリー・テンプルは、彼女が国連加盟に尽力したことを感謝している中華人民共和国に招待されて同国を公式訪問し、大歓迎をうけている。以後も中華人民共和国に近い立場は変わらなかった<ref>Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.130.</ref>。[[1980年]]には共和党の一部で、共和党の大統領候補を目指してシャーリーを予備選に担ぎ出そうという動きもあったが、シャーリーはその動きには乗らなかった。
エジプトで開かれた会議に彼女が出席したとき、予定には無かったことだったが、[[サダト]]大統領が突然現れ、自分は彼女のファンだったと言い、彼女が主演した『ハイジ』の映画フィルムが欲しいと言った。そして、自分は「(イスラエルとの)平和を心から望んでいる最初のアラブの指導者だ」と言った。シャーリー・テンプルは、この発言をすぐ[[キッシンジャー]]国務長官に伝え、帰国後『ハイジ』の映画フィルムをすぐ送った。やがて、[[ジミー・カーター]]大統領のときに、イスラエルとエジプトとの和平が成立する<ref>James Haskins,''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''(Penguin Books,1988)pp49-50.</ref>。


[[1981年]]のレーガン政権の発足に伴い、ワシントンとパリで大統領就任式の公式祝賀舞踏会が行われた。パリで開かれた舞踏会において、シャーリーは夫と共に大統領の名代をつとめた。
彼女はアメリカの史上初の、名誉外交官の称号を受けたが、それは十分な理由があってのことだった<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.</ref>。


1981年に彼女は[[国務省]]で大使養成機関である米国外交アカデミーを創設し、1981年から[[1989年]]までそのトップをつとめ、新任の大使とその配偶者に赴任先でいかに振舞うべきか、誘拐されたり大使館で爆弾が爆発したりテロリストに脅迫されたときにどう対処すべきかといった様々な事柄に対して、必要な知識を伝授する仕事を行った<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.131-133.およびChief of Protocol of the United Statesに関するウィキペディアのアメリカ版の記事を参照</ref>。この間シャーリーの教えを受けたアメリカの大使とその配偶者は146名に及ぶ。
最初、彼女は往年の子役であったということで、軽く見られていた。彼女が1967年に下院選挙に出馬したときは、反対派は「シャーリーちゃん、おふざけしてるんでしょ(Shirley You Jest)」というバンパー・ステッカーを車に貼っていたし、国連代表になったときは、彼女のファンが一目彼女を見ようと大挙して国連の傍聴席におしかけた<ref>Robert Windeler,''The Films of Shirley Temple''(Citadel Press,1978),P.84,88-89.</ref>。
しかし、彼女が仕事をきちんとこなしているうちに、からかいや反対は消えていった。国連代表になったとき、同僚の国連の各国の外交官の評判は非常によかった。子供のときから常に人に愛される性格だったシャーリー・テンプルにとって、[[外交官]]はまさに天職であったと言えよう<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.124.</ref>。


[[1986年]]当時南アフリカ共和国で行われていた人種差別政策[[アパルトヘイト]]を廃止させるため国務省内で様々な働きかけを行い、またアパルトヘイトを廃止するための多くの国際会議に出席し演説をおこなった。1980年代後半に起きた国際的な反アパルトヘイトの大きな流れの結果、[[1991年]]にデクラーク大統領がアパルトヘイト撤廃を打ち出し、[[1994年]]にアパルトヘイトは完全に撤廃された。
また、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]や、デルモンテ([[:en:Del Monte Foods]])社等の重役もつとめた<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)400ページを参照。</ref>。


環境問題や、世界の恵まれない子供たちのための、社会活動熱心に取り組んだ。また、女尊厳傷つけ、子供悪影響を与えるとし、[[ポルノ]]に反対した。サンフランシスコ映画祭審査員だったときに、[[スウェーデン]]からポルノ的作品が出品されたので、審査員を辞任したことがある<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.119.</ref>。
[[1987年]]に、はアメリカ史上初名誉外交官の称号たがそれは十分な根拠があってのことだった<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.</ref>。

[[ファイル:Ambassador to Czechoslovakia Shirley Temple 19901025.jpg|thumb|200px|1990年、チェコスロバキア大使時代のシャーリー・テンプル。ビロード革命後のチェコスロバキアに援助物資の医薬品を贈るための輸送部隊の責任者を出迎えている場面である。シャーリーは62歳である。]]

その後[[1989年]]から[[1992年]] まで[[チェコスロバキア]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[大使|特命全権大使]]に任命された。当時アメリカは、東欧諸国の体制が揺るぎ始めていることを察知しており、激変に備えて東欧諸国にそれぞれ腕利きの人物を大使として配置していた。チェコスロバキアでは、彼女の在任中に旧東側のスターリン的体制が崩壊したが、彼女は民主主義を支持し、流血の事態が起きないように努めた。結果、チェコスロバキアでは一滴の血も流れない、いわゆる[[ビロード革命]]が成立した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.134-135.</ref>。革命後の復興にも彼女は全力を尽くした。

その後、[[1992年]] からの[[ビル・クリントン|クリントン]]政権においては、[[1998年]]に引退するまで複数の大会社の重役を務めた。

アメリカの国の機関であるNASA(アメリカ航空宇宙局)は、女性の社会進出のパイオニアとしてシャーリー・テンプルの記事をNASAのホームページに掲載し、「彼女の外交官としての業績は子役スターの時代よりもさらに多くの世界の人々に影響を与えた」と述べ、また「彼女は敏捷な機知と暖かさと優雅さで、アメリカで最も尊敬されている外交官の一人となった」と述べている<ref>NASAのNASA Quest のShirley Temple Blackの記事 (2008年3月参照)</ref>。また、ケネディ・センターは外交官としての彼女の業績について述べ、「アメリカだけでなく世界もシャーリー・テンプルに負うところが大きいのである」と結論付けている<ref>Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年3月参照)</ref>。

=== 実業家 ===
シャーリー・テンプルは実業家でもあった。父親ゆかりのカリフォルニア銀行、カリフォルニア銀行の親会社であるバンカル・トライステイツ社、ファイヤマンズ・ファンド保険会社、アメリカ最大の銀行[[バンク・オブ・アメリカ]]、大手食品会社のデルモンテ([[:en:Del Monte Foods]])社、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]等の大会社の重役を歴任した<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)400ページを参照。</ref>。実業家としては、完璧主義者として知られていた。

=== 委員会 ===
シャーリー・テンプルは国際的なあるいは米国内の公的な多くの委員会の委員でもあった。
その中には米国大使評議会、世界問題評議会、米国ユネスコ委員会、米国米中友好委員会、国連協会が含まれていた。また現在に至るまでスタンフォード大学国際問題研究所の評議員である。

また歴代の大統領や歴代の国務長官とともに、アメリカの最も有名な外交問題のシンクタンクである[[外交問題評議会]]に所属していた。外交問題評議会には「影の世界政府」との異名もある。また、世界最高のエリートが参加する事で知られる、[[ビルダーバーグ会議]]([[:en:Bilderberg Group|Bilderberg Conference]])のメンバー<ref>[[:en:List of Bilderberg attendees|List of Bilderberg attendees]]</ref>でも有った。
この世界最高レベルの非公開会議に、シャーリーが初めて出席したのは、1982年のノルウェーのサンデフィヨルドのRica Park Hotel Sandefjordで開かれた会議からである。

=== シャーリー・テンプル修正条項 ===
女性の尊厳を傷つけ、子どもに悪影響を与えるとして、[[ポルノ]]に反対した。サンフランシスコ映画祭の審査員であったときには、[[スウェーデン]]からポルノを思わせる作品が出品されたので、審査員を辞任したことがある。ただし彼女は決して芸術的な価値の高いポルノまで反対しているわけではない。彼女が反対しているのは、あくまでも金儲けのために乱造された芸術的に無価値なポルノである<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.119.</ref>。

また特に、子どもの人権を侵しているとして、[[児童ポルノ]]の製造と販売に反対した。彼女の児童ポルノ反対運動により、『労働基準法』への「シャーリー・テンプル修正条項」("Shirley Temple amendment" to the Wages and Hours Law)がアメリカ議会で成立した。これにより、16歳以下の子どもが被写体になったポルノの製造と販売が禁じられることとなった。彼女の努力で、それ以前は事実上野放し状態になっていたアメリカの児童ポルノに大きな規制がかけられる事になったのであった。当時アメリカでは、ポルノ解放論者からシャーリーに対し強い批判があったが、現在ではシャーリーへの批判は全く影をひそめている。

=== 病気 ===
シャーリー・テンプルは非常に健康で、精力的な活動で知られているが、2度大きな病気をしたことがある。

最初は長男の出産の際、ブラック家と非常に親しかったキンブル海軍長官の強い求めに応じて、海軍病院に入院した際のことである。海軍では、ベテランの大佐の軍医を主治医にあてた。だが、当時誰にも分からなかったことだが、主治医は進行した脳腫瘍のため異常な状態になっており、帝王切開手術の後に適切な処置をせず、彼女は瀕死の状態になった。海軍は慌てて主治医を[[軍医総監]]に替え、その後まもなく元主治医は脳腫瘍で死んだ。彼女は数週間死線をさまよった後で回復した。

彼女は1972年に乳癌になり切除手術を受けた。当時アメリカでは乳癌の場合は乳房全部を切除していたが、彼女はヨーロッパで実験的に行われ始めていた乳房温存手術をしてくれるように医師を説得し、彼女がアメリカで初めてこの手術をうけることになった。以後、アメリカでは乳房温存手術が一般的になっていった。また彼女は自分が乳癌であることを公表し、アメリカの女性たちに検診の必要性を述べた。「家にいて癌を恐れていないで、出かけて医師の診察を受けましょう」という彼女の言葉は有名になった。シャーリー・テンプルが世界で最初に、自分が癌であることを公表した有名人である。その後、フォード大統領夫人のベティ・フォードが彼女の例にならい、世界で二番目に、自分が癌であることを公表した有名人となる。彼女の癌の再発はなく、2013年現在に至っている。

=== 家庭生活 ===
NASA(アメリカ航空宇宙局)は彼女が「素晴らしい家庭を築いた」と賞賛しているが<ref>NASAのNASA Quest のShirley Temple Blackの記事 (2008年3月参照)</ref>、彼女の一家は、家族の間の絆が非常に強いことで知られている。

彼女は、通常は家事一切を自分でやり、同時に、国務省の公務や実業家としての仕事をこなした。高い地位にいたが、贅沢はせず生活は質素であった。ただし、泊まる際はセキュリティのため必ず超一流ホテルのスイート・ルームに泊まった。また、現代のアメリカ人には珍しい事ながら、年老いた両親を家に迎え、両親のガートルードとジョージの介護を最後まですべて一人でやった。父親のジョージは晩年脳溢血のため身体が不自由になったので、シャーリー・テンプルは父の食事を自分ですり潰して毎食父親に食べさせていた。

子供は3人おり、長女はサンフランシスコの図書館員。長男は実業家で現在父親の会社を継いでいる。次女は、ごく短期間[[メルヴィンズ]]などのロック・バンドでベーシストとして活動をした後、現在は写真家として活動している。また、孫が一人と曾孫が一人いる。

彼女の趣味には、ゴルフ、ガーデニング、釣り、料理などがある<ref>NASAのNASA Quest のShirley Temple Blackの記事 (2008年3月参照)</ref>。

=== 自伝 ===
[[1988年]]に、自伝『チャイルド・スター』をアメリカで出版し、アメリカでは大ベストセラーになった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下(平凡社・1992年)</ref>。自分を美化したり正当化したりすることは決して書かず、自分のことは人に非難を受けることでも正直に書くが、人が困るような秘密の暴露はせず、どうしても書かなければならないときは誰か分からないように仮名を使ったという点で、通常のハリウッドの回想録とは違った著作になっている。例外は、映画会社の社長や重役の性的にお盛んな点を書いていることであるが、そもそもそれは彼女が書かなくても誰もが知っていたことであるし、彼女はユーモアに満ちた筆致で書いている。この本は日本でも『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』(現在絶版)という題で翻訳されていた。

この著作の前半の部分を『シャーリー・テンプル物語』としてディズニーが映像化し、アメリカの[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]](ABCネットワーク)で放映された。

また、2013年現在、2冊目と3冊目の自伝を執筆中である。2冊目はカーター政権が始まる時期までの、3冊目はクリントン政権が始まる時期までの外交官としての仕事が中心になっている。2冊目はすでに書き終えたもようで、3冊目と一緒に出版の予定である<ref name="ofweb">Offical Shirley Temple Web Site</ref>。


=== その後 ===
=== その後 ===
1998年に70歳をむかえ、公職を引退した。2000年に夫チャールズと思い出の地である中華人民共和国に旅行し政府の歓迎をうけ、現地で金婚式を祝った。
[[1988年]]に、自伝『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』をアメリカで出版し、アメリカでは大ベストセラーになった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下(平凡社・1992年)</ref>。この著作は『シャーリー・テンプル物語』としてディズニーが映像化し、アメリカの[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]](ABCネットワーク)で放映された<ref>Offical Shirley Temple Web Site</ref>。


シャーリー・テンプルは、自分の出演作品の映画のカラー化に非常に積極的である。2004年、彼女はレジェンド・フィルムズ([[:en:Legend Films]])と組んでカラー化の作業を行った。彼女の作品の多くがカラー化されているが、彼女の記憶に基づいた色調になっている。彼女はカラー化の仕上がりにとても満足している<ref>Offical Shirley Temple Web Site</ref>。なお、現在日本で発売されている彼女の少女スター時代の映画のDVDはすべて、カラー版と黒白版が共に収録されている。
シャーリー・テンプルは、自分の出演作品の映画のカラー化に非常に積極的であり、2004年、彼女はレジェンド・フィルムズ([[:en:Legend Films|Legend Films]])と組んでいくつかの作品のカラー化の作業を行った。彼女の作品の多くがカラー化されているが、彼女の記憶に基づいた色調になっている。彼女はカラー化の仕上がりにとても満足している<ref name="ofweb" />。なお、現在日本で発売されている彼女の少女スター時代の映画のDVDはすべて、もともとカラー版で撮影した『テンプルちゃんの小公女』以外は、カラー版と黒白版が共に収録されている。


ャーリー・テンプは、2005年に、彼女自身の言葉を借りれば「おとぎ話のように幸福な」55年の結婚生活の後、夫のチャールズ・ブラックと死別した。現在、2冊目の自伝を執筆中である<ref>Offical Shirley Temple Web Site</ref>
その後、夫チャールズが骨髄の癌になり彼の介護にあたる。2005年に、彼女自身の言葉を借りれば「おとぎ話のように幸福な」55年の結婚生活の後、夫と死別した。


2013年現在、彼女は公職からは引退しているがスタンフォード大学国際問題研究所の評議員の仕事だけは残しており、一ヶ月に一回評議会に出席のため自宅から車で10分のところにある同研究所に通っている。かっての国務省での上司のシュルツ元国務長官と共に評議員をつとめている。
== 評価 ==
彼女は、1935年に[[アカデミー賞]]特別賞を受賞している<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.27.</ref>。しかし、この時は6歳の彼女にあわせて小型のオスカーを授与していた。[[1985年]]に、、[[映画芸術科学アカデミー]]は「シャーリー・テンプルに捧ぐ(A Tribute to Shirley Temple)」会を催し、会の終わりに、小型のオスカーの代わりとなるフルサイズのオスカーを改めて授与した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.132-133.</ref>。


将来、人々にどんな風に記憶されることを望むかという質問に、「存在しただけでなく、人生を生きた人物として記憶されたい」と語っている<ref name="ofweb" />。
また、少女スターとしての彼女は、現在でも非常に高い評価を受けている。彼女は、公的機関である[[アメリカ映画協会]](AFI)が選出した「最も偉大な俳優100選」([[:en:AFI's 100 Years... 100 Stars]])では女優で第18位である<ref>アメリカ映画協会によるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』を参照。ただし現在発表されているのは男性25名、女性25名の計50名のみ。</ref>。また、サンフランシスコ・クロニクル紙の「最も偉大な女優50選」では13位であった<ref>Offical Shirley Temple Web Site.</ref>。

=== 晩年 ===
2008年4月、誕生日の前日に自宅の真っ暗な部屋を歩いていて、つまずいて転び腕を骨折した。骨折のニュースは全米で報道された。また、アメリカの各テレビ局は2008年4月23日の朝の番組で、シャーリー・テンプルの80歳の誕生日のニュースを大きく取り上げた。骨折のため彼女が出る予定だった80歳の誕生日の記念式典や特別番組はすべてキャンセルになったが、順調に回復した。(現在に至るまでシャーリー・テンプルは、誕生日や普通の骨折が、アメリカでテレビの3大ネットワークの定時のニュースになる極少数のアメリカ人の一人であり続けているともいえよう。)

彼女は骨折の後、ロイター通信のインタヴューに「暗い部屋を歩くときは、電灯をつけたほうがよかったわね」とユーモアを滲ませながら答えている。(ユーチューブに、怪我についてのCBSテレビのニュース報道がHomage to the 80 years of Shirley Temple.という題で、80歳の誕生日を取り上げたワイドショー「グッド・モーニング・アメリカ」の一部がShirley Temple 80th Birthday, Good Morning Americaという題で、それぞれ掲載されている。)

2014年の2月10日、カリフォルニア州ウッドサイドの自宅にて亡くなった<ref>http://www.digitalspy.co.uk/movies/news/a550347/hollywood-icon-shirley-temple-dies-aged-85.html</ref>。

== 評価・受容 ==
=== 評価 ===
彼女は、1935年に[[アカデミー賞]]特別賞を受賞している<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.27.</ref>。しかし、この時は6歳の彼女にあわせて小型のオスカーを授与していた。[[1985年]]に、[[映画芸術科学アカデミー]]は「シャーリー・テンプルに捧ぐ(A Tribute to Shirley Temple)」会を催し、会の終わりに、小型のオスカーの代わりとなるフルサイズのオスカーを改めて授与した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.132-133.</ref>。

また、少女スターとしての彼女は、現在でも非常に高い評価を受けている。彼女は、公的機関である[[アメリカ映画協会]](AFI)が選出した「最も偉大な俳優100選」([[:en:AFI's 100 Years... 100 Stars|AFI's 100 Years... 100 Stars]])では女優で第18位である<ref>アメリカ映画協会によるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』を参照。ただし現在発表されているのは男性25名、女性25名の計50名のみ。</ref>。また、サンフランシスコ・クロニクル紙の「最も偉大な女優50選」では13位であった<ref name="ofweb" />。


[[1988年]]には、アメリカン・シネマ・アウォード・ファンデーションより、[[ジーン・ケリー]]と共に第5回アメリカン・シネマ・アウォードを受賞した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.133-134.</ref>。
[[1988年]]には、アメリカン・シネマ・アウォード・ファンデーションより、[[ジーン・ケリー]]と共に第5回アメリカン・シネマ・アウォードを受賞した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),pp.133-134.</ref>。


