高畠導宏

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高畠 導宏
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県岡山市
生年月日 1944年1月18日
没年月日 (2004-07-01) 2004年7月1日(60歳没)
身長
体重
172 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1967年 ドラフト5位
初出場 1968年4月6日
最終出場 1972年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

高畠 導宏(たかばたけ みちひろ、1944年1月18日 - 2004年7月1日)は、岡山県岡山市出身(倉敷市生まれ)のプロ野球選手、コーチ。1977年以降、プロ野球での登録名は高畠 康真( - やすまさ)。

来歴・人物

現役時代

岡山県立岡山南高等学校卒業後に丸善石油に進むが、野球部が休部したため中央大学に入学。東都大学リーグでは在学中2度優勝。リーグ通算73試合出場、219打数57安打、打率.260、2本塁打、21打点。大学同期に高橋善正投手日野茂内野手がいる。

1966年の第2次ドラフト会議で読売ジャイアンツから5位指名を受けたが、これを断り日鉱日立へ入社。1967年都市対抗日立製作所の補強選手として出場。準決勝で日本楽器と対戦し再試合の末に敗退するが、本塁打、適時二塁打を放つなど活躍、優秀選手に選ばれた。同年は第7回アジア野球選手権大会に中心打者として出場、日本の優勝に貢献している。また年間打率.375をマークして社会人ベストナイン(外野手)にも選出された。

同年11月に南海ホークスからドラフト5位指名を受け、プロ入りを果たす。入団当時の監督だった鶴岡一人は「高畠君は左の強打者として期待した一方で、指導者としての能力も買っていた。彼が引退して早く指導者になったのは成功だったと思う」と後年語っている。

南海ではノンプロ時代の実績から、先輩の野村克也とクリーンアップを打つ左の強打者として新人王をも期待されるが、春季キャンプでのスライディング練習の際、左肩を脱臼してしまい、以後のプロ生活に暗い影を落とすこととなった。

1968年のシーズンは、開幕戦から六番ライトで先発出場を果たし、三打数一安打と、プロ野球選手として上々のスタートを切ったものの、キャンプでの怪我の影響で、1年目は公式戦出場26試合、ヒット5本に止まった。

飯田徳治監督が就任した1969年も打率1割台と低迷する。翌年、野村監督が就任すると、代打の切り札として起用されるようになり、1970年1971年は、打率3割以上を記録し期待に応えた。しかし、故障の悪化により1972年限りで現役引退。

引退後

引退後、1973年に野村兼任監督に研究熱心さを買われ、29歳の若さで打撃コーチに抜擢される。藤原満を育て、リーグ優勝に貢献。オールスターゲームで野村が捕手に専念する年(かつ前年にチームがAクラスだった場合)は、野村に代わってパ・リーグのコーチを務めた。

1977年、野村監督解任に伴い江夏豊柏原純一と共に球団に反旗を翻し、選手専念となった野村と共にロッテオリオンズへ移籍。野村はわずか1年でロッテを退団するが、高畠はその後もロッテに残り、1988年までの12年間で落合博満水上善雄高沢秀昭西村徳文横田真之らを育成。選手から多大なる信頼を得る。

1990年には野村のヤクルト監督就任に伴いヘッド兼打撃コーチとしてヤクルト入団。しかし野村との確執が生じ、この年限りで退団。大学の後輩となる相手チームの選手、コーチが試合前に高畠に挨拶に来るのを気に入らなかったり、ホームランを打った選手が、ベンチで高畠に感謝の礼を言うと、野村からは「アホ!!、タカに教えてもらってどうするんや!?、自分で打て!!」と怒鳴ったり等、南海時代から非常に僻みっぽくなってしまい性格が変わってしまったという。ヤクルト時代には飯田哲也を育てた。

1991年、恩師の鶴岡の誘いで古巣のダイエーに打撃コーチとして復帰。吉永幸一郎浜名千広小久保裕紀を育てた。以降は中日1995年1997年)、オリックス1999年2001年)、ロッテ(2002年)と、延べ7球団で約30年間打撃コーチを務め、数多くの好打者を育て上げた。中日コーチ時代に指導した山崎武司は著書の中で「バッティングの面では高畠康真さんに感謝しています。指導は分かりやすく、人の意見を聞き入れない自分に対して懇切丁寧に多くの事を教えてくださいました。長距離ヒッターとして長くやってこられた背景には、やっぱり高畠さんの存在も影響していたと思っています。」と記している[1]。ロッテ時代にはサブロー福浦和也を育てた。