[[1998年]]には、アメリカの国の機関であるケネディ・センター([[:en:John F. Kennedy Center for the Performing Arts]])より、アメリカで活躍している全てのジャンルの芸術家にとって最高の名誉である[[:en:Kennedy Center Honors| ケネディー・センター・名誉賞]] (Kennedy Center Honors) を受賞した<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.</ref>。
[[1998年]]には、アメリカの国の機関であるケネディ・センター([[:en:John F. Kennedy Center for the Performing Arts|John F. Kennedy Center for the Performing Arts]])にて、アメリカで活躍している全てのジャンルの芸術家にとって最高の名誉であるケネディー・センター・名誉賞 ([[:en:Kennedy Center Honors|Kennedy Center Honors]]) を[[ビル・クリントン]]大統領より贈られた<ref>Lorain Burdick,''The Shirley Temple Scrapbook''(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.</ref>。

[[2005年]]には彼女の少女スターとしての業績と、彼女の外交官としての平和と人道のための活動を讃え、[[映画俳優組合]](SAG)は[[全米映画俳優組合賞]]の中でも最高の栄誉とされる生涯功労賞を授与した。プレゼンターは[[ダコタ・ファニング]]であった<ref name="ofweb" />。(ユーチューブに、ダコタ・ファニングの挨拶と77歳のシャーリーの映像がDakota Fanning presenting an award to Shirley Templeという題で掲載されている。)


テネシー大学のパスティ・ガイ・ハモンツリー教授は次のように言っている。「シャーリー・テンプル・ブラックの子ども時代の映画は70年以上を経た後でも、世界的な人気を保ち続けている。彼女の名前を挙げると、たいていは「うん、彼女が好きだ」という返事が返ってくる。彼女はほぼ60年間映画に出ていないが、彼女の顔と名前は最近映画を撮り終えたばかりのように、おなじみのものであり続けている。子役には異例の事ながら、彼女は子供のときに通常ありえないような賞賛を受けた。子ども時代の名声にもかかわらず、彼女は大人になってから堅実な満ち足りた生活をおくっている。ほとんどの子役は、スポットライトを浴びなくなると、人生に適合できなくなってしまうが、それにひきかえ、シャーリーは、傑出した人物であり続けている。全く振り返ることなくショウビジネスを離れた。個人的には妻と母として成功し、仕事の面では外交官としても、環境保護の擁護者としても、国際的な又国内的な公的な委員会の委員としても、企業家としても成功し続けた」<ref>Pasty Guy Hamonntree, ''Shirley Temple Black: Bio-Bibliography''(Overlook Press,1998)IX.</ref>

=== シャーリー・ファン ===
「シャーリー・テンプルは子供たちのもの」と1930年代に彼女の母親が言っている通り、彼女のファンの中心は子供たち、特に少女たちであり、次いで母親たちである。彼女のファンは圧倒的に女性が多いが、彼女は、世界的な社会現象になった少女スターであり、世界中に様々なファンが存在した。

最も有名なのは、1930年代にチリの大統領だった[[アルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ]]であろう。彼は、大統領官邸にシャーリー・テンプルの映画フィルムをすべて揃えて持っており、毎日繰り返し見ていた。彼は、職権でシャーリーをチリ海軍の公式のマスコットに任命し、大統領専属のデザイナーをハリウッドに送って彼女の採寸をして彼女用のチリ海軍の提督の服を作らせ、アメリカ合衆国に外交使節団を派遣して、その服を9歳のシャーリーに贈った。

1950年代から1960年代のソビエト連邦の共産党の指導者であった[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]首相も、熱心なシャーリーのファンであった。アメリカとソビエトの雪解けが始まっていた1960年9月に、フルシチョフは訪米をするが、アメリカで誰に会いたいかと聞かれて、フルシチョフはシャーリー・テンプルと答えた。それで、フルシチョフがサンフランシスコを訪問した際、アメリカ政府の高官の中に混じって32歳の彼女も出迎えた。空港で、初めて会ったとき、フルシチョフはシャーリーの手を握り締め、自分の胸に押し当てて、目に涙を浮かべた。但しその後で、感極まったフルシチョフが「あんたを是非とも拉致してソヴィエトに連れて戻りたいものだ!」と叫んだため、シャーリーは少なからず驚いたようである。(後に、フルシチョフが失脚後の1967年に、シャーリーが夫と共にソビエトを訪問した際、彼女はフルシチョフに再び会いたいという希望をソビエト当局に伝えたが、ソビエト当局は拒否した)

1980年代、アメリカのレーガン政権のヘイグ国務長官も、熱烈なシャーリーのファンだということを公言していた。[[マイケル・ジャクソン]]もシャーリーのファンだと言っていた。マイケル・ジャクソンはシャーリーと面会する機会を得るが、面会中ひたすら泣きじゃくっていたという。

2013年現在でも、アメリカには多くのテンプル・ファンあるいはマニアがいる。[[ジョージ・クルーニー]]は、女優の中でシャーリー・テンプルが一番好きだと公言している。また、[[ライザ・ミネリ]]一家も彼女のファンであり、自宅の一室を、シャーリー・アイテムの部屋にしており、沢山のシャーリー・テンプル人形がびっしりと飾ってある。女優の[[ナタリー・ポートマン]]も、尊敬する人物にシャーリー・テンプルの名を挙げている。彼女はもともと政治に大変興味があり、女優として活躍後、政治の世界で働くシャーリーを尊敬しているという。

アメリカでの近年の現象としては、シャーリー・テンプルのアイテムで家を埋め尽くし、シャーリー・テンプルの映画の登場人物になりきってコスプレをするシャーリー・オタクの出現が挙げられる。

2002年に、フォックステレビは、衰えないシャーリー・テンプル人気について、シャーリー・オタクの取材を含む1時間番組『シャーリーマニア』を放映した。

=== 日本の大衆文化の中のシャーリー・テンプル ===
1935年(昭和10年の)正月映画として『可愛いマーカちゃん』が上映されて以来、シャーリー・テンプルの映画は日本でも大ヒットを続けた。シャーリー・テンプルは、戦前戦後の日本の少女向き大衆文化に大きな影響を残した。戦前の日本ではシャーリー・テンプルがブロマイドの売上高一位であった。戦前の日本の少女でシャーリー・テンプルを知らない者は一人もいなかったと言われている。彼女は『[[少女の友]]』『[[少女倶楽部]]』『[[少女画報]]』などの戦前の日本の少女雑誌にも大きな影響を与えている。また、[[蔦谷喜一]]の塗り絵や[[松本かつぢ]]の挿絵や漫画『くるくるクルミちゃん』には、彼女の映画のスチール写真やブロマイドの顔を参考にしていると考えられる絵が多数存在する<ref>東京都荒川区のぬりえ美術館のホームページ</ref>。ミルクのみ人形等の女児向けの人形は、戦後のある時期までシャーリー・テンプル人形そっくりの金髪で巻き毛のものが多かった。

戦前、日本橋の三越デパート店では、1つの階をほとんどシャーリー関係の商品にあてていた時期があった。

当時日本では、シャーリーを讃えた童謡「テムプルチヤン」まで作られた。(歌、飯田ふさ江。作歌、武田雪夫。作曲、上原進一。)

1936年に彼女は、日本語で歌を吹き込み、[[ポリドールレコード]]より日本限定で発売された。「[[夕焼け小焼け]]」「[[靴が鳴る]]」「玩具のマーチ」「すずめの学校」の四曲である<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.196-197.</ref>。

太平洋戦争中の1942年に、[[日本海軍]]は潜水艦搭載機で[[アメリカ本土爆撃]]をする。前線にいる米軍の士気をくじくための[[東京ローズ]]の[[プロパガンダ]]放送を1943年に日本側は始めるが、その中で東京ローズがロサンジェルス爆撃でシャーリーが死んで日本では大喜びしていると放送した。15歳のシャーリー本人にもその話は伝わった。

日本の菓子メーカー[[不二家]]が、かつて発売していた「フランス・キャラメル」は彼女のブロマイドの顔を参考にした絵を使っていた<ref>サイト まぼろし食料品店第13回「日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち」の巻 (シャーリー・テンプル本人の了承をとったかどうかは不明)</ref>。なお、[[メンソレータム]]のキャラクターであるリトルナース(ナースちゃん)の絵は、シャーリーをモデルにして日本人のデザイナーが創作したものだと日本では言われているが、信憑性は薄い。リトルナースの絵は確かにシャーリーに非常に似てはいるが、すでに19世紀末からアメリカでメンソレータムの広告に、1910年代には容器に使用されている。

『[[風船少女テンプルちゃん]]』は1977年10月1日から1978年3月25日にかけ、土曜18時00分から18時30分にフジテレビ系で放映された、タツノコプロ制作の女児向けテレビアニメである。主人公は明らかにシャーリーに想を得たキャラクターであり、シャーリー同様金髪の巻き毛の音楽好きの少女で、『歓呼の嵐』のシャーリーさながらにバトンを回し、『農園の寵児』のシャーリーさながらにタクトを振る設定になっていた。

'''[[シャーリーテンプル (ブランド)]]'''は彼女の名前にちなんで1974年に創立された日本の子供服のブランドである。シャーリー・テンプル本人とライセンス契約を締結しており、アメリカ合衆国以外での独占的な販売権を有している。以下はシャーリーテンプル (ブランド)のホームページからの引用である。「シャーリーテンプル創業の1974年はオイルショックの時期で先の見通しがつかない不況の時代でした。その際「せめて子供服くらいは、明るく夢のあるものに」と願った初代デザイナーにより1930年代大不況だったアメリカで スクリーンから人々に夢と希望を振りまいた子役の「シャーリー・テンプル」ちゃんにあやかってつけられました。以来、「テンプルちゃん」のような夢を洋服で表現し続けているのです」


=== 欧米の大衆文化の中のシャーリー・テンプル ===
[[2005年]]には少女スターとしての彼女の業績を讃え、[[映画俳優組合]](SAG)は、[[全米映画俳優組合賞]]の中でも最高の栄誉とされる生涯功労賞を授与した。ちなみにプレゼンターはダコタ・ファニングとジェミー・リー・カーチスであった<ref>Offical Shirley Temple Web Site.</ref>。
欧米の児童向け大衆文化は、既に19世紀の後半に成立していたが、1930年代に入ってからシャーリー・テンプルの映画とディズニーの短編アニメが、映像という形で欧米の児童向け大衆文化を大きく革新していったと言える。また、既に1920年代にジャッキー・クーガンなどの子役の大スターは出現していたが、1930年代のシャーリー・テンプルの成功が、1930年代と1940年代における、ディアナ・ダービンやエリザベス・テイラー等の少女スターの黄金時代を作り上げたとも言える。


1930年代から数十年間にわたってアイデアル社から発売されたシャーリー・テンプル人形は売れ続けた。(2009年現在、1930年代のオリジナルのシャーリー・テンプル人形は、状態の良い物であれば一体数十万円から数万円の価格帯で取引されている)2009年現在でもアメリカではシャーリー・テンプル人形はダンバリー・ミント社(Danbury Mint)により全部で10種類が製作され販売されている<ref>Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.75-99. なお、Tonya Bervaldi-Camaratta,''The Complete Guide To Shirley Temple Dolls and Collectibles: Identification and Value Guide''(Collector Books,2006).によれば2000ドル以上の価格の人形がある。なお、E-bay等のオークションでは人形一体に日本円にして百万円単位の入札がある場合もある</ref>。
テネシー大学のパスティ・ガイ・ハモンツリー教授は次のように言っている。「シャーリー・テンプル・ブラックの子供時代の映画は半世紀以上を経た後でも、世界的な人気を保ち続けている。彼女の名前を挙げると、たいていは「うん、彼女が好きだ」という返事が返ってくる。彼女はほぼ60年間映画に出ていないが、彼女の顔と名前は最近映画を撮り終えたばかりのように、おなじみのものであり続けている。子役には異例の事ながら、彼女は子供のときに通常ありえないような賞賛を受けた。子供時代の名声にもかかわらず、彼女は大人になってから堅実な満ち足りた生活をおくっている。ほとんどの子役は、スポットライトを浴びなくなると、人生に適合できなくなってしまうが、それにひきかえ、シャーリーは、傑出した人物であり続けている。全く振り返ることなくショウビジネスを離れた。個人的には妻と母として成功し、職業の面では外交官としても、環境保護の擁護者としても、国際的な又国内的な公的な委員会の委員としても、企業家としても成功し続けた。」<ref>Pasty Guy Hamonntree, ''Shirley Temple Black: Bio-Bibliography''(Overlook Press,1998)IX.</ref>。


また、彼女の名前にちなんだカクテル(ノンアルコール・カクテル)が2種類ある。'''[[シャーリー・テンプル (カクテル)]]'''とシャーリー・テンプル・ブラックである。カクテルのシャーリー・テンプル は1930年代に禁酒法が廃止になり、家族づれでお酒が飲めるようになった時に、親がお酒を飲んでいるとき、子供たちが飲めるようにと発明されたソフト・ドリンクであり、作り方はレモンライム・ソーダあるいは[[ジンジャーエール]]に[[グレナデン・シロップ]]を加え[[マラスキーノ・チェリー]]で飾ったものである。シャーリー・テンプル・ブラックはレモンライム・ソーダの代わりにコカコーラを使ったものである。(シャーリー・テンプル自身は、自分の名前がかってに酒場で使われるようになったことに、違和感を覚えていたようである<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p13413を参照。</ref>)
== 余話 ==
'''[[シャーリー・テンプル (カクテル)]]'''は彼女の名前にちなんだノンアルコール・カクテルである。1930年代に禁酒法が廃止になり、家族づれでお酒が飲めるようになった時に、親がお酒を飲んでいるとき、子供たちが飲めるようにと発明された。世界標準の作り方はレモンライム・ソーダあるいは[[ジンジャーエール]]がベースで、これに[[グレナデン・シロップ]]を加え[[マラスキーノ・チェリー]]で飾ったものである。より安価に作ろうと思えば、スプライトにチェリー・シロップを加えても良い。ただし、日本の関西地方では[[クレーム・ド・カシス]]に[[オレンジ]]ジュース、[[グレープフルーツ]]ジュース、[[乳酸菌飲料]]、[[ソーダ]]、[[トニックウォーター]]、[[コアントロー]]等、様々なカシスベースのアルコール入りのレシピが一般的であり、通常オーダーするとカシスベースのものが出てくる。このタイプのものは[[京都]]が発祥の地である。(シャーリー・テンプル自身は、自分の名前がかってに酒場で使われるようになったことに、違和感を感じていたようである<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p13413を参照。</ref>。)


1930年代においては、米英で女児にシャーリーと名前を付けるのが流行した。アメリカ女優の[[シャーリー・マクレーン]]のシャーリーは、シャーリー・テンプルからつけたものであると自身が語っている<ref>アメリカ映画協会(AFI)編によるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』</ref>。男性なのに、シャーリーと名づけられてしまった気の毒な例もある。
'''[[シャーリーテンプル (ブランド)]]'''は彼女の名前にちなんだ日本の子供服のブランドである<ref>シャーリーテンプル(ブランド)のホームページを参照。以下は同ホームページからの引用である。「シャーリーテンプル創業の1974年はオイルショックの時期で先の見通しがつかない不況の時代でした。 その際「せめて子供服くらいは、明るく夢のあるものに」と願った初代デザイナーにより1930年代大不況だったアメリカで スクリーンから人々に夢と希望を振りまいた子役の「シャーリー・テンプル」ちゃんにあやかってつけられました。以来、「テンプルちゃん」のような夢を洋服で表現し続けているのです」(シャーリー・テンプル本人の了承をとったかどうかは不明)</ref>。


また、植物のスィートピーには、彼女の名をつけた品種がある。
日本の菓子メーカー[[不二家]]が、かって発売していた「フランス・キャラメル」は彼女のブロマイドの顔を参考にした絵を使っていた<ref>サイト まぼろし食料品店第13回「日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち」の巻 。(シャーリー・テンプル本人の了承をとったかどうかは不明)</ref>。また、[[メンソレータム]]のキャラクターであるリトルナース(ナースちゃん)の絵も彼女が赤十字活動に助賛して出演した赤十字の短編映画のスチール写真を参考にした絵を使っていた<ref>ウィキペディアのメンソレータムの項目を参照(シャーリー・テンプル本人の了承をとったかどうかは不明)</ref>。


アメリカの小説家[[ジェイムズ・サーバー]]には、ほうれん草が嫌いなのにどこに行ってもシャーリー・テンプルのヒット曲「ほうれん草を食べなさい」がかかっているのでヒスを起こす中年男を主人公にした短編小説がある。
1936年に彼女は、日本語で歌を吹き込み、ポリドールレコードより日本限定で発売された。「夕焼け小焼け」「靴が鳴る」「玩具のマーチ」「すずめの学校」の四曲である<ref>Rita Dubas,''Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star''(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.196-197.</ref>。


1949年に、ドイツの児童文学作家の[[エーリッヒ・ケストナー]]は、『[[ふたりのロッテ]]』の中で「シャーリー・テンプルは7歳か8歳のとき、自分の出た映画を映画館に見に行って幼いので入場を断られたことがあった」<ref>エーリッヒ・ケストナー、『ふたりのロッテ』岩波書店pp.73-74</ref>と書いているが、これは完全な間違いである。そういう事実は全く無かった。当時のアメリカでは、3歳以下の乳幼児の入場は断られたがそれ以外は年齢制限は一切無く、大人15セント子供8セントの入場料さえ払えば誰もが映画館に入れた。シャーリー・テンプルが出た映画が最初に劇場公開されたのは彼女が4歳5ヶ月の時であり、当然入場できた。ちなみに彼女は5歳の時に、最も初期に出演した短編映画の一つを母親と一緒に見に行って、フォックス・フィルム社にスカウトされている。(一部の日本の情報源には、エーリッヒ・ケストナーの文章を更に取り違えて、シャーリー・テンプルがPG13の指定の映画に出たから入場を断られたと書かれているが、これも完全な間違いである。PG13等の年齢制限が出来たのは、アメリカではベトナム戦争の時期からである)
戦前戦後の日本の少女向き大衆文化にも大きな影響を残した。松本かつぢや[[蔦谷喜一]]には、シャーリー・テンプルの映画のスチール写真やブロマイドの顔を参考にしていると考えられる絵が多数存在する<ref>東京都荒川区のぬりえ美術館のホーム・ページ</ref>。


シャーリー・テンプルは、毎年1月1日に全米に中継される国民的行事である[[ローズ・パレード]]([[:en:Tournament of Roses Parade|Tournament of Roses Parade]])のグランド・マーシャル(儀式長、[[:en:Grand Marshal|Grand Marshal]])に3回選ばれている。すべて節目の年で、50回目の[[1939年]]と100回目の[[1989年]]と110回目の[[1999年]]である。他に複数回ローズ・パレードのグランド・マーシャルになった人物としては、[[アイゼンハワー]]大統領、リチャード・ニクソン大統領等がいる<ref>アメリカのローズ・パレードのウィキペディアの記事を参照</ref>。
アメリカ女優の[[シャーリー・マクレーン]]のシャーリーは、シャーリー・テンプルからつけたものであると、シャーリー・マクレーンは言っている<ref>アメリカ映画協会によるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』を参照。</ref>。ちなみに、中華人民共和国が、シャーリー・テンプルに宛てた外交上の招待状が、間違ってシャーリー・マクレーンに届いたことがあった<ref>Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.95.</ref>。シャーリー・テンプルは[[1977年]]に中華人民共和国の招きで同国を公式訪問している<ref>Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.130.</ref>。


ザ・[[ビートルズ]]の[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)]]のジャケットに回出てくるのは、ザ・ビートルズのメンバー以外ではシャーリー・テンプルだけである<ref>『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのアルバム』のジャケットを参照</ref>。
ザ・[[ビートルズ]]の[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)]]のジャケットに2回出てくるのは、ザ・ビートルズのメンバー以外ではシャーリー・テンプルだけである<ref>『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのアルバム』のジャケットを参照</ref>。


[[アニメ映画]]『[[シュレック3]]』では、登場人物のクッキーマンがシャーリー・テンプルの『輝く瞳』の「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を歌っている<ref>『『シュレック3』のDVDを参照</ref>。
[[アニメ映画]]『[[シュレック3]]』では、登場人物のクッキーマンがシャーリー・テンプルの『輝く瞳』の「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を歌っている<ref>『『シュレック3』のDVDを参照</ref>。
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過激でどぎついギャグで有名なTVアニメ『[[ザ・シンプソンズ]]』のあるエピソードでは、父親のホーマーが[[キングコング]]に変身して街を破壊してまわる。「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を劇場で歌っているシャーリー・テンプルに会い、その歌をしばらく聴く。歌で改心するかと思いきや、突然シャーリー・テンプルを食べてしまう<ref>第4シーズン第4エピソード「恐怖のツリーハウス3」(9F04)。</ref>。別のエピソードでは、シャーリー・テンプルのパロディであるタップダンス教師リトル・ヴィッキー・ヴァレンタインが出てきて、最後には「オン・ザ・スペースシップ・ロリポップ」という替え歌を歌う<ref>第11シーズン第20回エピソード「スプリングフィールド最後のタップダンス」(BABF15)</ref>。
過激でどぎついギャグで有名なTVアニメ『[[ザ・シンプソンズ]]』のあるエピソードでは、父親のホーマーが[[キングコング]]に変身して街を破壊してまわる。「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を劇場で歌っているシャーリー・テンプルに会い、その歌をしばらく聴く。歌で改心するかと思いきや、突然シャーリー・テンプルを食べてしまう<ref>第4シーズン第4エピソード「恐怖のツリーハウス3」(9F04)。</ref>。別のエピソードでは、シャーリー・テンプルのパロディであるタップダンス教師リトル・ヴィッキー・ヴァレンタインが出てきて、最後には「オン・ザ・スペースシップ・ロリポップ」という替え歌を歌う<ref>第11シーズン第20回エピソード「スプリングフィールド最後のタップダンス」(BABF15)</ref>。


シャーリー・テンプルの演技と歌と踊りが余りも子供離れした素晴しいものであたため1937年ヨーッパではシャーリープル30歳で7歳の子供がいるといデマ流れ大衆向きタブロイド紙記事にした。作家[[グレアム・グリーン]]はそのデを信じ、雑誌『ナイト・アド・デイ』に皮肉たっぷり記事を書き、20世紀ォックスから訴えられたの一件で、彼の映画評論家としてのキャリア終わり以後、小説家として成功していくことにる<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.305-309を参照</ref>。
シャーリー・テンプルは1934年に、アメリカ映画界大スター達の例らっハリウッド[[グーマンズ・チイニシアター]]の前のセメトに手形と足型を残した。足型史上初の裸足の足型であった。それ、彼女が当時6歳でちょど前歯生え変わる時期だった、多数新聞記者とカメラマンと山ようなァンに囲まれたで、折悪く乳前歯がポロリと抜けしまったためであった。歯が抜けたところを写真に撮られるを避けるため、彼女機転口を閉じたままにっこりして、視線カメラが足元集中すように靴を脱いで、裸足で足型を残したのであった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.127-129を参照</ref>。


ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムに、ヴァイン通り1500番地の星に映画部門「Shirley Temple」として名前が刻まれている<ref>アメリカのハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムのウィキペディアの記事を参照</ref>。
ドイツの児童文学作家のエーリッヒ・ケストナーは、「シャーリー・テンプルは自分の出た映画を映画館に見に行って幼いので入場を断られたことがあった」と書いているが、これは完全な間違いである。そういう事実は全く無かった。当時のアメリカでは、乳児の入場は断られたが、後は年齢制限は一切無く、15セントの入場料さえ払えば誰もが映画館に入れた。年齢制限が出来たのは、アメリカではベトナム戦争の時期からである。シャーリー・テンプルは5歳の時に、最も初期に出演した短編映画を母親と一緒に見に行って、フォックス映画社にスカウトされている。


20世紀フォックスがシャーリー・テンプルの映画のおかげで破産を免れた後、20世紀フォックスの本部のビルが建設された。ビルの入り口には金箔を貼った少女時代のシャーリー・テンプルの小さな銅像が置かれ、その前を通る社員は、重役であれ誰であれ、その少女の像の前で立ち止まり、会社を救ってくれた恩人に頭を下げる慣わしになっていた。その後、老朽化によりビルは取り壊されてしまったが、スタジオの庭に、より大きな二代目の彼女の[[銅像]]が建てられ現在に至っている。また、20世紀フォックスの託児センターは、'''シャーリー・テンプル託児センター'''という名である<ref>John Bankston, ''Shirley Temple''(Mitchell Lane Publishers,2004),p.30.</ref>。
シャーリー・テンプルは1934年に、アメリカ映画界の大スター達の例にならって、ハリウッドの[[グローマンズ・チャイニーズ・シアター]]の前のセメントに手形と足型を残した。足型は史上初の裸足の足型であった。それは、彼女が当時6歳でちょうど乳歯が生え変わる時期だったのだが、多数の新聞記者とカメラマンと山のようなファンに囲まれたところで、折悪しく前歯の乳歯がポロリと抜けてしまったためであった。歯が抜けたところを写真に撮られるのを避けるため、彼女は機転を利かせ、口を閉じたままにっこりして、視線とカメラが足元に集中するように靴を脱いで、裸足で足型を残したのであった<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.127-129を参照</ref>。


== グレアム・グリーン事件について ==
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにも、ヴァイン通り1500番地の星に映画部門「Shirley Temple」として名前が刻まれている<ref>アメリカのハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムのウィキペディアの記事を参照</ref>。
1930年代のヨーロッパでは、シャーリー・テンプルについて大衆向きのタブロイド紙が様々な珍妙な記事を書いた。イギリスのタブロイド紙の記事の中には、彼女は実は30歳で7歳の子供がいるというものがあった。フランスのタブロイド紙の記事の中には、つるっぱげでカツラをかぶっているというものがあった。また、母親が凄いステージ・ママで、彼女はノイローゼになっているというものもあった。当然、現在、それらの記事をまともに受け取る人は一人もいない。


1937年にイギリスの高名な作家の[[グレアム・グリーン]]は、その編集する雑誌『ナイト・アンド・デイ』に、家族向きの映画『テンプルの軍使』について、9歳のシャーリー・テンプルに中年の男性の観客たちは欲情を感じているという趣旨の批評を書く。結果、イギリス世論の怒りと[[20世紀フォックス]]からの告訴を招く<ref>シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p.305-309を参照</ref>。グレアム・グリーンは敗訴し『ナイト・アンド・デイ』は廃刊になる(しかし廃刊は資金繰りの失敗によるもので、敗訴三か月前のことであり、実は関連が薄い<ref>富士川義之『きまぐれな読書 現代イギリス文学の魅力』(みすず書房・2003年)p.173,4を参照</ref>)。これが元で彼は映画評論家としての仕事を絞り、以後は小説家に活動を集中させていく。
シャーリー・テンプルは、毎年全米に中継される国民的行事であるローズ・パレード([[:en:Tournament of Roses Parade]])のグランド・マーシャル(儀式長、[[:en:Grand Marshal]])に3回選ばれている。すべて節目の年で、50回目の[[1939年]]と100回目の[[1989年]]と110回目の[[1999年]]である。他に複数回ローズ・パレードのグランド・マーシャルになった人物としては、[[アイゼンハワー]]大統領、リチャード・ニクソン大統領等がいる<ref>アメリカのローズ・パレードのウィキペディアの記事を参照</ref>。


『テンプルの軍使』は主に子供たちを対象にした健全な「家族向き」の映画であり、またシャーリー・テンプルはアメリカでもっとも品の良い少女スターであったので、この批評は非常に奇異なものとして受けとめられた。1930年代の欧米では一般に、子役だったシャーリー・テンプルは実は30歳で7歳の子供がいるという上記のタブロイドの記事を彼が信じて、勇み足をしてしまったものと理解されていた。(後に1980年代に、イギリス人の女性作家のマリアンヌ・シンクレアは著書『ハリウッド・ロリータ』の中で、グレアム・グリーンを弁護しながら、観客の男性の深層心理に「アンビバレンツな感情があったのではないか」となかなか穿った見方を述べている。マリアンヌ・シンクレアの本は、性革命の余波が残っていた約20年前に書かれており、いささか内容が古くなっていることは否定できない)
20世紀フォックスのスタジオには彼女の[[銅像]]が建っている。また、20世紀フォックスの託児センターは、'''シャーリー・テンプル託児センター'''という名である<ref>John Bankston, ''Shirley Temple''(Mitchell Lane Publishers,2004),p.30.</ref>。

その後グレアム・グリーンの晩年の1990年に、彼が[[ロリコン]]であることが明るみに出て様相が一変する。グリーンの伝記作家マイクル・シェリダンによれば、彼のロリコン趣味を疑わせるものはすでに幾つかあった。彼はシャーリー・テンプルの家族向きの映画『テンプルの燈台守』に関しては、ぴっちりしたズボンをはいていると8歳のシャーリー・テンプルはセクシーだと書いている。また『オズの魔法使』のジュディ・ガーランドの足は「心地よい」とも書いている。彼は小説『権力と栄光』の中に、官能的な7歳の少女を登場させている。また、[[ウラジミール・ナボコフ]]の『[[ロリータ]]』の擁護者としても知られていた。決定的だったのは、彼の死の少し前、高名な歴史家レイモンド・カーによる記事が雑誌『スペクテーター』に載り、グレアム・グリーンがハイチに出かけていってはロリコン買春をしていたという暴露をされたことであった。また別に、歓楽地の[[ブライトン]]で幼い少女を求めていたという小説家フランシス・キングの証言もあった。(グレアム・グリーンは訴えられた後に犯罪者引渡し条約がイギリスとの間に結ばれていなかったメキシコに逃亡している。民事訴訟への反応としては過剰な反応であるが、ロリコン買春が発覚して刑事事件になるのを恐れてのことだったと考えれば納得できる。)現在、この批評は、著者のロリコン趣味を表したものだと考えられており、グリーンの伝記作家マイクル・シェリダンは、グリーンの『テンプルの軍使』評は、童女の「臀部」に思いをめぐらした「奇妙きてれつな」ものだと述べている<ref>マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349 ただし、グレアム・グリーンの指摘が一般的に正しかったかどうかということと、本人がどういう人間であったかということとは全く別の問題であるという反論も可能である。詳しくは[[人身攻撃]]の項を参照。</ref>。


== 主な出演作品 ==
== 主な出演作品 ==
詳細については、「[[シャーリー・テンプルの出演作品]]」を参照のこと。
{{main|シャーリー・テンプルの出演作品}}


== 注 ==
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
'''翻訳'''
'''翻訳'''
* シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下 平凡社 1992年
* シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下平凡社1992年(ISBN 978-4-582-37321-9, ISBN 978-4-582-37320-2)


'''原書'''
'''原書'''
229行目: 433行目:
* Haskins,James. ''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''. Penguin Books,1988.
* Haskins,James. ''Shirley Temple Black: Actress to Ambassador''. Penguin Books,1988.
* Temple, Shirley. ''My Young Life''. Garden City Publishing Co.,1945.
* Temple, Shirley. ''My Young Life''. Garden City Publishing Co.,1945.
* Temple, Gertrude. ''How I Raised Shirley Temple: By her Mother''. Saalfield Publishing Co.,1935.(2007に復刻版が出ている
* Temple, Gertrude. ''How I Raised Shirley Temple: By her Mother''. Saalfield Publishing Co.,1935.(2007に復刻版が出ている)
* Windeler, Robert. ''The Films of Shirley Temple''. Citadel Press,1978.
* Windeler, Robert. ''The Films of Shirley Temple''. Citadel Press,1978.


'''ビデオ'''
'''ビデオ'''
* ''Biography: Shirley Temple''(A&E Biography)
* ''Biography: Shirley Temple''(A&E Biography)
* 『アメリカ映画ベスト100 俳優編』(アメリカ映画協会(AFI)編・なおこれを発表したセレモニーの場合も、このビデオの場合も総合司会をシャーリー・テンプルがしている
* 『アメリカ映画ベスト100 俳優編』(アメリカ映画協会(AFI)編・なおこれを発表したセレモニーの場合も、このビデオの場合も総合司会をシャーリー・テンプルがしている)


'''ウェブサイト'''
'''ウェブサイト'''
* [http://www.shirleytemple.com/ Official Shirley Temple Web Site]
* [http://www.shirleytemple.com/ Official Shirley Temple Web Site]
* [http://www.shirleytemplefans.com/main.htm Shirley Temple Fans]
* [http://www.shirleytemplefans.com/main.htm Shirley Temple Fans]
* Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple
* NASAのNASA Quest のShirley Temple Black


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2014年7月7日 (月) 19:20時点における版

Shirley Temple
シャーリー・テンプル
シャーリー・テンプル
1944年
本名 シャーリー・ジェーン・テンプル
別名義 Shirley Jane Temple
生年月日 (1928-04-23) 1928年4月23日
没年月日 (2014-02-10) 2014年2月10日(85歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 カリフォルニア州
国籍 アメリカ合衆国
職業 女優外交官
ジャンル 子役司会など
活動内容 映画、テレビ、著作
配偶者 ジョン・エイガー(1945-1950)
チャールズ・ブラック(1950-2005)
著名な家族 リンダ・スーザン(娘)
チャールズ(息子)
ロリー(娘)
公式サイト Official Shirley Temple Web Site
主な作品
ハイジ
輝く瞳
テンプルちゃんお芽出度う
テンプルの福の神
 
受賞
アカデミー賞
アカデミー賞特別賞(1935年)
その他の賞
全米映画俳優組合賞生涯功労賞
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シャーリー・ジェーン・テンプルShirley Jane Temple、結婚後はシャーリー・テンプル・ブラックShirley Temple Black1928年4月23日 - 2014年2月10日)は、アメリカ合衆国ハリウッド女優および外交官で、子役女優であった。なお、外交官としての業績により大使の称号を一生名乗ることを特に認められていたので、より正確にはシャーリー・テンプル・ブラック大使(Ambassador Shirley Temple Black)が正しい呼称である。

1930年代の子役時代においては、当時のすべての映画スターの中で最も格が高いスターで、アメリカの象徴的存在であった。1930年代に彼女がフォックス・フィルム社の子役スターとして登場した時、大プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは、「シャーリー・テンプルの人生が続く限り、そのすべての年において、彼女は素晴らしいだろう」と語ったと伝えられる。その言葉どおりシャーリー・テンプルはいくつもの分野で顕著な業績を挙げ、6歳の時から85歳で亡くなるまでアメリカの名士であり続けた。彼女は2014年2月10日、カリフォルニア州サンフランシスコ市郊外のウッドサイドの邸宅で死去した[1]

概説

彼女は自分の人生には3つの時期があったと述べている。女優の時期と、子育ての時期と、外交官の時期である。アメリカ映画女優として1930年代から1940年代に活躍。映画女優としては、特に1930年代の子役時代の活動が名高い。6歳にしてハリウッドの伝説的なスターであり、世界的に非常に高い知名度があり、しばしばコカコーラニューヨークにある自由の女神と比較された。その後、ティーン・アイドル・スターとなった。1950年に幸福な結婚をした後に映画界を引退し、1950年代と1960年代前半は3人の子供の子育てに専念すると共に、アメリカのテレビに出演した。1960年代後半から1990年代後半の時期は外交官や数社の大企業の重役を務めた。

シャーリーは約60年前に映画から引退しているが、アメリカでは現在にいたるまで、子役の人気投票をすると、現役の子役たちを差し置いて必ず1位か2位になる存在である。オードリー・ヘプバーンと同様に過去のスターでありながら、アメリカでは一種の「現在のスター」であり続けていると言っていい。

シャーリーはアメリカでは勤勉さと真面目さと温かさと優雅さと品行方正で知られており、伝説的な映画女優としてまた著名な外交官として高い尊敬を受けている。

経歴

家族

子役時代のシャーリー・テンプル(右)とエレノア・ルーズヴェルト(1938年)。写真はエレノアにシャーリーが贈ったサイン入りのブロマイドであり、本物は現在ルーズヴェルト大統領記念館に展示されている。

テンプル家はイギリス系にペンシルベニア・ダッチが混ざった家系であるが、ワスプとされる家系。ちなみに彼女から17代前の先祖にさかのぼると英国の詩人のジェフリー・チョーサーがいる。テンプル家は プロテスタントの清教徒の長老派で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒は、伝統的に実業を重んじ演劇や映画を軽視する傾向があるが、シャーリー・テンプルが少女スターになった時、テンプル一族の反応は複雑なものがあったと伝えられる。

父方の祖父は医師であった。父親ジョージは銀行員(後に実業家)で、彼女が生まれたときは大手銀行30社の一つであるカリフォルニア銀行(Union Bank of California)のサンタモニカ支店長であった[2]。(なお、淀川長治を含む一部の情報源では父親が銀行の頭取と述べているがこれは完全な誤り。銀行の幹部ではあっても頭取になったことはない)

母方の祖父はドイツ系で宝石・時計商であり、母親ガートルードは専業主婦であった。

彼女の2人の兄はそれぞれスタンフォード大学陸軍士官学校を卒業後、FBIの幹部と海兵隊の士官になった。

生い立ち

1928年にカリフォルニア州サンタモニカの上品な住宅街で生まれた[3]。生前、この州で人生の大部分を過ごしており、清教徒の勤勉さや真面目さと並んで、カリフォルニア州的な明るさと積極性が彼女の特徴である[4]

母親は胎教として、妊娠中に音楽や美しい絵、綺麗な風景に接するようにつとめた。生まれてきた彼女は赤ん坊の時から、ダンスと音楽に強い関心を示した。この「シャーリー・テンプルの胎教」の話は、アメリカではよく知られたエピソードである[5]。家庭は円満で、両親に愛情を注がれて育つ。良質の食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって、3歳までほとんど病気をせずに育った。2人の兄は既に十代であり、育児の手がかからなかったため、母親は彼女と毎日一緒に歌ったり踊ったりして過ごしていた[6]

目の色は茶色であった。髪の毛は、生まれてから7歳ぐらいまでは金髪だったのだが、8歳ぐらいから赤みを帯び、やがて赤毛に近くなり、10歳ぐらいからは茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい色になった。

1931年3歳の頃、ダンスと音楽に強い関心を示した彼女を、母親はメグリン・ダンス学校(Meglin's Dance School)に入学させる[7]

少女スター誕生

1932年から1933年にかけてユニバーサル映画社の下請けだったエデュケーショナル社(Educational Pictures)が製作した、幼児だけを登場させた短編劇映画シリーズ「ベビー・バーレスク」(Baby Burlesks)や「フロリックス・オブ・ユース」等の主役を十本以上続けてつとめる。