1998年、中日で調査役をしている間に日本大学の通信課程に入学し、教員免許を取得。2003年春より筑紫台高等学校福岡県太宰府市)の教員になり高校野球監督を目指していたが、2004年7月1日、膵臓癌のため東京都新宿区の病院で死去[2]。60歳没。高校球児を率い、監督として甲子園球場グラウンドに立つ夢は叶わなかった。

2008年、高畠をモデルにしたテレビドラマ『フルスイング』がNHKにて放映された。高畠役は高橋克実が演じた。

エピソード

  • 球界きってのアイデアマン、そして打者の親身になってくれる情熱家で、数多くの打者を育て上げた。
    • 1973年南海コーチ就任時、当時は和歌山県田辺市で春季キャンプを行っており、2月でも雪が降る気候であった。そこで農家が使用していないビニールハウスを借りて、ブルペン代わりにしたら、中は温かいので投球練習が出来ると提案。捕手を座らせたら投げられるが、立ち投げは出来ないのではという意見には、「ならば、下を掘るのはどうでしょう?」と提案。結局実現には至らなかったが、この時、野村克也兼任監督は、自分の目に狂いはなかったと述べたという。
    • 藤原満(南海)に対して、グリップが太く1キロ以上の重量があるタイ・カッブ式バットを特注で製作し、バットを振るのではなく、ボールにバットをぶつけてゴロやライナーを出やすくし、アベレージヒッターに育て上げた。
    • 落合博満(ロッテ在籍時)に対しては、落合の性格を踏まえ、「グリップの高さを10cmほど高くしたらどうだ」というたった一言のアドバイスだけを送り、ロッテ在籍8年間で3度の三冠王に導いた。
    • 西村徳文(ロッテ)に対しては、右打者からスイッチヒッターへの転向を勧め、1年目の秋季キャンプから約2ヶ月余り、川崎球場そばのビジネスホテルのシングルルームに泊り込み、朝昼晩つきっきりで指導した。西村はリーグ屈指のスイッチヒッターとなり、1990年に首位打者を獲得した。
    • 水上善雄(ロッテ)に対しては、ストレート、変化球での打撃の統計をとり、変化球に強いということを実証、認識させた上で、全打席変化球が来るというヤマを張るよう指示し、かつ投手の癖盗みに長けていた為、ベンチから声を出すこと(カーブなら『なにぃ??』、ストレートなら『よーしゃ!』など)で、次投げてくる球種を打席に入っている水上に伝えていた。あまりにしつこく、かつ癖がバレてしまう為、東尾修はマウンド上からベンチの高畠を睨み付けていたという。
    • 田口壮(第1期オリックス時代)には、「ちんぶら打法」と命名し、自身の精巣を揺らすような感じでいれば、リラックスして打席に立てるという一風変わったアドバイスをした(同様のアドバイスを千葉ロッテコーチ時代にサブローにもしているが、その時は「自分の一物が足に当たるくらい腰を早く回せ」というものだった)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1968 南海 26 37 34 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 3 0 0 12 1 .147 .216 .147 .363
1969 22 22 21 1 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 1 0 0 5 1 .190 .227 .190 .417
1970 86 173 157 15 49 5 0 4 66 15 1 1 0 2 13 1 1 19 5 .312 .364 .420 .784
1971 57 95 84 6 26 2 0 2 34 12 1 0 1 0 8 0 2 16 1 .310 .383 .405 .788
1972 67 89 81 2 15 2 0 2 23 11 0 0 1 1 4 0 2 22 0 .185 .239 .284 .523
通算:5年 258 416 377 26 99 9 0 8 132 39 2 1 2 3 29 1 5 74 7 .263 .321 .350 .671

記録

背番号

  • 29 (1968年 - 1972年)
  • 74 (1973年)
  • 80 (1974年 - 1977年)
  • 85 (1978年 - 1988年)
  • 83 (1990年)
  • 87 (1991年 - 1994年)
  • 92 (1995年)
  • 76 (1996年 - 1997年)
  • 87 (1999年 - 2002年)

登録名

  • 高畠 導宏 (たかばたけ みちひろ、1968年 - 1976年)
  • 高畠 康真 (たかばたけ やすまさ、1977年 - 2002年)

脚注

  1. ^ 山崎武司著、さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年、2014年、宝島社、P74-75
  2. ^ “高畠康真氏死去 元プロ野球ロッテコーチ”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年7月1日). http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070101004559.html 2013年6月26日閲覧。 

参考文献

関連項目