1933年に、フォックス・フィルム社(20世紀フォックス社の前身)に見出されて7年契約を結び『歓呼の嵐』に出演。準主役だったが高い評価をうける。次にパラマウント映画社に貸し出されて、『可愛いマーカちゃん』に主演。一夜にしてアメリカを熱狂させる。さらに『ベビイお目見得』に主演、この映画を見たフランクリン・ルーズベルト大統領は、定期的に行っていたラジオ演説「炉辺談話」で全国民に向けて「大不況のさなか、アメリカ国民が映画でシャーリー・テンプルの笑顔を見て苦労を忘れることが出来るのは素晴らしいことだ」と語る[8]。6歳にしてフォックス・フィルム社の看板女優になったばかりではなく、映画会社の予測を遥かに超え、たちまちのうちにアメリカ映画で最も人気のあるスターになる。彼女の映画の成功が、大恐慌下のメジャースタジオのフォックス・フィルム社の倒産を救った[9]。続く『輝く瞳』と1935年の『小連隊長』も熱狂的な支持を受ける[10]

彼女は、真面目さや勤勉さが特徴であった。映画の出演が決まると常に、撮影が始まるまでに、台本に載っているすべての登場人物の台詞を必ず暗記していたが、[11]台本には書き込みやマーク等は一切しなかった。それでも決してNGを出さず、一回の撮影で監督を満足させる演技ができることから、「一回撮りのシャーリー(One-take Shirley)」と言われていた[12]。撮影のときは、決して遅刻をせず、必ず予定より少し早めにセットに入っていた。大人になってからも、どんな時も常に時間に正確であることは終生変わらなかった[13]

アメリカの国の機関であるケネディ・センターは次のように述べている。「最初からシャーリー・テンプルには、映画のカメラに愛される物があった。輝く瞳と、巻き毛と、魔法のような存在感と、溢れる魅力―そして驚くべき才能である」[14]1930年代当時、大人のプロのダンサーでも難しいステップを楽々と踊れ、正確な音程とリズムで難しい曲が歌え、気難しい批評家も唸らせるような絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る5〜6歳の子役は彼女の他には一人もいなかったと言える。そして、2013年現在に至るまで、幼稚園児の年齢で踊りと歌と演技を彼女のようにこなせる子役の名前を挙げるのは難しいであろう。

そしてケネディ・センターが「溢れる魅力」と述べているように、彼女は生まれつき、人々を惹きつけ相手の心を明るくしてしまう強い魅力を持っていた。彼女はどんな時でも快活さを失わず、決して不機嫌になったり意地悪だったりグズったりしたことがなかった。映画監督のデイヴィッド・バトラーは「彼女と話をしたことのある者は、みんな彼女の人柄に感動していた」と語っているし、フランクリン・ルーズベルト大統領は、定期的に行っていたラジオ演説「炉辺談話」で全国民に向けて彼女の「人々に影響を与える明るさ(infectious optimism)」[15]を賞賛している。

1930年代に、世界最高のタップ・ダンサーと言われた俳優のビル・ボージャングル・ロビンソンは、「神様はシャーリーを、後に続くものはいない、唯一無二の存在として創った。シャーリーの後、二度とシャーリーのような存在は現れないであろう」と語っている。

少女スターとしての成功

『可愛いマーカちゃん』に出演した時点で、ある出来事が起きた。彼女は両親とホテルに滞在していた時、人品卑しからぬ男がやってきて自分は土地のカトリック教徒の代表だと名乗り、メダルが欲しくないかと5歳のシャーリーに尋ねた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていたので、欲しいと答えた。男はシャーリーを抱き上げ、後ろから両親とフォックス映画社の渉外部員が付いていった。なんとホテルの宴会室では、数千人の人々が出席している大きな大会が開催されている最中で、止める間もなく、男はシャーリーを壇上に上げ、メダルを授与してからスピーチを求めた。スターになるかならないかの時期で、誰もまだこんな時どうふるまえばいいか全く教えてなかったので、両親もフォックスの渉外部員も真っ青になり、どうなることかと固唾を飲んで見守った。するとシャーリーはとてもにこやかに、メダルのお礼を述べ、呼んでくれたことに感謝の言葉を述べ、大会が成功するように祈っていますと述べ、最後に、皆さんが大好きですと言って、投げキスをした。シャーリーは思ったままを述べたのであったが、出席者たちは感動し、長い大きな拍手が続いた。両親はホッとし、シャーリーが壇から降りた後でフォックスの渉外部員はシャーリーに「君に教えることは何もない。どんな時でも自分をそのまま出せばいいよ」と感に堪えたように言った。その後もシャーリーはどんな時でも自分をそのまま出すことで、感動を聴衆のアメリカ人たちに与え続け、2013年現在に至っている。

シャーリーへのファンレターは、『可愛いマーカちゃん』に出演した時点で週に4千通を超え当時のアメリカで最も多いファンレターを貰うスターとなった。その後すぐに週1万通以上になったためFOXはフルタイムで専属の秘書を10人雇った。また、彼女のサインを多くの人が欲しがった。クリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、デパートのアルバイトのサンタクロースが彼女のサインを欲しがったので、サンタクロースがいると信じるのを止めてしまったと、後に彼女は語っている。

1935年、彼女は、1934年の映画での業績に対して第4回のアカデミー賞特別賞を受賞している(それに先立つ3回の受賞者は、ウォルト・ディズニーチャーリー・チャップリントーキーを最初に使ったワーナー・ブラザーズである)。受賞当時、シャーリー・テンプルはまだ6歳であった。アカデミー賞のすべての分野において、この最年少の記録は2013年現在、破られていない[16]。当時のアカデミー賞の授賞式は夜遅くまであり、彼女の番になったのは午前1時半を過ぎてからであった。仕事の後で当然疲れて非常に眠かったはずであるが、非常ににこやかに受賞の挨拶をした。挨拶が終ってから小さな声で母親に、「ママ、もう帰っていいの?」とにっこり微笑んで尋ねた。ところがその声を集音マイクが拾ったので、アカデミー賞の会場に大きな声で流れてしまい、出席者全員が爆笑し、疲労や眠気を全く表に出さないこの幼女の驚くべき頑張りに対して賞賛の大きな拍手が起きた。

映画界に入った後は、後年まで母親のガートルードはぴったり娘につきそい、「映画界の悪い影響」を受けないように保護した[17]。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だという意見で、撮影所内に彼女専用の家と、専用のおもちゃと、専用の家庭教師を用意した。そのような環境において明るく品行方正に育っていった[18]。フォックス・フィルム社は、彼女が他の子役や裏方と遊ぶのを禁止していた。法律上1日4時間しか撮影に使えなかったので、その間は仕事に専念させたいという理由だった。また、西部劇スターのウィル・ロジャーズが事故死した後では、フォックス・フィルム社の命運がシャーリー・テンプル一人の肩にかかっていたので、他の子役や裏方と遊んでいるうちに病気や怪我をすることを非常に恐れていた。彼女の成功をねたんだ他の子役の母親が、顔に硫酸をかけようとしたり、毒入りのキャンディを送りつけた事件が起きてからはなおさらであった。同時に、他の早熟な子役から悪い影響をうけて、品行方正な子供というイメージに傷がつくのを恐れていた。撮影所で、4時間撮影の仕事をし、3時間勉強し、昼休みに1時間をかけた。昼休みに名士たちの訪問がある場合もしばしばだった。毎日4-5時ごろ帰宅し、いつも夕食まで近所の普通の子供たちと遊んでいた。彼女と最も親しかったのはナンシー・メジャーズであった。夕食後は普通の子供がやるように遊んだり、ラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりしていた。寝る前に次の日の撮影の準備をした。保護策をとらなかったMGMでは子役スターたち(ジュディ・ガーランドミッキー・ルーニーエリザベス・テイラー等)が非常に早い時期にセックスと酒を覚えてしまい、大人になってからも精神的に不安定で結婚と離婚を何度も繰り返すようになったことを考えると、フォックスの処置は賢明だったと言える。ちなみに、フォックス映画社のもう一人の少女スターで、1930年代に悪ガキの役を演じ続け、シャーリーとは『輝く瞳』で共演したジェイン・ウィザースも精神的に安定した人生を送っている。

1935年にフォックス・フィルム社は、20世紀映画会社と合併して、20世紀フォックス となった。合併祝賀パーティの席上、あるシナリオライターが6歳のシャーリーを抱いて、高い高いをしたところ、パーティの全員が、シャーリーが怪我をするのではないかと、恐怖で凍りついた顔になった。シナリオライターは、今自分が両手で高く差し上げているのは、20世紀フォックスの全財産にも等しい子どもなのだと気づいて、恐ろしさにくらくらして、思わずシャーリーを落としそうになったというエピソードが残っている。

大スターになったシャーリーには、stand-in(スタンドイン)が付いていた。彼女付きのスタンドインの中では、マリリン・グラナス(Marilyn Granas)やメリー・ルー・イズライブ(Mary Lou Isleib)等が知られている。『ベビイお目見得』(Baby Take a Bow)や『輝く瞳』等で、初期のスタンドインを務めた1歳年上のマリリンとは、ベビー・バーレスク作品のThe Kid's Last FightKid in Hollywood等で出演者として競演している。マリリンは後にキャスティング・ディレクターになった。また、マリリンの後にスタンドインを務めたメリー・ルーは、撮影所で他の子役達と殆ど接触が無かったシャーリーにとって唯のスタンドインでは無く学友であり親友だった。

以後12歳までは学校に通わず、20世紀フォックスのスタジオ内で、専用の家庭教師について学んだ。6歳のとき知能検査で10歳の知能があると評価された。この頃のシャーリーのIQは155以上あった。知能検査ではこれは「天才」の範疇に分類される。家庭教師とは、数学年上の授業内容を学んでいた[19]

彼女以後の子役の少女は、マーガレット・オブライエンナタリー・ウッドテータム・オニールのようにどこかに影のある「大人のような子ども」であったり、ブルック・シールズジョディ・フォスターのように妖艶さを売り物にしたりするようになっていく。しかしシャーリー・テンプルは、どこまでも純粋で無邪気で明るい、子どもらしい子どもを演じた20世紀のアメリカ映画で唯一の大物の少女スターであった[20]

ハリウッドの頂点へ

契約以後、20世紀フォックスにシャーリーがもたらした収益は1930年代当時の金額で3000万ドル以上と言われている。(1930年代当時は極端なデフレでドルの価値が現在と全く異なっている。現在のドルに換算するには、年によって異なるが大体30~50を掛けてみることをお勧めする。) 1930年代、彼女はアメリカ映画の最大のスターであり、1935年1936年1937年1938年と、アメリカのマネーメイキング・スター1位になるという歴史的な記録を打ち立てた。4回マネーメイキング・スター1位という記録は男優ではその後1940年代にビング・クロスビーが史上最高の5回を獲得することによって破られるが、2009年にいたるまで女優で彼女の記録を破るものはまだ現れていない。また他のスターたちは一生俳優を続けてその生涯の総決算としてマネーメイキング・スター1位を手に入れているので、10歳になるまでに易々と4回なり、後は別の分野で顕著な業績をあげたシャーリーのケースは非常に際立っていると言えよう[21]。(なお、20世紀フォックスを含む日本の一部の情報源ではシャーリー・テンプルの映画1作品あたりの出演料が100万ドルだったと述べてあるがそれは完全な間違いである。女優の映画1作品あたりの出演料が100万ドルになったのは1960年代の、エリザベス・テイラーの『クレオパトラ』(20世紀フォックス)やオードリー・ヘプバーンの『マイ・フェア・レディ』からである。1930年代ではシャーリー・テンプルが出演料の最高であったが、10万ドルであった。)

この時期の、代表的な映画作品としては上述の『可愛いマーカちゃん』、『輝く瞳』、『小連隊長』の後、ファンの多い作品である『テンプルちゃんお芽出度う』(原作は『あしながおじさん』)、『テンプルの愛国者』、『テンプルの灯台守』、『テンプルの福の神』、『テンプルのえくぼ』、『テンプルの上海脱出』、『テンプルの軍使』、『ハイジ』、『農園の寵児』、『天晴れテンプル』、『テンプルちゃんの小公女』等が挙げられる[22]。このうち、『テンプルの福の神』と『農園の寵児』は、公的機関であるアメリカ映画協会(AFI)によって「ミュージカル傑作180選」の中に選ばれている[23]。また『輝く瞳』は、正確に言えば準ミュージカルであるが、イギリスのテレビ局「チャンネル4」によって、「傑作ミュージカル100選(Channel 4's list of 100 Greatest Musicals」)の97位(96位は『コットン・クラブ』、98位は『ミス・サイゴン』)に選ばれている。

当時、彼女はゲーリー・クーパースペンサー・トレーシーキャロル・ロンバードジャネット・ゲイナー、フランク・モーガン、ライオネル・バリモア、アリス・フェイ、ランドルフ・スコット等の当時の最高のスターたちと共演している[24]。また、当時世界最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ボージャングル・ロビンソン(Bill Robinson)との共演は特筆すべきである。シャーリー・テンプルとビル・ロビンソンは、アメリカの歴史上初めての黒人と白人のダンス・ペアであった。彼女は、共演した相手の中で、ビル・ロビンソンが最も好きだったと言っている[25]

有名なヒューモリストのアービン・コッブはシャーリーのことを「(子供たちへの)サンタクロースの最大の贈り物」と呼んだが、彼女は世界中の少女から熱狂的な支持があった。当時、アイデアル社(Ideal Toy Company)から発売されたシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示した。また、シャーリー・テンプルの女児服、アクセサリーも爆発的な売れ行きを見せた。アメリカ・ヨーロッパ・日本だけでなく、文字通り世界中の少女たちがシャーリー・テンプル人形や服やアクセサリーを欲しがっていたのである。

この間、何度か誘拐事件がらみの脅迫をうけたり、気のおかしい女性から射殺されそうになったこともあったが、間一髪で免れた。

1937年にニューヨーク・タイムズはシャーリーを「アメリカ国民の天使」に選出している。

同年に『テンプルの軍使』でジョン・フォード監督のもとで主演をつとめた時は、危険なスタントも自分でやり、殴られる場面では、本当に激しく殴らせて、痛みをこらえてけろりとした表情をしていた。ジョン・フォードは、彼女のガッツに舌を巻き、彼女を高く評価し続けた。ジョン・フォードは彼女のことを「一回撮りのテンプル(One-take Temple)」と呼んでいた。後に、ジョン・フォードは、彼女の長女の名付け親にもなっている[26]。『テンプルの軍使』について、大小説家のグレアム・グリーンは、9歳のシャーリー・テンプルに中年の男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書き、イギリス世論の怒りと20世紀フォックスからの告訴を招いた。(この件に関しては後述の「グレアム・グリーン事件」を参照のこと)

1939年の『オズの魔法使』のドロシーの役も彼女が演じる予定であった。非公式にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーがカメラテストをして、衣装をつけて主題歌を歌わせてみたところ素晴らしい出来だった。それで同社の社長のルイス・メイヤーはシャーリー以外にこの役を演じられる者はないと考えた。しかし、20世紀フォックスとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの話し合いがつかず、結局ジュディ・ガーランドに役が回った。(1937年に20世紀フォックスのシャーリー・テンプル一人と、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのクラーク・ゲーブルジーン・ハーロウの2人を交換する形で、それぞれ貸し出すことに一旦話が決まっていたのだが、ハーロウが急死してしまった。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーには、ハーロウの代わりに出せるような大スターが他にいなかったので、この話は流れてしまった[27]

彼女は、もはやただの少女スターではなく「アメリカの無垢(アメリカン・イノセンス)」の象徴となっていた。

アメリカの象徴

1930年代に、アメリカの名士や、外国からアメリカを訪問した名士は、頻繁に彼女と顔を合わせた。フランクリン・ルーズヴェルト大統領とも、社会運動家の大統領夫人エレノア・ルーズヴェルトとも、FBI長官のジョン・エドガー・フーバーとも親交を結んでいた[28]。ルーズヴェルト大統領の誕生日の式典において、ルーズヴェルト大統領の膝に乗って「ハッピ・バースデイ・トゥ・ユー」を歌った。

雑誌やニュース映画では、毎月彼女のことが大きく取り上げられた[29]。旅先のボストンのホテルで熱を出して寝込んだときは、新聞は全段ぬきの一面トップの大見出しで報じ、ニュース速報を次々に出し、彼女の泊まっているホテルの周りには彼女を案じる1万人以上もの大群衆が集まった[30]。また、1935年の12月に、シャーリーが家族とハワイにバカンスに訪れた時は、彼女を一目観ようと10万人以上の人々が、彼女の乗った船が着く港や、行く先々に押し寄せ、シャーリーがハワイに着く予定日は、ハワイの公立学校が臨時休校になった。彼女の言葉は頻繁に新聞の見出しになった。(例えば「喫煙は悪い習慣だとシャーリー・テンプルは語る」とか「ムッソリーニは侵略したエチオピアから出て行くように誰かが命じるべきだとシャーリー・テンプルは語る」など[31]

明るく健気で楽天的で清潔な彼女のイメージは、アメリカ合衆国の誇りとなり、また大恐慌に立ち向かうアメリカ国民の心の支えとなる象徴的存在であった[32]。ちなみに作家のアン・エドワーズは、ほぼ同世代の英国のエリザベス王女(現エリザベス2世 (イギリス女王))とシャーリー・テンプルを対比させながら、シャーリー・テンプルは一種の「アメリカの姫君」として「畏敬と尊敬をもって」扱われたとその著書『シャーリー・テンプル―アメリカの王女』で述べている[33]。実際、アメリカに「王女」に近い存在がもしいるとすれば、それはシャーリーであると、1930年代以来言われていた。シャーリーが初めて『ライフ』誌の表紙を飾った1938年7月の号で既に「彼女は王女さながらの独自の地位を自然な形で受け入れている」という記述がある。

ルーズヴェルト大統領は、「アメリカにシャーリー・テンプルがいるかぎり、われわれアメリカ人は安泰だ"as long as our country has Shirley Temple, we will be all right"」と全国民に向けてのラジオ演説「炉辺談話」の中で語っている[34]

少女スター時代の映画について

ケネディ・センターは「子供のとき、彼女は歌とダンスでアメリカ的精神を体現し、アメリカ人に計り知れないほどの喜びと希望を与えた」と述べている[35]。少女スター時代に彼女の出た映画は家族向きの作品で、『足長おじさん』とか『小公女』とか『少女レベッカ』とかいった当時の少女小説の映画化が多い。彼女の演じるヒロインはたいてい、当時の児童文学のパターン通り明るく健気な孤児の少女という設定になっている。同時に多くの作品が、ディズニーの長編アニメと同様にミュージカル仕立てになっている。これは当時の英米の児童劇の伝統に則ったものである。

ミュージカル・ナンバーは彼女の映画の呼び物の一つで、彼女は非常に優れたダンサーであった。特にタップダンサーとしてはフレッド・アステアエレノア・パウエルと並んで1930年代を代表する大スターの一人である。彼女のダンス・ナンバーとしては、『歓呼の嵐』『ベビイお目見得』でのジェームズ・ダンとの踊り、『テンプルちゃんお芽出度う』でのピアノの上でのソロの踊り、『小連隊長』『テンプルの愛国者』『農園の寵児』でのビル・ロビンソンとの踊り、『テンプルの灯台守』でのバディ・エブスンとの踊り、『テンプルの福の神』でのアリス・フェイとジャック・ヘイリーとの踊り、『テンプルの上海脱出』でのフレッド・アステア人形との踊り、『天晴れテンプル』でのジョージ・マーフィーとの踊りが有名である[36]。(ところで、20世紀フォックスから出ている日本版の『農園の寵児』のDVDのカバーには、「映画『ザッツ・エンターテイメント』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書いてあるが、これは完全な間違いである。『ザッツ・エンターテイメント』シリーズに収録されているのは、MGMのミュージカルだけであり、20世紀フォックスの映画が収録されることは無く、映画『ザッツ・ダンシング』の間違いである。かつ収録された作品は『農園の寵児』ではなく『テンプルの愛国者』である。故に『テンプルの愛国者』DVDのカバーに、「映画『ザッツ・ダンシング』にも収録されたテンプルちゃんの見事な歌と踊り」と書くのが正解である)

ソング・ナンバーとしては、『輝く瞳』で 歌ったOn the Good Ship Lollipop(On the Good Ship Lollipop)は特に有名である。この曲は大ヒットし、その後彼女のテーマソングになった[37]。彼女のソング・ナンバーにはヒット曲が多く、その中には『テンプルちゃんお芽出度う』で歌ったAnimal Crackers in My Soup(Animal Crackers in My Soup)、『テンプルの愛国者』で歌ったPolly Wolly Doodle、『テンプルの福の神』で歌ったOh, My Goodness、『テンプルの灯台守』で歌ったAt the Codfish Ball,『テンプルの上海脱出』で歌ったGoodnight, My Love(Goodnight My Love)、『農園の寵児』で歌ったAn Old Straw Hat等が含まれる。2009年現在においても彼女の歌は愛され、欧米ではCDの全集と選集がそれぞれ発行され続けている。アメリカの小学校の音楽の教科書にもこれらの歌は載っているし、幼稚園でも歌われている[38]

少女スター時代についてのシャーリー自身の意見

ほとんどの子役スターは、ハリウッドの子役時代に対して何らかの心の傷を抱えている。しかしシャーリーは、ハリウッドという危険な虎の穴に入って、その体験を楽しみ、けろりとして無傷で出てきたほとんど唯一の存在であった。彼女は次のように、自分を誇ることなく慎ましく語っている。「私は、最高の子供時代を過ごした。神話とか小説とかの素晴らしい物語を読んでもらう代わりに、私は実際に物語の中で生きることが出来たのだった。母は私が幼いとき、雑誌とか新聞の中の私についての記事が私の目に触れないようにしていた。後になって、もし読みたいなら読んでもいいことになったのだが、二三の記事を読んで、読むのは止めてしまった。確かに私についての記事なのだが、他の人が作り上げたシャーリー・テンプルについての考えなのであってたいていは理想化してあった。私はプリンセスではないし女神でもない。なりたいとも思わない。私は最高の人生を送ってきたし、幸運だった。私は映画で人々に喜びをもたらしたと思いたい。しかし、私にチャンスがまわってきたのは、運命つまりタイミングのいたずらだった」

ティーン・アイドル・スター

やがて、思春期になり、子役としては微妙な時期にさしかかる[39]。12歳から、アメリカ最難関の私立中高一貫校(プレップ・スクール)の一つであるウェストレイク女子校(Harvard-Westlake School)で学ぶ。ウェストレイク女子校は多くの優れた人材をアメリカに送り出していることで知られている。成績優秀だったため本来より一年上の学年に編入したので、卒業は18歳ではなく17歳の時である[40]。このときから、夏休みの期間だけを映画の撮影にあて、残りの時期は学業に専念するようになった。彼女が主演した映画『青い鳥』のプレミア試写会に出席して舞台挨拶と記者会見をするようにとの20世紀フォックスの要請を、ウェストレイク校の校長の許可が出なかったため断わり、20世紀フォックスを唖然とさせた[41]

1944年、第12代カナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングWilliam Lyon Mackenzie King)と(ティーン・アイドル・スター時代)。
1944年、カナダ首相キングと。

20世紀フォックスでの最後の2作品、『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字になった[42]。(MGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られた大作『青い鳥』は台本の象徴主義が時代を先取りしすぎて、当時の観客には理解できない部分があった。また、衣装や小道具がグリム童話風の雰囲気を出そうとドイツ風であったのだが、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した当時の状況では観客の不興を買った。彼女の台本部分も、彼女のイメージとは大きなズレがあった。ただし、彼女の回想録によれば『青い鳥』は1970年代になってから再評価の動きがある由)[43]『ヤング・ピープル』の台本も、ひたすらセンチメンタルなだけで、非常にまずく書かれていた[44]

フォックスからMGMに移り、10ヶ月だけ在籍するが、1940年代のMGMは『オズの魔法使』へのシャーリー・テンプルの出演を切望していた1930年代の MGMとは様変わりしていた。MGMといえばルイス・B・メイヤーとアーサー・フリードとロジャー・イーデンスのラインで製作されたミュージカルが売り物であったが、当時のMGMミュージカルは、ルイス・B・メイヤーの子飼いのジュディ・ガーランド(『若草の頃』)やキャスリン・グレイソン(『錨を上げて』)やラナ・ターナー(『美人劇場』)の全盛期であり、新参者の彼女には、キャスリン・グレイソンが断った低予算の、魅力の無い台本のミュージカル作品『キャスリーン』が回ってきただけであった。13歳の夏休みに撮影をおこなった。もっとも、子役とティーン・スターの中間の時期で、なかなか彼女に合うような企画がなかったとも言えるかもしれない。次に移ったデヴィッド・O・セルズニックのプロダクションは一切ミュージカルを作っていなかったので『キャスリーン』が彼女の最後のミュージカル作品になった[45]

プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック(『風と共に去りぬ』)のプロダクションは、アメリカで最高の品質の映画を作ると定評があった[46]。当時のセルズニックのプロダクションはユナイテッド・アーティスツ映画社と密接な関係にあったが、同時にどの映画会社とも取引があった。セルズニックは、ジェニファー・ジョーンズと大恋愛の最中であったので、一番よい娘役(たとえば『ジェニーの肖像』や『聖処女』)はジェニファー・ジョーンズに回ったが、シャーリーも、当時アメリカに数人いたティーン・アイドル・スターの一人として立派な成功をおさめた[47]。セルズニックのプロダクションに所属していた時の彼女の作品はすべて黒字である[48]

ただし、彼女は品がよすぎて、皆から愛される天真爛漫なティーンは上手に演じられるのだが、セクシーな面やダークな面がどうしても出せず、彼女の役柄は極めて限定され、「明るい健全な夢見るティーン」タイプのものが主になってしまった。(また、1930年代にアメリカの象徴的存在になってしまっていたので、セクシーな面やダークな面は演じにくかったことも事実である。観客はセクシーな面やダークな面が出たシャーリー・テンプルを見たいとは全く思わなかったであろう。ワーナー・ブラザーズに貸し出されて撮った、日本未公開の『That Hagen Girl』では台本に、相手役のロナルド・レーガン(後のアメリカ大統領)が彼女に「アイ・ラブ・ユー」と言う台詞があったのだが、彼女のイメージにそぐわないと判断してワーナー・ブラザーズがこの台詞を削除したほどである[49])彼女は品行方正なスターとして知られており、スターのスキャンダルを暴くので有名なゴシップ記者のルエラ・パーソンズやヘッダ・ホッパーが、シャーリーの品行方正さを常に賞賛していたほどである。(ルエラ・パーソンズとヘッダ・ホッパーは、ジュディ・ガーランドの薬物中毒、ディアナ・ダービンの「不倫」等を最初に暴いている)

ティーン・アイドル・スター時代の作品として、彼女自身が最も気に入っているのはコメディ『接吻売ります』である[50]

最初の結婚と離婚

ウェストレイクを卒業後17歳の時に、シカゴの大手食品加工会社の社長の孫であった、同級生の兄の美男のジョン・エイガー(John Agar)軍曹と結婚する。結婚が決まるとアメリカ議会では祝福の演説がなされた。この結婚は、第二次世界大戦にまつわるさまざまな出来事と共に、1945年において最も多く報道された事柄であった。

一児をもうけた。しかし彼は人格に問題があり、連日家を空けては酒に溺れ浮気をし、家に戻ると彼女に罵言を浴びせ続けた[51]。彼は後に脇役俳優になる。

1949年に、彼女は、ハリー・トルーマン大統領の大統領就任式の舞踏会において主賓をつとめた。

1950年1月にシャーリー・テンプルはジョン・エイガーと離婚することになった。彼はその後も素行が悪く、離婚後数年たったころ常習的な飲酒運転で数ヶ月牢屋に入ることになる。また、彼が再婚した時も泥酔して千鳥足で結婚式場に現れスキャンダルになった。離婚が決まった後、セルズニックは彼女に、ティーン・アイドル・スターは卒業して本格的な大人の女優を目指すべきだと言い、何年かイタリアに行ってリアリズム映画の演技の本格的な勉強をするようにすすめる[52]。しかし、彼女は先ずハワイに出かけていった。そこでハンサムなチャールズ・ブラック海軍少佐とまるで映画のような運命的な出会いをする。パーティで出会って視線を交わした後、おたがいに一目ぼれをしてしまった[53]。セルズニックとの契約は1950年10月で終えることになった。

幸福な結婚

1950年12月に、22歳で結婚歴の無いチャールズ・ブラック(Charles Alden Black)海軍少佐と再婚する[54]。彼女の結婚にあたって、ジョン・エドガー・フーバーFBI長官は、彼女に前回の結婚の失敗の轍を踏ませないようFBIにチャールズ・ブラックの素行調査を命じ、彼女はFBIから非常によい報告をもらったということである[55]

ブラック家は、1620年にメイフラワー号でイギリスからマサチューセッツへ移民してきた先祖を持つ名門の清教徒であった。チャールズは、当時アメリカ最大手の企業の一つであったパシフィック・ガス電気会社 (Pacific Gas and Electric Company(PG&E) ) の会長の次男であった[56]。カリフォルニアで最も資産家の独身男性として知られていた[57]。アメリカ最難関の中高一貫私立校(プレップ・スクール)の一つホッチキス校(全寮制の男子校)(The Hotchkiss School)校からスタンフォード大学を出た後、ハーバード大学の大学院に行き、第二次世界大戦で徴兵され海軍の情報将校をつとめたという経歴の持ち主であった[58]MBAを取得していた[59]。知り合った当時は予備役で、パイナップルのドール社の社長室に勤務していた[60]。結婚後、海軍の現役に戻りワシントンで海軍中佐として勤務する[61]。数年して海軍を退役した後は、テレビ会社のアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABCネットワーク)の幹部を経て、スタンフォード研究所(SRI International)の財務担当理事をつとめた[62]。スタンフォード研究所を退職後、アンペックス社の副社長をつとめた後、牡蠣・鮑・鮭の養殖会社マディーラ社を起業し社長になると共に、サンタ・クララ大学(Santa Clara University)の評議員をつとめた[63]。海洋学の専門家でもあるチャールズは、タイタニック号発見にも貢献した。また、チャールズは、世界最高の超エリート会員制クラブの一つとして知られるボヘミアンクラブ・オブ・サンフランシスコ(Bohemian Club)の会員でもあった。趣味はサーフィンで当時は毎日のようにやっていた[64]

この結婚は「おとぎ話のような結婚」として知られている。それは、彼女は彼が当時のアメリカで最も裕福な一族の一つの息子だということを知らず、彼は勉強と軍務とサーフィンに明け暮れた生活を送ってきたので映画を12歳以来見たことがなかったため彼女がシャーリー・テンプルだということを知らず、お互いに恋に落ちたからであった。

結婚直後、女優と結婚したという理由で、夫チャールズが当時出版されていた社交界名士録から名前を外されるという事件がおきる。当時のアメリカの上流社会では演劇や映画を軽視するという清教徒の伝統が強く、俳優と結婚すると社交界名士録から名前を外されるという規則があった。国の誇りとされた品の良いスターのシャーリーでさえ例外扱いはされなかったのである。(なお、シャーリーの自伝の日本語訳ではこの話のところで、翻訳者が社交界(society)を「社会」と誤訳したため文章が意味不明になっている。)

夫は社交界名士録から名前を外されたことを気にしなかったが、1950年12月に彼女は22歳で映画から引退した。彼女が引退して3年後の1953年になって、彼女より1歳年下のオードリー・ヘプバーンが『ローマの休日』でハリウッド・デビューをしたことを思えば、あまりにも早い時期の引退だったと言えよう。以後、上流階級という言葉を使うことを彼女自身は嫌っているが、アメリカの上流階級の一員としての生活が、2010年現在に至るまで続く。(なおアメリカ版のウィキペディアでは彼女が1949年に引退したと書いてあるが1950年が正しい)

夫が海軍の現役に復帰しペンタゴンに勤めることになったので、1951年5月から首都ワシントン市に引っ越す。

1954年に、彼女は、室内装飾の趣味が高じてインテリア・デコレーター(インテリア・デザイナー)の資格を取り、インテリア・デコレーターとして仕事をやろうとした事がある。富裕層の個人の邸宅を対象にすることからアメリカの上流階級の女性は当時よくインテリア・デコレーターを仕事にしていた。その時の名刺には、テンプルの名前は入れず、“シャーリー・T・ブラック インテリア・デコレーター”とだけ記していたが、それでも、相当な問い合わせが有った。ただ、初めて仕事先の邸宅に出て行ったところ、シャーリー・テンプルに興味津々の女性たちが何人も待ち構えていたので彼女は回れ右をして引き返し、仕事はそれで辞めてしまった[65]

2人は非常に仲のいい夫婦であった[66]。彼女は、専業主婦として、3人の子供の子育てに専念した[67]

夫チャールズの父は、ドワイト・アイゼンハワー大統領と親交があったが、シャーリー・テンプルと夫チャールズもアイゼンハワー大統領と親交を結ぶようになった。シャーリー・テンプルは後に、歴代の大統領の中で一番好きな大統領としてアイゼンハワーの名を挙げている。

テレビ出演

1954年、夫の海軍退役に伴い、カリフォルニア州アサートンの日本風の庭園のついた邸宅に引っ越す。

末娘が3歳になり、前より手がかからなくなった1958年から1961年にかけて、一流のゲスト・スターを集め高額の予算をかけたテレビの子供向け番組『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』シリーズと『シャーリー・テンプル・シアター』シリーズにホスト役兼主役として出演する。主婦として子育てをメインに考えているので、一ヶ月に3日以上は時間的な拘束をうけないというのが出演の条件であった[68]。当時の彼女は29歳から31歳で、優しい声と清潔な雰囲気を持っており、子供向きの番組のホスト役としてうってつけで、高い視聴率を得た[69]。なお1989年にイギリスで出版された書籍『ハリウッド・ロリータ』を含む一部の情報源では、彼女は3人の子供たちが子役になることに大反対したと書いてあるがそれは事実ではない。彼女の3人の子供たちが一時、テレビ出演に興味を示したので、『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』の「マザーグース」のエピソードでは、彼女の3人の子供たちが彼女と一緒に劇に出演しているし、『シャーリー・テンプル・シアター』の「ベイブス・イン・トイランド」のエピソードでも彼女は3人の子供たちと一緒にホスト役を務めている。ただし、子供たちはそれで満足してそれ以上子役の仕事に興味を示さなかったので、以後彼女の子供たちが俳優の仕事に関わることは二度となかった。

1961年にカリフォルニア州のサンフランシスコ市郊外のウッドサイド(Woodside)のチューダ王朝風の邸宅に引越し、2013年現在まで居住する。ウッドサイドはアメリカで最も豊かな地区の一つであり、現在はシリコン・ヴァレーの中心地でありIT関係の経営者の住宅が並ぶ町として知られている。

第2波、第3波のブーム

アメリカでは、これらの番組の放映にあわせて、1930年代の少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画が「シャーリー・テンプル・フェスティバル」としてゴールデン・アワーに繰り返し放映され毎回高い視聴率を得た[70]。テレビの高視聴率により、第2波のシャーリー・テンプル・ブームが当時のアメリカでは起き、アイデアル社のシャーリー・テンプル人形やシャーリー・テンプルの女児服が再び大きな売れ行きを示した[71]。その後、アメリカでは、毎年、夏休みやクリスマス休暇やイースター休暇になると、テレビで少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画が放映されるようになった。

さらに、1980年代になると、1930年代の少女スター時代のシャーリー・テンプルの映画がすべてカラー化されて、アメリカのディズニーチャンネルで繰り返し放映され、毎回高い視聴率をあげ、また、ビデオやLDも高い売れ行きを示した。第3波のシャーリー・テンプル・ブームが当時のアメリカでは起き、アイデアル社のシャーリー・テンプル人形が再び大きな売れ行きを示した。テレビ番組『大草原の小さな家』シリーズの少女スターのメリッサ・ギルバートは、当時、シャーリーの大フアンで、ビデオを毎日かけてはシャーリーにあわせて歌ったり踊ったりしていたと、2005年に語っている。

さらに、近年アメリカでは、シャーリー・テンプルの映画をフォックス・テレビがクリスマスの当日に連続放映している。例年クリスマス前後には、20世紀フォックスから発売されている彼女のDVDの売れ行きが高まる。また、シャーリー・テンプルの誕生日には、DVDのプロモーションを兼ね、毎年フォックス・テレビで何らかのシャーリー・テンプル特集が組まれている。

ケネディ・センターは「シャーリー・テンプルの映画は、テレビやビデオによって常に、何世代にもわたって人々の心を捉え征服してきた。彼女はアメリカの小さなプリンセスであり続けている。」と述べている[35]。アメリカ人は成長の過程のどこかで、ディズニーのアニメと、1939年の『オズの魔法使い』と、そしてシャーリー・テンプルの映画に必ず接すると言われている[72]。若いファンが現在でも生まれており、幼いファンからのファンレターが多数、彼女の連絡先(Shirley Temple c/o Melveney & Myers Embarcadero Center West Battery Street San Francisco, CA 94111 USA)に送られてくると伝えられる。

子役時代の映画は子供に理解できるように吹き替え音声を選択できるようにした上で世界各国で家族向けの映像DVDとして現在も発売されている。フランス版もドイツ語版もスペイン語版もイタリア語版もロシア語版も中国語版もヒンディ語版もチェコ語版もデンマーク語版も吹き替え音声がついているが、何故か日本語版だけは例外で字幕のみである。

ファイナンス

シャーリー・テンプルの高収入は伝説になっている。

1937年を例に挙げよう(ちなみに、この年のアメリカ成人の年間給与の平均は$860だった。また、シャーリーのスタンドインで親友のメリー・ルー・イズライブのギャラは週50ドルだった)。映画関係者で、映画会社からの総収入の全米トップはシャーリーで、$307,014であった。他のスターだとクラーク・ゲーブルは$272,000、グレタ・ガルボが$270,000、フレッド・アステアが$266,837、スペンサー・トレーシーが$212,000、ジンジャー・ロジャースが$208,000であった。経営者だと、ダリル・ザナックが$265,000、ジョセフ・M・セルズニックが$106,000であった。シャーリー以外の人々は、映画会社以外からの収入はほとんど無く、かつ映画会社からの収入だけでも当時の大恐慌下のアメリカでは最も富裕な層に属していた。しかしシャーリーは、以上の映画会社からの収入以外に人形等のライセンス料として、映画会社からの収入の約15倍にあたる$4,500,000を得ていた。1930年代のアメリカでシャーリーが図抜けて富裕な存在であったのは当然であろう[73]。(1930年代当時は極端なデフレでドルの価値が現在と全く異なっている。現在のドルに換算するには、年によって異なるが大体30~50を掛けてみることをお勧めする。)

1932年においてThe Red-Haired Alibiの端役で2日で$50。1933年においてKid in Hollywoodで週に$150。1934年においてフォックス映画社と契約を結んで『歓呼の嵐』で週に$4150。同年のPardon My Pupsにおいて、週に$1000(他に$35,000を契約終了後に受け取る形でのシャーリーの信託基金へ積み立て)。更に母親のガートルードに週$250。1936年において『テンプルの福の神』で週給$15,000+1本に付$50000。

20世紀フォックスとの契約終了後、1944年においてセルズニックの試用期間において『君去りし後』(Since You Went Away)1年契約で週に$2200。この作品の成功の後、7年契約で週給$5000+1本に付$50,000ドル。1948年において『アパッチ砦』1本で$110,000。1948年当時、シャーリーは「アメリカの恋人(アメリカン・スイートハート)」としてジューン・アリソンと当時の娘役の人気を二分し、後ろから同じティーン・アイドル・スターであるエリサベス・テイラーが追いかけているという状態だったが、シャーリーのギャラはティーン・アイドル・スターたちの中では最も高かった。(ちなみに当時、『オズの魔法使』で脚光を浴びたジュディ・ガーランドは既に重度の覚醒剤中毒になっており、映画の撮影所より多くの時間を精神科の病室で過ごしていた)

1958年において『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』シリーズと『シャーリー・テンプル・シアター』シリーズにおいては、1本あたり$100,000+利益の4分の1であった。全部で41本の作品に出演しているので、利益の歩合を入れなくとも$4,100,000になる。これが、同時期のテレビ出演料として最高の額であったのは当然のことだが、当時の映画女優の出演料と比べてみると、いかに彼女のテレビ出演が破格の扱いであったかがわかる。例えば、1940年代にシャーリー・テンプルと並んでティーン・アイドル・スターだったエリザベス・テイラーは、撮影に足掛け4年かかった『クレオパトラ』(1963年)でようやく映画1作品あたりの出演料が(利益の歩合なしで)$1,000,000になっている。そしてこれが当時映画女優の最も高い出演料であった。

チャールズと結婚した頃、父親が彼女の未成年の時期の(税金等を支払った後での)出演料の収入約$3,200,000ドルのほとんどを自分の名義にしており、かつ投資に失敗してかなり目減りして約810,000ドルになってしまっていたことが分かる。多くの本やネット上の記事で大きく取り上げられている話であるが、親が使ってしまって無一文になってしまった子役のジャッキー・クーガン(Jackie Coogan)等のケースとは全く異なる。目減りはしていても、相変わらず彼女は豊かであった。22歳で首都ワシントン市郊外の約2.5エーカー(約12000平方メートル)の敷地の邸宅と、貯金と有価証券併せて89,000ドルを父親から自分の名義として引き継いでいるし、以前も以後も彼女の父親は晩年まで、毎週75ドルほどの仕送りを彼女に対して続けていた[74]。(なお、1988年にラリー・キングのインタビューに答えた時には、20世紀FOXの契約出演だけで当時の金額で3,000,000ドル以上の収入と、それとは別に契約終了後受け取る形の信託基金への積み立てが有ったが、父親のジョージが積み立金を引き出して自分の名義にしていた上、契約終了後の信託基金終了時の課税の為、彼女名義の信託基金に関しては残高45,000ドルだったとシャーリー本人が語っている)

選挙

彼女の夫の父親は、当時世界最大の企業であったUSスチールの重役を兼ねていたが、彼女の夫の父親と親交のあったUSスチールの副社長が、彼女と夫をアメリカ最高のエリート達(パワー・エリート)の内輪の会合に連れて行くようになった。子供のときからアメリカの名士たちと親交のあったシャーリー・テンプルは、自然にその一員になった[75]

彼女は結婚後共和党の活動に参加しており、一貫して共和党中道派に属し、環境保護に関して熱心な活動をしていることで知られている。1967年には、ドワイト・アイゼンハワー元大統領のバックアップで下院選挙(Congressional race)にも共和党から出馬しているが、当選はしなかった。これは、当時のベトナム戦争での北爆を、該当選挙区の有権者が嫌っており、彼女の立場について、共和党員で無所属で立候補したピート・マクロスキー(Pete McCloskey)候補(後に大統領選に出馬したことや、共和党から民主党に鞍替えしたことで有名)に突かれ、徹底したネガティヴ・キャンペーンを受けたためであった。結果的にはピート・マクロスキーが当選したが、彼女自身は選挙期間中も、ベトナム戦争には反対の立場をとり、戦争拡大(エスカレーション)を続ける民主党のリンドン・ジョンソン大統領に強く反対していた。彼女は、選挙公約の第一条にベトナムからの早期の名誉ある撤退を訴えている。彼女はまた、減税、環境保護、ドラッグの規制強化、ポルノの規制強化を訴えた。女性の地位向上に賛成であったのは当然だが、かえって女性の地位向上を妨げるものとして女性解放運動の過激化には懐疑的であった[76]

国際政治的には、民主主義と複数政党による自由選挙を擁護し人権侵害に強く反対した。戦争中は独裁者ヒトラームッソリーニと米国内の追随者に対して強く反対した。戦後の冷戦の時期はソビエトの独裁者スターリンと米国内の追随者に対して強く反対した。これには戦後、ドイツ系だった母の遠縁の親戚の住む地域が東ドイツになり、遠縁の親戚たちが抑圧を受けていたという個人的な事情もあった。東西の緊張緩和に動きスターリンを批判したフルシチョフ首相に対しては好意的であった。またフルシチョフ失脚後のソビエトの強権的行動に対しても批判的であった。その理由の一つとして、国際会議でたまたまチェコのプラハに滞在していた時に、「プラハの春」の民主化運動をソビエト軍の戦車が蹂躙しチェコ人たちが怒り悲しみ絶望する様子を目撃したことが挙げられる。中華人民共和国とは親しい関係にあった。

なお日本の一部の情報源では彼女が右翼運動に関係したと書いてあるが、これは彼女の自伝の中の「ミニットマン(Minutemen)」という語を翻訳者が誤訳したために起きた誤解である。1950年代初頭の出来事についてシャーリーは「私は独立戦争の時代の(英雄的な)民兵たちに倣った」と書いているが、翻訳者はこの文を「ミニットマン(反共秘密ゲリラ組織)に倣った」と誤訳していた。アメリカ独立戦争の時の民兵「ミニットマン」と同名を名乗る右翼団体(反共秘密ゲリラ組織)は確かにアメリカに存在するが、それが創立されたのは1960年代になってからであった。

シャーリーは、自分が手本(ロールモデル)にしている人物として、社会運動家の大統領夫人エレノア・ルーズベルトを挙げている。シャーリーはエレノアとは親交があった。エレノア・ルーズベルトはシャーリーと同様国連で様々な人権擁護活動を行い、またシャーリーと同様アメリカの国連代表をつとめている。また女性の社会進出の草分けであった飛行家のアメリア・イアハートも手本に挙げている。アメリアとも同じく親交があった。

外交官

彼女の外交官としてのキャリアは、ハリウッドでのキャリアよりもはるかに長い[77]。以後、彼女は70歳の引退の時期まで、共和党系の国務省の幹部と同じパターンで仕事をしていく。共和党が政権にあるときは国務省の要職につき、共和党が下野すると、国務省とは緩やかな繋がりは保ちつつ、大会社の重役として実業家になるという形である。通算すると、彼女は30年間外交関係の仕事をしている。

1968年から1969年にかけ、後述する複数の大会社の重役を務め、非常に高い評価を得た。

1969年から1970年にかけ、アメリカ合衆国の国連大使を補佐する6人の国連代表の一人になった。国連代表としての彼女の担当は環境問題と青少年問題と人権問題であった。また、1970年から1974年にかけて、環境問題と青少年問題と人権問題に関する多くの国際会議のアメリカ代表をつとめた[78]。彼女はすぐに持ち前の勤勉さと人間的な魅力で「アメリカ外交の秘密兵器」といわれるほどの優秀な外交官になった。演説の原稿はすべて自分で書いていた。(なお日本の一部の情報源には国連で武力によるベトナム戦争の解決を主張したと書いてあるが、彼女が国連で演説したのは宇宙の平和利用と環境問題と難民問題についてだけである。)

中華人民共和国の国連加盟を強く主張し、アメリカ政府の首脳部に公式の請願書を送り、様々な働きかけをした。やがて中華人民共和国の国連加盟と米中国交回復が実現していく[79]

当時アメリカと国交のなかったエジプトで開かれた会議に彼女が出席したとき、予定には無かったことだったが、サダト大統領が突然現れ、自分は彼女のファンだったと言い、彼女が主演した『ハイジ』の映画フィルムが欲しいと言った。そして、自分は「(イスラエルとの)平和を心から望んでいる最初のアラブの指導者だ」と言った。シャーリー・テンプルは、この発言をすぐキッシンジャー国務長官に伝え、帰国後『ハイジ』の映画フィルムをすぐ送った。やがて、アメリカとエジプトの国交回復を経て、ジミー・カーター大統領のときに、イスラエルとエジプトとの和平が成立する[80]

その後1974年から1976年にかけて、アフリカの民族主義が強まる時期のアフリカの大国ガーナアメリカ特命全権大使をつとめた。大使の職はアメリカでは、政治任用ポストとされ、功なり名遂げた政治家や財界人、高名な学者、有力官僚などの中から任命されている。日本のような公務員試験はないが、議会による厳しい資格審査(上下両院の外交委員会での長時間の口頭試問を含む)があるので、指名された者で大使に任用されないままになるものも多い。アメリカの歴史において、女優で大使になった者はシャーリー・テンプル以前には一人もいなかったし、シャーリー以後にも一人もいない。当時はそもそも女性の大使さえ非常に少数であった時代であり、彼女がガーナ大使になった時にガーナ人の男性の中には女性だという理由で反対する者もいたが、彼女が仕事をきちんとこなしているうちに、反対は消えていき、称賛がとってかわった。[81]。彼女はそれまでのアメリカ大使とは異なり、アフリカの民衆の中に飛び込みことで、ガーナ人の心を掴むよう努めた。ガーナ大使を務めていた時は、108人のスタッフのトップとして1日17時間働いた。(尚、一部の情報源では「ガーナの親善大使」と述べてあるがこれは全くの誤りで、「親善大使」という職名は国務省には存在しない。)[82](ユーチューブに、ガーナ大使に就任が確定後フォード大統領を訪問した様子がShirley Temple Black - Meeting With President Gerald R Fordという題で掲載されている。)

ガーナ大使時代の2つのエピソードを紹介する。最初のエピソードは着任直後のものである。シャーリーは深夜の大使館の庭で、捨てられた子猫が哀れっぽくニャーニャーなく声を聞いた。子猫を哀れに思ったシャーリーは拾って世話をしてやろうと大使館の庭に下りて声のする方を探してまわった。すると突然ガーナ人の庭師が血相を変えて飛び出してきて、彼女を必死に大使館の中へ引きずっていった。実は、夜になると大使館の庭には近くのジャングルから無数の毒蛇があらわれるのでだれも夜には庭には出ないのであった。シャーリーが子猫の鳴き声と思ったのは猛毒のコブラが餌に襲いかかる時の威嚇音で、シャーリーはあと少しでコブラに噛まれるところだったのだった。2番目のエピソードは、部下の大使館員と一緒に有力部族の大酋長に会いに行った時の話である。ガーナでは相手に靴の裏を見せることは最大の侮辱とされており、決してやってはならない仕草である。ところが、部下の大使館員は話に夢中になって、靴の裏がだんだんと大酋長に向き始めたのであった。シャーリーはやきもきして、部下の大使館員に身振りで、靴の裏が大酋長に向かないように必死に合図をしたのであった。ところがシャーリーは非常にやきもきしたため、注意がお留守になり、うっかり大酋長の話しかけてきた言葉にイエスと言ってしまったのだが、じつは大酋長はその時、第三夫人にならないかと言っていたのであった。有頂天になった大酋長に第三夫人になることをあきらめてもらうには、巧みな外交的な駆け引きが必要だったのは言うまでもない。

ガーナ大使としてシャーリーは高い評価をうけた。1976年に、前任者の国連大使昇格に伴いフォード大統領は彼女をガーナ大使の任期の途中でワシントンに呼び戻し、無所任大使として、女性としては初の米国典儀長(Chief of Protocol of the United States)に抜擢した。彼女はホワイトハウスの全ての儀式の責任者となるとともに、ブレアハウス等のアメリカの迎賓館を統括し、アメリカを訪問する全ての国賓の接待の責任者となった。また、大統領が海外を訪問する時は大統領専用機で大統領に同行し、大統領の右腕として相手国との折衝を統括した。三木武夫首相訪米の際は彼女が米国典儀長として接待の責任者であった。また1977年のジミー・カーター大統領の就任式は彼女が統括した。彼女は米国典儀長としても非常に高い評価を得た。彼女は現在に至るまで最も高名な米国典儀長として記憶されている[83]。(ユーチューブに、米国典儀長就任式の模様がShirley Temple Black's Inaugurationという題で掲載されている。)

米国典儀長を退任の際、それまでの外交官としての業績により大使の称号を一生名乗ることを特に認められている。

1977年から1981年にかけてのジミー・カーター大統領の時代は、複数の大会社の重役を務めるとともに、父親の介護を行い最期を看取っている。1977年にはシャーリー・テンプルは、彼女が国連加盟に尽力したことを感謝している中華人民共和国に招待されて同国を公式訪問し、大歓迎をうけている。以後も中華人民共和国に近い立場は変わらなかった[84]1980年には共和党の一部で、共和党の大統領候補を目指してシャーリーを予備選に担ぎ出そうという動きもあったが、シャーリーはその動きには乗らなかった。

1981年のレーガン政権の発足に伴い、ワシントンとパリで大統領就任式の公式祝賀舞踏会が行われた。パリで開かれた舞踏会において、シャーリーは夫と共に大統領の名代をつとめた。

1981年に彼女は国務省で大使養成機関である米国外交アカデミーを創設し、1981年から1989年までそのトップをつとめ、新任の大使とその配偶者に赴任先でいかに振舞うべきか、誘拐されたり大使館で爆弾が爆発したりテロリストに脅迫されたときにどう対処すべきかといった様々な事柄に対して、必要な知識を伝授する仕事を行った[85]。この間シャーリーの教えを受けたアメリカの大使とその配偶者は146名に及ぶ。

1986年当時南アフリカ共和国で行われていた人種差別政策アパルトヘイトを廃止させるため国務省内で様々な働きかけを行い、またアパルトヘイトを廃止するための多くの国際会議に出席し演説をおこなった。1980年代後半に起きた国際的な反アパルトヘイトの大きな流れの結果、1991年にデクラーク大統領がアパルトヘイト撤廃を打ち出し、1994年にアパルトヘイトは完全に撤廃された。

1987年に、彼女はアメリカ史上初の名誉外交官の称号を受けたが、それには十分な根拠があってのことだった[86]

1990年、チェコスロバキア大使時代のシャーリー・テンプル。ビロード革命後のチェコスロバキアに援助物資の医薬品を贈るための輸送部隊の責任者を出迎えている場面である。シャーリーは62歳である。

その後1989年から1992年 までチェコスロバキアアメリカ特命全権大使に任命された。当時アメリカは、東欧諸国の体制が揺るぎ始めていることを察知しており、激変に備えて東欧諸国にそれぞれ腕利きの人物を大使として配置していた。チェコスロバキアでは、彼女の在任中に旧東側のスターリン的体制が崩壊したが、彼女は民主主義を支持し、流血の事態が起きないように努めた。結果、チェコスロバキアでは一滴の血も流れない、いわゆるビロード革命が成立した[87]。革命後の復興にも彼女は全力を尽くした。

その後、1992年 からのクリントン政権においては、1998年に引退するまで複数の大会社の重役を務めた。

アメリカの国の機関であるNASA(アメリカ航空宇宙局)は、女性の社会進出のパイオニアとしてシャーリー・テンプルの記事をNASAのホームページに掲載し、「彼女の外交官としての業績は子役スターの時代よりもさらに多くの世界の人々に影響を与えた」と述べ、また「彼女は敏捷な機知と暖かさと優雅さで、アメリカで最も尊敬されている外交官の一人となった」と述べている[88]。また、ケネディ・センターは外交官としての彼女の業績について述べ、「アメリカだけでなく世界もシャーリー・テンプルに負うところが大きいのである」と結論付けている[89]

実業家

シャーリー・テンプルは実業家でもあった。父親ゆかりのカリフォルニア銀行、カリフォルニア銀行の親会社であるバンカル・トライステイツ社、ファイヤマンズ・ファンド保険会社、アメリカ最大の銀行バンク・オブ・アメリカ、大手食品会社のデルモンテ(en:Del Monte Foods)社、ウォルト・ディズニー・カンパニー等の大会社の重役を歴任した[90]。実業家としては、完璧主義者として知られていた。

委員会

シャーリー・テンプルは国際的なあるいは米国内の公的な多くの委員会の委員でもあった。 その中には米国大使評議会、世界問題評議会、米国ユネスコ委員会、米国米中友好委員会、国連協会が含まれていた。また現在に至るまでスタンフォード大学国際問題研究所の評議員である。

また歴代の大統領や歴代の国務長官とともに、アメリカの最も有名な外交問題のシンクタンクである外交問題評議会に所属していた。外交問題評議会には「影の世界政府」との異名もある。また、世界最高のエリートが参加する事で知られる、ビルダーバーグ会議Bilderberg Conference)のメンバー[91]でも有った。 この世界最高レベルの非公開会議に、シャーリーが初めて出席したのは、1982年のノルウェーのサンデフィヨルドのRica Park Hotel Sandefjordで開かれた会議からである。

シャーリー・テンプル修正条項

女性の尊厳を傷つけ、子どもに悪影響を与えるとして、ポルノに反対した。サンフランシスコ映画祭の審査員であったときには、スウェーデンからポルノを思わせる作品が出品されたので、審査員を辞任したことがある。ただし彼女は決して芸術的な価値の高いポルノまで反対しているわけではない。彼女が反対しているのは、あくまでも金儲けのために乱造された芸術的に無価値なポルノである[92]

また特に、子どもの人権を侵しているとして、児童ポルノの製造と販売に反対した。彼女の児童ポルノ反対運動により、『労働基準法』への「シャーリー・テンプル修正条項」("Shirley Temple amendment" to the Wages and Hours Law)がアメリカ議会で成立した。これにより、16歳以下の子どもが被写体になったポルノの製造と販売が禁じられることとなった。彼女の努力で、それ以前は事実上野放し状態になっていたアメリカの児童ポルノに大きな規制がかけられる事になったのであった。当時アメリカでは、ポルノ解放論者からシャーリーに対し強い批判があったが、現在ではシャーリーへの批判は全く影をひそめている。

病気

シャーリー・テンプルは非常に健康で、精力的な活動で知られているが、2度大きな病気をしたことがある。

最初は長男の出産の際、ブラック家と非常に親しかったキンブル海軍長官の強い求めに応じて、海軍病院に入院した際のことである。海軍では、ベテランの大佐の軍医を主治医にあてた。だが、当時誰にも分からなかったことだが、主治医は進行した脳腫瘍のため異常な状態になっており、帝王切開手術の後に適切な処置をせず、彼女は瀕死の状態になった。海軍は慌てて主治医を軍医総監に替え、その後まもなく元主治医は脳腫瘍で死んだ。彼女は数週間死線をさまよった後で回復した。

彼女は1972年に乳癌になり切除手術を受けた。当時アメリカでは乳癌の場合は乳房全部を切除していたが、彼女はヨーロッパで実験的に行われ始めていた乳房温存手術をしてくれるように医師を説得し、彼女がアメリカで初めてこの手術をうけることになった。以後、アメリカでは乳房温存手術が一般的になっていった。また彼女は自分が乳癌であることを公表し、アメリカの女性たちに検診の必要性を述べた。「家にいて癌を恐れていないで、出かけて医師の診察を受けましょう」という彼女の言葉は有名になった。シャーリー・テンプルが世界で最初に、自分が癌であることを公表した有名人である。その後、フォード大統領夫人のベティ・フォードが彼女の例にならい、世界で二番目に、自分が癌であることを公表した有名人となる。彼女の癌の再発はなく、2013年現在に至っている。

家庭生活

NASA(アメリカ航空宇宙局)は彼女が「素晴らしい家庭を築いた」と賞賛しているが[93]、彼女の一家は、家族の間の絆が非常に強いことで知られている。

彼女は、通常は家事一切を自分でやり、同時に、国務省の公務や実業家としての仕事をこなした。高い地位にいたが、贅沢はせず生活は質素であった。ただし、泊まる際はセキュリティのため必ず超一流ホテルのスイート・ルームに泊まった。また、現代のアメリカ人には珍しい事ながら、年老いた両親を家に迎え、両親のガートルードとジョージの介護を最後まですべて一人でやった。父親のジョージは晩年脳溢血のため身体が不自由になったので、シャーリー・テンプルは父の食事を自分ですり潰して毎食父親に食べさせていた。

子供は3人おり、長女はサンフランシスコの図書館員。長男は実業家で現在父親の会社を継いでいる。次女は、ごく短期間メルヴィンズなどのロック・バンドでベーシストとして活動をした後、現在は写真家として活動している。また、孫が一人と曾孫が一人いる。

彼女の趣味には、ゴルフ、ガーデニング、釣り、料理などがある[94]

自伝

1988年に、自伝『チャイルド・スター』をアメリカで出版し、アメリカでは大ベストセラーになった[95]。自分を美化したり正当化したりすることは決して書かず、自分のことは人に非難を受けることでも正直に書くが、人が困るような秘密の暴露はせず、どうしても書かなければならないときは誰か分からないように仮名を使ったという点で、通常のハリウッドの回想録とは違った著作になっている。例外は、映画会社の社長や重役の性的にお盛んな点を書いていることであるが、そもそもそれは彼女が書かなくても誰もが知っていたことであるし、彼女はユーモアに満ちた筆致で書いている。この本は日本でも『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』(現在絶版)という題で翻訳されていた。

この著作の前半の部分を『シャーリー・テンプル物語』としてディズニーが映像化し、アメリカのアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABCネットワーク)で放映された。

また、2013年現在、2冊目と3冊目の自伝を執筆中である。2冊目はカーター政権が始まる時期までの、3冊目はクリントン政権が始まる時期までの外交官としての仕事が中心になっている。2冊目はすでに書き終えたもようで、3冊目と一緒に出版の予定である[96]

その後

1998年に70歳をむかえ、公職を引退した。2000年に夫チャールズと思い出の地である中華人民共和国に旅行し政府の歓迎をうけ、現地で金婚式を祝った。

シャーリー・テンプルは、自分の出演作品の映画のカラー化に非常に積極的であり、2004年、彼女はレジェンド・フィルムズ(Legend Films)と組んでいくつかの作品のカラー化の作業を行った。彼女の作品の多くがカラー化されているが、彼女の記憶に基づいた色調になっている。彼女はカラー化の仕上がりにとても満足している[96]。なお、現在日本で発売されている彼女の少女スター時代の映画のDVDはすべて、もともとカラー版で撮影した『テンプルちゃんの小公女』以外は、カラー版と黒白版が共に収録されている。

その後、夫チャールズが骨髄の癌になり彼の介護にあたる。2005年に、彼女自身の言葉を借りれば「おとぎ話のように幸福な」55年の結婚生活の後、夫と死別した。

2013年現在、彼女は公職からは引退しているがスタンフォード大学国際問題研究所の評議員の仕事だけは残しており、一ヶ月に一回評議会に出席のため自宅から車で10分のところにある同研究所に通っている。かっての国務省での上司のシュルツ元国務長官と共に評議員をつとめている。

将来、人々にどんな風に記憶されることを望むかという質問に、「存在しただけでなく、人生を生きた人物として記憶されたい」と語っている[96]

晩年

2008年4月、誕生日の前日に自宅の真っ暗な部屋を歩いていて、つまずいて転び腕を骨折した。骨折のニュースは全米で報道された。また、アメリカの各テレビ局は2008年4月23日の朝の番組で、シャーリー・テンプルの80歳の誕生日のニュースを大きく取り上げた。骨折のため彼女が出る予定だった80歳の誕生日の記念式典や特別番組はすべてキャンセルになったが、順調に回復した。(現在に至るまでシャーリー・テンプルは、誕生日や普通の骨折が、アメリカでテレビの3大ネットワークの定時のニュースになる極少数のアメリカ人の一人であり続けているともいえよう。)

彼女は骨折の後、ロイター通信のインタヴューに「暗い部屋を歩くときは、電灯をつけたほうがよかったわね」とユーモアを滲ませながら答えている。(ユーチューブに、怪我についてのCBSテレビのニュース報道がHomage to the 80 years of Shirley Temple.という題で、80歳の誕生日を取り上げたワイドショー「グッド・モーニング・アメリカ」の一部がShirley Temple 80th Birthday, Good Morning Americaという題で、それぞれ掲載されている。)

2014年の2月10日、カリフォルニア州ウッドサイドの自宅にて亡くなった[97]

評価・受容

評価

彼女は、1935年にアカデミー賞特別賞を受賞している[98]。しかし、この時は6歳の彼女にあわせて小型のオスカーを授与していた。1985年に、映画芸術科学アカデミーは「シャーリー・テンプルに捧ぐ(A Tribute to Shirley Temple)」会を催し、会の終わりに、小型のオスカーの代わりとなるフルサイズのオスカーを改めて授与した[99]

また、少女スターとしての彼女は、現在でも非常に高い評価を受けている。彼女は、公的機関であるアメリカ映画協会(AFI)が選出した「最も偉大な俳優100選」(AFI's 100 Years... 100 Stars)では女優で第18位である[100]。また、サンフランシスコ・クロニクル紙の「最も偉大な女優50選」では13位であった[96]

1988年には、アメリカン・シネマ・アウォード・ファンデーションより、ジーン・ケリーと共に第5回アメリカン・シネマ・アウォードを受賞した[101]

1998年には、アメリカの国の機関であるケネディ・センター(John F. Kennedy Center for the Performing Arts)にて、アメリカで活躍している全てのジャンルの芸術家にとって最高の名誉であるケネディー・センター・名誉賞 (Kennedy Center Honors) をビル・クリントン大統領より贈られた[102]

2005年には彼女の少女スターとしての業績と、彼女の外交官としての平和と人道のための活動を讃え、映画俳優組合(SAG)は全米映画俳優組合賞の中でも最高の栄誉とされる生涯功労賞を授与した。プレゼンターはダコタ・ファニングであった[96]。(ユーチューブに、ダコタ・ファニングの挨拶と77歳のシャーリーの映像がDakota Fanning presenting an award to Shirley Templeという題で掲載されている。)


テネシー大学のパスティ・ガイ・ハモンツリー教授は次のように言っている。「シャーリー・テンプル・ブラックの子ども時代の映画は70年以上を経た後でも、世界的な人気を保ち続けている。彼女の名前を挙げると、たいていは「うん、彼女が好きだ」という返事が返ってくる。彼女はほぼ60年間映画に出ていないが、彼女の顔と名前は最近映画を撮り終えたばかりのように、おなじみのものであり続けている。子役には異例の事ながら、彼女は子供のときに通常ありえないような賞賛を受けた。子ども時代の名声にもかかわらず、彼女は大人になってから堅実な満ち足りた生活をおくっている。ほとんどの子役は、スポットライトを浴びなくなると、人生に適合できなくなってしまうが、それにひきかえ、シャーリーは、傑出した人物であり続けている。全く振り返ることなくショウビジネスを離れた。個人的には妻と母として成功し、仕事の面では外交官としても、環境保護の擁護者としても、国際的な又国内的な公的な委員会の委員としても、企業家としても成功し続けた」[103]

シャーリー・ファン

「シャーリー・テンプルは子供たちのもの」と1930年代に彼女の母親が言っている通り、彼女のファンの中心は子供たち、特に少女たちであり、次いで母親たちである。彼女のファンは圧倒的に女性が多いが、彼女は、世界的な社会現象になった少女スターであり、世界中に様々なファンが存在した。

最も有名なのは、1930年代にチリの大統領だったアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマであろう。彼は、大統領官邸にシャーリー・テンプルの映画フィルムをすべて揃えて持っており、毎日繰り返し見ていた。彼は、職権でシャーリーをチリ海軍の公式のマスコットに任命し、大統領専属のデザイナーをハリウッドに送って彼女の採寸をして彼女用のチリ海軍の提督の服を作らせ、アメリカ合衆国に外交使節団を派遣して、その服を9歳のシャーリーに贈った。

1950年代から1960年代のソビエト連邦の共産党の指導者であったフルシチョフ首相も、熱心なシャーリーのファンであった。アメリカとソビエトの雪解けが始まっていた1960年9月に、フルシチョフは訪米をするが、アメリカで誰に会いたいかと聞かれて、フルシチョフはシャーリー・テンプルと答えた。それで、フルシチョフがサンフランシスコを訪問した際、アメリカ政府の高官の中に混じって32歳の彼女も出迎えた。空港で、初めて会ったとき、フルシチョフはシャーリーの手を握り締め、自分の胸に押し当てて、目に涙を浮かべた。但しその後で、感極まったフルシチョフが「あんたを是非とも拉致してソヴィエトに連れて戻りたいものだ!」と叫んだため、シャーリーは少なからず驚いたようである。(後に、フルシチョフが失脚後の1967年に、シャーリーが夫と共にソビエトを訪問した際、彼女はフルシチョフに再び会いたいという希望をソビエト当局に伝えたが、ソビエト当局は拒否した)

1980年代、アメリカのレーガン政権のヘイグ国務長官も、熱烈なシャーリーのファンだということを公言していた。マイケル・ジャクソンもシャーリーのファンだと言っていた。マイケル・ジャクソンはシャーリーと面会する機会を得るが、面会中ひたすら泣きじゃくっていたという。

2013年現在でも、アメリカには多くのテンプル・ファンあるいはマニアがいる。ジョージ・クルーニーは、女優の中でシャーリー・テンプルが一番好きだと公言している。また、ライザ・ミネリ一家も彼女のファンであり、自宅の一室を、シャーリー・アイテムの部屋にしており、沢山のシャーリー・テンプル人形がびっしりと飾ってある。女優のナタリー・ポートマンも、尊敬する人物にシャーリー・テンプルの名を挙げている。彼女はもともと政治に大変興味があり、女優として活躍後、政治の世界で働くシャーリーを尊敬しているという。

アメリカでの近年の現象としては、シャーリー・テンプルのアイテムで家を埋め尽くし、シャーリー・テンプルの映画の登場人物になりきってコスプレをするシャーリー・オタクの出現が挙げられる。

2002年に、フォックステレビは、衰えないシャーリー・テンプル人気について、シャーリー・オタクの取材を含む1時間番組『シャーリーマニア』を放映した。

日本の大衆文化の中のシャーリー・テンプル

1935年(昭和10年の)正月映画として『可愛いマーカちゃん』が上映されて以来、シャーリー・テンプルの映画は日本でも大ヒットを続けた。シャーリー・テンプルは、戦前戦後の日本の少女向き大衆文化に大きな影響を残した。戦前の日本ではシャーリー・テンプルがブロマイドの売上高一位であった。戦前の日本の少女でシャーリー・テンプルを知らない者は一人もいなかったと言われている。彼女は『少女の友』『少女倶楽部』『少女画報』などの戦前の日本の少女雑誌にも大きな影響を与えている。また、蔦谷喜一の塗り絵や松本かつぢの挿絵や漫画『くるくるクルミちゃん』には、彼女の映画のスチール写真やブロマイドの顔を参考にしていると考えられる絵が多数存在する[104]。ミルクのみ人形等の女児向けの人形は、戦後のある時期までシャーリー・テンプル人形そっくりの金髪で巻き毛のものが多かった。

戦前、日本橋の三越デパート店では、1つの階をほとんどシャーリー関係の商品にあてていた時期があった。

当時日本では、シャーリーを讃えた童謡「テムプルチヤン」まで作られた。(歌、飯田ふさ江。作歌、武田雪夫。作曲、上原進一。)

1936年に彼女は、日本語で歌を吹き込み、ポリドールレコードより日本限定で発売された。「夕焼け小焼け」「靴が鳴る」「玩具のマーチ」「すずめの学校」の四曲である[105]

太平洋戦争中の1942年に、日本海軍は潜水艦搭載機でアメリカ本土爆撃をする。前線にいる米軍の士気をくじくための東京ローズプロパガンダ放送を1943年に日本側は始めるが、その中で東京ローズがロサンジェルス爆撃でシャーリーが死んで日本では大喜びしていると放送した。15歳のシャーリー本人にもその話は伝わった。

日本の菓子メーカー不二家が、かつて発売していた「フランス・キャラメル」は彼女のブロマイドの顔を参考にした絵を使っていた[106]。なお、メンソレータムのキャラクターであるリトルナース(ナースちゃん)の絵は、シャーリーをモデルにして日本人のデザイナーが創作したものだと日本では言われているが、信憑性は薄い。リトルナースの絵は確かにシャーリーに非常に似てはいるが、すでに19世紀末からアメリカでメンソレータムの広告に、1910年代には容器に使用されている。

風船少女テンプルちゃん』は1977年10月1日から1978年3月25日にかけ、土曜18時00分から18時30分にフジテレビ系で放映された、タツノコプロ制作の女児向けテレビアニメである。主人公は明らかにシャーリーに想を得たキャラクターであり、シャーリー同様金髪の巻き毛の音楽好きの少女で、『歓呼の嵐』のシャーリーさながらにバトンを回し、『農園の寵児』のシャーリーさながらにタクトを振る設定になっていた。

シャーリーテンプル (ブランド)は彼女の名前にちなんで1974年に創立された日本の子供服のブランドである。シャーリー・テンプル本人とライセンス契約を締結しており、アメリカ合衆国以外での独占的な販売権を有している。以下はシャーリーテンプル (ブランド)のホームページからの引用である。「シャーリーテンプル創業の1974年はオイルショックの時期で先の見通しがつかない不況の時代でした。その際「せめて子供服くらいは、明るく夢のあるものに」と願った初代デザイナーにより1930年代大不況だったアメリカで スクリーンから人々に夢と希望を振りまいた子役の「シャーリー・テンプル」ちゃんにあやかってつけられました。以来、「テンプルちゃん」のような夢を洋服で表現し続けているのです」

欧米の大衆文化の中のシャーリー・テンプル

欧米の児童向け大衆文化は、既に19世紀の後半に成立していたが、1930年代に入ってからシャーリー・テンプルの映画とディズニーの短編アニメが、映像という形で欧米の児童向け大衆文化を大きく革新していったと言える。また、既に1920年代にジャッキー・クーガンなどの子役の大スターは出現していたが、1930年代のシャーリー・テンプルの成功が、1930年代と1940年代における、ディアナ・ダービンやエリザベス・テイラー等の少女スターの黄金時代を作り上げたとも言える。

1930年代から数十年間にわたってアイデアル社から発売されたシャーリー・テンプル人形は売れ続けた。(2009年現在、1930年代のオリジナルのシャーリー・テンプル人形は、状態の良い物であれば一体数十万円から数万円の価格帯で取引されている)2009年現在でもアメリカではシャーリー・テンプル人形はダンバリー・ミント社(Danbury Mint)により全部で10種類が製作され販売されている[107]

また、彼女の名前にちなんだカクテル(ノンアルコール・カクテル)が2種類ある。シャーリー・テンプル (カクテル)とシャーリー・テンプル・ブラックである。カクテルのシャーリー・テンプル は1930年代に禁酒法が廃止になり、家族づれでお酒が飲めるようになった時に、親がお酒を飲んでいるとき、子供たちが飲めるようにと発明されたソフト・ドリンクであり、作り方はレモンライム・ソーダあるいはジンジャーエールグレナデン・シロップを加えマラスキーノ・チェリーで飾ったものである。シャーリー・テンプル・ブラックはレモンライム・ソーダの代わりにコカコーラを使ったものである。(シャーリー・テンプル自身は、自分の名前がかってに酒場で使われるようになったことに、違和感を覚えていたようである[108]

1930年代においては、米英で女児にシャーリーと名前を付けるのが流行した。アメリカ女優のシャーリー・マクレーンのシャーリーは、シャーリー・テンプルからつけたものであると自身が語っている[109]。男性なのに、シャーリーと名づけられてしまった気の毒な例もある。

また、植物のスィートピーには、彼女の名をつけた品種がある。

アメリカの小説家ジェイムズ・サーバーには、ほうれん草が嫌いなのにどこに行ってもシャーリー・テンプルのヒット曲「ほうれん草を食べなさい」がかかっているのでヒスを起こす中年男を主人公にした短編小説がある。

1949年に、ドイツの児童文学作家のエーリッヒ・ケストナーは、『ふたりのロッテ』の中で「シャーリー・テンプルは7歳か8歳のとき、自分の出た映画を映画館に見に行って幼いので入場を断られたことがあった」[110]と書いているが、これは完全な間違いである。そういう事実は全く無かった。当時のアメリカでは、3歳以下の乳幼児の入場は断られたがそれ以外は年齢制限は一切無く、大人15セント子供8セントの入場料さえ払えば誰もが映画館に入れた。シャーリー・テンプルが出た映画が最初に劇場公開されたのは彼女が4歳5ヶ月の時であり、当然入場できた。ちなみに彼女は5歳の時に、最も初期に出演した短編映画の一つを母親と一緒に見に行って、フォックス・フィルム社にスカウトされている。(一部の日本の情報源には、エーリッヒ・ケストナーの文章を更に取り違えて、シャーリー・テンプルがPG13の指定の映画に出たから入場を断られたと書かれているが、これも完全な間違いである。PG13等の年齢制限が出来たのは、アメリカではベトナム戦争の時期からである)

シャーリー・テンプルは、毎年1月1日に全米に中継される国民的行事であるローズ・パレードTournament of Roses Parade)のグランド・マーシャル(儀式長、Grand Marshal)に3回選ばれている。すべて節目の年で、50回目の1939年と100回目の1989年と110回目の1999年である。他に複数回ローズ・パレードのグランド・マーシャルになった人物としては、アイゼンハワー大統領、リチャード・ニクソン大統領等がいる[111]

ザ・ビートルズサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)のジャケットに2回出てくるのは、ザ・ビートルズのメンバー以外ではシャーリー・テンプルだけである[112]

アニメ映画シュレック3』では、登場人物のクッキーマンがシャーリー・テンプルの『輝く瞳』の「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を歌っている[113]

過激でどぎついギャグで有名なTVアニメ『ザ・シンプソンズ』のあるエピソードでは、父親のホーマーがキングコングに変身して街を破壊してまわる。「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を劇場で歌っているシャーリー・テンプルに会い、その歌をしばらく聴く。歌で改心するかと思いきや、突然シャーリー・テンプルを食べてしまう[114]。別のエピソードでは、シャーリー・テンプルのパロディであるタップダンス教師リトル・ヴィッキー・ヴァレンタインが出てきて、最後には「オン・ザ・スペースシップ・ロリポップ」という替え歌を歌う[115]

シャーリー・テンプルは1934年に、アメリカ映画界の大スター達の例にならって、ハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ・シアターの前のセメントに手形と足型を残した。足型は史上初の裸足の足型であった。それは、彼女が当時6歳でちょうど前歯が生え変わる時期だったのだが、多数の新聞記者とカメラマンと山のようなファンに囲まれたところで、折悪しく乳前歯がポロリと抜けてしまったためであった。歯が抜けたところを写真に撮られるのを避けるため、彼女は機転を利かせ、口を閉じたままにっこりして、視線とカメラが足元に集中するように靴を脱いで、裸足で足型を残したのであった[116]

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムに、ヴァイン通り1500番地の星に映画部門「Shirley Temple」として名前が刻まれている[117]

20世紀フォックスがシャーリー・テンプルの映画のおかげで破産を免れた後、20世紀フォックスの本部のビルが建設された。ビルの入り口には金箔を貼った少女時代のシャーリー・テンプルの小さな銅像が置かれ、その前を通る社員は、重役であれ誰であれ、その少女の像の前で立ち止まり、会社を救ってくれた恩人に頭を下げる慣わしになっていた。その後、老朽化によりビルは取り壊されてしまったが、スタジオの庭に、より大きな二代目の彼女の銅像が建てられ現在に至っている。また、20世紀フォックスの託児センターは、シャーリー・テンプル託児センターという名である[118]

グレアム・グリーン事件について

1930年代のヨーロッパでは、シャーリー・テンプルについて大衆向きのタブロイド紙が様々な珍妙な記事を書いた。イギリスのタブロイド紙の記事の中には、彼女は実は30歳で7歳の子供がいるというものがあった。フランスのタブロイド紙の記事の中には、つるっぱげでカツラをかぶっているというものがあった。また、母親が凄いステージ・ママで、彼女はノイローゼになっているというものもあった。当然、現在、それらの記事をまともに受け取る人は一人もいない。

1937年にイギリスの高名な作家のグレアム・グリーンは、その編集する雑誌『ナイト・アンド・デイ』に、家族向きの映画『テンプルの軍使』について、9歳のシャーリー・テンプルに中年の男性の観客たちは欲情を感じているという趣旨の批評を書く。結果、イギリス世論の怒りと20世紀フォックスからの告訴を招く[119]。グレアム・グリーンは敗訴し『ナイト・アンド・デイ』は廃刊になる(しかし廃刊は資金繰りの失敗によるもので、敗訴三か月前のことであり、実は関連が薄い[120])。これが元で彼は映画評論家としての仕事を絞り、以後は小説家に活動を集中させていく。

『テンプルの軍使』は主に子供たちを対象にした健全な「家族向き」の映画であり、またシャーリー・テンプルはアメリカでもっとも品の良い少女スターであったので、この批評は非常に奇異なものとして受けとめられた。1930年代の欧米では一般に、子役だったシャーリー・テンプルは実は30歳で7歳の子供がいるという上記のタブロイドの記事を彼が信じて、勇み足をしてしまったものと理解されていた。(後に1980年代に、イギリス人の女性作家のマリアンヌ・シンクレアは著書『ハリウッド・ロリータ』の中で、グレアム・グリーンを弁護しながら、観客の男性の深層心理に「アンビバレンツな感情があったのではないか」となかなか穿った見方を述べている。マリアンヌ・シンクレアの本は、性革命の余波が残っていた約20年前に書かれており、いささか内容が古くなっていることは否定できない)

その後グレアム・グリーンの晩年の1990年に、彼がロリコンであることが明るみに出て様相が一変する。グリーンの伝記作家マイクル・シェリダンによれば、彼のロリコン趣味を疑わせるものはすでに幾つかあった。彼はシャーリー・テンプルの家族向きの映画『テンプルの燈台守』に関しては、ぴっちりしたズボンをはいていると8歳のシャーリー・テンプルはセクシーだと書いている。また『オズの魔法使』のジュディ・ガーランドの足は「心地よい」とも書いている。彼は小説『権力と栄光』の中に、官能的な7歳の少女を登場させている。また、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』の擁護者としても知られていた。決定的だったのは、彼の死の少し前、高名な歴史家レイモンド・カーによる記事が雑誌『スペクテーター』に載り、グレアム・グリーンがハイチに出かけていってはロリコン買春をしていたという暴露をされたことであった。また別に、歓楽地のブライトンで幼い少女を求めていたという小説家フランシス・キングの証言もあった。(グレアム・グリーンは訴えられた後に犯罪者引渡し条約がイギリスとの間に結ばれていなかったメキシコに逃亡している。民事訴訟への反応としては過剰な反応であるが、ロリコン買春が発覚して刑事事件になるのを恐れてのことだったと考えれば納得できる。)現在、この批評は、著者のロリコン趣味を表したものだと考えられており、グリーンの伝記作家マイクル・シェリダンは、グリーンの『テンプルの軍使』評は、童女の「臀部」に思いをめぐらした「奇妙きてれつな」ものだと述べている[121]

主な出演作品

脚注

  1. ^ http://www.digitalspy.co.uk/movies/news/a550347/hollywood-icon-shirley-temple-dies-aged-85.html
  2. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p.22-23,p.29. なお、p.304でテンプル家はプロテスタントの清教徒の長老派に属すことが分かる。
  3. ^ Rita Dubas, Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.7.
  4. ^ Anne Edwards, Shirley Temple: American Princess (Berkeley Publishing Group, 1989) p.21-24.
  5. ^ Rita Dubas, Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.7-8、およびRobert Windeler, The Films of Shirley Temple (Citadel Press, 1978), p.13。なお、Gertrude Temple, How I Raised Shirley Temple: By her Mother (Saalfield Publishing Co., 1935)も参照。
  6. ^ Rita Dubas, Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.7-8、およびRobert Windeler, The Films of Shirley Temple (Citadel Press, 1978), P.13.
  7. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star (Applause Theatre & Cinema Books, 2006), p.8。ちなみにジュディ・ガーランドもこの学校の卒業生である。
  8. ^ この事情に関しては、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.24-93に詳しい。
  9. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.22-24. および、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.106-117.
  10. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.118-167
  11. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.86-87.
  12. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.181. James Haskins,Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988)p23.
  13. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上,p.225. Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.90.
  14. ^ Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年参照)
  15. ^ Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年参照)
  16. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.27. およびRobert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.7-28. なお、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上, p.168-172.
  17. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),26.
  18. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.101-104.なお、『輝く瞳』で共演した子役のジェイン・ウィザーズとも付き合いはなかった。それは、『輝く瞳』の撮影のときに、ジェインが毎日シャーリー・テンプルの物真似をしてシャーリー・テンプルをからかい、撮影の本番の時、ジェイン・ウィザーズがシャーリー・テンプルの台詞を先回りして横で大声でいうので、シャーリー・テンプルはとても演技がやりにくかったという理由によるものである。ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』の中でジェインは、シャーリーの母親のせいでシャーリーとの共演がその後二度となかったと述べているが事実ではなかったらしく、1985年に全米に放送されたテレビ番組でジェインは訂正をしている。ディック・モーアの本は、元子役たちの生の声を収録した点で非常に貴重な資料と言えるが、裏を取らないまま活字にしているので、誤りの多い本でもある
  19. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上 p.104,p.229-230.
  20. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.15.
  21. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.23. 1934年8位、1935年1位、1936年1位、1937年1位、1938年1位、1939年5位。1940年13位。
  22. ^ 様々な本にこの時期の話は載っているが、それぞれの作品の成功の詳しい事情に関しては、シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.147-424を参照』
  23. ^ アメリカ映画協会(AFI)ホームページ
  24. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),pp.110-205.の各映画のクレジットの項を参照
  25. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.155-160。
  26. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.277-302.
  27. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.312-314。この事情をジュディ・ガーランドの側から見た文章としてはデイヴィッド・シップマン『ジュディ・ガーランド』(キネマ旬報社・1996年)p.93-94。
  28. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下(平凡社・1992年)にはアインシュタインからH・G・ウェルズまで多くの訪問者の名前が記載されている。フランクリン・ルーズヴェルト大統領に関してはpp.382-384、エレノア・ルーズヴェルトに関してはpp.386-390、ジョン・エドガー・フーバーに関してはpp.339-352.を参照。
  29. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),pp.246-249.に書かれているニュース映画のリストを参照。なお、ある雑誌記者が彼女の出ていない雑誌があるかどうかある月の雑誌の山を調べてみたところ、彼女のことが出ていない雑誌はなかったというエピソードが書かれている
  30. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.398-340.を参照
  31. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.15208,379.
  32. ^ John Bankston, Shirley Temple(Mitchell Lane Publishers,2004),pp.5-6.
  33. ^ Anne Edwards,Shirley Temple: American Princess(Berkeley Publishing Group,1989).
  34. ^ この言葉は多くの本で述べられているが、ここではKennedy Center: Biographical information for Shirley Temple を挙げておきたい。(2008年4月参照)
  35. ^ a b Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年4月参照)
  36. ^ なお、現在シャーリー・テンプルのDVDが何種類も店頭に並んでおり、それらは当然のことながら現代表記に改めてある。混乱を避けるため、この記事では表記はすべて現代表記に改めることにする。『小連隊長』は『小聯隊長』、『テンプルちゃんお芽出度う』は『テムプルちゃんお芽出度う』、『テンプルの愛国者』は『テムプルの愛国者』、『テンプルの燈台守』は『テムプルの灯台守』、『テンプルの福の神』は『テムプルの福の神』、『テンプルのえくぼ』は『テムプルのえくぼ』、『テンプルの上海脱出』は『テムプルの上海脱出』、『テンプルの軍使』は『テムプルの軍使』、『ハイジ』は『ハイデイ』、『天晴れテンプル』は『天晴れテムプル』が戦前公開時の表記である。
  37. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p.118。この歌は、現在に至るまで非常に愛されているだけでなく、さまざまなパロディの対象にもなっている。On the Good Ship Lollipopのウィキペディアの項目を参照。
  38. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.214,251を参照。なお、ディズニーの「シング・アロング」シリーズの中に、唯一のディズニー社の映画の曲以外の歌として、At the Codfish Ballが収録されている
  39. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p34-53を参照
  40. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p68-81を参照
  41. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p82を参照
  42. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.207.
  43. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p56-63を参照。
  44. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p82-83を参照
  45. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.214-217.シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』(平凡社・1992年)下pp.99-127を参照。
  46. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.142-147を参照
  47. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.148-274を参照。彼女がティーン・アイドル・スターとして活躍した時期は、第二次世界大戦と戦後の混乱期にあたり、日本では当時の彼女の作品は公開時期を逸したり、かなり後になってから目立たない形で公開されたものが多い
  48. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.を参照
  49. ^ James Haskins, Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988),pp.35-36.
  50. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),pp.220-253.
  51. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.199-289を参照.ジョン・ウェインヘンリー・フォンダと共演した西部劇『アパッチ砦』では、ジョン・エイガーの恋人役を演じているが、そういった裏の事情を知って見ると興味深い
  52. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.71.
  53. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p293-309を参照
  54. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.332-337
  55. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.311-313
  56. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)p.319
  57. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.
  58. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72-73.
  59. ^ アメリカのウィキペディアのチャールズ・ブラックの項目
  60. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.72.
  61. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.357-374
  62. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.74.
  63. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.80.アメリカのウィキペディアのチャールズ・ブラックの項目
  64. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.76.
  65. ^ ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』(早川書房・1984)p342
  66. ^ James Haskins,Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988).p57.
  67. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.337-399.
  68. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),pp.254-256.
  69. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),p.255.Shirley Temple: The amazing story of the child actress who grew up to be America's fairy princess (A Monarch Books,1959)も参照
  70. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.113.
  71. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.112-113.
  72. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.
  73. ^ Anne Edwards,Shirley Temple: American Princess(Berkeley Publishing Group,1989),pp93-94.
  74. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.341-355.
  75. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』下(平凡社・1992年)pp.365-370を参照
  76. ^ James Haskins,Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988)pp45-46.アメリカのウィキペディアには、ベトナム戦争には賛成したと書いてあるが異論のあるところであろう。想像できることは、ピート・マクロスキーのネガティヴ・キャンペーンがまだ大きく響いているということであろう。シャーリー・テンプルが裕福なことから、当時の流行のミニ・スカートをはかなかったことまでが攻撃の材料となった。ピート・マクロスキー陣営によるネガティヴ・キャンペーンについてはThe Sinking of the Lollipop Shirley Temple vs. Pete McClosky (conservative vs liberal Republican written by liberal Democrat) を参照
  77. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)400ページを参照。シュルツ国務長官がこの『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』の後書きの文章を書いたときシャーリー・テンプルはまだ外交官としての仕事の半ばであった。
  78. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.124-126.
  79. ^ Robert Windeler,The Films of Shirley Temple(Citadel Press,1978),P.95.
  80. ^ James Haskins,Shirley Temple Black: Actress to Ambassador(Penguin Books,1988)pp49-50.
  81. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.124.
  82. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.128.
  83. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.130.
  84. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.130.
  85. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),pp.131-133.およびChief of Protocol of the United Statesに関するウィキペディアのアメリカ版の記事を参照
  86. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.
  87. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),pp.134-135.
  88. ^ NASAのNASA Quest のShirley Temple Blackの記事 (2008年3月参照)
  89. ^ Kennedy Center: Biographical information for Shirley Temple (2008年3月参照)
  90. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)400ページを参照。
  91. ^ List of Bilderberg attendees
  92. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.119.
  93. ^ NASAのNASA Quest のShirley Temple Blackの記事 (2008年3月参照)
  94. ^ NASAのNASA Quest のShirley Temple Blackの記事 (2008年3月参照)
  95. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上下(平凡社・1992年)
  96. ^ a b c d e Offical Shirley Temple Web Site
  97. ^ http://www.digitalspy.co.uk/movies/news/a550347/hollywood-icon-shirley-temple-dies-aged-85.html
  98. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.27.
  99. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),pp.132-133.
  100. ^ アメリカ映画協会によるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』を参照。ただし現在発表されているのは男性25名、女性25名の計50名のみ。
  101. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),pp.133-134.
  102. ^ Lorain Burdick,The Shirley Temple Scrapbook(Jonathan David Publishers, 2001),p.136.
  103. ^ Pasty Guy Hamonntree, Shirley Temple Black: Bio-Bibliography(Overlook Press,1998)IX.
  104. ^ 東京都荒川区のぬりえ美術館のホームページ
  105. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.196-197.
  106. ^ サイト まぼろし食料品店第13回「日本のお菓子に描かれたる外国の子どもたち」の巻 (シャーリー・テンプル本人の了承をとったかどうかは不明)
  107. ^ Rita Dubas,Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star(Applause Theatre & Cinema Books,2006),p.75-99. なお、Tonya Bervaldi-Camaratta,The Complete Guide To Shirley Temple Dolls and Collectibles: Identification and Value Guide(Collector Books,2006).によれば2000ドル以上の価格の人形がある。なお、E-bay等のオークションでは人形一体に日本円にして百万円単位の入札がある場合もある
  108. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p13413を参照。
  109. ^ アメリカ映画協会(AFI)編によるDVD『アメリカ映画ベスト100 俳優編』
  110. ^ エーリッヒ・ケストナー、『ふたりのロッテ』岩波書店pp.73-74
  111. ^ アメリカのローズ・パレードのウィキペディアの記事を参照
  112. ^ 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのアルバム』のジャケットを参照
  113. ^ 『『シュレック3』のDVDを参照
  114. ^ 第4シーズン第4エピソード「恐怖のツリーハウス3」(9F04)。
  115. ^ 第11シーズン第20回エピソード「スプリングフィールド最後のタップダンス」(BABF15)
  116. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)pp.127-129を参照
  117. ^ アメリカのハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムのウィキペディアの記事を参照
  118. ^ John Bankston, Shirley Temple(Mitchell Lane Publishers,2004),p.30.
  119. ^ シャーリー・テンプル・ブラック『シャーリー・テンプル:私が育ったハリウッド』上(平凡社・1992年)p.305-309を参照
  120. ^ 富士川義之『きまぐれな読書 現代イギリス文学の魅力』(みすず書房・2003年)p.173,4を参照
  121. ^ マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)pp.348-349 ただし、グレアム・グリーンの指摘が一般的に正しかったかどうかということと、本人がどういう人間であったかということとは全く別の問題であるという反論も可能である。詳しくは人身攻撃の項を参照。

参考文献

翻訳

原書

  • Bankston, John. Shirley Temple. Mitchell Lane Publishers, 2004.
  • Black, Shirley Temple. Child Star. McGraw Hill,1988.
  • Blashfield, Jean F. Shirley Temple Black: Actor and Diplomat. Ferguson Publishing Co.,2001.
  • Burdick, Lorain. The Shirley Temple Scrapbook. Jonathan David Publishers, 2001.
  • Dubas, Rita. Shirley Temple: A Pictorial History of the World's Greatest Child Star. *Applause Theatre & Cinema Books,2006.
  • Edwards, Anne. Shirley Temple: American Princess. Berkeley Publishing Group,1989.
  • Hamonntree, Pasty Guy. Shirley Temple Black: Bio-Bibliography. Overlook Press,1998.
  • Haskins,James. Shirley Temple Black: Actress to Ambassador. Penguin Books,1988.
  • Temple, Shirley. My Young Life. Garden City Publishing Co.,1945.
  • Temple, Gertrude. How I Raised Shirley Temple: By her Mother. Saalfield Publishing Co.,1935.(2007に復刻版が出ている)
  • Windeler, Robert. The Films of Shirley Temple. Citadel Press,1978.

ビデオ

  • Biography: Shirley Temple(A&E Biography)
  • 『アメリカ映画ベスト100 俳優編』(アメリカ映画協会(AFI)編・なおこれを発表したセレモニーの場合も、このビデオの場合も総合司会をシャーリー・テンプルがしている)

ウェブサイト

外部リンク